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1910から2010 仮想歴史「もしも」        かけはし2010.7.26号

ひとりの若い命への拷問死
が民衆を反独裁闘争に導く

 1987年1月15日夕刻、記者たちが立錐の余地がないほどに押しよせた中、カメラのフラッシュを浴びながらカン・ミンチャン治安本部長が沈んだ面持ちで記者会見を始めた。
 「ソウル大学言語学科3年に在学中のパク・ジョンチョルは、ソウル大民主化推進委員会事件で手配されたパク・ジョンウンの所在を把握していると考えられ……1月14日午前8時10分頃、冠岳区新林洞の下宿から連行された。10時50分頃から尋問を開始、パク・ジョンウンの所在を尋ねていたところ突然『ウッ』という声をあげて倒れ、中央大付属病院に移したが12時頃、死亡した」。

警察はショック死、医者は窒息死

 側に立っていたパク・チョウォン治安監が言葉を継いだ。「机を『バン』と叩くと、『ウッ』と言って倒れた」。健康な青年が脅しひとつで、そのまま事切れたという、この3流ギャングのような発表が出てくると、すぐさま疑惑がわき起こった。野党や在野は徹底した真相調査を要求し、政府・与党もこれをともかくも受け入れ、警察に特別調査を指示した。
 疑惑の中心となっていた警察自らが真相調査を行うという点が頼りなかったけれども、パク・ジョンチョルを剖検したファン・ジョクチュン博士が「ショック死という警察の主張とは違って、胸部圧迫による窒息死だと判断される」との所見を検察に明らかにすることによって、拷問の事実自体の隠蔽は困難になった。
 こうして1月19日、再びカン・ミンチャン治安本部長が「真相」を発表した。パク・ジョンチョルはソウル南営洞の対共分室でチョ・ハンギョン警衛、カン・ジンギュ警査の2人から水拷問を受けるとともに、その途中で「事故」によって死亡した、というものだった。上部の指示は全くなかったし、「行きすぎた功名心のゆえ」に2人の警官が思いのままに繰り広げたことで、パク・ジョンチョルがそのまま命を失った、という説明だった。
 拷問がほしいままになされたことが認定された以上、野党や在野は激しく政府を批難しつつ強硬な闘争に乗り出し、警察発表は全く信頼できないとして国会で国政調査権発動の決議案を出した。政府が2月7日の追悼会を不法集会と規定し、キム・ヨンサム、キム・デジュン、ハム・ソッコン、コウン、ソン・ゴンホらを自宅軟禁し、追悼の人波を強制鎮圧し、雰囲気は一層険悪になった。キム・デジュンは警察が包囲する自宅で「追悼式さえできないように妨害する政権がどこにあるか? 今や国民はもうがまんできない」と激憤した。釜山では追悼式を準備した嫌疑でノ・ムヒョン弁護士に拘束令状が発布された。

隠すほどにほころぶ疑惑

 1人の若い命を拷問という方法によって殺しておきながら、これを隠蔽しようとし、末端警察2人だけの責任へと追い立て、追悼式さえ禁止する政権に向けた怒りと嫌悪が日ごとに募っていき、政局は一寸先も見通すことのできない状況になっていった。野党の新韓民主党(新民党)内ではキム・デジュン、キム・ヨンサムの2人が率いる勢力と与党に好意的な勢力間の争いが深まっていった。遂に4月9日には、党を脱党して新しい政党を作るという両キム氏の発表があった。
 すると、待ってましたとばかりに4月13日、チョン・ドゥファン大統領は対国民特別談話を通して「改憲の論議をオリンピック以降に延期する」との爆弾発言をしてしまった。与党に絶対的に有利な既存憲法の間選制、いわゆる「体育館選挙」によって次期大統領を選ぶ、というものだった。これによって政権に対する反発は一層大きく膨らみ、ちょっと手をつければはじけるほどにまでなった。
 最後の「一手」をつけたのは天主教(カトリック)正義具現全国司祭団だった。5月18日の光州抗争7周年追悼ミサが開かれていた明洞聖堂で、「パク・ジョンチョル拷問致死事件は縮小・でっちあげられた。いま拘束された警察官らは従犯にすぎず、現場には上級者3人(ファン・ジョンウン、バン・グムコン、イ・ジョンホ)がいた」という暴露をしたのだ。
 収まりかけるはずだったパク・ジョンチョル拷問事件が再び爆発し、政府はまたもや鎮火に乗り出し「警察官たち同士で縮小の謀議をしたもの」であるとし、大きく変わったものはない式に仕立てようとした。だが「間違いなく、もっと上の所からでっちあげの指示が下ろされたのだろう」との疑惑がやまなかった。捜査チームを交替し、原点から再捜査すべきだとの要求がキム・スファン枢機卿をはじめ各界の人々から激しく出された。
 結局5月29日、パク・チョウォン治安監、ユ・ジョンパン警正、パク・ウォンテク警正などが隠蔽や縮小の過程を指揮し、最初に犯人として拘束された2人の警官に罪を引っかぶせる対価として1億ウォンのカネをつかませた、とする検察の捜査結果が発表された。パク・チョウオンらはこの時、拘束され、後日(1988年1月)ファン・ジョクチュン博士にも隠蔽の圧力や増賄攻勢を加えたことが追加的に明らかとなり、カン・ミンチャン治安本部長も手錠をはめることとなる。また政府はノ・シニョン国務総理、チャン・セドン安企部長、キム・ソンギ法務長官、チョン・ホヨン内務長官を退陣させ、事態に対する「遺憾」の意を表明した。
 けれどもすでに堰は切られた後だった。野党や在野は与党の民正党がノ・テウ代表を次期大統領候補として選出することになっていた6月10日を「パク・ジョンチョル君拷問殺人隠蔽でっちあげ糾弾汎国民大会」の日と定め、準備に突入した。「6月抗争」が始まったのだ。
 このように当時の政府は事件を3度も隠蔽・縮小しようとして、むしろ事態を悪化させ、若い魂のやりきれない犠牲と繰り返された卑劣なでっちあげは、その時まで大学生たちの反政府闘争を「左傾容共」と決めつけていた政府の宣伝にある程度、肯いてきた一般の民心を闘争の隊列へと引きいれた。実にパク・ジョンチョル拷問致死事件がなかったならば、また闇に葬られてしまったならば、「ネクタイ部隊」が学生たちと一緒に催涙弾の中をつき破って街頭を駆けながら「護憲撤廃、独裁打倒!」を叫ぶことは不可能だったかも知れない。

