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パキスタン                      かけはし2010.8.23号

被害の実態見据えた控訴審判決

紡織労働者の戦闘的闘争続報
ストライキ17日目、最初の成果勝ち取る
ファルーク・タリク


初めて社会保障
の権利を受ける

 ジャン地域二万人以上の動力織機労働者の、十七日目のストライキにあたる今日午後(七月二十二日)、経営者たちは要求に応じた。地域行政官(DCO)は紡織労働者のストライキキャンプで、全労働者には社会保障カードが発行される、と発表した。社会保障管理官、地方当局、雇用主たちは会議をもち、共に合意に達した。これはジャン地域の工業労働者にとって、無料の保健サービス、結婚や死亡の際の特別給付金、彼らの子どもたちのための社会保障学校における無料教育を含む、社会保障の利益を受けることができる最初の機会となるだろう。
 これまで、パキスタンの四千五百万人の労働者の内では、わずか二百十万人が社会保障カードを確保できてきただけだった。これは全体の四%未満だ。法律によれば、あらゆる労働者に社会保障カードが発行されなければならない。しかし多くの経営者は、彼らの全従業員を社会保障機関に登録する、などということはまったくない。ほとんどの工場所有者は、極めてわずかの労働者の費用負担をしているだけであり、残りは彼らの胸先三寸のままに留められている。それはなぜか。社会保障システムにおいては、経営者は、おのおのの労働者の賃金総額の最低七%の費用負担を求められる、これが回答だ。
 法律実行に責任のある労働省は、経営者たちと親密な関係をもっている。二〇〇三年以降バンジャブ州政府は、事実上労働省による工場査察を禁止し、所有者たちにフリーハンドを与えた。
 私有部門においての労働運動の主な要求の一つは、労働者に対する社会保障カードの発行だ。ファイサラバードにおいて労働者カウミ運動(LQM)に組織された一万人以上の労働者は、既にこの権利を享受しつつある。そして今やジャンの紡織労働者が、LQMの指導性の下に同様の勝利を得た。
 第二の要求、十七%の賃上げはまだ満たされていない。しかし所有者たちと当局は、労働者の指導者たちとの間で以下のことに合意した。すなわち、ファイサラバードのストライキにおける交渉結果が同様にジャンにも適用される、ということだ。

労働者、宗教支配
都市を揺るがす

 ジャン地域のストライキを指揮する責任を負っていたLQM主席副委員長、バワ・ラティフは、私に「われわれが最後に勝つ」と語った。労働者は十七日間、何カ所かのジャンのストライキキャンプにとどまった。ストライキキャンプを設置し、毎日デモを繰り広げる労働者をそこに留めるという戦術は、最初の二週間非常にうまくいった。衝突は労働者と経営者の間のものだった。始めから女性と子どもは重要な役割を果たした。結局工場所有者と当局に要求受け入れを強制したものは、宗教的偏執勢力が支配してきた都市における彼らの公然とした存在感だった。
 七月十九日にLQM指導部は戦術変更を決め、キャンプをDCO正面に移し、その入り口を封鎖した。これが地方当局に直接の圧力を加えた。数百人の子どもたちと女性たちが昼も夜も事務所を封鎖した。七月二十日の内にDCOは、キャンプを移すようLQM指導部に願い出た。しかしLQM指導部はそれを拒否し、すべての者が監獄に行く準備ができている、と彼らに説明した。
 私は抵抗を続ける可能性について相談を受けたが、われわれはそれが十分に有効であることで一致した。全国労組連合指導部と共に私は、ストライキは要求が満たされるまで終わることはないだろうと、七月二十一日のラホールでの記者会見で発言した。メディアは極めて関心が高いように見え、ジャーナリストたちは、今のストライキに関する質問を浴びせる代わりに、ラホールではいつストライキがあるのかを私にたずねた。私は彼らに、それは同じようにラホールにもやってくるはずだ、と語った。今日ウルドゥ―語と英語の新聞は、この記者会見でのわれわれの見解を伝えたが、これもまた当局に圧力となっている。
 DCOは、抑圧は闘争をなくすのではなくそれに火をつけるだけだ、と実感したに違いない。こうしてわれわれはよいニュースを聞くこととなった。

