三木格生同志の早すぎる死を悼んで
尾形 淳(JRCL関西地方委)
5年間に及ぶ
闘病生活の後に
六月二十日、三木格生(ただお)同志が亡くなった。享年六十一歳であった。
私はもちろん、二〇〇五年の春に切除しなければならなかった彼の胃の腫瘍が進行性のガンであったことも、そのガンが昨年の春に腸に転移し抗ガン剤治療をしていたことも、そしてこの五月に行った手術がもはや再発したガンの摘出ではなく、人口肛門の装着にすぎなかったことも知っていた。
それにもかかわらず、今度も彼は職場に復帰できるものと、私は思っていた。それは自分の病状をよく知っていた彼が、手術の前に職場復帰の準備をしていたことを知っていたということにもよる。しかしそのことよりも、彼が死ぬかもしれないという現実を、私はおそらくは認めたくなかったのだろう。
手術の二週間ほど後に見舞いに行った時も、彼はひどく苦しそうにしていたのだけれど、それでも私は二〜三週間たてば彼は退院して、職場復帰できるものだと思っていた。しかし、それから二週間たっても、三週間たっても病状回復の知らせはなく、私の心の奥に一抹の不安が兆し始めた頃にもらったのが彼の訃報だった。
中核派のテロ
襲撃の被害者
私が山形から関西へ転出してきたということもあり、知り合った当初は彼とはそんなに親しい間柄ではなかった。そんな二人を急速に近づけることになったのは、一九八四年一月の中核派によるわが派に対する襲撃事件だった。私たち二人は関西におけるそのテロの被害者になったのだった。
右足膝付近の骨の単純骨折だった私は、ギブスははめたものの入院の必要はなく、二カ月ほどで回復した。しかし、彼は左足とはいえ複雑骨折であった。足に鉄筋をはめて骨を固定せねばならず、入院は長期にわたった。リハビリを終え、骨を接続していた最後のボルトを除去したのは、襲撃から半年以上もたってからではなかっただろうか。
私は松葉杖をついて歩けるようになるとすぐに彼の見舞いに行ったのだが、ベッドに半身を起こしながら、「なんで俺たちなんだよ」と少し不満そうな、しかし満面に笑みを浮かべながら私を迎えてくれた彼の姿を忘れることができない。
そのようにして親しくなった私たちは会議以外でも、年に二、三度二人で会うようになった。その時よく利用したのが、鶴橋にある韓国料理店だった。店の名物料理のチジミやチゲを食べながら、きまって交わすのが「足は痛まないか」という言葉だった。梅雨や寒い時期になると、二人とも折られた個所がよく痛んだからである。
大阪社会フォ
ーラムの討論
「大阪社会フォーラムは大成功だったねぇ。若い人もいたようだったし、みんなはどう言っているの。」
手術の前日見舞いに訪れた私に、彼はうれしそうに問いかけてきた。三月末に開催された大阪社会フォーラムには彼も参加していた。そして、私がコメンテーターになっていた、メキシコの「サパティスタ民族解放軍」を紹介するワークショップにも出席してくれた。問題提起の途中で彼の姿を認めた私は、彼の参加をうれしく思うと同時に、「元気なんだな」とのんきに考えていた。
しかし彼はもう、大阪社会フォーラムをどう評価するのかという私たちの会議には出席することはできなかった。フォーラムからまもなく会議への参加確認の電話をかけた私への彼の返事は、手術のために参加できないというものだった。
神戸の海を
眺めながら
大阪社会フォーラムの話をひとしきりした後、私は、「手術は明日なの、でも体調は良さそうやな」と問いかけた。「そんなことないよ、昨日の夜もひどく苦しんだしねぇー」と、彼は泊まり込みで看病にきていた娘さんに笑顔で同意を求めた。おだやかに会話を交わす彼と娘さんの背後の窓越しに、神戸の海が覗いていた。
彼の入院していた病院は六甲山の中腹にあった。阪急御影駅で下車し、日本でも有数のお屋敷街をぬって突き上がっている急坂を登っていく。この日、この坂の一角でオープンガーデンが催されていた。見舞いの帰途、御影のお屋敷への興味から立ち寄った私を待っていたのは、庭一杯に咲くさまざまな春の花と、彼の病室の窓から見えた海と同じ神戸の海であった。
しかし、彼の死を未だ予期していなかった私は、庭に据え付けられたデッキから春の陽に煙る神戸の海を眺めながら、三木はこの景色を毎日見ているのかと、ただぼんやりと考えていただけだった。
b 同志三木の略歴
1968年 大阪市立大学に入学、直ちに学生運動に参加。
1970年 三里塚への援農闘争への参加後、学生インターへの加入を決意し、数人の仲間とともに学生インター大阪市大支部を結成。
1971年 日本革命的共産主義者同盟(第四インター日本支部)に加入。
1972年 大阪市立大学卒業後、大阪の商社に勤務するも、商社で活動することの限界を感じ、東大阪市役所の公務員試験を受ける。
