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日本軍「慰安婦」被害者キム・スナクさん逝去              かけはし2010.2.1号

「花をいっぱい飾っておくれ」

 日本軍「慰安婦」被害者の1人、キム・スナクさん(81)が1月2日、この世を去った。以下は「ハンギョレ21」(1月18日付)に掲載されたスナクさんの略伝だ。文中には、しばしば差別的言語が登場するが、これらはスナクさん自身の発言であること、また、この略伝の性格上、他の表現に置き換えることは適当ではないこと、などの判断の上で、原文中の言葉をそのまま翻訳掲載した。(「かけはし」編集部)

私の家は村では
最も貧しかった

 私の名前はキム・スンアク(スナク)。1928年陰暦4月23日に長女として生まれた。陽暦で言えば、ちょうど田植えが終わる頃の6月だ。10歳になった年、アボジ(父)が出生届を行った。私の下に弟2人が生まれた後だった。昔は、生まれた女の子らはみんなそのような扱いを受けた。
 幼い時のわが名はキム・スンオク(スノク)。ところが「スンオクではだめだ」と面(行政末端の呼称)役場の職員が言った。カンナニ(艱難の意)やオンニョニ(娘っ子の意)は構わないが「オク(玉)」という字はヤンバン(両班、貴族階級)が使う貴い名前なのでダメだ、と言った。アボジは貴い名前を捨てた。長女の名前は「スンアク(スナク)」と書き換えた。私が10歳の時にオク(玉)に代わってアク(岳)の運命を新たにもらった。
 私のあだなは「ワルペ(言行が粗野な人の意)」。慶尚北道慶山ナムチョン面の辺り一帯が私の遊び場だった。新芽の萌える春ともなれば、山菜を摘みに駆け回った。冬でも木綿のチョゴリ(上着)とチマ(スカート)だけで男の子のように野原を駆け回った。友達らが私をワルペと呼んだ。両班の家の子どもらは家の外に出て来なかった。故郷の村にはハンさんとソクさんがたくさん暮らしていた。彼らは両班の系譜だった。私は両班の家に生まれなかった。アボジは猫の額ほどの土地1つとてない小作農だった。村ではわが家が最も貧しかった。だから両班の家のお嬢さんの代わりに私が引っ張って行かれたのではないだろうか、大人になってから疑いもした。

夢は金持ちの家に
お嫁に行くこと

 私の夢は金持ちの家にお嫁に行くこと。アボジは私を見さえすれば、「うちのスノクはぜひとも金持ちの家に嫁がせ、食いっぱぐれのないようにしなくっちゃなあ」と言っていた。食用になるサンチュの芽が蝶のようにツンツンと大地を破って伸びていた16歳の春の日、「少女供出」のために村中が大騒ぎとなった。アボジは、巡査に引っ張って行かれるから工場に就職するのがよい、と考えた。芽生えたばかりのサンチュの葉をみそ汁に刻み入れ朝食をとっていると、近所のおじさんが私を連れに来た。私は絹布のチョゴリと黒いチマを着た。アボジとはその時が最後となった。
 大邱にある糸ほどき工場に就職するという近所のおじさんの言葉を信じるばかりだった。私は生まれて初めて汽車に乗った。トウモロコシ粉のパンを食べながら慶山駅から大邱駅へ、それから龍山駅へ、そして中国のハルピン駅に向かった。ハルピン駅には雪がポソン(韓国固有の足袋)の足首まで積もっていた。数日後、また汽車に乗りチチハル駅に行った。内モンゴルに接する地帯だった。ラクダを見た。木材で建てた2階屋も見た。そして日本の軍人らを見た。
 わが名はキム・スナク。ところで日本の軍人らはしばしば別の名前で呼んだ。サダコ、テルコ、ヨシコ、はてはマツダケとも呼んだ。毛布一枚を敷くと部屋はそれで一杯になった。窓に小さな穴があった。握り飯3、4個を入れてくれた。それを暇な時に食べながら1日中、日本軍人の相手をした。最初は恐かった。私の年は16歳だった。後で体が痛くなった。日本軍人らは服を脱がず、ジッパーだけを下ろした。腰に下げた刀のサヤが私の腹にぶつかった。痛いと言うと軍人らは殴り、ののしった。生理の時も相手をした。ガーゼや綿を求め下を拭った。
 私は獣だった。軍人らが私を人間だと思っていたならば、そうはできなかっただろう。タタミ2畳ばかりの部屋に横たわって生き残らなければならないと考えた。アボジのことも考えた。後で中国ホベイ省チャンガグという村に移った。山中の村だった。時間がどれほど流れたのか知りようもなかった。目を開ければ握り飯を食べ、軍人を相手にし、くたびれては眠った。平日は10〜20人がやって来た。週末には30〜40人が来た。下がただれ、膿が一杯出た。軍人らはサック(コンドーム)と洗滌、それに性病検査ばかり確かめた。行けと言われれば行き、食べろと言われれば食べた。

