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イタリア                       かけはし2008.4.28号

総選挙で右翼勢力が大勝利
議席失った共産主義再建党

「批判的左翼」の国会議員候補へのインタビュー

ベルルスコーニ
が大勝利を得る

 総選挙はベルルスコーニが大勝利を得た。今回の選挙結果の分析について、「批判的左翼」の候補、フラヴィア・ダンジェリに聞いた。聞き手はアラン・クリヴィンヌである。

――ベルルスコーニの勝利をどのように分析すべきなのか?

 プローディ政府誕生の最初から、われわれは、社会的政策の面でも国際政策の面でもその政策を批判し、左翼政府は、右翼に追随することによっては、右翼を利するだけだ、と説明してきた。残念ながら、選挙結果は、われわれの予測をも越えるものとなり、ベルルスコーニの大勝となった。
 イタリア政治生活の二大政党化の強固な支持者である、新しい民主党(かつてのイタリア共産党とキリスト教民主党から成る)は、結局のところ右翼陣営からまったく票を獲得できなかった。民主党は、真の左翼であることを望んだ「虹の左翼」連合に勝ったにすぎない(1)。反対に、右翼は大幅に強化された。とりわけ、北部同盟の躍進は憂慮すべきものである。北部同盟は、八・五%の票を得たが、その支持層の一部は労働者であり、民衆である。

極右の北部同盟
が大幅な躍進

――それでは共産主義再建党の選挙結果はどうだったのか?

 「虹の左翼」連合の得票率は、三%強であった。この選挙結果は左翼にとっては津波のような衝撃であり、急進的左翼は議会でもはやたった一つの議席ももてなくなってしまったのである。このようなことは、今回がはじめである。
 これは、スターリズムの危機から左翼が脱け出る試みとしての共産主義再建党の結成とともに始まった一九九一年からの時代が終わったことを意味する。このような試みがなされてきたにもかかわらず、この間、共産主義再建党は、プロディとの政権レベルでの共同統治を追求してきた。この路線は、今回の惨憺たる破産と混乱に行き着いたのだった。
 共産主義再建党は、かつては、確かに社会の中に深く根を下ろすまでには至っていなかったものの、世論の動向を反映した票の動きから利益を得ていた。だが、その後、この党は、労働界に対する完全な裏切りの政策を実施することによって完全に信頼を失ってしまった。しかも、同党は、前下院議長、ファウスト・ベルティノッティを上院議長候補に擁立したのだが、人は悲劇のすべての役割を同時に演じることはできない。
 数カ月の間に、彼は、レバノンでのイタリア軍兵士はわが国を代表していると宣言し、選挙キャンペーン中にはフィアットの経営者を代表する議員との共同統治が必要だと発言する(フィアットの経営者たちは「善良なブルジョアジー」であると紹介された)一方で、階級闘争と国際主義を訴えなければならなかった。人々はこうした行動にうんざりしてしまったのである。
 それ以降、全面的な危機がやって来た。すると、突如として古いスターリニストたちと連合する形で「虹の左翼」連合を結成した。何にも食いつくこれらのスターリニストたちは、赤旗と鎚と鎌を再び持ち出すことになる。こうしたやり方は、嘲笑の的となり、失敗に終わった。死者が生きる人を救うことはできないのだ。この連合は、機構も資金も議員もないのであるから、政治活動を展開することができないだろう。
 ベルティノッティについて言えば、彼は引退を表明したばかりである。彼になし得る最良のことは政治を断念することである。彼がなし得た唯一の成功とは、一九九一年にイタリア共産党オケット書記長がなし得なかったことを成し遂げたことであろう。一九九一年時点では、オケットは、イタリア左翼を破壊することはできなかったのであるから。
困難な情勢と
闘いの展望

――「批判的左翼」の選挙結果はどうだったのだろうか? そしてこの潮流の今後の展望はどうだろうか?

 左翼の全面的な破産という情勢の中で、われわれは、結成後たった三カ月でしかなく、予算も二万ユーロしかなかったが、ひとつの政治組織の形成に向けてこの危機を切り向けることにした。われわれの得票は、約二十万票、すなわち〇・五%であった。興味深いことは、われわれが活動している地域では、特にローマ、トリノ、ミラノでは、一%以上であり、環境保護の重要な闘いが展開されているトリノ近郊のヴァル・ド・スーザでは二・七%であった。
 左翼の崩壊という事態に対して、われわれは、いたるところで立候補し、われわれの存在を伝えることによって、得票結果以上の反響に遭遇した。それは、とりわけ、テレビで報道されたわれわれの選挙戦のおかげでもあった。今や、われわれは、諦めて断念してしまわない真の左翼の再建を行う手段を手にしている。
 これは、非常に困難な情勢の中での途方もなく大きな任務であるが、われわれは、けっしてあきらめようとはしていないひとつの大きな活動家集団を救うことに成功した。選挙キャンペーンによって、われわれは、何百もの新たなコンタクトを獲得し、われわれが活動する町の数を倍加する可能性を得た。さらにそれ以外にも、われわれの立場を認めているが、「有効」票として他の候補者に投票した人々がいるということについては、言うまでもないだろう。
 労働界の苦難は今後も続く。抵抗し再建すること、これがわれわれの展望だ。

