| 日米安保改定50年――その形成と歴史的変遷(下) かけはし2010.6.14号 |
| グローバルな日米軍事同盟に立ち向かう沖縄の反基地闘争 |
沖縄返還をめぐる攻防と
「核ぬき本土なみ」の虚構
一九六〇年改定後の日米安保に決定的な影響をもたらしたのは、一九六四年八月に勃発した「トンキン湾事件」を契機とした米軍によるベトナム戦争への全面介入であった。沖縄の米軍基地は、ベトナムへの侵略拠点としてフル稼働することになった。一九六五年二月の米軍による北ベトナムへの爆撃の開始以後、「本土」でも沖縄でもベトナム反戦運動は勢いを増した。沖縄ではそれは「祖国復帰」運動の飛躍的な拡大として表現されることになった。一九六五年八月、初めて首相として沖縄を訪問した佐藤栄作は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとって『戦後』が終わっていない」と語ったが、その言葉には米国務省の要請により「極東の平和と安全のために琉球諸島はきわめて重要な役割を果たしております。私は沖縄の安全がなければ日本本土の安全はなく、また日本本土の安全がなければ沖縄の安全もないことを確信しております」との一節が付け加えられた。
一九六八年十一月の初の琉球政府主席公選選挙での屋良朝苗・革新統一候補の当選、それに続くB52戦略爆撃機の墜落事故、B52撤去を掲げた翌六九年2・4ゼネストの企図などは、佐藤・ニクソン両政権に沖縄返還問題の早期解決を促進させることになった。当初、在沖米軍基地の自由使用と沖縄における核兵器保持を望んでいた米国は、返還時における「核兵器の撤去」を了解することになった。
一九六九年十一月に行われた日米首脳会談で発表された日米共同声明(11月21日)は、「沖縄の施政権返還は、日本を含む極東の諸国の防衛のためにアメリカが負っている国際義務の効果的遂行の妨げとなるようなものではない」との見解を佐藤首相が表明し、ニクソンはそれに同意見である、と述べたとされる。さらに佐藤首相による「核兵器に対する日本国民の特殊な感情及びこれを背景とする日本政府の政策」についての説明を受けて、ニクソン米大統領は「深い理解」を示し、「日米安保条約の事前協議制度に関するアメリカ政府の態度を害することなく、沖縄の返還を、右の日本政府の政策に背馳しないよう実施する」と確約したとされる。佐藤首相はこの「日米共同声明」について日本人記者団との会見で「沖縄は一九七二年に核抜きで返還される」と語った。いわゆる「核抜き本土並み返還」である。
しかしそれが全くのウソであることは、すでに返還交渉の首相密使だった若泉敬が書いた『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文芸春秋社 1994年)であきらかとなっている。すなわち有事の際の核兵器の沖縄持ち込み・通過の権利が認められるようニクソンが「希望」し、佐藤が「事前協議が行われた場合には遅滞なくそれらの希望を満たす」という「合意議事録」が存在する。この署名入り「合意議事録」は昨年佐藤元首相遺族宅から発見されている。こうした虚偽の「沖縄核抜き返還」とセットで「非核三原則」が「国是」として確定されたのである。「沖縄返還」はさらに「返還」に伴って米軍が負担すべき費用のうち総額六億五千八百万ドルが積算根拠のない「つかみ金」として日本側が支払う「密約」をも含んだものだった。それはその後の「思いやり予算」の原型となった。
さらに強調すべきことは、「沖縄返還」交渉の中で、日米安保のあり方が、より戦略的に米国のアジア・太平洋における戦略的作戦行動に日本を積極的に動員・協力させるものへと強化されていったことである。沖縄はあらためてその最前線としての役割を担わされることになった。「〇・六%の面積に日本全国の米軍基地の七五%が集中」というよく語られるフレーズに示される沖縄への基地の集中構造は、七二年返還後に完成されたものなのである。
ガイドライン安保・冷戦
構造崩壊と派兵国家化