日本軍は逃亡し
私は各地を転々

 中国の人々は私に向かって「朝鮮の淫売婦」とののしった。チャンガグ日本軍慰安所で1年ほど過ごしたのだ。日本が敗戦したと村のスピーカーから放送が流れた。日本軍は朝鮮の少女らをほったらかして、そのまま消え失せた。中国の人々は我々をやたら殴った。恐くなって当てもなく貨物列車に乗り、北京に行った。北京駅広場に太極旗を掲げた人々がいた。光復軍だと言っていた。死にたくなければ今すぐ朝鮮に帰るべきだと言った。
 今や、わが名は再びキム・スナク。ゆでトウモロコシを水にすり下ろして食べながら、朝鮮の地に到着した。18歳だった。ソウル駅近くの食堂で働いたがカネをくれはしなかった。チゲクン(担ぎ屋)が「カネを稼ぎたければ体を売る所に行かなくちゃ」と言った。自分の足でセクシッチプ(酌婦のいる飲み屋)に行った。カネを稼ぎに故郷を出たのだからカネを稼いで帰らなくてはと思った。もう捨てた体だから、はばかるところはなかった。
 カネをもっと稼ごう、早く稼ごうとして群山に行った。麗水にも行った。麗水では体は売らず、酒を売るだけでよい料理店に行った。そこで酒をおぼえた。長い刀を下げ馬に乗っている巡査が私に目をかけてくれた。私を大事にしてくれた。そして妊娠をした。臨月が迫っていた時、麗順事件(注)が起こった。目をかけてくれた巡査は故郷の慶山に帰れ、と言った。その時がその人との最期となった。
 私の胸には切っ先の鋭いハン(恨)だけがある。「新郎もなしにこうやって腹を膨らませて愚かだな。身から出たサビだ」。故郷のオモニ(母)は私の背中を叩いた。アボジは1週間前に亡くなったと言う。娘の消息を調べようとしてあっちこっちたずね歩き、1日おきに辻に心うつろに立ってくれたそうだ。アボジと別れてから7年が経っていた。私は声をおし殺し、ただ涙を流した。子どもは1950年2月に生まれた。そしてほどなく韓国(朝鮮)戦争が起こった。混乱は避けられたものの食べていかなければならなかった。1953年に休戦になるとすぐ東豆川に行った。商売もやった。セクシ商売もしたし、ヤンキーの物資商いもしたし、ドルの売り買いもした。