注記
(1)、「虹の左翼」連合は、共産主義再建党、緑の党、イタリア共産主義者党、旧左翼民主党から分かれた左派の政党から成り立っている。
『ルージュ』(二二四八号、二〇〇八年四月一七日)



石田精一さん(労働情報共同代表)を追悼する

最後まで国鉄闘争・1047人問題の解決のために闘い続けた



3月末まで元気な
姿を見せていた

 四月二十一日夕刻、国労高崎地本の指導的活動家として国鉄労働運動の先頭にたち、定年退職後は「協同センター・労働情報」の共同代表をつとめてきた石田精一さんが、入院先の前橋日赤病院で亡くなられた。享年六十七歳。四月二十三日、二十四日には地元の前橋市で鉄建訴訟原告団をはじめとした国労の労働者、「労働情報」の関係者など多くの仲間が参加して通夜と告別式が執り行われた。
 石田精一さんの訃報は、私だけでなく、多くの人びとにとっても突然の出来事だったろう。ほんの直前まで集会などで元気な姿を見せていたのだから。石田さん本人も、自分の病気が生命に直結するものだとは自覚していなかったのではないか、というのが彼をよく知る人の話だ。石田さんは三月まで毎日のように、早朝自宅を車で出て、国労熊谷支部の近くに車を止め、電車で御徒町まで向かい「労働情報」事務所で夜遅くまで仕事をするという生活を続けていた。石田さんの健康を心配する「労働情報」の浅井真由美さんなどが注意を促しても、石田さんは毎日の事務所通勤を決してやめなかったという。

国労高崎を左派
の拠点として防衛

 国労高崎地本の石田さんは高崎の「青ヘル」国労部隊とともに一九七〇年代から有名だった。私もその頃から名前だけは知っていたと思うが、労働組合運動そのものとは離れたところで活動してきた私が初めて彼と会ったのは、一九八〇年代の終わりか九〇年代の初めだったろうか。何かの会議で、高見圭司さんたちの「スペース90」の事務所を訪れた時だったと覚えている。その時は、高見さんに紹介されてあいさつを交わした程度で、石田さんと比較的よく会うようになったのは、ここ数年のことだ。
 石田さんは、中曾根政府による国鉄分割民営化と国労解体の攻撃に対して、国労高崎地本を指導してその団結を固め、先頭に立って闘い続けてきた。当局と一体となった動労・JR総連の卑劣な介入・切り崩しをはねのけると共に、一〇四七人の不当解雇と国労指導部による「四党合意」の動きに対しても、国労高崎地本を左派の拠点とし、闘争団を防衛するために文字通り体を張って獅子奮迅の活動を進めてきた。

不正を許さない
一本気な活動家

 石田さんの話は長い。「労働情報の石田でございます」から始まる電話は「誌代の請求」だったり、国鉄闘争についての情勢評価だったり、「かけはし」紙面への評価や注文だったり、いろいろだった。二〇〇五年四月二十五日、百七人の生命を奪い、五百六十二人が負傷したJR尼崎事故の際、ある集会で石田さんが私をつかまえてまさに憤懣やるかたないといった面持ちでJR西日本の「日勤教育」を糾弾し、民営化が生み出した過密ダイヤの強制と人命軽視だけではなく、国労西日本の対応についても批判したことを昨日のように思い出す。この情熱は「労働情報」の別冊尼崎事故緊急特集号に結実した。
 石田さんはまた、非常な読書家でもあり、日本歴史の問題、天皇制批判などについてもとどまることなく話しかけた。彼は退職した後も「現場」を離れることなく、不正を許さない一本気で誠実な、戦後労働運動を体現する最良の活動家であり続けた。石田さんはその上で、戦後労働運動の限界を超える新しい挑戦への模索を続けてきた。
 石田さんがその晩年、全エネルギーを傾けてきた国鉄闘争・1047人問題の解決を勝ち取るためのギリギリの攻防が続いている。この闘いに勝利することは石田さんの闘いの生涯への最良のはなむけであろう。そして同時に、石田さんが共同代表をつとめた「労働情報」が、貧困と無権利を強制する資本の新自由主義的攻勢への抵抗を開始している女性や若者・高齢者たちの運動、そして移住労働者や研修生の闘いと結びつき、石田さんを失ったことによる大きな打撃を乗り越えるために、私たちもまた微力をつくしたいと思う。
(国富建治)


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