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             かけはし2010.4.19号

「不当だが合法」という居直りを許すな!

韓国併合100年を考える(上)
明治政府が推進した「近代化」と不可分な朝鮮の植民地支配


 今年八月二十二日で「韓国併合」条約が、日本の軍事的圧力の下で調印されてから百年にあたる。一九四五年の天皇制日本帝国主義の敗北にいたるまで三十五年間にわたり、朝鮮の民衆は苛酷な植民地支配の下に置かれ、民族的権利を奪われて侵略戦争に動員されてきた。この歴史を真に清算することが問われている。

統治権の「譲与」と「受諾」

 一九一〇年八月二十二日、「韓国併合に関する条約」が、韓国を代表した李完用首相と日本を代表した寺内正毅統監によって調印され、韓国は最終的に日本に併合されることになった。今年八月で「韓国併合」からまる百年となる。
 「韓国併合に関する条約」は全八条からなるが、その第一条は「韓国皇帝陛下は、韓国全部に関する一切の統治権を完全且(かつ)永久に日本国皇帝陛下に譲与す」であり、第二条は「日本国皇帝陛下は、前条に掲げたる譲与を受諾し、且(かつ)全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す」であった。つまり、韓国の皇帝が統治権を日本に譲ることを申し出て、日本の天皇がその譲与申し入れを「受諾」するという形式をとっていた。
 日本政府はアジア太平洋戦争の敗北と朝鮮半島植民地支配の放棄以後も、韓国併合が日韓両政府の「合意」に基づくものであり、当時の国際法上「合法」だったという立場を崩していない。
 一九六五年の日韓基本条約第二条は「一九一〇年八月二十二日以前に大日本帝国と大韓帝国の間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される」となっている。この「もはや無効」というあいまいな規定は、三次にわたる日韓協約による「保護国」化や韓国併合は、不当な圧力・強制によるもので当時から違法であり、そもそも無効な条約だったという韓国政府の主張を日本政府が拒否した結果だった。
 しかし実際はどうか。日本政府は一八六八年の明治政権発足当初から朝鮮を清国への「宗属」関係から切り離し、「対等な二国間関係」という名分を振りかざしながら日本への従属関係に組み込むことを一貫した政策としていた。武力により「開国」を強要した一八七五年の江華島事件と、不平等条約である一八七六年の「日朝修交条規」がその出発点だった。明治政権による日本の「近代国家」化とは、北海道(アイヌモシリ)と沖縄(琉球)の国内植民地化と軌を一にした朝鮮への対外侵略・植民地化と不可分であった。
 早くも明治政権発足の年、日朝外交の窓口を担当していた対馬藩主の新政権に対する「上申書」(1868年)は、朝鮮を「我版図(はんと)同様」、対朝鮮外交を「蝦夷地開拓同様」の性格を持つものとして位置づけていたのであり、この方針が「その後の日本の対朝鮮外交の基調をかたちづくった」のである(大江志乃夫「東アジア新旧帝国の交替」、『岩波講座 近代日本と植民地 1 植民地帝国日本』岩波書店 1992年)。
 明治政権は「抗日暴動」の性格を帯びた一八八二年の壬午軍乱(日本公使館襲撃)によって朝鮮への清国の支配的影響力が増大した状況を取り戻すべく、一八八四年には朝鮮に駐留する日本軍を使って清国の影響を排除し、親日派政権を樹立するクーデター計画を敢行し、失敗した(甲申政変)。日清戦争開始にあたっては、朝鮮王宮を占領し国王・高宗を虜にする「王宮占領事件」を引き起こした。日清戦争後の一八九五年十月には、日本の介入に反発してロシアと接近する宮廷内勢力を排除するために、新たに駐朝公使となった三浦梧楼の主導の下で王妃(閔妃)を虐殺した(乙未事変)。