子どもたちとも
うまくいかず

 私の英語名は「ママサン」。米軍部隊にこっそり入り込み軍需品を求めた。米軍たちは私を「ママサン」と呼んだ。たばこ、酒、化粧品、コーヒー、石けん、チョコレート、肉をチマの中に隠して持ち出した。カネができれば故郷に送った。次男が、そのとき生まれた。顔が白く目がパッチリとしていた。近所の女たちはかわいい、だっこさせて、と大騒ぎだった。だが同じ年頃の子どもらは、からかった。「雑種が来るぞ、あいのこが来るぞ」とはやし立てた。石を投げられて血をダラダラ流しながら家に帰ってきたこともあった。胸がひき裂かれる思いだった。パールバック財団が運営している孤児園に送った。米国に養子縁組してくれると言っていた。数カ月後にそこに行ってみると、子どもが部屋の片隅にじっと座っていた。ぎゅっと抱きしめ、再び家に連れてきた。
 私はオンマ(母ちゃん)だった。誰が私の胸の内を分かるだろうか。2人の息子は私の弟の戸籍に入れた。実のアボジがいないので弟がアボジとなった。長男は勉強がよくできた。刀を下げて馬に乗っていた実の父に似たのだと考えた。大学に入れようと先生が言ってくれたが、家の事情がそうもいかなかった。長男はすぐ軍隊に入隊した。ところが除隊を前にしてベトナム戦争への参戦を志願した。無事に帰ってきた息子は公務員試験に取り組み、合格した。洞役場に出勤する末端公務員だったけれども、わが目にはこの上ない晴れ姿だった。公務員の息子とあっては、これまでとは違った別の仕事を探さなければならなかった。路地裏の食堂を手にした。幸せだった。ところが息子が連れてきた嫁と、間が良くなかった。私の気に入らなかった。息子夫婦がひと間きりの部屋で寝るので、私は店でなかば露宿だった。店も鳴かず飛ばずでうまくいかなかった。
 私の名前はシンモ(女中)となった。シンモ暮らしを始めた。15年間、やった。大企業トップの息子一家の所で働いたこともある。ただし私は文字が読めない。電話が来てメモを伝えてくれというが、どうしたらいいか分からなかった。ご主人が、出て行けと言った。
 2番目の息子は料理を学び、食堂を用意した。結婚もした。食堂は繁盛した。次男の家に行き、孫も見ることができたし、食堂の仕事も手伝った。ところで余裕ができた次男が酒を飲み始めた。酒を飲んで帰ってくると別人になった。「なんで俺を産んだんだ。その時、殺せばよいものを。なんで産んだんだ」。気がふれたように私にとびかかった。稼いだカネは酒につぎ込んだ。次男は嫁をも殴った。「罪のない者をなぜ殴るんだ。どうか、しっかりしろ」。私がいさめてもどうにもならなかった。次男が寝入るまでは地獄のようだった。嫁にすまなくて夜明けにそっと家を出てきた。故郷・慶山に舞い戻った。
 私の名前を故郷では誰も呼びはしなかった。家賃を出さなくても良いので故郷の村の空き家を探した。夜露をかろうじてしのぐことができた。農作業を手伝って糊口をしのいだ。私の心は手鉤や鳶口のように、しばしばひん曲がった。夫と出会い子どもらを育てたという話も嫌だし、孫の自慢話も好きではなかった。そんな話がそうも大げさなのか。「どうってことないのに?」。近所の人々がたずねても答えはすんなりとは出てこなかった。「どんなことがあったらいいのかな? 何がそんなに気になるの?」。腹の底からこみあげものがあった。うさを晴らすには酒とたばこしかなかった。酒を飲んでは気を失った。暖房もない冷たい部屋で倒れた私を隣人が見つけた。面役場に事情を話し、生活保護対象者に指定された。永久賃貸アパートを支給された。1997年だった。

韓国政府が
被害者に指定

 私が日本軍の「慰安婦」被害者だったと人々が話してくれた。私はそれがどんな意味なのか、最初は分からなかった。TVを見ていると、「フン・ハルモニ(おばあさん)」の話がよく出てきた。そのハルモニも私が暮らしているアパートに暮らしていた。人々が格別にいたわり歓迎した。驚いた。ある日、「挺身隊ハルモニと共に生きる市民の会」が私を訪ねてきた。会の掲示板に通報があったというのだ。私が日本軍「慰安婦」だったという文章だったと言う。後で分かったのだが、それはソウルにいる長男が匿名で出したものだった。私はその時、ごはんの代わりに酒ばかり飲んでいた。体はすっかりやつれた。日本の軍人の話をするたびに弱ったひざがふるえた。生まれて初めて昔の話を全部話した。それでも息子の話はしなかった。ただ甥(おい)だと語った。息子に被害が及ばないかと考え、とても慎重だった。
 人々が私をハルモニと呼び、分かったふりをした。若い人々はペコリペコリとあいさつもちゃんとした。2000年1月、韓国政府が私を日本軍「慰安婦」被害者に指定した。その証書を額に入れ、13坪の部屋にかけた。私は賠償とは何か、謝罪とは何なのか分からない。それでも頼もしく接してくれる人々ができて、それが一番よかった。集まりがあれば慶山からタクシーに乗り大邱まで行った。文字が分からないから地下鉄にも乗れず、バスにも乗れない。ハルモニらの集まりに行ければ話もし、歌も歌った。イ・ヨンス・ハルモニと私は同じ立場の同い年だ。「花のようなニハの少女は……」。歌の題名さえ記憶にないその歌を半分ほど歌うと、イ・ヨンス・ハルモニが後を受けて歌った。私は踊った。