一九七二年の沖縄返還は、一方ではニクソン訪中や、佐藤に代わって政権の座についた田中角栄首相の中国訪問と日中共同声明によって東アジアの「デタント」が進み、ベトナム戦争におけるアメリカの敗退によって米国の覇権的イニシアティブが大きく衰退する一時期にあたっていた。それはまた「ドルの衰退」を背景に日米間の経済摩擦が深まる時代でもあった。米軍の戦略基地を抱えた沖縄の施政権返還は、日本の「本土防衛」を超えて米軍の東アジア太平洋戦略の中での日米の軍事的協力・分担の明確化が求められることになったことを意味した。
一九七八年、福田内閣の下で決定された「日米防衛協力指針」(旧ガイドライン)は、@侵略を未然に防止するための態勢、A日本における武力攻撃に際しての対処行動等、B日本以外の極東における事態で日本の安全に重要な影響を与える場合の日米間の協力、の三段階にわけた対応の基本的枠組みを作り出そうとするものだった。この旧ガイドラインは、主要には「日本有事」を対象に、実際上のメカニズムを日米間でどう発動させるかに重点を置いたものであり、この観点から日本の「防衛力強化」を着実に進めるものとなった。
旧ガイドラインが決まった一九七八年は、金丸防衛庁長官が米軍駐留費用の一部負担(思いやり予算)を導入し、栗栖統幕議長が「緊急時の自衛隊による超法規的行動」の可能性を発言して有事法制が日程に上り、さらに航空自衛隊が初の日米共同訓練を実施した年でもある。一九八〇年からは環太平洋合同演習(リムパック)への海上自衛隊の参加も始まった。
冒頭に述べた一九八一年の鈴木・レーガン会談における「日米同盟」という規定の初登場は、こうした日米間の戦略的な軍事協力の進展を前提にしたものだった。カーター政権の後期から始まり、イラン革命や一九七九年十二月のソ連軍のアフガン侵攻とレーガン政権の登場によって本格化した「デタント」の終焉と対ソ対決路線=新冷戦・「ソ連脅威」論の浸透は、日米の軍事的一体化を促した。中曽根政権が推し進めた「ロン・ヤス関係」の深化は、こうした状況に対応するものだったのである。
一九八九年のベルリンの壁崩壊、ゴルバチョフ・ブッシュ(父)のマルタ会談による「冷戦の終結」は、対ソ連を軸に組み立てられた戦後のアメリカの軍事戦略を根本的に見直すものとなった。それは「ソ連の封じ込め」から、「地域の脅威に対する危機対応」戦略への転換として特徴づけられるものであり、中東・ペルシャ湾、朝鮮半島を想定した「二つの地域戦争」に同時に対処し、アジアと欧州での米軍の前方展開戦力を維持することをも狙ったものである。その中心的策定者は後にブッシュ(子)政権のイラク戦争を推進したチェイニー、ウォルフォビッツ、パウエルといった面々である。
一九九〇年八月に起こったサダム・フセインのクウェート侵攻と翌年の湾岸戦争は、「冷戦」後の「地域紛争の危機」に対処するグローバル戦争戦略の原型を形作るものとなった。米国はこの戦略に日米安保を組み込み、「極東」の範囲を超えた軍事作戦に自衛隊を参加させるための圧力を強化した。湾岸戦争に自衛隊を「後方支援」のために派兵させることがその一歩だった。しかしこの時点で日本政府の側は、いまだ準備ができていなかった。一九九〇年十月に当時の自民党小沢一郎幹事長の主導で上程された「国際の平和及び安全の維持のために国際連合が行う決議を受けて行われる国際連合平和維持活動その他の活動に対し適切かつ迅速な協力を行う」ための「国連平和協力法案」は廃案となった。
結局、当時の海部自民党政権は、一九九一年四月の湾岸戦争終結後に掃海艇をペルシャ湾に派遣して初の海外での作戦を展開し、翌一九九二年にはPKO協力法を制定し、「国連平和維持活動」協力の名目で紛争地への海外派兵を恒常化させることになった。
「同盟の危機」と東アジア
戦略構想・日米安保再定義
しかし、それが冷戦後の「日米安保再定義」へと収斂していくためには日米両国間にいまだ少なからぬズレも存在していたことは事実である。たとえば冷戦終了後の初の防衛計画大綱を策定するために、細川「非自民」連立政権の下で首相の私的諮問機関として一九九四年二月に発足した「防衛問題懇談会」(座長樋口広太郎・アサヒビール会長)は、村山・自社さきがけ連立政権になってからの同年八月に「日本の安全保障と防衛力のあり方 21世紀へ向けての展望」と題する報告(樋口リポート)を提出した。樋口リポートは「日本はこれまでのどちらかと言えば受動的な安全保障上の役割から脱して、今後は能動的な秩序形成者として行動すべき」と語り、「世界的ならびに地域的な規模での多角的安全保障協力の促進」を「日米安全保障関係の機能充実」の前に持ってくる構成になっていた。それは日米安保を「多角的安全保障協力」の一部として相対化するものではないかという疑念と批判を米国の軍事当局者の間に生み出した。
