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フランス  反資本主義新党の結成原則(2)       かけはし2009.6.15号

21世紀の社会主義をめざす
闘いと到達するための戦略



2 もうひとつの世界は可能だ:21世紀の社会主義

 民衆の大多数は肉体労働者であろうと知的労働者であろうと、労働者によって構成されている。それは、雇用されていようと職を奪われていようと、現役の労働者であろうと定年退職していようとそうしたことに関係なく、最も多くの場合には賃金と引き換えに用いるべきものとして労働力しかもたない存在である。教育過程にある若者の圧倒的多数は、この労働者階級に加わることになる。
 賃金労働者と搾取されている民衆全体にとって、破産したこの体制の根源それ自体に手をつける以外の別の解決策は存在しない。退廃した金融資本主義と対立する「よい」生産的資本主義などというものはない。産業資本と金融投資資本とはずっと以前から長きにわたって相互浸透し合ってきている。資本主義的グローバリゼーションは、第二次大戦後の好況が終了した時に生じた利潤率低落に対する工業諸国のブルジョアジーの回答であった。
 過去三十年間にわたって、労働界は株主の利益のために自分たちの収入をたえず減少させてきた。(1982年には、株主の配当金が賃金総額のうちの4・4%を占めていたが、それが今日では12・4%になっている)。このために、資本家は自分たちの製品にとって支払能力のある市場を見出すことがますます困難になっている。この情況の圧力を受けて資本家はたえずますます多くの資本を投機へと振り向けさせざるをえなくなっている。これは、金融化へと向かう資本主義の本来的傾向をよりいっそう強めさせている。
 展望としてあてにならないより「人間的な」資本主義への復帰にかけることは、したがって、およそ現実的ではないだろう。「黄金の三十年間」の時期は経営者の主張が制約されて枠組みがはめられていた時代としてまだ記憶の中に残っているが、そのような情勢は、大きな階級闘争と革命を通じて形成された力関係の結果からもたらされたのであった。そこに到達するまでには、一九三〇年代の大恐慌の苦痛とファシズムと戦争の恐怖を経験しなければならなかったという点は別にしてもである。

「人間的な」資本主
義への復帰ではない

 この危機を片付けるということは、その搾取と手を切るということを、したがって、その基礎をなしている主要な生産・交換・通信手段の私的所有と手を切るということを意味する。金融システム、生活に不可欠なサービス、大企業は、労働者と民衆の管理下におかれなければならないだろうし、労働者と民衆はこれらの資産を引き受け、民主的な計画化の枠組みのもとでそれらを管理するであろう。富の生産と分配は、資本主義的な所有ならびに取得から解放されて、社会全体に利益をもたらすことができるようになるだろう。食べること、暖まること、住むこと、治療を受けること、教育を受けること、耕すこと、移動すること、これらはすべての人に対して保障されなければならない不可欠な要求である。
 社会主義、エコ社会主義とは、政治、経済、社会のすべての分野におけるすべてのレベルでの労働者の権力である。それは、何を、いかに、いかなる目的で生産すべきかを自由に全権をもって決定する連合する生産者の民主主義である。このような経済と社会の再編成は、労働者と市民の集団が実際に企業の運営と公共の仕事の管理を実際に引き受けることができるようになるために不可欠な第一段階の労働の解放を前提とする。テクノロジーの進歩によって可能となっている労働時間の大幅な短縮、それに加えて失業を解消して必要労働をすべての人の間で分配することが、この必要に応えるものを提供することになるだろう。
 搾取と抑圧から解放された社会はすべての病気や障がいや健康上の問題を回避することができるなどという幻想を抱いているわけではないが、われわれが闘い取ろうとしている健康への権利はまず何よりも、最大限の利潤追求に基礎をおく社会と結びついた不健康状態、労災事故、仕事によるストレス、有毒製品や劣悪な品質の食品や公害にさらされることを防止することにある。
 人間によるもうひとつの生産としての文化的、芸術的創造はそれ自身独立したものではない。それは、イデオロギー的、政治的な緊張に貫かれている。文化や芸術やメディアが支配的イデオロギーの防壁であり、したがってそれらが万人の解放にとっての重大な桎梏となっている以上、資本主義体制に対する根底的で真剣な一貫した批判は、文化と芸術とメディアに対する根底的な批判なしで済ますことはできない。資本主義から解放された社会は、すべての個人にこれらの創造を保障し、その商品化に終止符を打つだろう。文化、芸術、メディアを民主的に再び取り戻すことは、第一の試金石である。

工場は労働者と
民衆の管理下に

 社会主義がフランスでのいわゆる「社会(主義)」党のような社会民主主義組織の資本主義的政治とはまったく無縁であることは明らかである。同様に、それは、旧ソ連邦や中国のように、その名称を簒奪した官僚的独裁とも根本的に対立するものである。それだけにとどまらず、この独裁体制は、自らが闘うと主張したまさにその搾取と抑圧のメカニズムを再生産し、生産力主義を通じてそれらのメカニズムの最悪のものを促進した。われわれが望んでいるのは、社会の自主的な組織化と民主的な自主管理の方向へと進むことであり、それは、結社ならびに政党、労働組合、団体の表現の最大限の自由を意味する。資本主義体制のもとで勝ち取ることができた民主的自由は、打ち固められ、発展させられる。社会主義、それはまさに、最も確かで最も拡大された民主主義の支配である。
 よい生産的資本主義がありえないのと同様に、よい「緑の資本主義」もありえない。資本主義との決別のみが民主的で合理的な経済的選択を可能にするのだから、この決別は、破局的影響を増大させ始めているエコロジーの危機を阻止するための必要条件である。その目的が社会の利益であってもはや利潤ではないような社会の新しい組織化という枠組みのもとでは、自立し責任をもった生産者と市民が集団のためになるような経済活動を決定するだろうし、民衆と環境を危険に陥れる経済活動を退けるであろう。われわれの望む社会主義は、生産の無制限の発展をけっして提案しないのであって、それどころか社会の必要をエコロジーの観点から満たすことに立脚している。これがエコ社会主義である。資本の独裁から解放された社会のみが人間と自然とを調和させることができるだろう。

