もどる

韓国はいま                      かけはし2004.08.23号

義烈団の「朝鮮革命宣言」の精神を引き継ごう!

われわれの「光復節」はまだだ

 民衆は、われらが革命の大本営だ。/暴力は、われらが革命の唯一の武器だ。/われらは民衆の中に分け入り民衆と手を結び/絶えざる暴力―暗殺・破壊・暴動によりて、/強盗日本の統治を打倒し、/われらが生活に不合理なる一切の制度を改造し、人類が人類を圧迫するをなしえず、社会が社会を収奪し得ざる/理想の朝鮮を建設せん。
 ――1923年1月、シン・チェホ(申采浩 号 丹斎)、義烈団の「朝鮮革命宣言」の最後の部分。
 近頃あちこちで見かける同志たちにシン・チェホの「朝鮮革命宣言」を知っているかどうか聞いてみました。その多くは辛うじて題目だけは聞いたことがあるというだけで、あるいは、はなからその存在自体を知らない同志たちもいたんですねえ。さまざま同志に会いながらも、まだ「朝鮮革命宣言」の全文を読んだという同志には出会ったことがありません。ただ、たった1人だけ、映画「アナーキスト」に出てくる一節を思い出したと言ってましたねえ。あの血のたぎる文章をだれも、1度も読んだことがないと言うのだから、この国の近現代史は、そもそも何を教えているのやら……。
 乙未(1919)年3月1日正午、タプコル(パゴダ)公園で朗読されたと学校で学んだ「われらは、ここに朝鮮の独立国たることと朝鮮人の自由民たることを宣言せん」で始まる「乙未独立宣言文」をいまなおそらんじている同志がいるかも知れません。
 ところで、近現代史をいささか学んだ同志であるならば、この独立宣言は最初は日本政府に朝鮮の独立を「建議」するための論議として始められたということを覚えているでしょう。後で建議書ではなく独立の意志を盛り込んだ宣言書の形態へと計画が変わりはしたものの、民衆の闘争の意志を恐れた自称・民族代表の33人はタプコル公園で民衆とともに宣言文を朗読する計画を廃棄します。いわゆる代表なる人々は「大衆の暴動」が心配されるとの理由で仁寺洞の泰和館という食堂に、ちまちまと集まり、仲間同士だけで朗読をし、聞く人もいない中でマンセー(万歳)を叫びます。そして前もって連絡をしておいた日本巡査らに次々とつかまっていきました。
 論議が始まった1919年2月初めから3月1日の執行当日まで、非民衆的で、代理主義的で、エリート主義的な態度によって一貫し、投降主義を選択したこれらの人々は、その後も当の宣言文を起草したチェ・ナムソン(崔南善)をはじめ、多くの人々が日帝の走狗となり自らの宣言文さえ裏切る態度を示します。
 その後、1年余にわたって進められた民衆の示威は日帝下の解放闘争の一大画期をなす偉大な歴史となったけれども、その出発を彼らの功に帰したり、この宣言文によって代表させることはできません。むしろ数年前から各単位で準備してきた闘争の計画を無視し、民衆の自発的な闘争とはあくまで断絶しようとしていたこの独立宣言は、いまなお教科書の一角を占めており、あたかも日帝時代当時の解放闘争の精神を代表するかのように居座っています(あゝ……これを書くと、また熱が出ます)。
 いまなお、ひょっとしてあの宣言文をそらんじている同志がいるならば、さっさと頭の中から消してしまうことを望みます。小さな頭の中に入れこまなければならないことがあふれるていて毎日、補充するのも大変な状況で、そんな宣言に空間を奪われるべきでしょうか!
 1919年、民衆のマンセーデモは、それまで進められてきていた独立運動の水路の流れをパッと変えました。最大の変化は既存の独立運動家たちにとって、民衆は啓蒙の対象から運動の主体として浮上したのです。3・1運動以前には啓蒙主義的な民族路線が独立運動を主導したが、マンセーデモを経るとともに共産主義、無政府主義の系列などが急浮上し、激烈な路線闘争を展開することとなります。
 1919年のマンセー運動が韓(朝鮮)半島を席捲しているころ、これに鼓舞された独立運動家たちは上海で臨時政府を構成するための論議を始めます。4月11日、徹夜の会議を通じて国号を「大韓民国」と決定し、国務総理が率いる内閣責任制下の内閣を構成します。ところで19年2月に、すでに米国大統領ウィルソンに朝鮮に対する国際連盟の委託統治を請願した「イ・スンマン(李承晩)」が国務総理に選定されると、シン・チェホは激憤し、会議場を蹴って退場します。そして「上海臨時政府」、「漢城臨時政府」、ロシア領の「国民会議」を統合した統合臨時政府が19年9月11日に発足するとともにイ・スンマンを大統領に推戴すると、シン・チェオは臨時政府と完全に決別します。
