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ギリシャ危機をあおる菅首相へのわれわれの回答      かけはし2010.7.12号

何が危機を終わらせるのか

終わらない危機への回答は労働者民衆の闘争しかない


延々と続く
危機の悪循環

 ギリシャで火を噴いた新たな金融危機がヨーロッパ全域を緊張させている。危機は何よりも直接的に、鋭い政治的社会的緊張へと転化している。
 ヨーロッパ諸政権が一斉に、財政再建=緊縮政策に、つまりは労働者民衆への犠牲強要に走り出したからだ。年金や社会保障の切り刻み、消費税引き上げ、公務労働者賃金のカットなどが画策されている。日本の主流メディアは「(金融)市場の要求」に従うことこそ正道と論評し、ヨーロッパ諸政権の決断を持ち上げている。再び「市場」が、暗黙の内に最高の判断基準の位置に付けられている。
 しかし金融市場とは、金融資本、大独占資本、大資産家(あるいはその資金運用を託された資産運用代理人)がもっぱら巣くう世界にすぎない。経済活動の縮小や停止のリスクを避けるためとの大義名分がたとえ掲げられようとも、その要求に従うということは、結局は、彼らの資産保全を最優先とすることに他ならない。それは、経済を人質にこれらの者たちが加える恫喝への屈服そのものなのだ。しかも今では、「国家の破産」を賭の対象にした金融投機すらもが、この金融市場を舞台に演じられている。「誰の負担による危機脱出か」との問題が改めてむき出しとなった。
 人びとは当然のこととして怒りを、そして拒否の意志をはっきりと表に突き出した。ヨーロッパ規模でゼネストの波が広がっている。ただでさえ低くなっていた各国政権に対する政治的信頼はさらに傷つき揺らいでいる。大衆的好感度で定評のあったドイツのメルケル政権ですら今や求心力を保てなくなっている。この政権の推薦した大統領候補は、三度もの投票を繰り返した末にやっとのことで選出にこぎ着ける有様だ。
 この高まる政治的緊張の中では、政権の意図する緊縮政策がそのまま、また時を失せず実行できるか否かはまったく不透明と言うしかない。だからまたヨーロッパの危機は、世界経済全体の不透明化、危機へと波及しようとしている。
 〇八年の、世界的金融危機に端を発する全世界的経済危機は、新自由主義がもてはやした「市場の自律機能の完璧さ」という虚像をはぎ取った。そんなものはあり得ず、危機は、政治によって、国家の介入によってやっとのことで一時的に沈静化されるしかなかった。しかしその政治の機能そのものが今や大きく衰弱した。現在のヨーロッパ金融危機は、先の危機への国家動員が巨額化した財政赤字という形で、その政治の弱体化を直接表現している。しかしそれだけではない。その弱体化はなおかつ、財政再建=緊縮政策を労働者民衆に押しつけることの困難さとしても明白に姿を現している。金融危機は、ブルジョア政治支配の弱体化、空洞化のもう一つの促進要因となった。こうして、ブルジョア政治支配の安定に責任を負おうとしない傲慢な金融資本とブルジョア政界の間にも緊張が高まっている。
 そしてそれら総体が、世界の金融と経済の不透明化へと再度跳ね返る。この一連の力学とその展開はヨーロッパに限られたものではなく、アメリカを含んで基本的には世界共通であることを確認しよう。危機の累積的悪循環でありそれは、民衆に対するブルジョア支配の歴史的弱体化を要として、終わることのない危機という特性を、この時代にくっきりと刻み付ける。

