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シリーズ ふざけるな!労政審B     かけはし2010.1.1号

これが使用者委員、公益委員の
ジコチュウ・身勝手意見だ!

〈6〉均等待遇の拒絶

発言@(使用者、秋山桂子、前出、11/10)
 「派遣労働者と正社員では責任や役割が違うので、賃金が異なることは意味がある。日本は年功を重視することに加えて、各企業で賃金が違う。また、派遣は、派遣先がそれぞれ違うので、均等待遇は無理がある」

発言A(使用者、高橋弘行、前出、11/10)
 「誰と誰の均等を図るのか。同じ正社員でも、入社年によって賃金は違う。また、日本には、産別賃金がないので、均等待遇は難しい。均等ではなく、均衡がわが国では適切である」

 均等待遇の全面的な拒絶、上に見る使用者意見はこれに尽きる。発言Aでは、均等に代えて、均衡という考え方が持ち出されている。この考え方は、均等待遇をめぐる問題に関ししばしば持ち出されるものだが、何と何が均衡するのか、そこに社会的合理性はあるのかなど、どうにでも理屈がつく曖昧さは消しようもない。一つだけはっきりしていることは、それが均等に対置されていることであり、つまり均等ではないということだ。「均衡」は、同一労働に対して複数の待遇を許すのであり、基本的に、現在を変えるものではない。その意味でいわばだましのテクニックであり、それが均等待遇の拒絶であることに変わりはない。
 したがって上の意見が意味するものは結局のところ、派遣労働者に対する極めて非人間的な冷遇を変えるつもりはないとする表明だ。それ自体がまったく不当であり、加えて派遣労働を何としても必要などと強弁する同じ者たちが他方でこのように表明することの身勝手と傲慢は、とうてい許せることではない。彼らの意志表明は、派遣法抜本改正の必要性を、だめ押し的に明らかにしている。
 その点で、派遣労働と均等待遇とは決して両立できないことを、改めて確認しよう。
 先ず何よりもそれは、派遣労働という雇用形態を擁護する者たちの現実的な動機の中に明確だ。その核心の一つは労働コストの大幅な切り下げにあり、そしてそれが可能である理由こそ、均等待遇とは隔絶された派遣労働者の劣悪な条件であり、派遣労働という仕組みの下でこそそのような条件を苦もなく労働者に強要できるからだ。その関係は、またその関係についての彼らの自覚は、前回までに見てきた使用者意見、公益委員意見にきわめて明快に示されている。彼らにとっての派遣労働の存在意義は、何よりもその関係に集約されている。そうである限り、派遣労働の存続を前提に派遣労働者の現状改善を求めることなどまったく非現実的だ。
 そもそも本来、派遣労働の常態的存在と均等待遇の両立はまったくあり得ない。少し考えれば、以下のことはすぐ分かる。すなわち均等待遇原則が確立されている場合、もしそこで企業が派遣労働者を使用しようとするならば、企業が負担しなければならない労働コストは、派遣労働者に保障する均等待遇に相当するものに、派遣元の経費を(さらに派遣事業者の利潤をも)上乗せしたものとならざるを得ない。
 要するに、企業の労働コストは、直接雇用の場合に比較して確実に上昇する。そうであれば、派遣労働の企業にとっての必要性は、極めて限られたものとなる。一方で労働者にはもちろん、派遣などというわざわざ込み入った間接雇用を必要とする理由はない。まさにそれゆえ、まがりなりにも均等待遇原則が社会的に確立しているヨーロッパでは、派遣労働が極めて限定された例外でしかない。日本におけるような大量の派遣労働者の存在は、均等待遇の否定の上にしかあり得ない。派遣労働の抜本的規制は、均等待遇原則に向けて進む上でも避けることのできない課題だ。

