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中国「平頂山事件」の真実-高裁判決を聞く報告集会    かけはし2005.6.6号

住民3000人を虐殺した日本軍の犯罪を告発

「命あるうちに謝罪と賠償を!」と訴える

 【千葉】一九三二年中国東北部撫順市近郊の平頂山村で旧日本軍が住民約三千人を無差別に虐殺した平頂山事件の幸存者(生き証人=過酷な経験をして幸運にも生きていた人)三人が、日本政府を相手に一人二千万円の損害賠償を求めた訴訟で、東京高裁(宮崎公男裁判長)は五月十三日、賠償の法的根拠はないとする一審判決を支持して原告の請求を不当にも棄却した。
 五月十五日、船橋中央公民館で、戦争責任を考える千葉八月の会が主催した「旧日本軍が三千人を虐殺『命あるうちに謝罪と保証を!』中国「平頂山事件」の高裁判決を聞こう」裁判報告集会が、四十七人の参加で行われた。
 ビデオ上映に続き、千葉八月の会代表の大島孝一さんが「戦後五十年だった一九九五年と戦後六十年である二〇〇五年の違いは、九五年アジア平和国民基金と村山談話が出たことで、現在政府はもうすべてが終わったと開き直り、責任を完全に放棄しているということだ。憲法違反がまかり通り、裁判所は憲法判断をせず、憲法違反を黙認している」とあいさつした。
 続いて平頂山事件弁護団の坂本博之弁護士が報告を行った。
 裁判は一九九六年、今日来ていただいた楊宝山さん、方素栄さん、莫徳勝さんの幸存者三人が東京地裁に提訴した。
 弁護団は、@ハーグ陸戦条約三条に規定された賠償責任A民法(中華民国民法と日本民法)B痛ましい事件に対しの法律制定・補償を怠ってきた立法不作為の三点を根拠に一人二千万円の損害賠償を請求して闘った。しかし二〇〇二年六月二十八日、東京地裁は請求のすべてを棄却したため控訴した。
 地裁の請求棄却は、Aについては行政権力の行使について国家は賠償の責任を負担しないという国家無答責を論拠とし、Bについては議会にゆだねられていると退けた。
 しかし平頂山事件のようなこれほど暴力的な行為は国家の作用とはいえないこと、そして大日本帝国憲法下においては国家の権力的作用に対して損害賠償請求を認める法制度がなかったという、いわゆる国家無答責の法理の適用を排除するとした昨年一月の中国人強制連行・強制労働京都訴訟判決など、これらを乗り越える判例が出ている。
 また、時効・除籍期間は適用にならない。なぜなら原告らはいまだに苦しんでいるし、国の方で時効・除籍を主張することは正義に反する。一九三二年の国際連盟理事会において日本政府は、虐殺などは行っていないと声明し、現在もそれは継続している。
 原告が今回のような裁判を訴えようと思っても一九七二年の日中共同声明までできなかった。二〇〇四年十二月方素栄さんの本人尋問では、精一杯のことをやって提訴に踏み切ったことを訴えた。
 今回の判決についてわずかではあるが評価できる部分がある。平頂山事件を事実として認めたことと、サンフランシスコ平和条約は十分な補償を行ったとはいえず、原告が裁判を起こしたことは、やむを得ないことだとしたことだ。

民族の記憶は消す
ことができない

 楊宝山さんの証言(別掲)につづき、穂積剛弁護士が不当判決後に行われたシンポジウムの報告と、今後の裁判方針について以下のように提起した。
 「判決は敗訴だったがなんらかの形で解決しなければならない。以前の張剣波さん(早稲田大学博士課程)の話として『中国で私も「反日」と言われる教育を受けてきたが、もっと大きな問題として、中国人は統計的に見て親族の十五人に一人は日本軍に殺されたと考えられる。これは「教育」の結果ではなく、まさに民族の記憶である』と話している。それだけ侵略の傷跡は深い。最高裁で勝利判決を勝ち取ってもそれで終了ではない。提訴した三人の方々はあくまで代表であり、他にも幸存者、ご遺族そして三千人の死者がいる。最終的には政治的に解決するしかないだろうと考えている」。    (B)

