関西でも新たな前進に向けた
協力・共闘の粘り強い構築を |
近畿・大阪でも
共社大きく後退
二〇一〇年第二十二回参議院選挙を、われわれは社民党、共産党の労働者政党への投票を呼びかけ、実際の選挙活動としては、比例区は社民党、選挙区は社民党の候補がいる地区では社民党の候補の選挙活動を担った。関西では、われわれは、政党的には社民党、新社会党を含み地方自治体議員を中心とするみどり関西の人びとや左派労働組合や市民運動などが参加する「闘う第三極」の中で、大阪選挙区の社民党・大川明子さん、比例区では近畿地方を中心に闘った社民党・原和美さんの活動を担った。しかし、結果はきわめて厳しいものであった。
大阪選挙区では、公明・石川、自民・北川、民主・尾立、の各氏が当選し、民主が二議席獲得を目指した人気司会者の岡部まりさんは落選した。これは前回参議院選挙と同じ結果だった。全国的に躍進したみんなの党の川平泰三さんは三十九万票弱を獲得した。
大阪選挙区大川さんの得票は八万七千八百五十八票・得票率二・二五パーセントで、原和美さんは三万八千八百十三票にとどまった。大阪選挙区は、前回参議院選挙では十四万千八百六十七票・得票率三・七〇パーセント(候補者服部良一衆議院議員)と比べると、票にして五万四千、得票率にして一・四五パーセント減少した。比例区の原和美さんも三万八千八百十三票にとどまった。これは、前参議院選挙で原和美さんが9条ネットとして兵庫選挙区だけで獲得した十八万五千七百七十三票の二〇パーセントにしかならない。
ちなみに、共産党は大阪選挙区では清水忠史さんを立て三十六万六千百五票獲得したが、宮本岳志さんと立てた前回の五十八万五千六百二十票からすると二十万票以上減らしている。今回選挙に於いて全国的に左翼政党が後退したが、近畿、大阪は特徴的にそれを示している。
われわれは、選挙戦で普天間基地の即時撤去・辺野古の新基地建設反対や憲法改悪反対、消費税増税反対など訴えたが、巨大メディアをも動員した日米同盟の強化、ギリシャの危機に乗じた財政再建・企業減税・消費増税、公務員バッシング、労働者の権利への攻撃など、小泉改革的新自由主義の復権などの攻撃を打ち返すことができなかった。その結果が「みんなの党の大躍進」であった。今後、労働者市民は、この選挙結果を受けたブルジョアジーからのより一層の具体的攻勢に遭遇することになるだろう。それらを、具体的な現場で打ち返すための闘いを作り上げる取り組みが求められている。
今回の選挙戦に社民党、新社会党を含めて「闘う第三極」として関わってきたきた部分は、それぞれに、新しい政治勢力下での攻撃に立ち向かうことが求められている。その一環としての国政・選挙制度の問題としては、民主党をはじめ自民党、みんなの党などが推し進めようとしている「比例区の削減」「二大政党制の定着」を許さない闘いの構築が急ぎ求められる。それらの闘いを進めるためにも、この攻撃が成功すれば議会勢力としては壊滅的打撃を被る社民党、新社会党のみならず共産党をも含めた協力・共闘関係の構築が必要である。これまでの長い間の両勢力の、とりわけ部落解放運動が大きな位置を持つ関西などで深い、「不幸な関係」を乗り越える双方のねばり強い努力が求められている。
関西では「闘う第三極」の総括的討論が始められようとしている。
辻元議員の社民
離党とその波紋
こうした中で、前の国土交通副大臣の辻元清美さんの社民党からの離党が明らかになってきた。辻元さんは、七月二十七日付の「私の離党届提出について」という文書の中で「社民党の政権離脱は基本方針に照らしてやむをえなかったことでありました」としつつ「一方小さな政党にとって政権の外に出たら、あらゆる政策の実現が遠のいていくことも心配でした」と述べている。さらに、今参議院選挙での社民党の後退について「社民党の筋を通す行動は認めつつも、しかし政権と関わりながらそれを実現していく道を、もっと真剣に辛抱強く探るべきだという有権者の批判もあったかと思います」と評価している。さらに「JAL再建問題、JR不採用問題の和解、中国人観光客のビザ緩和や生活困窮者の総合的サポートなど自民党政権ではなしえなかったこと」の実現を高く評価している。
ここにあるのは、民主党を中心の連立政権の中で、自らも関わってきた具体的課題での成果、現実的獲得物、あるいは成果に関わることができる関係を高く評価し、手放すべきではないとする辻元さんの一貫した政治姿勢の表れである。
他方、辻元さんは、「憲法九条を守り、弱い立場の人たちの政治を目指すこと、それはいささかも変わりありません」「普天間基地問題の解決のために沖縄のみなさんと力を合わせてこれまで以上に頑張っていきたい」と決意を述べている。市民運動との関係についても積極的に維持するという。