独裁政権下での権力闘争

 ところで、ここでまた別の可能性を検討しなければならない。なぜ「独裁政権」はこの事件を効果的に隠蔽できなかったのか? または不手際に対応して、むしろ反発が大きくなる結果をもたらしてしまったのか?
普通、何人かの人々の英雄的な努力によって事件が葬られなかったのだと語られる。心臓マヒで処理せよという圧力にもかかわらず、剖検した通りの所見を明らかにしたファン・ジョクチュン博士、初期の捜査過程で警察の隠蔽の試図を断ったアン・サンス検事、犯人はもっといるという事実を知って獄中の身ながらもそれを天主教正義具現全国司祭団に知らせたイ・ブヨン氏、そして天主教正義具現全国司祭団等々。明らかに彼らは偉大な事をやりぬいた。
 けれども維新(パク・チョンヒ時代)から5共(第5共和国、チョン・ドゥファン時代)まで軍事政権は東ベルリン事件、キム・デジュン拉致事件、民青学連事件、チエ・ジョンギル・ソウル大教授死亡事件、在日同胞スパイ事件などにおいて事件の真相隠蔽に成功してきた。時局事件の容疑者を拷問することもはびこっていた。パク・ジョンチョル事件究明の一翼を担ったアン・サンス元ハンナラ党院内代表は回顧録で、こう語った。「これまで時局事件で死んで行った人々はすべて疑問死として処理され、葬られてしまった」。そのために時局事件の捜査官たちは拷問をしたり、拷問によって人を死に至らしめることを恐れはしなかった。安企部、警察対共分室、保安司などでは政権維持に妨げとなる人を不法に拘禁し、何はばかることなく拷問してきた。
 ところで、パク・ジョンチョル事件では、そうではなかった。ファン・ジョクチュン博士は剖検の結果を発表する直前までパク・チォウォン治安監などから、でっちあげた結果を発表せよという執ような強圧に苦しめられていった。ところが突然、関係機関対策会議から「拷問の事実が明らかになっても構わない」との通告が下りてきて、自由に発表できるようになったという。獄中のイ・ブヨン氏から事件ででっちあげの内訳が明らかにされ、それが無事に天主教正義具現全国司祭団に伝わるようにできたのも、権勢を誇っていた独裁政権下であってみれば、驚くべきことと言わざるをえない。