b平頂山事件とは(当日パンフより)
 平頂山事件の背景として、日本帝国は一九三一年の柳条湖謀略事件を皮切りに公然と本格的な中国侵略に乗り出し、一九三二年傀儡国家「満州国」を「建国」し、その侵略の基盤として東洋最大規模の出炭量といわれた撫順炭坑を強奪した。
 一九三二年九月十五日から十六日未明にかけて日本の撫順炭坑経営に打撃を与えるべく、抗日義勇軍が撫順市内の日本占領軍の拠点に攻撃を行い甚大な被害を与えた。
 メンツをつぶされた形となった関東軍守備隊は、十六日早朝の会議で「抗日義勇軍が撫順市内に入ることを知りながら日本軍に通報しなかった」として抗日義勇軍が通過した平頂山地区の住民を皆殺しにせよとの決定を下し、その午前中には日本軍守備隊及び憲兵隊が平頂山地区を包囲し、「写真を撮ってやる」とだまし、あるいは暴力で村人三千人を崖下に集め、機関銃により虐殺した事件である。その後事件は堅く封印されたが、幸存者の勇気ある証言により、知られるところとなった。日本政府は一切の責任を認めず、被害者や遺族に対する謝罪も賠償も行われていない。
b平頂山事件を知る参考文献 『平頂山事件 消えた中国の村』(石上正夫著、青木書店 1991年)、『中国の旅』(本多勝一著 朝日新聞社 1981年)、『季刊「中帰連」第30号2004年秋 特集消えない記憶―平頂山事件―』(「楊宝山さんの証言か
ら」

楊宝山さんの証言から
「写真撮影」と偽って機関銃掃射で皆殺し

 私は父母・弟との四人家族でした。一九三二年当時私は十歳、今は八十三歳です。この七十三年間いろいろなことがありました。
 平頂山事件は中国では広く知られています。
 三二年九月十六日午前九時、日本軍の兵士がトラック四台で村へ来ました。
 外で遊んでいてトラックを見た私は、家に入りそのことを母親に伝えると、今日はもう外出するなと言われました。
 その後中国語ができる日本人が家に入ってきて、「射撃訓練をするので外に出なさい」と言われました。写真も撮ってくれるというので、うれしくてすぐに行こうと母をせかしました。
 父は夜勤明けだったので、父が帰ってから出かけました。
 牛乳屋さんのところへ行くと、私たちはもう最後の方でした。そこは西側に崖があり、逃げにくいところでした。
 黒い布がかぶせてあるものがあり、私は両親に「あれがカメラだね」と言ったが、両親は黙っていました。
 村人は、談笑していました。私たちはその場に最後に着いたため、「カメラ」の一番前で喜んでいました。
 「だまされた。あれはカメラじゃない。機関銃だ!」と一部の村民が言った矢先に、日本兵が軍刀を抜き号令をかけると、機関銃を掃射し始めました。
 先に父と弟が倒れ、母と私が後で倒れました。私は母の名前を何度も呼び、返事をしてくれるうちは、母はまだ生きていると思いました。
 周囲には銃声と泣き声、叫び声が響き渡りました。泣き声や叫び声が静かになるとともに銃声もやみました。「でもまだ日本兵がいる。しばらくはここにいた方がいい」と私は母に言いました。
 生きている人が逃げようとしたが、また機関銃が鳴りその人は倒れました。
 機関銃が二回目の掃射を始めました。今度は低い位置で撃ってきました。母は私の上におおいかぶさっていて、その時はまだ生きていましたが、三・四回目に話しかけたところ返事がなかったので、死んだと思いました。
 私も腰と足に銃弾を受けました。
 しばらくしたら雨が降り出し、「逃げろ」という声がしましたが、日本軍のトラックのエンジン音が聞こえなかったので、私はまだその場にとどまりました。
 間もなく鉄の音と子どもの泣き声がしました。鉄の音は剣を銃に装着する音、子どもの泣き声は刺し殺された声ではないかと思いました。
 私は一番前だったので、日本兵が立っていた位置から十メートルしか離れていませんでした。そのため日本兵が通る時は必ず私のそばを通りました。日本兵は私を踏みつけたが、私は母の血を浴びていたので気づかれませんでした。
 日本兵が立ち去ったと思われる頃、母を見ると鼻や口から血を流して死んでいました。父や弟もさわったが動きませんでした。
 私は歩きだしたが血糊で靴が脱げてしまい、家族のそばを離れがたく、もう一度戻ろうとしたが一面血の海で、もうどれが家族だか分かりませんでした。
 この場にいては危ないと思い、コウリャン畑に逃げ込み一晩過ごしました。
 家族が全員いなくなり、そして自らも傷を負い、今後どうやって生きていったらいいのかと畑で一晩泣きました。
 翌日逃亡していた三人家族と出会い、食事を分けてもらってしばらく後についていったが途中で別れ、行くあてもなく流浪の生活を続けました。
 ある日物乞いをしていたら、年配男性に声をかけられ引き取られ、その家で豚の世話をしました。
 ある雨の日足が痛くて、見てみると銃弾が出てくるところでした。出てきた銃弾は握りしめて隠しました。近所の人に聞かれたが、ちょっと化膿しているだけと答えました。自分が平頂山の生き残りだと知られたくなかったのです。手当は古い綿を燃やし灰にして傷口に塗り包帯を巻いただけでした。
 その後、撫順に戻りました。
 今回の判決の感想ですが、この不当な判決について不満を持っています。
 この不当判決について上告をし、@日本政府の謝罪A虐殺の碑を建立することB今後似たような事件を起こさないこと、以上の三点を日本政府に要求します。
 平頂山事件から七十三年が過ぎてもこれだけ大勢の人に支援していただいて、感謝しています。私の健康はもしものことがない限り大丈夫です。勝訴を勝ち取ることを確信しています。
 私はこれからの中日間の平和を祈り、証言をさせていただきました。ご静聴ありがとうございました。
(報告要旨、文責編集部)




