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中村丈夫さんとのことなど(上)            かけはし2008.11.24号

叛軍兵士裁判と『マルクス主義革命論史』編集を軸に

酒井与七



 本紙11月10日号に掲載した『紙碑 中村丈夫』の紹介に続いて、一九六〇年代後半から七〇年代にかけた中村さんとの共同作業について述べた酒井与七同志の文章を掲載する。なおこの文章は『紙碑 中村丈夫』に収録された酒井同志の寄稿に加筆したものである。(編集部)

急進的な闘争
の高揚の中で

 中村丈夫さんはいわば大塩平八郎につらなる気骨の左翼武士で、そのようなさむらいの振る舞いの人であるというのが私の印象で、私にとっていわば`左翼の道aの先生であり、長年にわたっていろいろとお世話になりました。いまでは中村さんとの話について記憶がかすんでいるのですが、思い出すままにお世話になったことなどを中心に書き綴ってみます。

 私の仲間がつくっている労働者サークルの講師として中村丈夫さんをまねき、そのことがきっかけとなり東京練馬区富士見台のお住まいを最初にお訪ねしたのは一九六七年だったようです。これ以後、年に一度は中村さんのお宅を訪ねるようになりました。
 このとき、私はマルクス主義と戦後世界の歴史的あり方について一九六五〜六六年に書きためたものを集めた「テーゼの前に」という文章を持参し(『かけはし』インターネット・サイト掲載)、またトロツキーを支持する立場は私にとってマルクスやエンゲルス、ローザ、そしてレーニンやトロツキーによって担われた総体としてのマルクス主義を受け入れることであり、そのような革命的古典マルクス主義の基本を変更する必要は認められず、したがってコミンテルン一〜四回大会のテーゼ・決議類をそのまま現在的な基本指針にすべきであり、またローザ・ルクセンブルグの『大衆ストライキ論』にみられるような高揚した大衆的労働者闘争の状況は現在的な可能性として期待できるという私の考えを表明しました。
 記憶はかなりあいまいになりますが、高揚した大衆的労働者闘争の状況の可能性を前提にして、労働者階級の勝利的前進のためにその革命党の建設が必要になり、この党は基本的に革命的労働者カードルと職業革命家としての革命的インテリゲンツィアによって構成され、また一九〇五年革命にむかう時期から一九一七年にいたるロシア・ボリシェヴィキ党の経過にみられるようにプロレタリア革命党の形成は歴史的過程をつうじて可能になるという考えも表明したように思います。
 中村さんは、ローザが描いている「大衆的ストライキ」状況の現実的可能性という考え方を面白く思われたようです。そういうこともあり、初対面にもかかわらず、かなり話が弾み、オールドパーや茅台酒の封も切られ、そのまま泊り込んでしまったように記憶しています。
 つづいて一九六八年、フランスにおける大学占拠闘争と労働者のゼネスト・工場占拠によって、高揚した大衆的労働者闘争の状況としての「大衆ストライキ」の可能性が現実に示され、日本においても一九六八〜六九年に大学占拠闘争が爆発し、さらに一九七〇年代初頭にかけて広範囲にわたる青年労働者の大衆的戦闘化が発展しました。そして、この最初の中村宅訪問と一九六八年以降の大衆的闘争状況の国際的発展が、中村丈夫さんが私を相手にしてくださる前提的枠組みになっていたように思いますが、この点で一九六八〜六九年の大学闘争も重要な意味をもったようです。

「ジロンドと
ジャコバン」

 一九六八年のベトナム・テト攻勢とフランスの五月、日本ではベトナム反戦・全共闘・反戦青年委員会・沖縄闘争とつづきます。このとき、東大・日大における大学占拠闘争が発展するなかで、一九六八年七月頃からだったようですが、私は東京練馬区江古田にある日大芸術学部をしばしば訪れ、日大芸術学部闘争委員会(芸闘委)の諸君と話し込むようになりました。そういうことで、その夏に「日大闘争におけるジロンドとジャコバン」という文章を書き、これはわれわれの学生グループのガリ版刷りリーフレットになりました。
 この文章は、日大闘争について、文理学部を拠点とする中核・ML派連合の日大全共闘多数派ブロックが大学機構の民主化と大衆的学生自治会の確立――大学機構と自治会組織によって代表される学生大衆との改良主義的関係の確立――を目指す`ジロンドa的・改良主義的`民主主義革命a派にすぎず、他方、ノンセクト活動家グループが主導する芸闘委は大学機構との解体的対決と学生権力を指向する`ジャコバンa的・`永久革命a的二重権力派であるとして、日大全共闘全体にわたる芸闘委的`ジャコバンa派傾向の発展の必要を主張するものでした。こうして、私の「日大闘争におけるジロンドとジャコバン」は、フランス大革命でみられた`ジロンドa穏健派と`ジャコバンa過激派との`段階革命a対`永久革命aの抗争の力学を日大闘争において認め、中核派に代表される日本新左翼が日本共産党の「三二テーゼ」の`段階a的方法――ブルジョア民主主義――の枠内にふみとどまっていることを明示していました。
 もはやぼんやりした記憶になっていますが、日大芸術学部がある練馬区江古田から練馬区富士見台は近くだし、中村さんのところに「日大闘争におけるジロンドとジャコバン」を持参し、日大闘争と芸闘委のことについて報告し、大学占拠闘争について話しこみ、かなり共通した政治的な感覚とスタンスを確認したように思います。