政治だけが危
機を終らせる

 経済とは本質的に「政治経済」なのであり、政治から自立した経済などあり得ない。だからまた『経済学批判要綱』として知られているマルクスの『資本論』ノートドイツ語原本には、『政治経済学批判要綱』との題名が付されている。まして金融=信用は、丸ごと政治によって担保されるしかない。金融資産とはしょせん空であり、実物生産要素に対する権利証文でしかない。その権利行使は政治が保護する限りで有効となるにすぎないのだ。大独占資本であれ大資産家であれ、日常彼らがいかに大きな顔をしようが、政治の保護を失えば、実物生産要素を実際に動かしている労働者民衆を彼らだけで押しのけることなど決してできない。われわれ労働者は、自主生産の世界中に広がる経験として、それを事実で示してきた。
 そしてここで問題となるブルジョア政治支配の不安定化、衰弱は、支配階級の民衆支配=統治が、今では労働者民衆からの同意調達能力に決定的に依存しているという歴史的現実に起因している。この厳然たる現実を確認しよう。その現実は、生産活動はもとより社会管理においても、支配階級が労働者民衆に深く依存しているという、歴史が作り上げた現実の反映に他ならない。民主主義という現代のもはや打ち壊しがたい統治形態は、その歪められた表現であり、したがってまたブルジョア支配はその下でしか、それが不可欠に要請する労働者民衆の同意の下でしか機能できない。
 百年前まで資本主義は、何の苦もなく十年ごとの恐慌を繰り返すことができた。恐慌の筆舌に尽くしがたい苦難すべてを、躊躇なく繰り返し労働者民衆に押しつけることができた。しかし今、それは不可能なのだ。
 終わることのない危機は政治によって終止符を打たれる以外にない。しかしその政治とはどのような政治なのか、問題はそこに集約されている。

なぜ反資本主
義左翼なのか

 上述した客観的な力関係の下では、大資産家と大資本のみを救出する政治は貫徹できないだろう。したがってまた〇八年の金融危機勃発直後には、アメリカFRB前理事長のグリーンスパンは下院公聴会で新自由主義的金融自由化に対する「反省」を吐露し、大胆な金融規制は世界の支配階級の合い言葉となった。数々のメニューが並べ立てられた。資本主義が生き延びるためには資本主義そのものが変わらなければならない。そのような空気が一時期を支配した。
 しかし、つい最近のG20がはっきり明らかにしたように、金融規制は今なお遅々として進んでいない。「新しい資本主義」は、紙の上はいざ知らず、現実世界の中では、世界中どこにもない。そして現下のヨーロッパ危機は、世界の大独占資本と大資産家が徹頭徹尾彼らの資産救出を追求するつもりであることを、そのためのブルジョア支配を強要するつもりであることをこの上なくはっきりさせた。
 その強気を後押しするものこそ、ブルジョア政治に対抗できるもう一つの政治、つまり労働者民衆の要求をはっきり代表する政治の不在だ。端的に伝統的左翼はもはやブルジョア政治に代わる別のものを差し出してなどいない。しかもそれだけではなく、ブルジョア支配の衰弱を補う独自の力を発揮することもできなくなっている。伝統的支配階級に代わって労働者民衆を直接押さえ込む力を彼らは失った。現下のゼネストの波はこの関係を背景に広がっている。支配階級にとって、巨大な労働者民衆はそのまま巨大な不確定要因となった。そしてまさにそれ故に、危機は決して去ることがない。
 伝統的な改良主義左翼、社会民主主義勢力と公式共産党(及びその後継勢力)はこれまで、共に闘った長い歴史を糧として労働者民衆の中に具体的に根を張り、かれらの要求を改良主義の水路の中で代表しつつ同時に、民衆との堅固な結びつきという裏付けを基に、ブルジョア支配という総体的枠組みに対する労働者民衆の同意調達に、確かな担保を与えてきた。しかしこれらの勢力のおおかたは、世界のブルジョアジーが新自由主義へと方向転換した後、社会自由主義へと「進化」する道へはっきり踏み込んだ。新自由主義を拒否するのではなく、そのとてつもない痛みをオブラートにくるんで人びとに飲み込ませる役割を引き受け、その代わりに官僚層のみが新自由主義の中に地位と特権を見出す道への転進だ。まさにその典型のように、ヨーロッパ社会民主主義左派を自認していたフランス社会党にあって若きエースと目されていたストラスカーンは、今やIMF専務理事の座を射止めている。
 代償は、今ではあまりに明白な彼らの政治勢力としての失墜として現れている。当然だが、労働者民衆は彼らに付き従うことを拒否した。労働者民衆と彼らの伝統的結びつきの中には、今広大な空洞が広がっている。そして労働者民衆自身は、伝統的指導機構など当てにせず、自らの力に依拠した独自の新しい反乱に繰り返し立ち上がりつつ、その中から自分たちの新しい政治を浮かび上がらせようとしている。
 終わることのない危機が労働者民衆の日々の生活の現場には文字通りの生活破壊として現れる以上、ヨーロッパに姿を見せ始めているいるここに見た趨勢は、基本的に押さえがたい力学として、世界に貫徹するだろう。
 まさにそれゆえにわれわれは、労働者民衆の政治の実現を、そしてその下での危機脱出を追求する。あるかどうかも分からない「新しい資本主義の誕生」を待つことなどできない。まして、「新しい資本主義」の創出に取り組まなければならないいわれもない。
 何よりも労働者民衆の生活と社会の立て直しこそ待ったなしの急務であり、労働者民衆の政治はそこに真っ直ぐ向けられなければならない。そのための必要は必然的に、資本主義のタブーを、すなわち経済活動に対する資本の専制を踏み越えるものとならざるを得ないだろう。
 まさにその道を、ラテンアメリカの労働者民衆は今、繰り返された民衆反乱が作り上げた政権と共に、特にベネズエラ、エクアドル、ボリビアを先頭に突き進もうとしている。ラテンアメリカの民衆はこの一時代の危機に終止符を打つ実践の先端を開いた。そしてそれをわれわれに指し示している。
 第四インターナショナルが呼びかける反資本主義左翼と新しいインターナショナルの建設は、上に見た全体構図の中でまず提起されている。