「息子、嫁、孫に
被害が及ばないか」

 私は大腸がん末期患者だった。昨年12月、便秘がひどくて大邱のクワク病院で検査を受けた。「ハルメ(おばあさん)、大腸がしっかりふさがっているので便が出てこないんですよ。すぐ手術をすれば大丈夫なんだそうですが」。市民の会の人々がそう話した。大腸がんだとは思いもしなかった。「私が麻酔を受けて、もう一度意識が取り戻せるだろうか」。私はそれだけ言った。
 5級事務官として退職した長男が病院に訪ねてきた。遺書を書いた。文字を知らないから話だけをして人々がそれを聞き書きした。「霊柩車で出るとき、花をいっぱい飾っておくれ」。髪を上げてチョットゥリ(婦人の正装の冠)をかぶりお嫁に行くのが望みだったのだから、せめて最後は花をつけたかった。手術が終わって家に戻ってきた。起きて歩くことができず、座ってはい回った。新年1月2日のそりのそりとトイレに向かう途中で私は倒れた。そのまま2度と起きあがれなかった。私の部屋には好んで吸っていたたばこ「88ライト」と日本軍慰安婦被害者証書が残った。それだけを残して私はそのまま、さっさとはばたいてしまった。
 私は今や松の木だ。永川・銀海寺の裏側に松の木があるが、その根元に私の骨を埋めた。葬式にはたくさんの人々が来た。政治に携わる人々も来た。大臣や国会議員が花環を捧げた。5級事務官まで務めて退職した長男一家が来た。結局はアルコール中毒で先に亡くなった次男の代わりに嫁が来た。カイストを卒業し米国留学までした孫も来た。「私は恥ずかしかったけれども、あんたらの世代は大丈夫だ。ハルモニは苦労して生きてきたが、ハルモニの間違いではない。ハルモニは被害者だ」。長男が孫に語っているのを私は松の木の下で全部、聞いた。イ・ヨンス・ハルモニが暮らしている大邱・上仁洞のピドゥルギ・アパートにはもともと日本軍「慰安婦」被害者のハルモニが4人、住んでいた。次々に亡くなって今は2人だけだ。同期で過ごした私まで死んで、年寄り仲間は涙にくれる。
 私はすべてを見た。少女らを引っ張って行く朝鮮人も見た、タタミの部屋に入って来た軍人も見た。日本軍を追っていた八路軍も見たし、北京駅前の光復軍も見た。ピョンヤンに入って来たソ連軍も見たし、東豆川にいる米軍も見た。私には自慢すべきものは何もない。息子、嫁、孫に被害が及ばないか、いつも心配だった。だから人々が集まる所には行きもせず、あまり話もしなかった。晩年、友達ができたけれども、体が痛くて素敵な時期も長くはなかった。

謝罪・賠償受け
られず世を去る

 わが名はキム・スン・アク。私の胸の内は誰も知らない。それでも人々よ、私の名前は忘れないで。私が死んだからとて、私が味わったすべてのことを忘れてしまわないで。100年前、日本の侵略によって日本軍「慰安婦」として引っ張られていった私のような朝鮮の娘たちが20万余人もいる。そのほとんどが死んでしまった。韓国政府に申告した日本軍「慰安婦」被害者のハルモニは234人だが、2010年1月、88人だけが生きている。謝罪し賠償することを何としても見守ろうとして、丈夫な命を今なお守っている。(「ハンギョレ21」第794号、10年1月18日、大邱=アン・スチャン記者)

注 麗順反乱 南朝鮮単独選挙に反対して1948年4月3日、武装闘争を行った済州島住民を鎮圧するために出動を命じられた国防警備隊第14連隊が、全羅道の麗水、順天で次々に反乱を起こした。


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