国際的な闘い
の報告と交流

 やはり一九六八年だったと思うのですが、脱走米兵のことで中村さんに手伝ってもらったこともあります。横浜で私の仲間がベトナム支援署名活動をしているところに若いアメリカ人がきて、米兵で脱走したいので助けてくれというので、中村さんにベ平連の関係者との連絡をお願いし、翌日、その米兵を引渡すことができました。
 同じ一九六八年、陳独秀時代の中国共産党初期のメンバーであった老トロツキストの彭述之が日本にきて、夏頃に彼と中村さんを東京新宿で引き合わせたことがあります。また一九七〇年には、フランス共産主義者同盟(LC)のジェラール・ベルジャという若い同志が第四インターナショナルの国際オルグとして来日し、このベルジャと一緒に中村さん宅を訪れ、中村さんとその仲間に詳しい国際報告をさせたことがあります。一九七三・四年頃からフランス支部のピエール・ルッセがインターナショナルの書記局メンバーとして日本にくるようになり、彼をともなって中村さん宅を訪ねたこともあります。また一九七〇年代から一九八〇年代にかけて、私はヨーロッパやアジアへ旅行すると中村さんのところに報告にうかがうようになりました。
 中村さん編集の『マルクス主義軍事論』二冊が一九六九・七〇年に鹿砦社から出版されていて、トロツキーのものやウーゴ・ブランコの短い文章の翻訳を手伝っています。また一九七三年には A・ノイベルク著『武装蜂起―コミンテルンの軍事教程書』がやはり鹿砦社から刊行されていますが、この仕事の中心も中村さんでした。一九七一〜七二年にその原本をロンドンの左翼書店でみつけて購入したのが私で、この本を中村さんのところに持ち込み、私もその翻訳の一部を引きうけたように思います。

4・27叛軍兵士
裁判での協力

 しかし、中村さんにお願いした仕事と中村さんからお誘いをうけた仕事として大きいのは、河鰭定男・与那嶺均両人を原告とする四・二七叛軍兵士裁判と『マルクス主義革命論史』(紀伊国屋書店)の編集でした。
 一九七二年四月二十七日に「十項目要求」をかかげて決起した河鰭定男・与那嶺均両自衛隊兵士の裁判について、われわれのグループで担当が私になったのがその翌年の夏頃だったようですが、私はこの件を中村丈夫さんのところにすぐに持ち込みました。日本国憲法第九条に依拠する自衛隊裁判ではなく、兵士と自衛隊・国家との関係のところに焦点をすえる裁判として構えてはどうでしょうかと相談をもちかけ、中村さんは`これはよい話だ、意味ある裁判にしましょうaと快諾され、河鰭・与那嶺両人を原告とする四・二七叛軍兵士裁判のいわば総隊長の役割につかれました。
 四・二七叛軍兵士裁判事務局は「四・二七決起と叛軍闘争 第2集 ― 日本自衛隊に対する人民と兵士の立場」と題するパンフレットを一九七四年にだしていますが、これは河鰭定男・与那嶺均の両兵士、裁判事務局メンバーである佐藤正兵、原田誠司、水谷驍の三人、そして中村丈夫さんと私がそれぞれ分担執筆した文章と東京地方裁判所宛て訴状によって構成されていて、四・二七叛軍兵士裁判ハンドブックのようなものでした。中村さんは、このパンフレットのために「日本国家と自衛隊」、「日本における反軍闘争の歴史的意義」、「抵抗権・抗命権の意義」について執筆されていますが、新美隆弁護士が担当主任をつとめられた四・二七叛軍兵士裁判の理論的支柱としての役割もはたされました。

