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高宗が亡命政府を樹立していたら             かけはし2010.1.18号

独立国家の「正統性」認定され
分断強要されず統一立憲君主国


 2010年は庚戌国恥(日韓併合を指す)から100年、韓国(朝鮮)戦争から60年、4・19革命から50年になる年だ。歴史の歯車はその後も止まらなかった。30年前、光州民主化運動が起こり、それから20年後には歴史的な南北首脳会談が開かれた。すべてが韓国近現代史の流れを変えた決定的場面だった。
 「ハンギョレ21」は歴史を振り返る契機に満ち満ちた2010年を迎え、これまでの100年を顧みる企画、「1910〜2010仮想歴史、もしも」を連載する。歴史に仮定はないけれども、その裏面の意味や現在的含意を推し量る方式として「もしも」を問うことも意義深いものがあるとの判断からだ。例えば、1949年6月に白凡・金九先生が暗殺されなかったなら統一の論議はどう展開されただろうか? 1977年、パク・チョンヒ元大統領の首都移転計画が成功していたならば韓国はいかなる政治的社会的変化を迎えただろうか? 1987年の大統領選挙でキム・ヨンサム、キム・デジュン両候補が候補単一化に合意していたなら民主主義の運命はどう変わっただろうか?
 キム・ヨンチョル・ハンギョレ平和研究所長とハム・ギュジン成均館大学国家経営戦略研究所研究員、チェ・ソンジン記者らが「歴史的仮定」についての解答を提供するために乗り出す。読者の皆さんからの鋭い「仮定法の質問」をも期待したい。(「ハンギョレ21」編集部)

時に歴史を動かす1人の死

 個人の死は当事者やその家族にとっては圧倒的な事件だけれども、社会全体で見ればごく日常事にすぎない。けれども時には、ある1人の人物の死がその社会や時代に大きな影響をひき起こし、歴史を変える場合がある。
 韓国現代史においてチョン・テーイルの死がそうであったし、キム・ジュヨル、パク・ジョンチョル、イ・ハニョルの死がそうだった。最近でも2人の少女と1人の大統領の死が多くの人々の胸を揺さぶった。日常の表皮をはぎ取り、街のどまん中で決定的瞬間を生きることとなった。1919年1月21日、朝鮮第26代の王にして大韓帝国初代皇帝の高宗が68歳の歳で徳寿宮ハムニョン殿で息を引き取った。

日帝による暗殺説が有力

 高宗の死についてよく提起されている疑問は、それが朝鮮総督府の発表のように自然死(脳溢血)なのか、それとも何者かによる暗殺なのか。結論を言えば、暗殺の蓋然性が極めて高い。極めて高いだけで、絶対的なものではないから断定づけることはできないが、高宗は1月20日の夜、毒を飲んで苦しみもがいた末に1月21日未明にこの世を去ったと考えられる。
 高宗は高齢であったものの、健康状態は良好だった(むしろ、彼の息子である純宗の病弱がはなはだしかった)。脳溢血は前兆症状が現れるのが普通なのに、20日の夜までは健康この上ない様子があまねく目撃されていた。また当時、高宗の遺体に死に装束を整えた人々が残した証言では、遺骸が3日間で完全に腐敗し、歯がすべて口内に抜けており、装束を取り替えようとすると肉片が服とふとんにくっついていたという。
 それは比較的によく使われた毒薬であるヒ素系化合物を飲んだ際の典型的症状だ。普通は脳や心臓が機能を停止しても体内細胞は一定時間生きているので、腐敗がそんなに早く進みはしない。だがヒ素化合物のヒ素成分は血液の酸素運搬を遮断するので細胞レベルから死がストレートにさし迫る。したがってバクテリアや細菌の分解作用が通常の遺体より速く進行し、当時は冬であったにもかかわらず、3日間にして遺体が完全に腐れてしまうという結果へとつらなったのだろう。高宗に最後のおやつ(シッケ=甘酒の1種=とも紅茶だったとも言われる)を差し上げたという侍女たちが幾らもたたずに疑問死した点も暗殺の状況を高める。
 暗殺ならば誰が、なぜ暗殺したのか? いまだ具体的な暗殺の脚本は発見されてはいない。けれども長谷川総督や寺内前任総督ら、当時の日帝支配機構のトップレベルである種の秘密計画が練られたという内容が当時の総督府高位職の回顧録や日本政府の文書などに見られる。そして1月21日直後から広く広がった毒殺説によれば、総督府の指令を受けてイ・ワニョンとユン・ドギョンらが、御厨都監ハン・サンハク、御医アン・サンホらにシッケ(または紅茶)に毒を入れて高宗を殺害せよと言ったというものだ。
 暗殺の背景には高宗がパリ平和会議に「朝鮮人は日本の支配に満足している」との親書を送れ、という日本の強要を拒否したからだとの説、皇太子である英親王李垠と日本皇室の梨本宮方子(李方子)の結婚に必死に反対して、との説などがあるが、たかだかその程度の問題で暗殺という超強硬手段を用いただろうか、と思う。
 それよりは、高宗が乙巳五条約(注1)以来、絶えず独立運動を秘密裏に後援してきたばかりか海外への亡命を推進していたという事実が暗殺の理由として有力だ。「外柔内剛」型だった高宗は表面的には無気力なままに国権の侵奪を受け入れ、日帝のお飾りのような存在として仕方なく延命しているかのように見えたが、裏面では闘争の手綱を断じて緩めなかった。
 だが1910年の韓日併合後、国内での闘争に限界を感じたあまり、中国に亡命していたイ・フェヨン、イ・シヨンらと隠密に連絡をとり中国に脱出する計画を推進していたことが、さまざまな資料から確認できる。これは日本が知らないままにやり通すことのできるものではなかった。そうでなくとも当時、米国のウィルソン大統領が提唱した「民族自決主義」を民族解放の福音と受けとめた世界の被圧迫諸民族が、それぞれにひしめきながら帝国主義の支配に立ち向かおうとする雰囲気だったのに、高宗が悠々と亡命して併合無効宣言を行い亡命政府を打ち樹てたとすれば? 日帝としては、とんでもない頭痛とならざるをえず、したがって暗殺という極端な手段まで動員したのだろうと考えられる。
 そうだとして、ここで考えてみよう。高宗がその時、死ななかったならば、歴史はどう流れただろうか? 2つのケースが考えられる。まず、高宗が海外亡命や持続的な国権回復闘争を放棄し李太王の身分で日帝の支配に順応すると決定した場合だ。もう1つは、高宗が1月21日の暗殺をまぬがれ、どうにか国外脱出に成功して海外に亡命政府を樹立した、とする場合だ。
 まず、高宗が「日本の皇族の一員」として安穏に余生を送ることを選択したとすれば、そうやって以降の5〜10年ぐらいをさらに生きたとするならば、日本の韓国支配は相当にたやすくなっただろう。