ファイサラバー
ドはいまだ緊迫

 一方、十万人以上の労働者が三日間にわたってストライキを続けてきているファイサラバードでは、交渉は決裂した。工場所有者、地方当局、労働者指導部との三回にわたる話し合いを経ても、合意にはまったく達しなかった。経営者たちは、LQM指導部に脅されていると言い張っている。彼らが語るところでは、課題の第一は彼らの身の安全を保障することだという。ある種奇妙な動きとして彼らは、LQMのならず者に対決して彼らもまたストライキに打って出た、などとメディアに伝えた。あたかもストライキを行っているのは彼らであるかのように、彼らは、工場は閉鎖され続ける予定だと発表した。しかし、工場の操業を止めているのは労働者のストライキだ、ということは誰もが知っている。
 LQM指導部は集会で、経営者どもの課題設定を逆転させ、彼らが懸念しているのは労働者の身の安全保障だ、と明らかにした。ストライキが始まって以来、経営者と警察は抑圧手段を行使し、これまでに二十五人の労働者が負傷している。暴力は停止されなければならない。パンジャブ州政府の最賃会議が告知した線に沿った賃上げを求めるストライキ労働者の正当な要求は認められなければならない。もう一回の話し合いは明日、七月二十三日に予定されている。
 この間に、主なLQM指導者の内四人が、テクリワラ警察署に不法に拘留されたままだ。ファザル・イラヒ、モハムマド・ババ、モハンマド・リアズ、アクバル・カンボだ。彼らは罪状を記載した令状なしにいまだ拘留されている。ファイサラバードのグラム・モハメド・アバド地区では警察がこれまで、アナ・アゼムを含む三百人の労働者を、工場経営者を襲い非合法集会を行ったという科で告発した。ここまでのところ誰一人逮捕されていない。
 現在まで、団結が崩れる兆しはまったくない。あるいは、労働者の一部がスト破りに応じるかもしれないという何らかの兆候もない。それゆえジャンの部分的勝利は、労働者階級が団結を保ち工場の操業停止が続く限り、ファイサラバードにおけるさらに大きな勝利に向け露払いとなる可能性がある。
▼筆者はパキスタン労働党の全国スポークスパーソン。(「インターナショナル・ビューポイント」2010年7月号)




パキスタン

被災者のための
労働者救援キャンペーンにカンパを
1200万人が洪水被害、緊急支援が必要

何もかもなく
病気もまん延

 パキスタンは、これまでの歴史で最悪の洪水に直面している。この三週間にわたり国の幾つかの地域で豪雨による洪水が起きた。防水壁が崩壊し、人々はあふれ出る水にさらされた。この洪水のために千二百万人以上が被災した。おもに村落部で六十五万戸以上の家屋が崩壊した。洪水のために数千エーカーの農地の収穫が台無しになった。住居や牛・ヤギ、家具、衣服、靴などの財産や生活用品が失われた。村落の住民は現在、飲料水、食糧、寝場所、着るものにも事欠いている。とりわけ、子どもや女性たちの状況は差し迫ったものであり、食糧・衣服を緊急に必要としている。飲料水がないため、被災地域では病気が急速に広がっている。とりわけ、インフルエンザ、熱病、下痢、コレラに注意すべきであり、それは拡大している。