「理想は放棄しない、原則は守る。しかし現実的成果を上げるためには泥にまみれることも必要」ということなのだろう。
普天間基地県内
移設と消費税増
税に反対堅持を
しかし、当の相手の民主党は、鳩山辞任、菅総理の誕生を期して、ますます鮮明に日米同盟の深化、日米安保条約の順守、新自由主義的路線の鮮明化、大企業・経済界との一体化、官僚政治の復活、労働者の権利の剥奪、格差拡大の方向を強めている。また、政界では、躍進したみんなの党がキャスティングボードを握り、民主党内の松下政経塾的勢力が呼応して、小泉的新自由主義路線がバッコしようとしている。こうした厳しい状況で、そうした勢力との一定の関係を通して「理想に近づく現実的前進」をつかむことは針の穴に象を通すほど難しい。
辻元さんは「これからは無所属議員として活動を始めます」(「私の離党届け〜」)としている。「闘う第三極」の中でも、みどりの勢力はじめ「現実政治の中での現実的成果」を求める傾向はある。無所属になった辻元さんとこうした人たちの相互協力関係が強められることが大いに予測される。それは、関西の大衆運動の性格にも大いに反映されるだろう。
われわれは、昨年の衆議院選挙以来、社民党が民主党中心の政権に入る事に反対してきた。それは、社民党をして、自衛隊合憲論に走ったかつての自さ社政権のときのように、今日では新自由的(社会自由主義)路線に引き込む力を強める事になる。しかし、普天間基地問題で社民党は県内移設反対を貫いた。その帰結として社民党の連立政権からの離脱に至った。われわれは社民党の人びとにこの姿勢を貫き、普天間基地県内移設反対、憲法改悪反対や消費税増税、新自由主義的大企業優先の路線に反対する闘いなどでの共闘・協力を進めることを求めるし、われわれも全力を挙げる。われわれは、そうした運動の中で世界的な新自由主義・グローバリゼーションに反対し、その国内的実現と闘う反資本主義左翼の形成こそが求められていると訴える。
辻元さんの決断はそれとは矛盾する。今必要なのは「新自由主義の泥にまみれる決断」ではなく、「原則、理想に向かう勢力のための前進への一歩」の決断である。 (H)
大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会学習会
上告請求棄却・二審判決維
持最高裁要請書提出を確認
【大阪】七月二十七日エルおおさかで、大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の総会を兼ねた学習講演会が開かれた。
講演会に先立って開かれた総会では、活動報告、会計報告、新役員紹介に続いて、最高裁宛要請書を総会名で出すことを確認した。二〇〇八年三月二十八日大阪地裁で、そして同年十月三十一日大阪高裁で慶良間列島での「集団自決(強制集団死)」について隊長命令はなかったとする原告(沖縄戦当時の戦隊長およびその家族)の主張を退ける判決があり、控訴人側の上告趣意書が〇九年一月末に提出された。要請書は、それからすでに一年半が過ぎた現在、直ちに上告請求を棄却し二審判決を維持するよう最高裁に要請するものである。
総会に続いて、「集団自決」場の体験者で渡嘉敷島在住の吉川嘉勝さんが講演をした(講演要旨別掲)。
(T・T)
吉川嘉勝さんの講演から
渡嘉敷島「集団死」の実相
慶良間諸島の諸相
多数が「集団自決」した慶良間列島の中で、渡嘉敷村は沖縄本島(那覇市)に最も近く、村の中で最大の渡嘉敷島をはじめ十以上の島からなっている。そして慶良間海峡を隔てた西側に座間味島・阿嘉島・慶留間島などの座間味村の島々がつづいている。
沖縄戦当時、この狭い慶良間海峡には米艦船がひしめいていて、船の上を跳んで座間味まで渡れるぐらいだったという。渡嘉敷島の地図上で、「集団自決」場跡地と赤松隊長がいた防空壕跡地はわずか四百五十メートルしか離れていない。赤松隊長は戦争を生きのび、一九七〇年来沖したとき、「集団自決」が行われたその日は「集団自決」のことは知らなかったと言ったが、そんなことはあり得ない。
宮城晴美さんによる検証によると、座間味島の「集団自決」現場であった防空壕跡は八カ所ある。しかし渡嘉敷島は北山の一カ所しかない。そこで二百九十人村民が一九四五年三月二十七日から二十九日の間に「集団自決」した(現在諸々の文献では329人を採用している)。当時の渡嘉敷村の人口は千三百人ほどで、沖縄戦における渡嘉敷村の一般住民戦没者数は三百八十人(男136人、女244人)だが、そのほとんどは「集団自決」の日三月二十八日に集中しており、この戦没者数のうち、九歳以下が九十三人、十代が五十七人と子どもが突出している。
慶良間諸島と
海上挺進戦隊
