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国鉄闘争勝利東京東部集会               かけはし2008.6.16号

地域の運動と国鉄闘争を結合し勝利をめざそう!

 【東京東部】五月三十日、江東区亀戸カメリアで「中西判決糾弾! 葛西(JR東海会長)よ、すべて白状しろ! 5・30国鉄闘争勝利東部集会」が国鉄闘争勝利東部地区共闘会議が主催し、八十人が参加した。
 最初に、原告団のこの間の闘いの記録ビデオ「勝利にむけて闘い抜く」が上映された。主催者あいさつを共闘会議共同代表の全統一・田宮さんが行った。
 「国鉄闘争は二十二年目に入った。これまで鉄建公団訴訟、全動労訴訟で部分的勝利判決をかちとってきた。三月十三日、鉄運機構裁判で、事実認定をすることなく時効で切って捨てるとんでもない反動判決を出した。これをはね返すために、五月連続行動を組んで闘っている。六月二日には、1047人解雇問題の張本人の葛西敬之(JR東海会長)を裁判に呼び出した。徹底的に追及していこう。国鉄闘争は他の闘争へ勇気を与えている。全体で支え、連帯して闘おう」。
 次にジャーナリストの安田浩一さんが「葛西は民営化で何をやったのか」と題して講演を行った(別掲)。続いて、東京東部労組、全統一、「日の丸・君が代」強制反対を闘う教育労働者から連帯のあいさつがあった。全統一の仲間は「光輪モータースが四月二十四日に倒産したが、組合は自主営業を行っている。支援を。外国人研修生問題について。十八万人にものぼる外国人研修生が奴隷のように働かされている。こうした労働の実態を絶対に許してはならない」と訴えた。葛飾で卒業式に不起立をして戒告処分を出され、嘱託雇用を拒否された仲間は裁判で闘っていくと決意表明した。司会者が、「自治労公共サービス清掃労組のたかね支部のアルバイト四人が解雇された。六月二十七日に、集会とデモを行う」と紹介した。

各原告団がそろ
って決意を声明

 最後に、全動労鉄道運輸機構原告団、動労千葉鉄道運輸機構原告団、鉄道運輸機構原告団、鉄建公団訴訟原告団がそれぞれ決意表明した。全動労の梅木さん。「ダメ職員だったから不採用になったという世論が作られてきた。しかし、一月二十三日の判決によって、悪かったのは国鉄当局であることが明らかにされた。私たちの裁判は損害賠償要求であり、慰謝料は要求していない。年金・雇用の問題をさらにかちとっていきたい。葛西から不当労働行為の実態を引き出したい」。動労千葉の中村さん。「労働運動解体攻撃に対して、現場の労働者と共にストをかまえて闘ってきた。一致団結して1047人解雇問題の原点にたちかえって新しい運動をつくり出したい」。
 鉄運機構原告団の川端さん。「四党合意問題によって労組が分断された。こうした状況を闘いによって克服し、もう一度四者共闘を実現した。三月の判決では負けたが、不当労働行為を認めた判決の流れは変えられない。権力の中枢の葛西を裁判に引き出せたのは裁判所の大きな決断があったからだ。雇用・年金・解決金の統一要求実現のためにがんばりたい」。
 鉄建公団訴訟の酒井さん。「不当労働行為はあったことを認める判決を出してきたが、結論は出ていない。解決の内容は路頭に迷うことのない納得いくものでなければならない。この間、全力で国交省、地裁、高裁、鉄運機構への行動を連続的に闘ってきている。鉄建公団訴訟が全体の水準を決めていくことになるので、闘いの手をゆるめることなくやっていきたい」。
 最後に、東部の取り組みの弱さを克服して、東部のその他の運動と国鉄闘争を結びつけてがんばろうと共闘会議から提起があり、団結がんばろうを三唱して、六月二日の裁判闘争を取り組むことを確認した。(M)

