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人民革命党事件の再審で無罪判決      かけはし2007.3.5号

中央情報局の完全なでっち上げ
ぬれ衣晴れても夫は帰らない



判決から18時間後に死刑執行

 ある春らんまんの日、夫は家を出て行った。妻と子どもたちを振り返って「行って来るよ」とニッコリ笑った。その時が最後になるとは誰も思わなかった。
 そうして出て行った夫は1年後、冷たい体となって帰ってきた。妻たちは、死んで帰って来るまで家族の代表として入った法廷でも夫を遠目に見ただけで、目を合わすことも話をすることもできなかった。その日以降、残された人々は生きながらも生きた心地ではなかった。1975年4月9日以降、32年はそのようにして流れていった。
 いわゆる「人革党再建委事件」で大法院(最高裁)での判決が出されてから、わずか18時間後に死刑が執行された8人、ト・イエジョン、ソ・ドウォン、ハ・ジェワン、ソン・サンジン、ウ・ホンソン、キム・ヨンウォン、イ・スビョン、ヨ・ジョナムは特別な人々ではなかった。どこにでもいる父親のように家族の暮らしを支え、出・退勤をしている普通の生活者だった。ただ違った点があったとすれば、強要されながらも沈黙はしなかった、ということだけだ。だが「スパイ」とされ、そして死んだ。家族らは一朝にして「アカの家族」となった。

夫を連れ去った黒いセダン

 多くの人々は人革党再建委事件を知らないか、かすかに覚えているだけだ。暗うつだった歴史のひとコマとして覚えている。記者であるこの私も、そうだった。1月23日、ソウル中央地裁刑事合議23部(裁判長、ムン・ヨンソン)は再審判決公判で、すでに死刑となった被告人らに無罪を宣告した後、歴史は「現在」となった。残された家族たちにとっては、ずっと現在であったのに、ということだ。
 「ハンギョレ21」は遺族のうちカン・スニ(74)、ユ・スンオク(69)、イ・ジョンスク(61)さんにお願いして一堂に会していただいた。それぞれウ・ホンソン、キム・ヨンウォン、イ・スビョンの連れ合いだ。
 この人々に、パク・チョンヒ政権が破壊した生活と人生について聞いた。記者は、会って最初に何と言ったらいいのか迷った。無罪判決を受けて今こそぬれ衣が晴らされたのだから、おめでとうと言うしかなかった。それでも故人らは帰ってはこない。再び悲しみや苦しみをほじくり返すようなインタビューを1月25日の夕刻、およそ2時間にわたって行った。
 1974年4月18日午後、ユ・スンオク、イ・ジョンスク氏の家に警察が押しかけた。何の説明もなしに家の中を漁り、本やラジオなどを持ち去った。イさんは乳飲み児をおぶって夫を探し回った。ある人は中情(韓国中央情報部、当時KCIAと恐れられていた)がある南山に行ってみろ、と言い、またある人は刑務所のある西大門に行ってみろ、とも言った。西大門刑務所の前で3日間、待った後で、やっと目の前をかすめて行く黒いセダンに乗せられた夫を見ることができた。イさんは心配しないで、と声をあげながら車を追いかけ、夫は振り返って微笑みを返した。その場にへたりこんだまま、ひたすら泣きに泣いた。それでも生死を確認できたのを慰めと思った。
 妻たちは、夫がなぜ何日間も戻ってこないのか、どこにいるのかを、4月25日に中情の事件発表を聞いて知るところとなった。カン・スニさんも5月2日、全く同じことを経験した。人革党再建のために活動をしていたのであれば中情の発表後、身を隠すのが当然だろうに、カンさんの夫ウ・ホンソンはいつも通りに会社に出勤し、会議を行っていた最中に連行された。
 3軒の家から持っていったラジオは、すべて「北傀(北朝鮮を指す)の放送聴取用」に化けた。最新型だったカンさんの家のラジオは調書では「高性能に加え特殊装置を施したラジオ」と記録された。そしてそのラジオこそ、中情が提示した唯一の証拠物件だったのだ。