均等待遇拒絶は全労働者が対象

 しかし現在なおも、均等待遇かそれとも派遣法抜本改正かという二つの道があるかのように、あるいは均等待遇と派遣労働の両立が可能であるかのように問題を提出し、派遣労働者の利益を図ると称しつつ、現在の派遣法抜本改正に向けた闘いに水を差そうとするメディアや一部論者が絶えない。
 代表的論者は濱口桂一郎氏であり、その見解は『世界』09年3月号の「派遣法をどう改正すべきか―本丸は均等待遇―」として提示され、さらに岩波新書の『新しい労働世界』の中でも同趣旨がやや詳しく述べられている。あるいは朝日新聞は12月9日付けで、派遣労働者の保護を優先すべきとする、非常勤公務員の肩書きをもつ派遣労働経験者の投稿を掲載し、同紙の意向をにじませた。後者の場合、「保護強化」の内容は不明だが、ドイツが参照例とされているところから察すると、趣旨としては濱口氏と似た見解だと推察できる。
 このような主張は、派遣労働者への非道な仕打ちを通して社会的課題となった均等待遇への道を実はむしろ遠ざけるのであり、きっぱりと退けなければならない。
 均等待遇に関わる両者の議論の欠陥は、均等待遇や保護強化を具体的に実現する道筋、あるいはそれを可能とする基礎がまったく明らかでないことだ。後に見るように、使用者は、均等待遇に完全に、しかもあらゆる手段を使って敵対している。均等待遇実現のためにはそれを打ち破らなければならないのであり、お題目だけですり抜けることなどできない。そこに確実な方策を何も示さないのだとすれば、その主張はただ派遣労働の、そして均等待遇とはかけ離れた雇用関係の温存しか意味しない。
 そのことをより明らかにする上でまず確認しなければならないことは、今回の労政審で使用者が主張した均等待遇拒否の論理が派遣労働者に限定されたものではない、ということだ。そこでは、年功賃金、企業毎に設定され従って企業毎に違いがある諸条件、期待する(企業が勝手に割り振った)役割の違い、派遣先による条件変動の可能性など、もっともらしい言い訳が並べられている。しかし、派遣先云々は別としてそこに挙げられたものはすべて、女性差別を典型として日本の雇用関係に長く続いてきた均等待遇の全般的な欠如、差別的に階層化された複数の労働条件の併存を正当化する言い訳として、常に企業側や日本の支配層が挙げてきたものだった。
 つまり今回彼らが改めて明らかにした均等待遇拒絶の意志は、派遣労働者のみならず、非正規労働者全体はもちろん、女性労働者などこれまで差別的に処遇されてきたすべての労働者層に広く向けられているのだ。今回の労政審での使用者意見はその意味で、むしろ、均等待遇を排除してきた日本の不条理な雇用のあり方全般を今後とも断固防衛するとする宣言に等しい。
 派遣労働者への差別待遇は、その不条理を土台としてあくまでその上に作られている。そして、使用者が雇用責任を負う必要がないという条件を基に、派遣労働は最も気楽に大手を振ってその不条理を貫徹できる雇用形態として位置づけられ、大々的な「活用」が追求されてきた。
 今回の使用者発言に込められたものは、その構造全体を防衛しようとする決意表明だ。それゆえ派遣労働をめぐる均等待遇の追求は、その決意を突き崩す闘いであり、日本の雇用関係に埋め込まれてきた先のような長い歴史を持つ労働者の分断と囲い込みとの闘いを含んで、その真の実現には、今後もいくつもの厳しい闘いを重ねることが必要となるだろう。それは、一片の法律やいくつかの行政措置で一朝一夕に片が付く問題などではない。
 派遣労働者の均等待遇という課題を、すぐ手の届くものであるかのように提起することは、誤りを超えて不誠実と言わなければならない。

派遣労働は差別温存の手段

 上に見たことは、均等待遇を求める闘いの歴史がはっきりと示している。
 均等待遇、あるいは象徴的に同一(価値)労働同一賃金は、労働者運動の歴史的に一貫した、また世界的に普遍的な要求だ。それは、ある種本能的な労働者の平等に対する強い欲求の必然的な反映であると共に、労働者の力の根源である連帯・団結を支える最も重要な基礎としてもまた、おのずから経験的に広く自覚されてきた。それゆえまたそのための今も続く長い闘いの歴史がある。言うまでもなく、ヨーロッパにおけるその原則の曲がりなりの確立も、あくまでその闘いの成果だ。
 日本の場合でも均等待遇要求は、労使協調主義や本工主義などにじゃまされつつも、労働者運動の深部に脈々と受け継がれてきた。特に、差別的処遇に苦しめられてきた女性を先頭とする様々な労働者層にとって、均等待遇は人間としての尊厳と自らの自立・解放をかけた悲願であり、まさにそのための闘いが営々と続けられてきた。そして、わずかづつでも成果を積み上げ、差別的処遇が大手をふるう余地を狭めてきた。
 しかしその過程はまた、差別的処遇の温存に利を見てきた企業、資本に、均等待遇要求をかわす策を様々に追求させる歴史でもあった。企業社会的囲い込みの強化、均等法に対するコース別管理、成果主義管理、その他、例は尽きない。先に見た「均衡」という考え方それ自体、企業、資本のそのような追求の一つとして編み出されている。
 このように、均等待遇をめぐる闘いは姿を様々に変えつつ今もホットな闘いとして厳然と続いている。そして均等待遇をめぐる闘いのこのような歴史の中に派遣労働を置いたとき、派遣労働のもう一つの側面が現れてくる。つまり、企業内で均等待遇を回避し差別的処遇を温存する機能だ。事実として派遣労働は、そのような機能の側面においても、企業に極めて都合の良い手段となっている。それをはっきり示すものこそ大量の女性派遣労働者の存在だ。しかも彼女たちの多くは、「ファイリング」、「事務機器操作」などという名ばかり「専門」業種の名目で、期間制限もなく、従って正規雇用の格好の代替として、低処遇、無権利の境遇に縛り付けられている。”女性差別が派遣労働に移し替えられている”、派遣法の院内集会で発言に立った女性の派遣労働者たちは、このようにまさにことの本質を鋭くえぐり出している。
 この一点だけでも、派遣法抜本改正実現をめざす闘いは均等待遇を求める闘いを紛れもなく引き継ぐものであり、その闘いの今の焦点だ。派遣法抜本改正か、均等待遇追求か、などという問題設定は、現実とは無縁の机上の空論だ。(つづく) (神谷)




