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日帝と独裁を記憶する南山の歴史の現場         かけはし2009.9.21号

開発計画によって壊さず平和公園造りを

 2010年、「日帝36年支配」のもととなった「日韓併合条約」の締結から100年を迎える。さまざまな取り組みがなされる中で〈ハンギョレ21〉は統監官邸や中央情報部など植民支配の歴史や軍部独裁時代の暗黒を象徴する南山を、史跡・遺跡の保存や復元を通じて平和公園にしようと提案している。(「かけはし」編集部)

百年の歴史が丸ごと消える

 今、そこは数個のベンチがぽつんと置かれた芝生だ。一時、そこはコンクリート床のバスケット・ボール場だった。そして1世紀前、そこは朝鮮を支配した日本統監の宿舎である統監官邸だった。1910年8月22日、そこで大韓帝国の国権を奪う条約が結ばれた。統監官邸のすぐそばには400年の歳月を耐えたイチョウの巨木が踏ん張ってそびえていた。その時、日本人らは「1592年、朝鮮征伐に乗りだした壬辰倭乱(注1)当時の加藤清正がこの木に馬をつないだ」と公然とふれまわった。
 壬辰倭乱当時、宣祖が逃げ出した都・漢陽(今日のソウル)に陣を敷いた倭軍たちは南山の頂上に城を築いた。頂上の城はなくなっても歴史は「倭城台」という地名として残った。1890年から公々然と朝鮮に進出した日本人らは、その倭城台を中心に定着した。朝鮮と大韓帝国の王宮が見下ろせる所に公園を作り、彼らの神を祀る神社を建てた。1910年の韓日合邦によって韓半島を呑み込んだ日本人らは初めからその町内の名前を「倭城台町」と呼んだ。
 1972年、倭城台の一角に建物が建ち並び始めた。ソウル中区芸場洞4―5番地。6階からなるその建物の名称は中央情報部南山本部だった。今、そこはソウル・ユースホステルとして、数多くの内外国の若者たちを迎えている。ソウル市の政策によって、独裁の空間は若さと文化の空間へと変わった。ユースホステルのわき道にそって行けば出合うことになる「南山創作センター」は安企部要員たちの室内体育館だった。南山創作センターでは毎日たくさんの若者たちが歌い、踊る。南山創作センターから200メートルばかり離れた所には「文化の家・ソウル」がある。広々とした庭園のついた2階建て住宅を改造したここは、もともと中央情報部長の官邸だった。その前にあった情報部長の警護員らの宿舎も2005年に「山林文学館」へと変身した。だが、そのどこにも、かつてここがどこだったのかを告げる痕跡はない。
 1年後の2010年8月、大韓民国は庚戌国恥(1910年の、いわゆる「日韓併合」を指す)100年を迎える。われわれはどうやって100年前に国が奪われた瞬間を覚えるべきだろうか。2年後の2011年6月には中央情報部設置50年を迎える。この歴史はまた、どう残すべきなのだろうか。ソウル市は今年3月、「南山ルネサンス・マスタープラン」を発表した。2015年までに南山にある旧中央情報部(安企部)の建物などをすべて取り壊して緑地にする、と宣言した。はたしてそれは正しい道なのだろうか。歴史はそのままなのに、歴史を証言する建築物などは消え続ける。
 再び南山を見る。朝鮮太祖が漢陽を都の地と定める時、北側の北岳山を玄武とみなし、西側の仁旺山を左青龍、東側の洛山を右白虎とみなした。南側の木覓山、今日の南山は朱雀だった。わが先祖たちは2つの翼をぱあっと広げた赤い鳳凰の姿として朱雀を描いた。
 倭城台と安企部を頭と肩に載せている朱雀は手に余る。南山の朱雀が再び飛ぶためには建物をなくしてしまうのではなく、立て直すのでなければならない。統監官邸と旧安企部庁舎を復元して保存することこそが植民と独裁に縛られた南山の鉄鎖をキチンと解くことだ。そうして南山は平和を象徴する公園とならなければならない。

朝鮮統監・寺内の傲慢な詩

 「小早川、加藤、小西が今しあれば、いかでか今宵の月を見るらむ」。
 1910年8月29日、潰えさった大韓帝国の首都・京城。南山山裾の統監官邸でほろ酔い気分の朝鮮統監寺内正毅がごう慢な表情で詩を詠んだ。この日の朝、いわゆる「韓国併合に関する条約」(韓日合併条約)が正式に公布された。夢に描いた朝鮮合邦がなしとげられた日だった。寺内は400年ほど前、豊臣秀吉支配下の武将らが失敗した「朝鮮征伐」を自身が成就したという満足感に酔っていた。