1973年 東大阪市役所に勤務。
1976年 三里塚闘争に連帯する会の再発足に伴い、地域の仲間とともに東大阪連帯する会を結成。
1978年 3月、3・26三里塚空港開港阻止闘争に、関西青年共闘として参加。5月、5・20第二次開港阻止闘争に、関西連帯する会の総指揮者として参加。
1984年 1月、中核派の襲撃により、左足複雑骨折の重傷を負う。回復後、同盟活動に直ちに復帰。
2005年 3月、胃ガンにより手術。
2010年 6月20日、ガンの腸への転移により逝去、享年61歳。
滝浦孝同志の思い出 ――
「人のために生きる」思想
川上 守(岡山)
最後まで労働者
として闘いぬく
六月二十五日早朝、滝浦孝同志(岡山)が肺がんに起因する呼吸不全により六十二歳の生涯を閉じました。六月に入ってから急に病状が進み周囲の友人たちも覚悟を迫られましたが、予想外に早いお別れとなりました。
看護士が巡回で異変を発見した時にはすでに息を引き取っていたそうです。食欲はあるものの「文字が書けなくなった」と弱音を吐いたのが六月二十日のことで、「声が出しにくくなった」と連絡があったのは二十三日のことでした。二十六日に執り行われた「お別れの会」には、主催者の予想を上回る人々が集まり故人を偲びました。
治療不能の宣告から約四年間、彼は闘病生活のかたわら労働者として働きながら労働組合専従OBとして労働相談や各種の集会、投稿、趣味の会への参加と最後までがんばり続けました。二年前には、多数の友人・同志の参加で「生前葬」を開催しました。
東大闘争被告団、
弾対責任者として
彼は、北海道室蘭に生まれ、子どもの頃に日鋼室蘭の闘いがあり婦人行動隊や争議の話を聞いて育ちました。弘前大学に進学した後、演劇運動をへて弘前大学全共闘の一員として活動し一九六九年の東大闘争に参加しました。当初、ノンセクトであった彼らのグループは、三日間の学習会を通じてトロツキズムに獲得されたそうです。
裁判闘争を闘い保釈後は東大闘争統一被告団事務局として闘い抜きました。当時、中核派の被告団事務局員との共同生活も経験したようです。
第四インタ―の中央弾圧対策部の中心的活動家として専従となった滝浦同志は、救援活動と機関紙制作を担う「越境社」の創立を準備し初代社長として活動しました。急進主義の時代、開港阻止決戦等の闘いの後背を支え、権力による弾圧対策と逮捕者の救援活動、機関紙制作を任務としたのが越境社でした。越境社の創立にあたっては「夜も寝ないで稼いで会社設立の資金を準備した」と、おりにふれて話をしていました。 口癖に「救援てのは相手がだれであろうと助けるっていうことだ」と話し、理論家とか、指導者とか、○○派とかでなく、「他人を助ける。人のために生きる」というのが彼の基本でした。彼は分裂した第四インタ―系各組織の統合論者であり、入院後に遺産整理の一環として、最後のカンパを各方面と、分裂した各派に贈っています。
彼は「岡山県人は自分の利害でしか動かない。東北人は反中央でのー」等々の非論理的持論を力説したり、中学生が悩んでいるかのような「恋の相談」を持ち出されて困ったのも思い出になってしまいました。
先般、彼の「縄文時代人に関する考察?」が『かけはし』に掲載されたのは、編集部の優しさであったのでしょうか。権威ある日本革命的共産主義者同盟の中央機関紙にこのような私情を挟んだ編集をするとは実にけしからん話であります。掲載された紙面を確認して彼は逝きました。
岡山で労働組
合運動に献身
一九八二年に空白県対策の人事として組織も運動もまったくの空白であった岡山に派遣されました 本人は「党中央から反逆予備軍と見なされて、関東所払いに遭った」と信じていましたが……偶然のいきさつから翌年、労働組合の専従に就いた彼は、その後の二十一年間労働組合をまとめ、組合員の利益を第一とする活動を実践しました。中核派の第四インター襲撃事件が発生した時には、「あんたは何も悪いことをしたわけじゃないんだから」と同じ組合の幹部がかばってくれたそうです。
彼の蓄積した経験と知識は今の情勢の中で貴重なものでしたが、それを共有化し後継者を育てるための作業を具現化する前に病魔に倒れてしまいました。彼の生涯と営為をすべて紹介することは不可能です。以下に「私の歩んだ道」のタイトルで「大道」60号に投稿した文書の一部を紹介します。
「1983年から2004年まで21年間労働運動に専念したが、前半が総評労働運動、後半が連合労働運動で活動したということになる。私自身の能力や、どれだけやれたのかは自分では、いろいろ考えたとしてもなかなか口に出して言えるものではない。立場や状況もあり、専従は特に、分かっていても、あるいは思っていても口に出せるものではない。そういうのがイケン(岡山の言葉で「いけない」「だめ」の意味)と言われるかもしれないが、人の言うことをよく聞き、理解すること、どうしたら運動が前進するかと考えると、複雑な諸関係の中で、中途半端だったり、優柔不断であったかもしれない」。