日清・日露戦争を契機として

 日清・日露戦争を決定的契機として、日本は欧米列強の対立・協力関係を利用しつつ、東アジアにおける新たな帝国主義国家として韓国(朝鮮は清国との「宗属関係」からの離脱の表現として、1897年に大韓帝国に国号を変更)の独立を奪う「保護国」化という侵略・植民地政策を推し進めた。 
 日露戦争開戦と軌を一にして日本政府は武力による脅迫によって一九〇四年二月に「日韓議定書」を強要した。同議定書は、韓国は「施政改善」についての日本の「忠告」を受け入れる、「侵略・内乱」などの事態に際し、日本は韓国において「臨機応変」の措置をとる、としている。
 つづいて同年九月に「第一次日韓協約」(韓国政府は、日本の財務・外交顧問の意見に従う)、一九〇五年十一月に「第二次日韓協約」(韓国の外交権の剥奪)をまさに銃剣による威嚇の下で強制的に調印させた。この武力による威嚇の下での「第二次日韓協約」を国際公法違反として各国に訴えた韓国皇帝・高宗の試み(ハーグ密使事件)を口実に押しつけられた一九〇七年七月の「第三次日韓協約」では、日本の韓国統監による人事を含めた韓国内政全般にわたる支配が規定され、韓国軍の解散も約束された。皇帝・高宗は強制的に退位させられることになった。
 こうした経過の上に行われた一九一〇年八月の韓国併合は、まさに明治国家の一貫した武力による韓国への従属強要――植民地化政策の帰結であり、「合意に基づく」「合法的」な併合であったという正当化は成り立たない。
 海野福寿『韓国併合』(岩波新書、1995年)は、「韓国併合は形式的適法性を有していた、つまり国際法上合法であり、日本の朝鮮支配は国際的に承認された植民地である」としている。もちろん「合法であるということは、日本の韓国併合や植民地支配が正当であることをいささかも意味しない」と断った上ではあるが。海野はこの日本の朝鮮半島植民地支配の「不当性」の問題を「適法性」の問題ではなく「日本人の道義性」の問題として取り扱うべきだとしている。
 この点に関して、後述する一九九五年八月十五日の村山首相談話の中で「植民地支配への反省」の文言があることについて、同年十月五日の参院本会議で共産党の吉岡吉典参院議員が「朝鮮併合は朝鮮人民の意思と無関係に日本が強制して朝鮮を植民地支配下に置いたものであることを認めたものですか」と質問した。しかし外務省のペーパーに基づく村山答弁は「韓国併合条約は当時の国際関係等の歴史的事情の中で法的に有効に締結され、実施されたものであると認識いたしております。しかしながら、今申し上げたような認識と韓国併合条約に基づく統治に対する政治的、道義的評価は別の問題」というものだった(和田春樹「韓国併合一〇〇年と日本人」、『思想』10年1月号参照)。つまりここでの村山答弁は同年に刊行された海野の著書と全く同じ論理に貫かれている。
 海野が述べるこの「不当であるが合法である」という法文的形式論理については、日本帝国主義の韓国併合・植民地支配を「正当化」する論拠として、戦後の日本政府や極右勢力の中で一貫して主張され(もちろん「不当」性についてはふれず、「合法」性にのみ言及して)、今日では明白なレイシスト的論理として新たに強化されていることに対して、われわれは改めて注意しなければならない。