「民主党の教員免許制度を問う」集会
教員養成の「開放制」否定とより強い管理に危惧


「免許更新制廃
止」の落とし穴

 十二月六日(日)、都教委包囲首都圏包囲ネットワークは、「民主党の教員免許制度を問う」集会を東大・赤門総合研究棟で行った。
 二〇〇六年十二月の教基法改悪とセットの攻撃として教員の管理・統制・差別・選別をねらった教員免許更新制改悪を〇七年六月に、当時の政府・与党は強行した。すでに制度は実施しているが鳩山政権・文科省は、「免許更新制廃止」の意向を明らかにし、「二〇一〇年度に教員免許制度の抜本的見直しに着手」の通知を行ったが、同時に新たな「教員免許制度」を導入することも明らかにしている。
 新たな教員免許制度は、@教員免許の取得を大学院修士課程の修了A教員養成の大学に限定B教育実習を一年などを掲げ、実質的に免許に格差を導入し、教員をピラミッド型の上下関係のもとに組み込もうとしている。また、「教員の資質の向上」を掲げているが、大学院を卒業すれば「資質」が高まるような安易な主張をしている。新制度の性格、問題点、課題を深め、批判を強めていくことが求められている。

新制度はより危
険になる可能性

 集会は、ネットを代表して見城赳樹さんが開催挨拶を行い、「新法の情報を共有し、相互討論によって、制度の問題点、攻撃的性格等々について深め、新しい運動を作っていこう」と呼びかけた。
 青木茂雄さん(ネット事務局、元都立高校教員・被処分者)は、「民主党による新たな教員免許制度の本質」というタイトルで基調報告を行った。
 冒頭は、「民主党の教員免許制度」の経過の報告。続いて文科省が提出する新法の土台となる民主党が〇七年時に提出した「教職員の資質及び能力の向上のための教育職員免許の改革に関する法律」、〇九年三月に国会に提出し参議院では可決した同法の「本質と問題点」を以下提起した。
(1)現行の教員免許法の「目的」は「資質の保持と向上」であったが、これに「能力」が加えられた。「能力」とは「能力の判定」を暗に含んだ概念であり、達しない者を排除するという意味を含んでいる。
(2)大学・大学院・教職大学院での単位の取得を条件としているが、一般免許・専門免許状ともに授与権者が国であり、免許状の国家管理が行われる。国が教員の「資質と能力」管理を行うというシステムをつくりあげることになる。
(3)教員養成制度が事実上、戦前の師範学校制度の内容に近いものとなる。戦後の教育改革の中で採用された「開放制」の教員養成制度の根幹が崩されることになる。
(4)六年制の教員養成は学生及びその保護者に対する経済的負担をさらに重くさせる。一年間の教育実習は無給であり、身分的にも不安定である。しかも免許状を取得した後も教員として採用されるという保障はない。結果として教員志望者の減少、教員養成系学部の減少につながる。
(5)新免許状が取得できなかった場合は失職することになるが、臨時免許などの形で非正規の形で雇用され、教員の二極分解が生じる。
(6)現職員法の「法令違反」や「教職員たるにふさわしくない非行」を理由とする免許状の取り上げ規定が入っていることが更なる問題である。授与権者は国であるから、国の意図で簡単に免許を取り上げることができるようになる。
 青木さんは集約的評価として「旧政権ですら出来なかったことが盛り込まれる危険性が大だ。しかも、免許更新制度はあくまで新たな教員免許制度の制定と引き換えでなければ廃止されないとしていることは問題だ。制度自身は、文科大臣が『当面凍結』の通知を出せば事実上崩壊するのだ。だから出さざるをえない状況をいかに作りだしていくか。二〇一〇年の闘いが鍵をにぎる」と強調した。
 現場からのレポートでは八王子、町田教組などの仲間から義務教育現場の実態、10・23通達以後の「日の丸・君が代」強制状況、教職員に対する管理・統制の強化と反撃の闘いなどについて報告、意見交換が行われた。    (Y)


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