「10人は10人、性格も違い、考えが違うのだから相手を理解しようとする、相手の話を聞く姿勢を、組織の作風としてつくることが必要と思う。いろんな団体の作風を見るにつけ、懐の大きい、忍耐力と、暖かみのある、排他的でないモラルがあると、それは必ず大衆からの信頼と共助活動が出来る団体へと成長することが可能だと思う。甘いと思われるかもしれないが、ロマンと理想を追い続けていきたい」。
「人間はいつかは死ぬし、必ず死ぬというのは分かっているはずなのに、死にたくない、生きていたい、という強力な欲望からのがれられない。どういう生き方をするか、どういう死に方をするか、という死生観は、普段から考えているべきなのに、普段は目の前のことばかりにアクセクしている。それでも、人間の本質的な歓びは、他者のために、あるいは社会のために自分が役に立ったという時に発するのではないだろうか、と思うのであるが、この『利他思想』が、資本主義社会の中で金が第一の思想や、利己主義思想の中で忘れ去られようとしているのではないか、というのが出発点であり、人間倫理の原点だと思うが、いかがであろうか」。
滝浦同志の遺した「利他の思想」は残されたわれわれが原点として確認する価値のあるものと考えます。部屋掃除が苦手で、頑固で、鼻毛を覗かせていた滝浦さん。
さようなら。
「新宿ど真ん中デモ」に400人
「沖縄差別をやめろ」「辺野古移設案撤回」の訴えが響く
七月四日、参院選のラストサンデーで各党・候補者の訴えが最高潮に達したこの日、東京・新宿駅東口アルタ前で「沖縄差別をやめろ」「普天間基地即時返還」「辺野古に新しい基地をつくるな」「高江にヘリパッドを作るな」「徳之島への訓練移転反対」「日米共同声明撤回」「日米安保破棄」の声が響き渡った。
「沖縄を踏みにじるな!緊急アクション」と「辺野古への基地建設を許さない実行委(辺古実)」が共催した「沖縄に基地を押し付けるな!決着はついてないぞ! 新宿ど真ん中デモ」に集まった人びとの訴えだ。「反戦と抵抗のフェスタ実行委有志」が呼びかけた「新宿ど真ん中デモ」は四月二十四日、五月三十日に次いで三回目。この日は辺野古実も共催して、あれほど連日メディアをにぎわしていた「普天間移設」問題が、波がひくように後景化していったことに異議を申し立てた。
デモ出発前、午後二時から休日の人出でにぎわうアルタ前で始まった集会では、沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの下地さん、この日岐阜県からかけつけたイラク派兵違憲訴訟の元原告の仲間などが次々に発言、ラップの演奏などで沖縄を切り捨てる「ヤマト」や米国への怒りが叩きつけられた。沖縄基地問題こそ参院選の争点だ、という訴えも行われた。
午後三時からは約四百人が参加してアルタ前から歌舞伎町、そして新宿の中心部をめぐるデモが一時間半にわたって繰り広げられ、太鼓、ブブゼラ(南アの楽器で、ワールドカップの応援グッズ)の音を響かせながら、思う存分、沖縄を踏みにじる日米両政府を批判し、沖縄の人々とともに闘おうというアピールを道行く人々に伝えた。
徳之島・伊仙町
町長もアピール
デモ終了後、再びアルタ前で開かれた路上の訴えでは沖縄・一坪反戦地主会関東ブロックの上原成信さん、辺野古実の仲間に続いて、ピープルズ・プラン研究所の山口響さんが発言。山口さんは、グアム島の先住民チャモロの人々の基地反対の運動を紹介しながら、「ヤマトの人々が基地をグアムに持って行け、と言うのは、日本軍のグアム占領の苦難の歴史を見ない責任放棄だ。グアムにもテニアンにも米軍基地はいらない」と強調した。
続いて「うちなんちゅの怒りとともに三多摩市民の会」の古荘斗糸子さんは七月十七日の横田基地反対集会への参加を訴え、沖縄現地から安次富浩さん(ヘリ基地反対協)が携帯電話で現地の状況を報告した。神奈川県座間のバスストップから基地ストップの会、米軍・自衛隊参加の東京都防災訓練に反対する実行委員会2010、反安保実、反天連の発言の後に、鹿児島県徳之島・伊仙町の大久保町長が駆けつけ、「島民の九九%は基地・訓練移転に反対だ。必要なことは『抑止力』ではなく軍縮だ。沖縄の人々と心を一つにして基地反対を貫く」と語り、大きな共感の拍手を受けた。
闘いはこれからだ。「日米共同声明・閣議決定」を撤回させ、「普天間無条件返還」のための対米交渉を菅政権につきつけよう。(K)
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