民衆は格別の情を残した

 高宗は当時の韓国人の胸の中で特別な位置を占めていた。彼は45年間在位し、朝鮮の歴史上3番に長く王位に就いていたのであり、またその時期は開港から開化、壬午軍乱(注2)、甲申政変(注3)、東学革命(注4)に至るさまざまな政治的激変や清日戦争、露日戦争を経た日帝の国権侵奪過程など、韓国近代化のほぼ全過程にかかっていた。そのような困難な時期、激動の時代を共に過ごした最高指導者は、仮に不世出の業績は達成しえなかったとしても、民衆にとっては格別の情を残すこととなる。純宗もいはしたけれども、高宗こそが実質的な朝鮮最後の君主であったのであり、韓国人にとって純宗とは比較にならない忠誠の対象として残っていたのだ。
 そういうわけで、オ・セチャン、イ・サンソル、ハン・ヨンウンのように高宗の密使の役割を担ったり、あるいは高宗に同情ないし支持した人々はもちろんのこと、ソン・ビョンヒ、ユン・チホ、アン・チャンホなど高宗がかつて東学運動や独立協会の活動を弾圧した事実に不満を抱いていた人々、または国家指導者として高宗が余りにも無能かつ軟弱だと批判した人々でさえ彼の存在を無視できなかった。
 彼らは結局、彼の死と毒殺説に激昂した民心をエネルギー源とし、彼の霊前に弔問するためにソウルに、かつてないほどに人々が押し寄せる状況を導火線として大々的な反日独立運動に火をつけることとした。これが、高宗の葬式を2日後に控えた3・1運動だった(3・3運動ではなく〈3・1運動〉となった。理由は、路祭《注5》が執り行われる当日は高宗の葬列を妨害することになりかねないし、2日は日曜日なので、決起に参加したキリスト教指導者たちが強く反対したからだ)。そしてこれを起点に海外各地に広がっていた独立運動家たちは上海臨時政府をはじめとする亡命政府の樹立に意志を集約し、力を合わせることとなった。
 高宗が1919年1月21日に死ななかったならば3・1運動は起こらなかったか、起きたとしても相当に規模の小さな、少数の独立運動家中心の運動にとどまった可能性が大きい。彼が徳寿宮で日本に依存する人生を生き続けていたならば、なおも高宗や旧皇室に忠誠を誓っている民衆と1部の独立運動家たちの意見の違いのゆえに独自的亡命政府の樹立、共和国宣言などの行動は困難さが増大したことだろう。
 また第1次世界大戦以後、日本と同じ側にいた米国、英国が次第に日本と距離を置くようになり(例えば、1922年のワシントン会議で日本は、英国との同盟を廃棄し、中国に山東半島を返還し、大規模な海軍削減などの不利な条件を受け入れるよう強要された)、日本が対外関係で危機を感じていた時期まで高宗が生き続けていたならば、おそらくそれ以降、往年の独立運動家や文人、芸術家たちが強要されたこと以上の親日宣伝活動を強要されたであろう。高宗の名において日帝支配を称賛したり、日本の「東洋平和論」、「大東亜共栄圏」を称揚する声明が乱発されたことだろう。そうなったなら国内外の独立運動が大きく制約されたであろうばかりではなく、光復後も旧皇室の処理問題をめぐって国論が深刻に分裂したであろうことは間違いない。
 こう見るならば、高宗が日帝の誘惑にはまって安逸な余生を送ることを決心せず、あくまで抵抗した結果、1919年1月に死を迎えたことは、歴史的には不幸中の幸いと言えないこともない。1人の人間の死について、ともあれ「不幸中の幸い」という言葉を使うことが許されるならば、ということだ。