社会主義は必然的
に国際主義的だ

 われわれは、すべての人の個々の成熟を促し、促進する集団的組織化のシステムを建設したいと考えている。それは、人間がもはや手段ではなくて目的とみなされる「各人の自由な発展が万人の自由な発展の条件である連合」(マルクス/エンゲルスの1848年の『共産党宣言』)である。資本主義体制は、支配の全体的規範と民衆の階層化によって支えられている。したがって、少数派は、これらの規範に従うことを拒否し、既存の秩序に順応することを拒否すると、モラル的圧力や烙印や拒絶、さらには言葉上での暴力やモラル的暴力や肉体的な暴力に直面することになる。社会主義は、あらゆる種類の抑圧、あらゆる人種差別主義、一切の差別の終結を、そして文化、言語、性的嗜好、哲学的、宗教的意見、行政と公権力の非宗教性の尊重を意味する。
 社会主義は、とりわけ、女性に対する固有の抑圧の終わりを意味する。この抑圧は、資本主義以前からのものであるが、資本主義が自身の目的のために統合し、手段として利用してきたものである。われわれは、社会のあらゆる分野でこの抑圧を見出すことができる。それは多様な形を取って社会のすべての階級を貫いている。女性への抑圧は階級的搾取や人種差別主義や異性愛的規範に合致しない諸個人に対する暴力などの別のタイプの支配と重なり合う。人類の半分が従属的地位にとどまり、性的分業、企業や政治生活における差別、二重労働日、家父長制家族、家庭内や職場や街頭などでの暴力の犠牲になり続けているかぎり、いかなる人も自由ではないだろう。自身への抑圧に反対する女性の闘争は、資本主義支配に反対する闘いの不可欠な側面である。女性の完全な解放なしには社会主義は存在しないだろう。そして、とりわけ民衆の世界での女性の解放は、利潤の法則の支配の終結と社会的必要の充足に基礎をおいた新しい社会の存在を必要とする。
 社会主義は必然的に国際主義的である。それは、新植民地主義的フランスがアフリカや海外県で維持しているような搾取と帝国主義的従属の終結を意味する。それは、食料主権や水の利用権のような民族自決権、すなわち、各民族が自分の将来を自ら決定する各民族の権利を承認し、最後のフランス植民地の諸民族をはじめとする被抑圧民族の民族解放闘争を支持する。われわれはまた、フランス「本土」の国境内にとどまりながら社会主義を建設することは不可能であるという点を認識している。フランスと近隣諸国における反資本主義のいっさいの勝利は、ヨーロッパへそしてさらに広く全世界へと自らを拡大していく使命を帯びるだろう。
(つづく)
(見出しは本紙編集部)




コラム
小さな街の大きな出来事


 鹿児島県阿久根市で竹原信一市長(50)が議会から二度の不信任決議を受け、市長は失職した。竹原は防衛大卒、航空自衛隊出身。昨年八月の市長選中に、彼は自らのブログを使い、他候補を批判し、公職選挙法違反にあたるとして市選管から停止を求められた。
 当選後、竹原市長は議員定数を十六から六に減らす条例改正案を提出したが、議会の全会一致で否決された。竹原が次にやったのは、一月十二日に「市議会で最も辞めてもらいたい議員は?」というテーマで、市議会議員十五人全員の名前をあげてブログで投票を募った。議会の次は、市職員・労働組合への攻撃であった。二月二十日、市職員全員(268人)の給与明細を市のホームページに公開した。こんなことは全国に例がないという。もちろん、本人達の同意をとっていない。市職員の給与を下げるためのキャンペーンだ。
 この後、三月二十二日の出直し市議選で市長派が五人、反市長派が十一人となり、四月十七日、議会開会初日に、二度目の市長不信任案が可決され、市長選となった。五月三十一日の投票で竹原は驚くことに再選された。
 彼の選挙公約は「市役所人件費の削減」であり、人件費高騰を招いたのは組合であるとして、組合攻撃をしていた。彼は当選後、市職労(203人)に対して、市役所敷地から組合事務所の退去を要求することを明らかにした。
 憲法や労働法で認められた、労働者の団結権を否定し、議会制民主主義を破壊する市長を市民が支持し、再選させたところに、人権や民主主義の危機を感じる。今後、労働組合破壊攻撃と正規職員を減らす攻撃は一体化する。業務委託などあらゆる手段を使って職員の非正規化が行われるだろう。
 今、国や自治体での非正規雇用の官製ワーキングプアが問題になっている。こうした働き方を強制されている人たちが五十万にのぼるという。民間の派遣労働者は業種の制限や三年以上継続して働き続けることを禁止し、労働法の適用もすることになっている。しかし、自治体労働者は、民間のような労使関係とは違い、「任用」という形の終身雇用が基本となっている。この「任用」の下で非正規労働が行われると、労働法が適用されない制度上の問題がある。昇給もほとんどない時給制、一年更新で何十年も同じ仕事をさせられている。給与も正規職の半分から三分の一だ。
 阿久根竹原市長の場合は極めて突出した例であるが、橋下大阪府知事などがやっていることも同じだ。これは小泉の三位一体「改革」の名の下に、自治体財政を破壊する政策の結果でもある。公務員バッシングによるさらなるワーキングプアの創出を許してはならない。(滝)

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