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大阪で参議院選挙を闘って               かけはし2007.8.27号

服部良一選挙の敗北を闘う第三極の飛躍のバネに


 【大阪】今回の参議院選挙で大阪選挙区から社民党候補として立候補した服部良一さんは、一四万一八六七票で第六位で落選した。服部陣営は、当初からの立ち後れ(立候補決意が5月に入ってから)を克服するために全府下を駆け回ったが、いかに狭い大阪府(香川県に次ぐ第2位の狭さ)とはいえ当選を実現できなかった。
 大阪では、〇四年の参議院選(辻元清美候補・無所属)、〇五年の衆議院選挙(大阪10区・辻元清美・社民党、比例復活で当選)を担った大阪ユニオンネットワークなど左派労働組合、社民党、新社会党、無所属市民派自治体議員、市民運動などが、自民・民主の保守二大政党制の形成とその下での憲法改悪など戦争する国づくりの政治情勢に切り込む(闘う)第三極の形成・発展をめざして、今参議院選を闘うことが図られてきた。この動きは、また兵庫における原和美さん(今参議院選では、兵庫選挙区に9条ネットで立候補)の動きとも連動していると意識されていた。
 しかし、これらの動きは、大阪では、部落解放運動の評価など歴史的な対立が克服されない中で、共産党との共闘は、多くの構成員にとって、頭から排除されていた。
 共産党の拒否による全国レベルでの「護憲共同候補擁立懇談会」や「平和への結集をめざす市民の風」などによる「7・7シンポジウム」の動きの失敗、東京での川田龍平さんを拒否した社民党の杉浦ひとみさん立候補、9条ネットの形成と独立した選挙運動などを受けて、大阪選挙区での(闘う)第三極、左派労働運動、市民派議員、社民、新社、市民運動の共同候補の決定は遅れに遅れた。この遅れは、単に候補者選びの失敗や候補者にあがった人たちの決断の遅れなどが原因ではない。これは、きわめて厳しい政治情勢に切り込んでいこうとする統一戦線的政治主体の決定的弱さ、立ち後れを反映したものであった。
 そうした中で、これまで、市民運動の側からの第三極の主体として候補者選びの側にいた服部さんが、社民党比例区の山内トクシンさん(元読谷村長、元沖縄県出納長)や、衆議院議員の照屋寛徳さんの要請を受けて、これまでの活動の中心の一つである沖縄の反基地闘争の前進のために立候補を決意した。服部さんの選挙闘争にとって、山内トクシンさんの比例区での当選のための貢献も一つの課題であった。
 社民党公認候補としての服部さんの選挙闘争は、改憲反対、新しい格差の拡大と「弱者」の切り捨て反対を中心的な課題として訴え、辻元清美さん(社民党・衆議院議員)、山内トクシンさんとの強い連携のもとで行われた。9条ネットを応援する新社会党や社民党の他の比例候補を応援する地方議員たちなども、大阪選挙区においては服部さんを支援した。(闘う)第三極の候補としての位置づけの下に選挙戦は闘われた。

大衆運動と結合
した政治的極を

 選挙結果は、服部さんは十四万千八百六十七票(得票率3・67%)を獲得したが六位で落選した(梅村氏・民主党128万票、白浜氏・公明党83万票、谷川氏・自民党73万票の3人が当選)。共産党の宮本岳志氏は、五十八万票で次点だった。比例区では社民党は十五万六千票、9条ネットは一万四千票で、共産党は四十六万票、民主百三十一万票、自民八十三万票、公明七十二万票だった。山内トクシンさんは、大阪府下で三千二十六票、9条ネットの比例区で立候補した元泉南市議の小山広明さんは二百九十二票だった。
 大阪での選挙結果は、全国の結果と少し違い、民主党は勝利したが与野党の逆転はなかった。服部さん(社民)と宮本氏(共産)をプラスしても最下位当選の谷川氏(自民)の得票数には少し足りなかった。民主の躍進が、社民、共産、九条ネットなど改憲反対・護憲の勢力の落選、停滞につながった点では、全国の結果と共通していた。
 選挙結果は、護憲派勢力なるもののあり方に重大な問題を投げかけている。それはまた当然にも(闘う)第三極にも重大な課題を提起している。
 秋期国会でのテロ特措法の延長などをめぐる与野党の攻防と政局の混乱が予想されるなかで、テロ特措法延長に反対し、米軍再編と日米軍事一体化、辺野古の新基地建設、厚木の米艦載機の岩国への移駐、米陸軍第一軍団司令部の座間移転、横須賀への原子力空母の配備などに反対する闘いの強化を改憲阻止の闘いと結合して創りあげていくことが求められている。大衆運動と結合した強力な闘う第三極の形成こそ求められている。十月十四日の「戦争あかん!基地いらん!〇七関西のつどい」や十一月三日の憲法市民集会などへの共同の勢力的な取り組みが求められている。(洋)