『マルクス主義
革命論史』編集

 紀伊国屋書店から刊行された『マルクス主義革命論史』の企画は、一九七〇年に山崎弘之さんという編集者から中村さんのところに同書店の新書として国際共産主義運動史について執筆してほしいという依頼があったことが発端になっていると聞いています。いつもの中村丈さん流で、この話をいちだんとふくらまし、`マルクス主義の歴史における革命論をまとめるのはどうかaと中村さんが問い返し、編集者の山崎さんが紀伊国屋書店編集部のOKを取り付け、そこで中村さんから廣松渉さんと私、さらにあと一人の方に声がかかったのでした。中村さんとの面識をえてからわずか二年余で、中村さんや廣松さんと一緒に「マルクス主義革命論史」の編集者になるように誘っていただいたことは、当時の私にとって非常にありがたい名誉なことだったし、このことについて中村さんに大いに感謝しています。
 私の記憶はさだかではないが、一九七〇年から翌年にかけて三人のあいだで大まかな全体構想がかたまり、マルクス=エンゲルスの時期、第二インターナショナルの時期、第三インターナショナルの初期、そして一九二〇〜三〇年代の四部編成にということになりました。私にとってマルクス=エンゲルスの時期が魅力的だったのですが、マルクスとエンゲルスの大家である廣松さんがその時期の編集にあたり、中村さんが第三インターナショナルの初期を担当することになり、結局、第二インターナショナルの時期が私にまわってきました。
 廣松さんの頭にはマルクス=エンゲルスの著作がすでに詰まっていて、そこから選べば第一巻ができるのですが、私の第二インターナショナル期と中村さんの第三インターナショナル初期はそういうわけにはいきません。そこで東大闘争に経済学部大学院生として参加した方々によるチームが、それぞれ水谷驍さんの第二インターナショナル・グループと原田誠司さんの第三インターナショナル初期グループとして編成されました。両グループによる編集作業は一九七一年末からはじまり、それぞれ研究会を重ねるようなかたちで進行し、一九七五年に『第二インターの革命論争』(第二巻)と『第三インターとヨーロッパ革命』(第三巻)が出版され、こうしてできた第二巻と第三巻は一九六八〜七〇年闘争と東大闘争の産物ともいえる側面をもっていました。つづいて廣松渉さん編集の『マルクス・エンゲルスの革命論』が刊行されました。
 ひきつづき中村さんと私が第四巻の『第三インターと世界危機』を編集することになっていて、第四巻の内容構成について中村さんと相談したこともあります。しかし、一九七四・五年頃から私の主たる関心が海外における活動にむかっていて、西ヨーロッパやいくつかのアジア諸国への旅行が多くなり、また七七年夏以降、国内活動に戻るのですが、三里塚空港反対闘争のために『マルクス主義革命論史』第四巻の仕事にむかうことができず、主として私の怠慢により第四巻は看板倒れに終わってしまいました。  (つづく)


10・19「反貧困」大集会│分科会討論 B
「社会保障」分科会││生活
困窮者の声を届かせよう!

 十月十九日に東京・明治公園で行われた「反貧困・世直しイッキ大集会」の社会保障分科会では、介護、児童扶養手当、年金、生活保護などをテーマに当事者から切実な訴えが続いた。
 最初に介護保険の事業所のケア・マネージャーの方から、介助者が一日四千円から五千円、月額にして七万円から八万円という低賃金にあえいでいる実態が報告された。「こうした状態では介護者の定着は望めず、定着しないかぎり人材は育たない」。
 介護を受けている人の立場から、両親がおらず人工呼吸器をつけて自宅で一人で生活している障がい者の仲間が「三分間呼吸が止まれば私は生きていけない。ヘルパーさんが不可欠だ。しかし今のままではヘルパーさんも長続きできない。私は地域で生きていきたい」と語った。「介助者の会」からは、介護保障単価の引き下げによりきわめて危険な状況が生まれていること、長時間労働による介助者の過労の現実が指摘され、介助保障と介護を受けている人びとの生活保障が提起された。
 しんぐるまざーずフォーラムの女性は、母子家庭への児童扶養手当が事実上削減されてきたことが厳しく批判するとともに、就労現場での労働環境の改善や当然の権利として生活保護が受けられる仕組みを求める発言を行った。さらに障がい者のシングルマザーや、精神障がい者の仲間からの訴えが続いた。またオーバーステイの外国人には生活保護が認められない実情に対して、日本国籍を持たない外国人であっても生存権保障が必要であることも強調された。
 年金者組合の代表は「年寄りと若者を分断する後期高齢者医療制度の撤廃」を主張した。「いくら物価が上がっても年金が上がらない。政府は高齢者はお金を持っているなどと言っているが、生活保護受給者の五割は高齢者世帯だ。年金のみで生活している高齢者は九百万人もおり、そのうち三分の一は月四万円から六万円の支給額だ。分断の中での貧困と格差を許さない。物価高騰に見合った年金のスライド制を」。さらに在日無年金者ネットワーク、生存権裁判原告などからのアピールが続いた。
 さらに社会保障費を切り下げた上で合わせて生活保護水準も低める行政のあり方への怒りが表明された。また外国人に対しては、「日本人にも払われていない」「憲法の保障は国民に対するものだから」という口実で権利が奪われている差別政策が批判された。
 最後に分科会全体として「年間二千二百億円の社会保障費削減を撤廃しろ」「みんなで権利主張を!」「生活困窮者の声を聞かずに何も決めるな!」という訴えを確認した。  (K)


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