「日米安保再定義」に向けた米国からの強力な圧力はここから始まる。一九九三〜九四年に起きた北朝鮮「核危機」問題で、北朝鮮有事を想定した米国の作戦計画と日本に対する支援要求もその背景の一つであった。一九九四年十一月にナイ国防次官補が提起した「東アジア戦略構想」、いわゆるナイ・イニシアティブに米国の戦略の基本が示されている。それは日本政府に対し、日米二国間・アジア太平洋地域・グローバルレベルの三段階の安保協力構想を示し、あわせて米国はアジア太平洋での十万人の戦力展開を維持する、とした。
また「日米安保再定義」問題は、最後の交渉の段階で一九九五年九月に起きた沖縄での米兵による少女への性暴力事件に対する「島ぐるみ」の反基地闘争の高揚に直面することになった。
結局一九九六年四月の橋本・クリントン会談で打ち出された「日米安全保障共同宣言 二一世紀に向けての同盟」のキーワードは、「アジア太平洋地域」であった。同宣言は「米国が引き続き軍事的プレゼンスを維持することは、アジア太平洋地域の平和と安定の維持のためにも不可欠である」とうたいあげ、日米安保を基盤とする両国間の安全保障面の関係が「二一世紀に向けてアジア太平洋地域において安定的で繁栄した情勢を維持するための基礎であり続けることを再確認」したのである。それは日米安保条約が規定した「極東」の枠組みを大きく拡張するものであった。この認識の下に「宣言」は一九七八年の旧ガイドラインの改定作業、緊密な軍事的協力などを強調した。同年十二月の在沖米軍基地の再編を焦点にしたSACO(沖縄に関する特別行動委員会)合意もまた、この日米安保共同宣言に基づくものだった。
ここでは明らかに台頭する中国との関係における日米安保の役割が意識されていた。日米安保再定義を主導したジョセフ・ナイはインタビューに答えて「米日同盟は中国の台頭に関係したもの」であること、米日中の関係は「三角形のようなもの」だが「正三角形」ではなく「米日関係が三辺のうち最も堅い辺」であると述べている(前掲『日米同盟半世紀』)。
新たなタイプの「脅威」と
米軍再編が意味するもの
この日米新安保宣言を通じて、一九九七年の「新ガイドライン」における「周辺有事」での日米軍事協力が合意され、それを基にした「周辺事態法」が一九九九年に成立した。しかし米国にとってそれはまだ不十分なものだった。
二〇〇〇年の米大統領選挙で当選したジョージ・W・ブッシュ政権の国務副長官に就任したアーミテージが中心になって二〇〇〇年十月にまとめた特別リポート「米国と日本:成熟したパートナーシップに向けて」は、米国がアジア太平洋の「安全保障の設計者」であると自負し「日米同盟は米国の世界的安全保障戦略上の中心である」と述べた。その観点から日本の「現在の指導者に、急激な改革や世界的な舞台での高い地位を期待することは非現実的」とサジを投げる一方で、若い世代の政治家に期待し、さらに「米英同盟」をモデルとした「日米同盟」の必要性を訴え、そのためには「日本が集団的自衛権の行使を禁止していることは、同盟への協力を進める上での制約となっている。これを解除することにより、より緊急で効率的な安保協力が可能になるだろう」との恫喝をかけたのである。
ジョージ・ブッシュ政権と小泉政権の下で進められた「グローバル安保」への飛躍は、まさにこの線に沿いながら、二〇〇一年の「9・11」の衝撃を導火線にしたアフガン・イラク戦争を背景に進行していった。
二〇〇一年十月に始まったブッシュのアフガニスタンに対する侵略戦争を全面的に支持した小泉政権はテロ特措法を制定して海上自衛隊をインド洋に派兵した。二〇〇三年三月に始まったイラク戦争・占領に対しても小泉政権は、イラク特措法を成立させ陸自、空自をイラクに派兵し、米軍を中心にした多国籍軍の兵員・武器の輸送や占領支援作戦に従事した。二〇〇三年六月には、当時の野党である民主党、自由党も賛成して有事法制三法案(武力攻撃事態対処法案、自衛隊法改悪案、安全保障会議設置法改悪案)も成立した。翌二〇〇四年六月には「国民保護法案」など有事七法案・三条約が、またも民主党も賛成して成立した。