山谷夏祭りが成功
みんなで祭をつくり みんなで楽しもう!

アルミ缶10個で
「50わっしょい」

 八月十一日、東京・南千住の玉姫公園で今年も山谷夏祭りが行われ、多くの人々が参加した。
 昨年末より毎週日曜日の炊き出しを原点に返って共同炊事とし、「みんなで作ってみんなで食べる」をスローガンに野宿者自身が自分で自分たちの食事を作り、仲間の共同性を作り上げてきた。みんなで集めたアルミ缶をつぶして売り、食材の一部を購入し、現場で野菜などを切ってサラダや、カレー、麻婆豆腐などを作り、毎週食べている。
 このようにして作ってきた運動を夏祭りにも反映させようと、今年の夏祭りでは久しぶりに実行委員会を本格的に結成し、山谷で活動する諸団体はじめ、フリーター関係や、抵抗食の会など、様々な仲間や、山谷、隅田川、上野の仲間が集まって準備していった。また、隅田川・上野の各共同炊事の現場では出店を出そうと相談が行われた。
 当日は昼から集まって盆踊りのやぐらや屋台などの資材の運び込み、設営が行われた。例年は一部の仲間が準備をしている間は多くの人たちが会場の外で列をなして待っており、今年はこれをなくそうと準備中から誰でも入ってきやすいような雰囲気作りが心がけられ、散髪サービスなども平行して行われた。
 ここ数年行っているアルミ缶の買い取りも相場で一キロ百三十円から百六十円ほどのところ、二百円で買い取りを行い、そんなにたくさん集められない人のためにもアルミ缶を屋台券と交換するという試みも行われた。屋台券は当日公園内の屋台のみで有効の地域通貨とされ、通貨単位は「わっしょい」。アルミ缶十個で「五十わっしょい」の屋台券と交換できる(30個まで)。
 夕方からは共同炊事が行われた、メニューはカレーライスとサラダ、これをパックに盛り、もう一つのパックに枝豆を盛って一セット、これを持って思い思いのところに腰を下ろし、夏祭りが始まった。

ていねいに練り
あげられた企画

 最初は亡くなった仲間たちの追悼。無念にも亡くなった仲間たちの名前が読み上げられてその死を悼んだ。続いて実行委員会を代表して山谷争議団の仲間のあいさつと乾杯。
 そしてカラオケ大会。約二十人の仲間が熱唱したが、希望者はまだまだ多かった。
 カラオケと平行して屋台や、ゲームも行われた。屋台は「焼きそば」や「モツ煮込み」「冷や奴」そして抵抗食の会によるベジタリアン料理「お焼き」など。 ゲームはボール投げや、輪投げの他、水鉄砲でブッシュや、安倍首相、石原都知事のパネル(ティッシュペーパーで作ったひもで吊るされている)を落とすというものなど。いずれもTシャツなどの景品付きだ。
 カラオケの後はライブ。最初は「さっちゃん」。立川の自衛隊官舎でのビラまき弾圧事件の当事者の一人でもある。ギターを手にブルースを基調としたオリジナルを熱唱してくれた。続いては夏祭りではおなじみのサックスの「MASA」さん、「普段はニューヨークに住んでますが、このために帰ってきました」と、 しゃべりの方でも盛り上げる。今回はギターの方と共にオリジナルなど数曲を演奏してくれた。
 最後は盆踊り、ここ数年にないくらいに多くの仲間が踊りの輪に加わり盛り上がった。
 「みんなで祭りを作り、みんなで楽しもう」という趣旨でていねいに準備した夏祭り、最後の後片付け(その日のうちにすべて撤収する)まで多くの仲間が参加し成功した。 (板)