妻たちをも強制連行

 夫らが強制によって連行され、新聞に一方的な書き方がされた後も、妻たちはなお純真だった。心を込めて嘆願書を作り、送った。パク・チョンヒ大統領、ユク・ヨンス女史(大統領夫人)あて、ミン・ボッキ大法院長あて、ミン・チクス中央情報部長あて、ファン・サンドク法務部長官あて……。カン・スニさんは1964年の第1次人革党事件は実体がなかっただけに、「再建」はでっち上げだとの証拠探しに駆け回った。
 韓国(朝鮮)戦争当時、学徒義勇軍として参戦し、最前線で戦って大尉に遇された夫を共産主義者として仕立てたのだから、ほどなく真実は明らかになるだろう、と考えた。
 最初から結論の決まっていた非常軍法会議の「ドラマ」は速断即決で進められた。夫を救おうとする妻たちの救命運動もし烈になった。妻たちが訪れなかったところはひとつとしてない。事件の真相を知らせるためにマスコミ各社にも足が擦り切れるほどに通ったけれども、その声に耳を傾ける所はなかった。招待されてはいなかったアムネスティ・インターナショナルの催しにも人知れずもぐり込み、檀上に上がって人革党事件の実体を伝えたりもした。
 最初に彼らの声に耳を傾けた人々は宗教人たちだった。ジョージ・オーグル牧師、ジェイムス・シノト神父やカソリック人権委員会のハム・セウン神父らが一肌、脱いだ。1審、2審にそって死刑が宣告された後も「むやみに殺すことはできないだろう」という言葉に一筋の希望を託した。
 救命運動が本格化すると中情は妻たちをも強制連行した。1975年1月9日、明洞聖堂前で「人革党再建委事件は、でっち上げだ」とのアピールを発表したが、それがきっかけとなった。48時間、眠らせなかった。「ここがどこだが分かっていて騒いでいるのか」と脅し、暴行した。夫が国家転覆活動をした事実を目撃したとの陳述書を強要された。夫らの法廷闘争を見守ってきた妻たちは必死になって耐え続けたが、生まれてこの方、初めて味わう暴力に耐えきれず、何人かは彼らの言うがままに書かざるをえなかった。
 中情は虚偽の陳述書を引き出すために催淫剤と推定される薬を使ったりもした。何も知らないまま水をもらって飲んだ、ある妻は中情の取り調べ直後、自らの意志とは異なって反応した体が恥ずかしくて子どもらと無理心中を図りもした。
 1975年4月8日、大法院は脚本通りに死刑を宣告した。妻たちは気が遠くなってしまった。翌日午前、再審を請求しに行く途中で、死刑がすでに執行されたとの知らせを聞いた。天が崩れ落ちたようだった。カン・スニ、ユ・スンオク氏は夫の屍を受け取りに行く気力も残っていなかった。