このような現実のグローバル戦争への参戦実績と並行する形で二〇〇二年十二月から始まった「米軍再編」協議は、米国に従属し、その戦闘部隊の一部に組み込まれた自衛隊が地球上のどの地点にも派兵され、米軍の指揮下で米兵と肩を並べて戦うという「日米同盟」の新たな段階を画するものである。現実に「米軍再編」の進展の中で、防衛庁は防衛省に格上げされ、海外派兵を自衛隊の「本務」とする自衛隊法改悪もなされることになった。
「米軍再編」は二〇〇五年二月の2+2(日米外務・防衛閣僚会議)による「戦略目標の共有」、「役割・任務・能力の分担」を規定した同十月の「日米同盟:未来と変革のための再編」、そして二〇〇六年五月の最終報告「再編実施のためのロードマップ」として確認された。
しかも重大なことは「日米同盟」を「極東」「アジア太平洋」をも超えてグローバルなレベルにまで拡大することになったこの「米軍再編」=米国の戦略に従属的・一体的に組み込まれた日米安保の世界化は、交渉経過が秘密にされたまま国会での審議に付されることもなく「2プラス2」の共同声明という形で積み上げられてきたことである。それはもはや日米安保条約の枠組みにとどまるものではない。「日米安保」という言葉がもはやほとんど使用されることのないまま「日米同盟」に置き換えられていることは、まさに「日米安保」の実態的な変質の表現である。しかしそれでも「日米同盟」の法的・条約的根拠は一九六〇年に改定されたまま、この五十年間一度も改定されていない日米安保以外にないことも事実である。そして普天間基地「移設」をめぐって改めて「安保」の問題が否応なく焦点になっている今、あらためて安保条約の廃棄という課題を手繰り寄せる論議と運動が必要になっているのではないか。
おわりに――「対等な日米
関係」と鳩山政権の座礁
昨年八月の総選挙で民主党が圧勝して政権交代が実現した。民主党は総選挙用マニフェストの基礎となった「民主党政策集INDEX2009」で「日米両国の対等な相互信頼関係を築き、新時代の日米同盟を確立します。そのために主体的な外交戦略を構築し、日本の主張を明確にします。率直に対話を行い、対等なパートナーシップを築いていきます」と訴えていた。また「日米地位協定の改定を提起し、米軍再編や在日米軍基地のあり方等についても引き続き見直しを進めます」とも書いていた。
民主党・社民党・国民新党の連立合意文書作成にあたっては、「沖縄県民の負担軽減の観点から」という一句を挿入した上で、この民主党政策集の記述がほぼそのまま採用された。そしてこの「米軍再編や在日米軍基地のあり方見直し」という提起が、「最低でも普天間基地の移設先は県外」という沖縄での鳩山の選挙演説と重なって、ねばり強く闘われてきた沖縄の「普天間即時返還・新基地建設反対」の闘いに弾みをつけたことは周知の事実である。
おそらく「対等な日米パートナーシップ」「新時代の日米同盟」というスローガンの中には、急速に台頭する中国との関係を重視しつつ、日米中のトライアングル関係の中に「日米同盟」を改めて位置づけ直そうという方向性が示されていることは確かだろう。少なくとも、「駐留なき日米安保」をかつて提起した鳩山首相、そして米国との従属的関係を見直し中国との関係の戦略的強化をはかろうとする小沢民主党幹事長の構想には、そうした方向が明らかに見てとれる。鳩山政権の提起する「東アジア共同体」の中に、日本が対米関係を相対化させようとする方向性が潜んでいるのではないか、という疑惑を米政府当局者が抱いたとしても不思議ではない。
しかし鳩山政権はついに、「見直し」の好機を捉えて対米交渉に踏み込む戦略も方針も持ち得ないまま、「日米同盟」にがんじがらめにされ、再び沖縄に基地の重圧を押し付ける道に入りこんでしまった。メディアもまた「抑止力としての日米同盟」という神話を再考する可能性を閉ざし、「鳩山政権の迷走が日米同盟を危機に追いやっている」という批判を繰り返すだけだ。この現状をどう突破するかは、東アジアの国際的展望を見据えた民衆のオルタナティブにとって最重要のテーマの一つなのである。
(国富建治)
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