統監官邸の変遷と施政記念館

 1週間前の8月22日のことだ。南山麓の「倭城台」中腹にあった統監官邸に内閣総理大臣李完用(イ・ワニョン)が現れた。寺内が韓日合邦全権委員として任命した李完用だった。純宗の国璽を押した委任状を手にして駆けてくるところだった。歴史学者イ・イファ氏は〈韓国史物語〉で、この瞬間についてこう書いた。「8月22日、(李完用は)委任状を思いのままに受け取った。純宗が(委任状に)玉璽に押すまいとすると、皇后ユン氏が玉璽をチマ(スカート)の間に隠して出さなかったという。すると(皇后ユン氏の外叔父)ユン・ドギョンが駆けより、奪って押した、と伝わる」。
 8月4日からこの時まで寺内と李完用の間を行き来して工作を編んだのは李完用の秘書だった李人稙(イ・インチク)だ。〈血の涙〉〈鬼の声〉〈銀世界〉などの新小説を発表した作家、まさにその李人稙だった。李完用と寺内はこの日の午後、統監官邸2階の寺内の寝室で韓日合併条約に署名した。
 この場所について〈毎日新報〉(注2)1940年11月22日付は、こう報道している。「2階には17点の『四君子幅(梅、菊、蘭、竹を素材とする掛け軸で、品性の高潔さを象徴する)』が掛かっていた。それを見ながら進んだ記者は何としても歩みを止めざるを得ない部屋の中に踏み込んだ。この部屋は合併調印室。この部屋が他ならぬ30年前、日韓合併の判をついたその瞬間を目撃した所なのだ。今日の朝鮮を生んだ歴史的産室であり、この国の人々に新しい道を照らす烽火台ともなったのだ。
 5間余りの室内は鏡をおいて左右に伊藤公から南総督に至るまで8代の統監、総督たちの胸像が置かれており、中央のテーブル―その上にはすずり箱と『インクスタンド』があり、左右に4つのいすと1つのソファが置かれている。『さあ、これによってわれわれは完全に1つの兄弟であり、同じ君主に仕えて歩む道を開いたのです』と言い、『ほ、ほ、ほ……』と高らかに笑う、かつての指導者たちの幻影が目の前に浮かぶようです」。
 韓日合邦以後、韓国統監は朝鮮総督へと格上げされる(1910年8月29日まで韓半島に存在している国家の正式名称は「大韓帝国」であって「韓国」はこれを縮めた言葉だった。日本の内閣は1910年7月、内部勅令を通じて大韓帝国に代わる言葉として「朝鮮」を採択した)。総督は植民地朝鮮を統治する最高権力者だった。官邸も総督官邸。倭城台総督官邸は1939年まで使われた後、第7代総督である南次郎が今日の青瓦台(現大統領府)の場所に官邸を移すとともに「施政記念館」へと形を変えた。〈毎日新報〉はこれについて「明治18年、ここに新たに土地を開き日本公使館として登場して以来、昨年9月、南総督が警務隊の新官邸に移るまで実に50余年の長い歴史を持っていたこの建物を、施政30周年の輝ける年と共に永遠に記念しようとして、ここにその名前を「施政記念館」とし、歴代統監、総督の貴重な遺物を陳列して一般に公開」すると報道している。

建物が消えて記憶も消える

 総監部は位置からして朝鮮征服を目的とした。乙巳条約(注3)が締結された翌年の1906年2月に設置された統監府の位置は朝鮮王朝の歴代王の神位を祀る宗廟を真南に対座する場所だった。当時の大韓帝国の本宮だったキョンウン宮が明らかに見下ろせる南山の山裾だった。統監府がここに場所を定めたので、日本人らもここに集まった。
 宮城が見下ろせる所には建物を建てられなくした朝鮮の長い慣例を黙殺し、日本人らは南山の麓に家や庁舎の位置を定め、大韓帝国の王宮を見下ろした。ソウル特別市史編さん委員会が集計したのによれば、1900年から1910年までに日帝によって漢城に新築されたり増築された庁舎だけで139棟に達したという。彼らが何よりも好んだ建築様式は自分たちの建築方式にルネサンス様式も合わせた「倭洋折衷」だった。統監府もまた、このような様式に則って建てられた。
 帝国主義日本が未来永劫にわたって記念したかった「合併調印室」。だがわれわれはそこを、すっかり忘れている。庚戌国恥の跡は今日、南山中腹の芝生に消えた。何があったのだろうか?
 近・現代文化財の専門家イ・スヌ氏(47)は3年間の追跡と考証の末に庚戌国恥の現場を探し出した。彼が確認したその場所は「ソウル中区芸場洞2―1番地付近の芝生」。イ氏の説明だ。
 〈東亜日報〉1960年9月20日付に、この建物の最後の運命についての記録が出てくる。「政府は市内中区芸場洞にある『連合参謀本部の建物』を改修ないし増築して国務総理官邸として使用することになるだろう、という。同建物は新館と旧館からなっているが、韓日合併条約締結当時、合併調印を行った旧館は建物が古くなったため壊してしまい新館だけを改修または増築することになるだろうというのだ」。