亡命政府を宣言していたら

 けれども、もう1つの可能性、つまり高宗が劇的に脱出に成功し、自ら亡命政府を樹立したとするなら、状況はより複雑になる。高宗は精神的にも経済的にも初期の独立運動の支柱的役割もしていた。
 1895年の乙未義兵、1905年の乙巳義兵で義兵長として活躍したチェ・イッキョン、イ・イニョン、ミン・ジュンシク、シン・ドルソク、チョン・ファンジク、ホウィらはそのほとんどが高宗の密旨を受けたり財政的支援を受けて義兵運動にもつながり、1920年代まで国内外で活動した独立運動家として直接的・間接的に高宗と脈が通じていない人間はほとんどないほどだ。
 国王への忠誠と国家への忠誠が明確に区分されていなかったかつての思想体系にあって「勤王」、すなわち王を助け、乱を平定するという理念が大きな大義名分となっていたという事情もあり、日本の支配が徹底した国内や、さすらい人の身の海外で、高宗の莫大な秘密の資金が闘争の資金源として、切実なものとして使われた理由もあった。
 このような状況で、高宗が外に出て亡命政府を宣言したならば、上海臨時政府は比較もできないほどの勢力を結集できたであろう。大韓帝国は既に世界各国の承認を受けていたし、その主権者たる高宗が韓日併合が無効であることを明らかにし、亡命政府の正統性を主張したならば、これに呼応する国家も少なくはなかっただろう。もちろん力が優先する国際関係において、すぐさま光復が実現される可能性は小さい。けれども米国や英国が確実に日本の敵として背を向けた後では話が異なる。
 1945年8月、日本が降服すると臨時政府のキム・グは「われわれが寄与したものはないのだからわれわれの権利を主張することはできないだろう」と残念がったと伝えられる。臨時政府自体が法的に、あるいは政治的に合法的な政府であることを主張するには難しさがあった。それで光復時、韓国は日本に強制占領された独立国家ではなく植民地にすぎないものと考えられ、諸列強が日本に代わって韓(朝鮮)半島を分割するというとんでもない決定を下し、臨時政府も正統性を認められなかったのだ。
 だが相当の国家の承認を得て引き続き日本と闘ってきた旧皇室の亡命政府があったならば、当時外国に亡命していて後に帰国して政権を取り戻したイランのパーレビやエチオピアのセラシエのように、高宗の後継者(高宗がそのときまで生きていた可能性は少ないだけに)が堂々と帰国し、統一韓国の国家元首として韓国を統治することもできた(もちろん、かつてのような専制君主ではなく、立憲君主の資格だっただろうが)。

後継者は統一韓国の国家元首?

 高宗という1個人が当時の韓国に及ぼしている影響というのは、実に大きい者があった。彼が親日を選択したり、亡命に成功したり、あるいはそうやって生き長らえたなら、歴史の流れは大きく変わった可能性がある。(「ハンギョレ21」第792号、2010年1月4日付、ハム・ギュジン/成均館大・国家経営戦略研究所・研究員)

注1 乙巳五条約 韓国と日本が1905年に結んだ条約。これによって韓国の外交権が奪われた。
注2 壬午軍乱 朝鮮王朝末の1882年、旧軍人の新式軍隊に対する不満などから起こった変乱。
注3 甲申政変 1884年、キム・オッキュンらの開化党が閔氏一派打倒・国政刷新を掲げて起こした政変
注4 東学革命 1894年に朝鮮南部で起こった農民反乱。日清両国が介入出兵。
注5 路祭 運喪の途中、親戚や知人が喪輿のそばに喪床に作り街頭で行う祭祀。


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