要求実現を菅
政権に迫ろう

 日本のわれわれもまた深刻な生活破壊と社会の疲弊の中に突き落とされている。しかも菅政権は、昨年夏の政権交代に人びとが託した切実な願いに背を向け、沖縄の人びとには米軍新基地を、全国の住民には消費税の引き上げと法人税減税の抱き合わせを押しつけようとしている。菅首相自身は、ギリシャを引き合いに出しわれわれを脅しつけているが、それはまた問わず語りに、日本のわれわれも、「誰の負担による危機脱出か」との世界と共通の問題に直面していることを明かすものに他ならない。
 われわれ労働者民衆自身の回答がまさに必要とされている。その回答が、質においては、先に見てきたものと同じでなければならないことは明らかだと思われる。しかしそこにおいて、日本の労働者民衆が手にしている条件の中に、世界との間に深刻な差をもつものがあることも間違いない。その最大のものは、おそらく誰もが実感していると思われるが、労働者民衆自身の運動の弱さだ。危機に終止符を打つわれわれ自身の回答を手にするためには、確かに、まず何よりもその克服が最大の課題になっている。
 われわれはそこに挑戦しなければならないが、少なくともそのための回路は今、具体的な姿で準備されつつあることを確認しよう。その一つとして、生活と社会の立て直しという待ったなしの課題が、人びとをつなぐ具体的な社会的要求を通して、その実現を政権に迫る共同の大衆的闘争に転化する過程がすでに始まっている。もう一つは、そのように始まった闘争が政治支配の弱体化を要求実現の一つのてこにできる可能性の出現だ。
 鳩山政権が八カ月しかもたず、またさらにさかのぼれば、九〇年代以降の政権が小泉という特異な例外を除いてすべて短命だった事実は、日本のブルジョア支配もまた、世界と等しく底深い弱体化の過程を歩んでいることを如実に示していると言うべきだろう。その意味で昨年夏の政権交代のみならず、菅政権の登場それ自身が、もちろん日本固有の特殊性をその中に刻みつつ、世界で進むブルジョア政治の危機を表現するものに他ならない。
 実際昨年夏の政権交代は、しかもその圧倒的な結論は、日本の支配層が築き上げてきた彼ら自身の民衆掌握力が歴史的限界に達したことの証明と言ってよい。そして民主党には、自民党に代わる彼ら独自の掌握力があるわけではない。小沢一郎が的確に指摘してきたように、要するに彼らには「足腰」がない。それはこの党に民衆との確かな結びつきがないことの別の表現だ。たとえば連合の主力である民間大労組に社会的掌握力などないことも今さら言うまでもない。それらはしょせん第二組合であり、やってきたことは労働者運動の分裂工作、しかも資本の全面的バックアップを頼りとしたそれでしかない。世界をとらえている危機の重みが、民主党政権の底にあるこれらの脆弱な構造にのしかかる。
 菅政権に安定などあり得ず、もちろんそれを作り出す固有の力もなく、したがってその安定した存続と政策展開力に望みを託すことは無駄だろう。われわれ労働者民衆はむしろ、その不安定さ、弱さを突く形で、生活と社会の立て直しを具体的要求として徹底的に突きだし、闘争によってその実現を一つでも迫ることに力を尽くすことが求められる。そしてそのような闘争の発展だけが、時代が求めている労働者民衆の政治に近づく確実な道となるだろう。日本における反資本主義左翼への結集は、その道を歩く中で力を得ることができるだろう。 (寺中徹)


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