こらむ
高田渡の歌と詩

 高田渡が死んだ。四月十六日未明のことである。まだ、春浅い北海道白糠町でのコンサートの途中で倒れ緊急入院。意識不明のうち釧路市内の病院で亡くなったという。心不全、享年五十六歳。あまりにも早い死だった。
 彼の死は友人からの携帯電話で知った。熱烈な信奉者であった私にわざわざ知らせてくれたのだ。亡くなった日、テレビなどで一斉に報道されたらしい。翌日の新聞はもとより、特集を組む週刊誌もあったと聞く。しかし、残念ながらそのいずれも目にしてはいない。かえって型どおりの死亡記事や、評論家たちの的はずれな言辞を目にしなくてよかった。それは、彼の歌の背景にある生き方や、思想には一片たりと触れていないと思うからだ。
 こう書くとさも高田渡と親しかったと思われるだろうが、コンサートは別として、実際に会って話をしたのは一度しかない。それも、とあるライブハウスのメモリーブックを制作するために行ったインタビューと、その後の酒席の場のことだ。もちろん彼の信奉者であったことは本当である。彼の歌に出会った高校時代から、大学、そして今日までそのアルバムはもとより、『個人的理由』と題された第一詩集などなど手に入る物はすべて手に入れた。学生の時分、ギターのスリーフィンガー奏法を知ったのも彼の歌からだった。
 彼は一九四九年岐阜県に生まれ、八歳のときに母と死別。その後父と兄弟で東京に移り住み、中学卒業後、昼間は印刷会社で文選工をしながら定時制高校に通った。父は一九五〇年の分裂による混乱に嫌気がさして脱党するまで日本共産党員だった経歴を持つ。彼が勤めた印刷会社が共産党の機関紙「アカハタ」を刷る「あかつき印刷」だったことも興味深い。そのころ彼が関心を持って聞き始めたのがアメリカのピート・シーガーやウディ・ガスリー。この出会いが後の渡マインドの音楽につながっていく。これらは、彼の遺した唯一の著書『バーボン・ストリート・ブルース』(山と渓谷社)に詳しく綴られているのでぜひご一読を。
 ウディ・ガスリーは、移民労働者でスタインベックの「怒りの葡萄」の舞台となった大不況の時代を生き、労働者の生活、国の矛盾を数多く歌ったアメリカを代表するフォークシンガーだった。前述した彼の著書の中に次のようなエピソードが残されている。「(あかつき印刷の中で)一部の者は、『おまえらは帝国主義の歌を歌うのか』と言ってそれらを批判。僕らも『バカ、アメリカの二億人全部が帝国主義者じゃないやい』とやり返したことがあった」。この批判精神こそがビートルズ全盛期にデビュー作「自衛隊に入ろう」や「値上げ」を生んだのだと思う。
 だからといって彼は生涯をプロテストソングの中で生きてきたわけではない。大部分が生活の歌であり、人の優しさを歌ったものだった。その歌と暮らしぶりが癒し系と称されることもあったが、そこには常に裏打ちされた主張があった。彼の生活そのものが詩だったにちがいない。だからこそ高田渡の歌が、いつまでも詩であり続けるのだ。 (雨)


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