「近代化」に貢献したとする主張

 日本政府は戦後の日韓国交交渉の過程で、朝鮮への植民地支配が朝鮮の「近代化」に貢献したとする主張を繰り返してきた。
 日本の敗戦後、朝鮮半島南部を占領した米軍によって設置された米軍政庁が日本人所有の企業・工場を接収したことについて、朝鮮総督府総務課長だった山名酒喜男は一九四五年十一月四日付米軍政庁の民政長官と法務長官宛意見書で「思うに、日本人は日本より資本を輸入して自己の工場及び施設を完成し、日本人の技術力に依り苦心努力を重ねて、工場・事業場を運営し来れり」「然るに朝鮮人は、日本人の此の工場設備を、総て朝鮮人より代償なくして搾取せるかの如く主張」していると批判した。
 この居直りの見解は、そのまま新憲法後の日本政府にも引き継がれた。たとえば外務省に設置された平和条約問題研究幹事会は一九四九年十二月二十三日の「割譲地に関する経済的財政的事項の処理に関する陳述」で次のように述べている。
 「日本のこれら地域(筆者注:朝鮮・台湾などの植民地)に対する姿勢は決していわゆる植民地に対する搾取政治と認められるべきでない……。逆にこれら地域は日本領有となった当時はいずれも最もアンダー・デヴェロップト(注:低開発)な地域であって、各地域の経済的、社会的、文化的向上と近代化はもっぱら日本側の貢献によるものであることは、すでに公平な世界の識者――原住民も含めて――の認識するところである。そして日本がこれら地域を開発するに当たっては、年々国庫よりローカル・バヂェット(注:地方予算)に対し多額の補助金をあたえ、又現地人には蓄積資本のない関係上、多額の公債及び社債を累次内地において募集して資金を注入し、更に多数の内地会社が、自己の施設を現地に設けたものであって、一言にしていえば日本のこれら地域の統治は『持ち出し』になっている」。
 「……これら地域はいずれも当時としては国際法、国際慣例上普通と認められていた方式により取得され、世界各国とも久しく日本領として承認していたものであって、日本としてはこれら地域の放棄には異存ないが、保有をもって国際的犯罪視し、懲罰的意図を背景として、これら地域の分離に関連する諸問題解決の指導原理とされることは、承服し得ないところである」(外務省外交資料館文書より。高崎宗司『検証 日韓会談』岩波新書、1996年刊から重引)。

戦後日本の一貫した正当化論

 ここに示される外務省の見解の中に、戦後日本の「併合・植民地化」正当化論の論点が基本的に出そろっている。朝鮮の植民地支配は、日本の「持ち出し」によって「近代化」に貢献したものであり、国際的にも広く承認されたものであったという朝鮮蔑視に貫かれた外務省の公式的立場は、その後の日韓会談の中でも一貫して露呈し、交渉を阻害する最大の要因となってきた。
 一九五三年十月に始まった日韓国交正常化第三次会談において日本側首席代表の久保田貫一郎・外務省参与は「日本としても朝鮮の港や鉄道を造ったり、農地を造成したりし、大蔵省は、当時、多い年で二千万円も持ち出していた」と語り、日本の植民地支配は朝鮮のために良いことだった、と主張した。この発言は政府の公式的立場であり、韓国側からの厳しい批判を受けて日韓会談は長期にわたって中断することになった。重要なことは、当時のメディア・世論はほとんど久保田発言支持であり、左派社会党もまた日本政府の立場を支持し、共産党の「アカハタ」も久保田発言について沈黙していたことである。
 日韓交渉が大詰めを迎えた一九六五年一月にも、日本側首席代表となった高杉晋一(三菱電機相談役、経団連経済協力委員長)が外務省記者クラブで「日本は朝鮮を支配したというが、わが国はいいことをしようとした。山には木が一本もないということだが、これは朝鮮が日本から離れてしまったからだ。もう二十年日本とつきあっていたならこんなことにはならなかっただろう」「日本は朝鮮に工場や家屋、山林などをみな置いてきた。創氏改名もよかった。朝鮮人を同化し、日本人と同じく扱うためにとられた措置であって、搾取とか圧迫というものではない」と語った。
 しかしこの発言は「オフレコ」とされ封印されてしまった。高杉発言を暴露したのは「アカハタ」だったが、久保田発言の時と違って朴軍事独裁体制下の韓国外務部は高杉発言について「共産党の陰謀ででっち上げられたもの」ともみ消しを図り、高杉自身も首席交渉の場で「事実に反する」と自らの発言を否定した。「オフレコ」を破り、報道した新聞もなかった。この発言は封印されてしまったが、それが日本の保守政治家、支配階級のみならず、革新政党や労働組合をもふくむ一般民衆多数派の「本音」だったことは明らかだろう。
 高杉発言の論理は繰り返し自民党など支配的政治家の「問題発言」として噴出し(「日韓併合は形式的にも、事実の上でも日韓両国の合意の上に成立している」とした1986年の藤尾文相発言など)、最近でも麻生前首相の「創氏改名は朝鮮人の要望によるもの」という発言が出ている。
(つづく)
(平井純一)


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