無罪でも「怨みは晴らせず」

 人革党再建委事件をでっち上げた政権は故人らが残した最後の言葉さえも、でっち上げた。イ・ジョンスクさんは、「最初に届いた遺言の記録に接した義姉(イ・スビョンの妹)が見た内容と、後で遺族らに示された遺言の内容が違っていた」と証言した。末っ子だったキム・ヨンウォンの遺言の中には、義妹に家族を頼む、との内容があった。そして記録通りだとすると、故人らはあたかも約束でもしたかのように遺言していたことがある。葬儀の際、宗教的儀式を拒否する、と。
 死刑の判決や執行以後、倒れてしまったユ・スンオクさんは夫との最後の別れの場に出ることもかなわなかった。教師任用試験で全国首席となった後、京畿女子高教師として在職していた「秀才」の夫は、死んでなお誇らしい夫は、囚人服のままみすぼらしい棺に入れられて土に埋められた。ユさんは、それが私のハン(恨)だと、目を腫らして語った。
 カン・スニさんは葬式を行った後、百日間、床に伏した。カンさんは毎週、墓所に行きハヌル(天)とタン(地)と世間に向かって「パク・チョンヒ・殺人魔、天罰を受けろ」と3回ずつ大声で叫んだ。パク・チョンヒがトップ記事として載った新聞を余すところなく、かみちぎった。パク・チョンヒが最後の日を迎えることになったその日までの数年間を、そのようにして過ごした。
 妻たちは夫を葬った日、共に死んだ。生き続けたくて生きてきたのではなかった。その日からの32年の人生は各自が小説1冊分にもなるものとなった。情報院や担当検事らの監視は、そうでなくとも辛うじて結ばれていた社会とのきずなをすべて断つものとなった。「離れ小島」で生きてきた。商売をやり、行商をやり、学習誌を配りながら無理も矢理も承知で生きてきた。何とかひと息つき始めて、まだ何年にもなっていない。
 いまやハルモニ(おばあさん)となった妻たちに再審の判決についての気持ちを聞いてみた。カンさんは「キム・デジュン大統領の時に解決されるものと思った。きょうも墓所に行ってきた。あなたに力があるのなら2度とこのようなことが起きないように、1日も早く統一できるように手助けしておくれ、と言った」と語った。ユ・スンオクさんは「一方では、ありがたいことだとは思いつつも、夫が帰ってくることはできないのだから胸は一層、痛むばかりだ」と語った。
 「ため息ばかりが出てくる。ひと言で言えば、あまりにも悔しくて、やるせなくて……何が悔しいって、ひどいことをしでかした奴らが、パク・チョンヒの野郎はくたばったけれども、それに手を貸して殺した奴らが、われわれほどではないにしても、せめて同じ目に遭っているのであれば、と考えると……。無罪判決……怒りは収まらない。あの人は、いないのだから、生き返ることはできないのだから。無罪と言われた人間を殺したのだから、とんでもない。率直に言って、怨みは晴らせず、無罪ということだけを受け入れなければならないが、考えてみれば、むしゃくしゃする思いだ」。イ・ジョンスクさんの言葉は終わることなく繰り返された。

拷問した者たちは今どこに

 カン・スニさんはインタビューが終わりかけるころ、便せんに書かれた1編の詩を手渡した。日付から判断すると、夫を奪われて床に伏せっていた時期だった。ホン・ギソン監督の作品名そのままに、「胸に込み上げる刃で悲しみを断ち切りつつ」身をもって書きあげた詩だった。(略)
 カンさんの願い通りに悲しみの歳月は早く流れ去りはしたものの、疑問は尽きない。あの時、あの犯罪をしでかした数多くの人々は今どこで、何をして生きているのか、なぜ彼らは何も言わないのか。(「ハンギョレ21」第646号、07年2月6日付、キム・ポヒョプ記者)



人革党事件、その暗黒の歴史

「北の指令で地下党を組織」容
疑で64年41人、74年23人を拘束


 人民革命党事件はパク・チョンヒ政権初期の1964年8月、中央情報局(中情、現・国家情報院)が「北傀の指令を受けて国家の変乱を画策する地下党を組織した容疑で41人を拘束し、16人を手配したことから始まった。
 事件を担当することになったソウル地検・公安部の4人の検事のうち部長検事イ・ヨンフンと検事キム・ビョンニ、チャン・ウォンチャンは20日間の捜査にもかかわらず中情が発表した容疑を求めることができず、「起訴する価値はない」として辞表を出した。キム・ヒョンウク中情部長(当時)の圧力によって、ソウル地検のソ・ジュヨン検事長は拘束期限日の宿直担当だったチョン・ミョン検事に、13人に対する起訴状に署名させた。
 65年1月20日の判決公判でト・イェジョン、ヤン・チュヌは反共法違反でそれぞれ懲役3年と2年を宣告され、残りの11人は無罪を宣告された。検察はそれを不服として控訴し、同年5月29日に行われた控訴審の判決公判で裁判所は原審を破棄し全員に有罪を言い渡した。
 第1次人革党事件が起きてから10年が経過した1974年4月、中情は維新反対闘争をリードしていた全国民主青年学生総連盟(民青学連)の背後として「人革党再建委」に目をつけ、国家保安法違反などの容疑で23人を拘束した。「第2次人革党事件」の序曲だった。
 拘束者のうち8人は翌年4月に死刑を宣告され、残る15人も無期懲役から懲役15年に至る重刑を宣告された。死刑宣告された8人は大法院の確定判決が下されてから、わずか18時間後の4月9日に死刑が執行された。
 この事件は典型的な人権侵害事件として国外にも伝えられた。国際法学者協会は1975年4月9日を「司法史上暗黒の日」と指定した。(「ハンギョレ21」第646号、07年2月6日付)


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