 シン・チェホは1909年にアン・ジュングン(安重根)らとともに新民会で「独立戦争戦略」を採択して以来、戦闘的民族主義の路線を通じた「完全独立」、「絶対独立」を追求してきました。そのような彼にあってイ・スンマンの屈辱的な外交路線は到底、受けいれられない売国行為だったのです。それで彼は臨時政府の「独立新聞」に対抗して「新大韓」と「天鼓」という雑誌を創刊し、イ・スンマンの弾劾と臨時政府の再組織を要求するとともに、武装闘争路線に従う勢力を糾合します。
 およそ3年余の間、激しい路線闘争を通じてイ・スンマン勢力を無力化させたシン・チェホは1922年、「国民代表会議」を組織し、臨時政府を新たに構成しようとします。このとき義烈団の義伯(代表)であるキム・ウォンホン(金元鳳)の要請で義烈団の宣言文である「朝鮮革命宣言」を作成することとなります。(シン・チェホが義烈団の代表だと思っている方が多いけれども、それは事実ではありません)。
 義烈団は、少数の秘密結社として「駆逐倭奴」、「光復祖国」、「打破階級」、「平均地権」を基本綱領とし、彼らの10の公約のうちの第1番目の「天下の正義の事を猛烈に実行すること」から、「正義」と「猛烈」からそれぞれ1字ずつを取って作った名前です。彼らの言う正義とは「朝鮮の独立」と「世界の平等」であり、猛烈とは「暗殺、破壊、暴動」など、暴力闘争を言っているのです。
 義烈団は、よく「無政府主義者団体」と考えられていますが(これは「アナーキスト」という映画が、その誤解を大きくさせました)、暴力路線に賛成していた民族主義者、共産主義者、無政府主義者が入り混じっています。義烈団は、彼らの暴力路線に対する批判が内外で高まっていた時点で、彼らの正当性を確保するためにシン・チェホに宣言文を要請することにしたのです。
 あたかも3・1運動を通じて民衆の自発的な闘争が可能となるばかりでなく、民衆の直接闘争だけがこの状況を打ち破っていけるだろうと信じるに至ったシン・チェホは、義烈団の爆弾工場などを見て回った後、喜んで要請を受諾し「朝鮮革命宣言」を執筆することとなります。
 「朝鮮革命宣言」は全体で5章から成っています。1章では「日本の強盗政治すなわち異族統治がわが朝鮮民族生存の敵であることを宣言すると同時に、われわれは革命の手段としてわが生存の敵である強盗日本を殺伐することが、すなわちわれわれの正当な手段であることを宣言」します。2章は、自治論、内政独立論、参政権論、文化運動者など、さまざまな妥協主義の路線に対して、「強盗日本と妥協しようとする者や、強盗政治において寄生しようとする主義を持つ者などは、すべてわれわれの敵であることを宣言」します。
 3章ではイ・スンマンの外交論やアン・チャンホ(安昌浩)の「準備論」を批判し、「外交、準備などの迷夢を捨て民衆による直接革命の手段をとることを宣言」します。4章では特殊勢力の打倒のために民衆の直接暴力革命だけが対案であり、このために先導闘争を主張します。そして暗殺、暴力、破壊の対象を明らかにしています。
 最後の結論部に該当する5章は「〈固有的朝鮮の〉〈自由的朝鮮民衆の〉〈民衆的経済の〉〈民衆的社会の〉〈民衆的文化の〉朝鮮を建設するために〈異族統治の〉〈略奪政治の〉〈社会的不平等の〉〈奴隷的文化思想の〉現状を打破」することを宣言し、このために「わが2千万民衆は一致して暴力・破壊の道に踏み込むであろう」と叫んでいます。そして本稿の冒頭に示した文章をもって宣言文を締めくくっています。
 この宣言執筆当時のシン・チェホは、戦闘的民族主義者から無政府主義者へと変わっていった時期でしたが、この宣言文の中において当時のシン・チェホの変化を無理なく読みとることができます。以後、義烈団はこの宣言文を誇らしく押し立てて、さまざまな集会においてばかりではなく、暗殺や爆弾闘争などのたびごとに宣言文をまいたし、また多くの若者がこれに呼応して急激に勢力を拡張する契機ともなります。

 いまや雨降りの梅雨時は行き、暑い8月ともなれば再び「光復節」が巡ってくるでしょう。「乙未独立宣言文」は、この「光復節」を喜んで迎えるかも知れないが、「朝鮮革命宣言」が破壊しようとした特権勢力、資本主義の略奪制度、社会の不平等や奴隷的文化思想が幅を利かせている以上、われわれの「光復節」はまだやってきてはいないのであり、闘争は持続されなければならないだろうと信じます。同志たち! 短い文章の中で言い尽くすことはできないけれども、ことしの8月には「朝鮮革命宣言」を1度ぐらいは読んでみることを、ぜひお勧めします。(「労働者の力」第59号、04年7月23日付、チェ・セジン/会員)

【訂正】前号3面「スレイマンさんの報告から」2段目右から6行「イラン人」を「イラク人」に、28行目「停電すると言った」を「停電するといった」にそれぞれ訂正します。


もどる

Back