慶良間諸島には沖縄戦を前に第一から第三までの三つの海上挺進戦隊が配置された。例えば、渡嘉敷村の渡嘉敷島には赤松大尉率いる第三戦隊が配置された。
その構成は、特幹隊員(特別幹部候補生隊員)百四人、特攻艇百隻、百二十キログラム爆雷二百十個保有、基地隊百六十一人、整備中隊五十五人、特別水上勤務小隊、下士官兵十三人、朝鮮人軍夫二百十人。この他に、現地の青年や成人男性が防衛隊員として軍に編入され、物資の運搬や連絡係を担当させられた。
例えば、役場の助役は兵事主任で防衛隊長などの任務につかされた。海上挺進戦隊というのは特攻隊で、特攻艇に特幹隊員が一人ずつ乗って特攻攻撃をかけるのが任務だった。だから、兵器は特攻艇とそれにのせる爆雷を除けば手榴弾ぐらいのものだった。特攻艇は渡嘉敷島の中部山中の特攻艇秘匿壕に隠された。
「集団自決(強制集団死)」
三月二十三日米軍の攻撃が始まり、二十六日には渡嘉敷島に米軍が上陸する。私は父親と一緒に住民防空壕に隠れていた。壕から出て投降していたら「集団自決」はなくてすんだだろう。巡査が、米軍が上陸したら住民はどうしましょうかと隊長のところにお伺いに行ったら、自分らは北山に行くから住民は北山に集めた方がいいだろうと隊長は示唆した。これは巡査の手記に書いてある。
示唆したという言葉、皆さんはどうとるか? 当時隊長の言葉は絶対だったから、反対などはできない。手記は随分配慮した言葉使いがされていて、少し歯がゆいほどだ。
第三戦隊は特攻艇による特攻攻撃の準備をするが、結局一隻も出すことなく、突然、特攻攻撃は遅すぎたとの理由から赤松隊長命令で特攻艇をすべて破壊して、北山に後退する。そして、北山に日本軍陣地を構築した。村民は北山に集合するよう隊長命令が出され(巡査により伝達され)、住民は隊長の本部壕の周りに集まるが、こんなところに来たら敵に軍の位置がばれるから住民はあっちに行けと言われ、壕も何もない、雑木林のようなところに集められた。
壕は隊長壕以外にもあったが、そこは朝鮮人軍夫や防衛隊員にあてがわれた。そして二十八日夜が明けるのを待って、この野ざらしのような場所で「集団自決」が行われた。吉川さんはこのとき六歳だった。役場で働いていた兄・祐介の証言では、ここに集まっていろいろやっているとき、連絡係の防衛隊員が村長に耳打ちし、それが終わるか終わらないかの時、村長が訓辞をして天皇陛下万歳を唱え、それが終わるやいなや手榴弾が爆発して「集団自決」が始まった。
兄が手榴弾の信管を抜いたところまでは覚えている。ところが爆発しなかった。どうしようと兄は母に聞いた。父親が、火の中にぶち込めと言った。ところがなかなか爆発しない。姉の夫が息子をおぶっているのを見た母は、祐介にそんなもの捨てて逃げろと言った。そうしたら、義理の兄も祐介兄も簡単に手榴弾を捨てたが、父はそのとき「自決」した。このいきさつを幼い私の方がよく覚えている。おそらく姉たちは、成長していたのでかえってトラウマにかかって記憶をなくしていたのだろう。場面場面を時系列的に記憶しているのは自分だけだった。
「集団死」の真相
最後に「集団死」の真相について話したい。日本軍のいない島では「集団死」はなかった。渡嘉敷ではどうして北山に集めたのか。米軍に情報が漏れるのを防ぐため、そして軍の食糧を確保するためだった思う。
三月二十日頃、兵器軍曹が役場職員や少年に二個ずつ手榴弾を配っている。軍の貴重な弾薬といえばほぼ手榴弾だけだった。これが渡らなければ、惨事は決行されなかった。
「集団死」の前に軍隊である防衛隊員が戦列を離れて自決場に来たことは、「軍命」・「軍の直接関与」以外のなにものでもない。軍命に違反した防衛隊員は銃殺されている。大城徳安先生(当時国民学校訓導)はたまたま本島から来ていて島にあまり知り合いがいなかったので、家族に会いに行ったことが挙動不審と思われ処刑された。皇民化教育の徹底・沖縄県民差別・交通通信の断絶などの環境が「集団死」の決行を後押しした。
自分は今古希を迎えたが、「集団死」の事実を知っている者の中では最も若い。「集団死」の生き残りだそうだが、知っていることを話してくれとひめゆりの会から頼まれたが、そのときはテープに吹き込んだだけだった。校長になったとき初めて考えるようになり、沖縄慰霊の月に事実だけを話すようになった。
でもどうしてこんなことが起きたのかについて話したのは、教科書問題での二〇〇七年九・二九集会が初めてだった。南京大虐殺事件の裁判を知ったとき、次はひょっとしたら沖縄「集団自決」かなと思ったが、まさか現実になるとは思わなかった。
(発言要旨、文責編集部)
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