一時、総督官邸に
KCIAを設置

 総監官邸はこの直後、壊されたものと推定される。5・16クーデターによって執権した軍部がここに中央情報部を設置するとともに、この一帯は一般人の立ち入りができない場所となった。消えた建物は、記憶まで消した。それでも復旧をしぬく人々はいて当然だ。
 イ・スヌ氏は06年、この芝生で統監官邸内に建っていた林権助(1860〜1939)の銅像の台座石3点を発見した。そこには「男爵林権助君像」と書かれていた。林は1899年駐韓公使として赴任し、1905年11月、乙巳条約締結を主導した人物だ。1936年には彼の業績と喜寿を記念して官邸の前庭に銅像が建てられたという。芝生わきの樹齢400年のイチョウの木も、ここが官邸の地であったことを告げている。

歴史を語る跡地のイチョウ

 1926年に刊行された〈京城の広廈(大きな家、の意)〉という本にある、このイチョウの木についての説明だ。「ノクチョン亭付近には伝説の名木である『大公孫樹』がある。樹齢500年を超え、高さは(統監)官邸の屋上に達しており、枝は南山の麓を覆っている」。ノクチョン亭は統監官邸のすぐ隣にあった朝鮮時代のあずまやだ。ノクチョン亭のすぐそばにあったというそのイチョウの木は現在、ソウル市の保護樹(固有番号:ソ2―7、中区芸場洞2―1)として残っている。
 統監官邸はこのように痕跡さえあいまいな反面、統監府の跡地には標示石なりとも残っている。韓日合邦以後、統監府は総督府に変わり、南山総督府は16年間、朝鮮を支配した。1926年、光化門の景福宮前の旧中央庁の地に移されていくまでは。南山総督府の跡地には現在、南山ソウル・アニメーションセンターが建っている。南山スンイ旅館の隣だ。ソウル・アニメーションセンター前に立てば統監前、総督府があった場所であることを告げる標示石が立っている。1926年に総督府が移されていった後、総督府の建物は「恩賜科学博物館」になる。この国にできた最初の科学博物館だった。解放後、国立科学博物館に、1948年には国立科学館に生まれ変わったが、韓国(朝鮮)戦争の際、焼失してしまった。政府は1957年、この場所に韓国放送公社(KBS)の建物を建てた。韓国放送が汝矣島に移った後には国土統一院の庁舎に使われ、今日に至っている。

対決を超え、復元を!

 このような状況を打開しようという人々がいる。作家ソ・エソン氏の言葉だ。「庚戌国恥の痛恨がこもった統監官邸は韓日合併がなされた1910年の時期には2階建ての木造建物だった。韓日の専門家たちの考証と各界の意志さえ結集すれば充分に復元できると思う。保守・進歩の違いを越えて100年を記憶する空間を作ることは大きな意味がある」。(「ハンギョレ21」第774号、09年8月24日付、イ・テヒ記者)
 注1 秀吉による朝鮮侵略の韓国側の歴史的呼称。
 注2 総督府の機関紙
 注3 1910年の合併条約に先立って結ばれた条約で、これにより日本は韓国の外交権を奪った。

韓国併合に関する条約

 韓国皇帝陛下と日本国皇帝陛下は両国間の特殊かつ親密な関係を回顧し、相互の幸福を増進して東洋の平和を永久に確保しようとすること、この目的を達成するためには韓国を日本帝国に併合するなしにはありえないことを確信し、ここに両国間に併合条約を締結することに決し、日本国皇帝陛下は統監・子爵寺内正毅を、韓国皇帝陛下は内閣総理大臣・李完用を全権委員として任命す。この全権委員は会同・協議した後、以下の諸条を協定す。

 1、韓国皇帝陛下は韓国のすべてに関する一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝陛下に譲与す。
 2、日本国皇帝陛下は前条に掲載した譲与を受諾し、また完全に韓国を日本国に併合することを承諾す。
 3、日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下、太皇帝陛下、皇太子陛下とその后妃および後裔をして、その地位に応じて相当の尊称、威厳そして名誉を享有せしめ、またこれを保持するに充分な歳費を供給することを約す。
 4、日本皇帝陛下は前条以外の韓国皇族やその後裔に対して相当な名誉と待遇を享有せしめ、またこれを維持するに必要な資金を供与することを約す。
 5、日本国皇帝陛下は、勲功ある韓人として特に表彰を行うに適当と認定できる者に対して栄爵を投与し、また恩金を与えること。
 6、日本国政府は前期併合の結果として、すべての韓国の施政を担任し、同時に施行する法規を順守する韓人の身体と財産に対して充分な保護を行い、またその福利の増進を図ること。
 7、日本国政府は誠意と忠実とによって新制度を尊重する韓人として相当な資格のある者を事情が許す限りにおいて韓国に存する帝国官吏として登用すること。
 8、本条約は日本国皇帝陛下と韓国皇帝陛下の裁可を経たもので公示日から施行する。

 上の証拠として全権委員は本条約に記名調印するものである。

 隆煕4年8月22日
 内閣総理大臣 李完用

 明治43年8月22日
 統監 子爵 寺内正毅


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