コラム
ラジオ体操の記憶

 特別のことがない限りラジオで目覚まし時計を代用しているので、「朝のラジオ体操」の音楽は毎日のように耳にする。多くの人がそうであるように私も音楽のイントロの部分だけでラジオ体操だとわかる。もしかしたら日本で一番知られている音楽のひとつかもしれない。ラジオ体操は今日では工場や工事現場などの一日の仕事開始の慣行としても広く普及している。
 普段は音楽が流れても聞き流しているが、ラジオ体操が夏期の巡回開催の時期になるとセピア色のモノトーンの思い出と重なる。ラジオ体操は午前六時半から十分間の中継だが、構成はラジオ体操第一が三分十秒、第二が三分五秒、第一と第二の間に柔軟体操が組み込まれている。夏期の巡回中継時はこの三つの体操を除いた三十秒の時間で、巡回先のロケーションとともに歴史・名所などが紹介される。昨日の開催地が四国の海沿いの町で、翌日が東北の山間地であることも珍しくない。ちなみにこの文章を書いた八月十七日の開催地は熊本県の山間地であった。
 今から四十数年前、私の故郷にラジオ体操が巡回してきた。通常夏休みのラジオ体操は各町内ごとに小さな広場や公園で行われていたが、その日は町中から中学校の校庭・グランドに集まった。その数は二千人を超え、おとなもかなり混じっていた。十分間の中継のために前日にはリハーサルがあったりで、まるで「祭」のようであった。
 さらにセピア色にダブルのは、ラジオ体操の会場が近所の「餓鬼」どものその日の遊びを決める打ち合わせ場所となっていたことである。野球をやるにしろ、虫取りをするにしろ会場が出発点であった。とくに海に遊びに行く時の打ち合わせは綿密であった。今歩いてみると三十分もかからないが、小さな山を越えなければならないし、当時はちょっとした遠足であった。海は砂防林の松林と砂丘が広がる美しい日本海に臨んでいたが、岸からすぐに深くなり流れが速く泳ぎには適していなかった。そのため親も学校も小学生が一人や二人で海に行くことを許さなかった。鍋で海水を沸かし塩をつくり、ゆでたジャガイモやキュウリ、トマトにその塩をつけて食べた。泳ぐ時間よりも蛤やアサリを獲る時間の方が長く、管理者のいないキャンプといえる楽しさであった。電車やバスを乗り継いで設備の整った海水浴場に出掛けるのは一夏に一〜二回程。ラジオ体操はこの記憶と固く結びついて今も残っている。
 今住んでいる近くに二つも小学校がある。しかしサッカーや野球の「朝練」をしていることはあるが、夏休みでもラジオ体操の音楽はかからない。近くの公園で高齢者のラジオ体操に混じっている子どもをたまに目にするだけである。ラジオ体操の愛好家は全国に二千七百万人もいるといわれているが、その多くが高齢者だということもうなづける。まして高齢者や障がい者向けの「座り込みながらできるラジオ体操」、テレビの「みんなの体操」の広がりをみると体操自身が分化しているのかもしれない。かつて夏の風物詩と呼ばれたラジオ体操も敏感に時代を反映する。ラジオ体操をどのように記憶しているのかも世代によって違うのは当然である。高齢者の中にも「軍事教練」を思い出すのでラジオ体操は嫌という人もいる。いずれにしても「早寝・早起き、朝食」の慣習は崩壊している。 (武)


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