安田浩一さんの講演から
安倍政権の中枢に入り
こんだ葛西敬之の正体

 葛西が書いた『国鉄改革の真実』によって、分割・民営化のねらいが何であったのかがよく分かる。葛西は「労務対策であった」と書いている。つまり労働運動をつぶすことこそが主であったことを公然と認め、1047人解雇問題をそれがどうしたと、ひらき直っている。本人の意志に反して、振り分ける(解雇)ことはできない(脱法行為の可能性がある)と当時の労働省や運輸省がしぶっていたのを、JRという新会社を作って(改革法23条による)、そこに振り分けることを考え出したのが葛西らである。
 そして、こうした労働者の生存権を奪う、脱法行為がどこの会社でも行われるようになったのは、まさしく葛西らの進めた「国鉄改革」の結果である。
 これによって、世界一安全といわれた鉄道運行はやがて、尼崎大事故のようにたくさんの犠牲者を出す、事故を続発させる結果となり、安全がないがしろにされている。
 受けて立った国労中央、総評、社会党も「国鉄をなぜ存続させなければならないのかを」きちっと出せないばかりか、裏交渉をして守ろうとした。葛西の言い分に反論できるような、闘う側からの総括も必要だ。
 葛西は安倍政権下で権力の中枢にのしあがっていき、憲法改正を中心とする右翼国家主義的体制つくりを推進していった。葛西の主張は単なる新自由主義ではなく国益を優先させ、集団的自衛権の発動を実現するために憲法改正をというものだ。葛西は安倍を支える経営者委員会である四季の会(会長)を組織した。安倍が組織した集団的自衛権を考える懇談会のメンバーであり、国家公安委員であり、新しい教科書をつくる会のメンバーでもあった。
 当然のごとくはこうした葛西には切り捨てられた人々の声は届かない。労働のあり方を壊し、人間の尊厳を奪ったのは葛西だと、せまっていかなければならない。(発言要旨、文責編集部)


コラム
代官屋敷「考」

 引っ越ししてまもなく、近所の「ボロ市通り」でボロ市が開かれていた。夜の九時までやっていると聞いたので、仕事帰りにブラリと通りを歩いてみた。様々な出店や屋台が煩雑に並び、「冬のお祭り」気分である。それにしても、「今年で430回目」という横断幕を目にして驚いてしまった。
 四百三十年前の一五七八年に、小田原城主・北条氏政が、世田谷新宿に楽市を開かせたのが始まりとのこと。当時、野良着の修繕などが盛んに行われていたことから、「ボロ市」と呼ばれるようになった。もちろん戦後は、「ヤミ市通り」だった。この市を開かせた北条氏政は、一五九〇年の秀吉による小田原征伐で自害に追い込まれる。その後、この北条氏の領地は家康に引き継がれる。
 長さ五百メートルほどの通りのほぼ中央には、江戸時代(1737年)に建てられた代官屋敷が保存されている。カヤぶき屋根の屋敷は、丈夫そうな大きな門と、竹で作られた塀の中に建っている。良く手入れされた庭の奥には、区の郷土資料館がある。ボロ市も、この代官屋敷のおかげで、かろうじてその伝統色が保たれているような気がした。
 この代官屋敷は「彦根藩井伊家の世田谷領」として建てられており、明治維新まで大場家が世襲している。事典によると「関東には幕府の直轄地と信頼する譜代大名・旗本の領地を置いて、江戸城を警護する形をとり……」とあることから、譜代大名であった伊井家が、幕府の命に従って領地をもうけたのであろう。一八六〇年の桜田門外の変で殺された大老井伊直弼の墓も、すぐ近くの豪徳寺に置かれている。
 一七三二年、江戸時代に入ってから最初の大飢饉である享保の大飢饉が発生し、翌年には米価上昇が原因で、江戸で初めての打ちこわしが起こった。「百姓一揆・打ちこわしは、享保期(1716〜36)以降、いちじるしく発生数を増やす(幕末まで拡大する)」ことから、ここの代官屋敷も、この地域の百姓などを監視し取り締まるために建てられたのだろう。八代将軍吉宗の時代、幕藩体制は深刻な動揺期に入っていた。
 畿内のある農村の例として、一六〇七年に一五%だった貧農の比率は、一七三〇年には四三%、一八四一年には六一%にまで増大している。貨幣経済の浸透と並行して、一部の有力な地主や商人への富の集中が進み、一方では自作から小作に追いやられる貧農層が拡大し、農村での階層分化―格差が顕著になっていった。
 現代、南北格差は拡大し、利益は大企業や大手銀行が吸収し中小企業は没落の危機。不安定雇用層の拡大と労働者内の階層分化―格差の拡大。年金問題など将来への不安の増大。食料・エネルギー・鉱物資源などの急激な価格高騰を主要因とする物価の上昇。
 自民党体制の動揺が深まるなかで、現代版の「一揆・打ちこわし」の発生もそう遠くはないような気がする。  (星)


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