チョン・ドゥファンとノ・テウ

 ここで当時の政治状況を探ってみよう。野党は1985年以降、直選制改憲を強力に主張してきており、与党は改憲は受け入れるが内閣制への改憲を推進し、政局は梗塞状態にあった。与党は人物間の闘いとなる直選制改憲では両キム氏に対抗して与党が勝利するのは難しいけれども、総選挙での多数党が権力を握ることのできる内閣制ならば官権選挙や安保「商売」などを通じて勝算は充分にある、と考えた。
 直選制改憲によって、よしんば与党の候補が当選したとしても、当時の執権者であるチョン・ドゥファンの実権喪失が憂慮されもした。そして、誰がチョン・ドゥファンを継承するのか? 最も有力な候補はチョン・ドゥファンの陸士同期であり12・12(クーデター)の同志であるノ・テウ民正党代表だった。だがチョン・ドゥファンが次期政権でも実権を引きついでいくために「腹心」に該当する他の人物を内々に推しているとの観測もあった。そうだとすればチャン・セドン安企部長が有力だった。
 1987年当時、与圏内では2つの陣営間のあつれきが相当なものだったと見られる。ノ・テウは対野交渉において内閣制改憲を引き出すことによって次期を固めようとした。事実、その成功の可能性が高まりつつあるところだった。イ・チョルスン、イ・テクトンらは両キム氏勢力が主流である新民党において親与傾向の分派を形成していた。決定的に1986年12月24日、「イ・ミヌ構想」が爆弾的に登場した。新民党総裁として直選制改憲案をずっと支持してきたイ・ミヌが、地方自治制の実施と拘束者の釈放などを前提に「内閣制改憲に合意できる」と宣告したのだ。これは強力な反対の与論にあって、直ちにご破算とはなったものの、そのまま交渉を続けてみれば野党が内閣制に回帰することもあり得ることをほのめかした事件だった。
 ところで、あたかもパク・ジョンチョル拷問致死事件が勃発した。これは野党が強力な対与闘争に踏みきらざるをえないようにする事案であったし、そうすれば改憲の論議はどこかにふっ飛んでしまう。こうしてノ・テウをけん制しようとする側では、これを隠蔽せず適当に同調することによって対野交渉を台無しにしようとしたのではないだろうか? 事件直後に召集された関係機関対策会議を事実上、安企部が主導したということからして、そのような推測が可能だ。
 けれどもパク・ジョンチョル事件は次第に激化し、反対にチャン・セドン陣営に不利に働いた。事件が1回の真相発表によって収まりはせず、追加的暴露が繰り返されるとともに安企部の工作能力が不信を買うようになったからだ。5月26日の閣議の際、ノ・テウ陣営に立っていたチョン・ホヨン内務長官がチャン・セドンまで更迭するように強力に主張してきたことが、後になって伝えられた。彼は「口ふさぎのために与えたという1億ウォンの資金は安企部のカネであることが明らかなのに安企部長が免責されることはありえない」と声を荒げたという。
 死んだパク・ジョンチョルは独裁体制を維持しようとしていた与党の「コンドゥン塔(骨を折ってなし遂げたもの)」に連鎖的爆発をひきおこし、粉々に吹き飛ばしてしまった。一般国民、学生、在野、野党がひとつとなって対与闘争に踏み出し、それまで与野間で両非論(どっちもどっち論)で一貫し、その実は与党を擁護してきた保守メディアも政府批判を本格化せざるをえなくなかった。財界もまた政権にそっぽを向いた。

米国大使や財界代表が圧力

 6月抗争当時、執権勢力は武力鎮圧を準備していたが、米国大使や財界代表らが秘密裏に政府高位層と会い、「武力鎮圧はダメだ。ソウル・オリンピック(1988年)を目の前にしてソウルを1980年の光州のようにしてしまっていいのか」と説得、ないしは圧力を行使したという。結局、政府は6・29宣言によって国民に降服するほかはなかった。すべてのことが1人の若者の、やりきれない死から始まったことだ。
 パク・ジョンチョルが対共分室の浴槽に首を押さえつけられて死ななかったならば、あるいはその死が以前のように葬られてしまっていたならば、1987年の政治日程は与党の計算にしたがって回っていったことだろう。与野が内閣制改憲に合意し、これに反発して脱党した少数野党勢力を除いた与党と親与的野党の間に一種の「保守大連合」が実現したかも知れない。そしてこれらの勢力反対勢力を左傾容共と決めつける一方、88オリンピックを成功させなければならないとの主張を繰り返し、一般国民の民主化の意志を払しょくさせただろうし、その後すぐに実施された地方自治制(選挙)では地域感情が露骨に現れることによって全体的に政局は1990年の3党合同直後のようになったことだろう。いや、一層欺まん的で、正義を求めることのできない世の中になったことだろう。
 チョン・ドゥファンは陰の実権者としてトン・シャオピン(小平)や金丸信のように依然として大韓民国を思うがままに牛耳り、体制は見かけばかりが民主主義にすぎず、政権や体制に反対する声は依然として暴力的に弾圧し、一般国民は政治に興味を失ってしまったまま、カネ稼ぎと遊興にのみにおぼれることとなったであろう。だが、パク・ジョンチョル事件によって一切の事が変わった。実に一粒の麦の種が血にまみれたまま地に落ちて、民主主義の巨大な木が育つに至らしめたのだ。(「ハンギョレ21」第814号、10年6月14日付、ハム・ギュジン/成均館大・国家経営戦略研究所・研究委員)


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