政府の無策が事
態悪化に拍車

 政府の対応は事態を悪化させてきた。政府は迅速な行動をとらず、幾十万人もの人々を救援することもなく放置してきた。わずかな量の配給食糧の包みを付けた一時しのぎのキャンプを設定したのは二十四時間後のことだった。行われた食糧配布と、飢えをしのごうとする被災者の数とのギャップによっていさかいが起こり、この絶望的状況に置かれた人々にとって事態はさらに悪化した。
 メディアでの報道はほんのわずかなものだが、バロチスタン州(西部、イランと国境を接する州)の人々の状況は、カイバル―パクトゥンクワ州(旧北西辺境州、アフガニスタンとの国境地帯)や西南パンジャブ州(東部、インドと国境を接する州)と同じように深刻である。これもいつものことだが、彼らは政府の優先リストのトップに挙げられてはいない。
 カイバル―パクトゥンクワ州では昨晩から豪雨が降り始め、事態はまたもや悪化している。

共同で労働者救
援キャンプ開設

 労働者教育基金、パキスタン労働党、全国労組連合、女性労働者ヘルプライン、進歩青年戦線はラホールで労働者洪水救援キャンプを開設し、これまで三十万ルピー以上を集めた。洪水被災者を救援するために十一万ルピーがバロチスタンにすでに送られ、二十万ルピー以上が南部パンジャブに送られようとしている。
 われわれは、パキスタンならびに海外の友人たちと諸組織に対し、義援金あるいは飲料水、衣服(新品の)、靴、薬品のカンパを訴える。

 2010年8月7日




コラム

酒の肴に


 平日夜の集会が続き、疲れているなと感じていたある夕方。自宅で出発の準備をしていると携帯電話が鳴った。
 「いま○○駅にいるんだけど、どこ行きの電車に乗ればいいの」――世界の紛争地を渡り歩く、と言えばいかにも勇ましい。だが自分の言葉や言い回しに常に気を使う、心優しいベテランジャーナリスト、A氏だった。
 自宅で酒を飲みながら電話をしてくることがほとんどだ。「集会が終わったらさっさと帰ろう」という私の計画が、破たんした瞬間だった。
 主催者の予想を超える参加者であふれ返った会場では、懐かしい顔が再会を果たした。閉会後もあちこちで交歓が行なわれ、なかなか収拾がつかない。
 B氏が最新のカメラで張りきっていたので、私は気が楽だった。どうやら彼も、早く飲みに行きたい素振りを見せる。「全体の二次会に行ったら、自己紹介だけで一時間はかかるぞ」。意気投合した私たちは、会場そばの居酒屋に直行。店内は誰もいなかった。
 冷房が直撃するテーブルで乾杯したのは、私とA、B、それにもう一人C氏だ。私以外の二人とは面識があるようで、親しげに話が始まった。私と向かい合ったC氏が、やがて自己紹介を始めた。「どこかで見た、聞いたことがあるな」と私は記憶を探ったが、とにかく会話は弾んだ。熱燗好きのA氏に引きずられるように、みんなが日本酒と冷や奴で飲み続けた。高価な単品が揃う店にとっては、迷惑な客だったろう。
 それから数日。彼はいったい誰だったのか、とインターネットで名字を検索して仰天した。「フランス文学・思想研究者。○○大学教授。○○学会幹事」など、有名大学名や役職がずらりと並んでいる。さらに名前で探すと、自分がかつて彼の講演を報告した複数の記事にたどりついた。かた苦しい雰囲気はみじんもなかった。自分を「入国拒否」で排除した国々をあげて、屈託のない笑顔を見せていた。
 この世界はつくづく狭く、また、広いものだと思う。そして不思議なものである。社会を揺るがせた学生運動や政治闘争は、たとえその時は敗北したとしても、それだけでは終わらない。
 そこにかかわった人々は、時代の層として、横断的に生き続けている。長い時間の流れの中で、こびりついた垢やぜい肉を落とし、研ぎ澄まされ、点が面になる。人間としての円熟を加えながら、謙虚に酌を交わしている。誰かが独演をするでもない。どんな端末よりも合理的で、ホットな秘話が、酒の肴になる。
 活動歴三〇年余。まだまだ駆け出しと自覚する私を、友人は仰々しく語る。それでも、この世界で理想を抱き続けている。喜びや悔し涙を共にするであろう人々との新たな出会いは、明日への励みと、連帯につながっていく。     (隆)

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