| 韓国はいま 正常でないG20首脳会議の警護 かけはし2010.9.27号 |
軍隊の動員可能なG20特別法
テロ防止名目で自由を侵害 |
「失礼します。今どちらへ行くところですか? 正確な目的地を教えていただけますか? なぜそこへ行くのです? カバンの中をちょっと拝見します」。
今年10月末から11月初めにソウル・三成洞コエックス周辺を歩いている市民らは、このような検問・検索を受けることになるようだ。政府は、1泊2日で開かれる「主要20カ国(G20)ソウル首脳会議」の際の強い警護対策を予告している。市民団体は行き過ぎた人権侵害だとして反発している。
会場周辺は検問所だらけ
11月11日から2日間、開かれるG20首脳会議には20カ国の首脳はもちろん、国際機構のトップを含め1万余人が参加するものと予想される。政府は「国格上昇」の機会と見て徹底した準備に念を入れている。この中心には会議場周辺で市民を検問・検索し、出入りを制限する措置はもちろん、88オリンピックを前にして施行された「街頭清掃」的な露天商・野宿者取り締まりなども含まれる。
政府は既に市民の基本権を制限できる根拠を作っている。ハンナラ党は5月、「G20首脳会議の警護安定のための特別法」を国会で通過させた。特別法は秩序維持のために軍隊さえ動員できるようにした。またG20首脳会議が開かれる場所や各国首脳および国際機構代表の宿舎、移動路など首脳会議と直接的に関連のある場所や、その周辺を警護安全地区に設定し、ここでは検問・検索、出入りの統制、危険物探知ならびに安全措置などのために、防止に必要な活動ができるようにした。さらに、警護安全区域を指定する際、保安維持が必要な場合、対象区域や期間などを公告しなくともよい規定まで設けている。法律制定当時、民主党や民主労働党など野党側では「2005年アジア太平洋経済協力体(APEC)首脳会談なども既存の集示法(集会ならびに示威に関する法律)で大きな問題もなく行われたのに、特別法を作って著しく国民の基本権を制限している」と反発したものの、どうしようもなかった。
政府は、首脳会議が開かれるコエックスには周辺600メートル内側に38の検問所を設置し、一般人の出入りを統制する計画であることが明らかになった。ソウル江南区庁を通じて身分が認証された居住者たちは検問所で簡単な確認手続きを経るが、居住者でない場合は身分証および所持品の検査を受け、訪問地と訪問目的などを説明しなければならない。政府関係者は「市民の不便を最小化するとともに、効果的な警護をすることを目標とする」としながらも「平常時とは違って、いぶかしい物品を所持していないか確認し、コエックス内に進入する場合には目的地を確認するなど、検問・検索を行うだろう」と語った。また「警護安全区域は来る8月末または9月初めに公告する予定」だと付け加えた。
さらに、各国首脳が宿泊する予定の特級ホテルや彼らが移動する経路も特別法上の警護安全区域の指定対象に含まれ、市民の不便は一層、大きくなる見通しだ。米国代表団はソウル・漢南洞のグランドハヤットホテルに滞在する予定であり、中国は奨忠洞ウェスティン朝鮮ホテルを宿舎に決めたと伝えられる。またサウジアラビアは広壮洞シェラトンウォーカーヒル、イタリアとアルゼンチンは三成洞パークハヤットホテル、フランスとイギリスは三成洞グランドインターコンチネンタルなどに滞在するものと見られる。
インターネットも検閲対象
首脳たちの宿舎や移動路はソウル市内全域にわたっている。ソウル市内の各特級ホテルは市民の通行が多い地域に位置している。ここがすべて警護安全区域に指定されれば市民や車両の通行に制限を受けざるをえない。「民主社会のための弁護士の会」のパク・ジュミン弁護士は「特別法によって市民の出入りを統制したり検問・検索をするのは憲法が保障した集会・デモの自由、居住移転の自由などを侵害する措置」であり「特に、会議の場所以外に首脳らの宿舎や移動路まで警護制限区域に指定され、市民の基本権が広範囲に侵害される可能性が大きい」と語った。
その上、警察はG20首脳会議を理由としてインターネット・カフェや動映像の閉鎖・削除を該当サイト側に要求したことが確認された。各ポータルサイトに送った警察庁の協助公文を見ると、警察は最近、G20首脳会議を前にして天安艦沈没事件と関連してモニタリングの強化や不法コンテンツの削除はもちろん、危険だと判断したカフェの閉鎖をインターネット事業体に要求した。
警察庁が送った公文には常に「G20」を理由にコンテンツを削除してくれることを要求する内容が盛り込まれた。爆発物製造と関連した協助の公文は「近づく国家行事のG20を前にインターネット上の爆発物製造法および関連材料を購売している文章や動映像などが掲示・流布されるのに伴って学習・模倣犯罪の発生が大いに憂慮される」とし、該当カフェ閉鎖などの措置を要請した。警察が問題とみなしたのはNHNの「爆弾研究所カフェ」「武器のすべてカフェ」などとエムクンの「スプレー爆弾」「ミニ爆弾づくり」動映像などだった。8月6日現在、該当カフェと動映像は削除された状態だ。これに対してNHN関係者は「警察など司法機関の要求に従っている」と語った。
これをめぐって進歩ネットワークセンターなど市民団体は、警察が表現の自由を制約していると批判した。チャン・ヨギョン進歩ネットワークセンター活動家は「インターネットに流れている爆弾関連の情報は図書館や書店でたやすく求めることができるし、海外サイトでも求めることのできる内容」なのであり、「実質的な遮断効果はないのに国内のインターネット空間の表現の自由ばかりを侵害している」と語った。
移住労働者も取り締まり
「社会的弱者」に対する基本権の侵害は既に年初から始まった。法務部(省)は6月から未登録移住労働者の集中取り締まりを実施しており、警察庁は5月から50日間、外国人犯罪に対して集中取り締まりを展開した。ソウル市は25の自治区に道路特別整備班88個を作り露天商に対する巡察と整備を強化している。これに対して移住労働者の権利防衛、露天労働連帯、貧困社会連帯、人権運動サランバンなどで攻勢された「人権弾圧共同対策会議」は7月20日、ソウル中区の明洞聖堂入り口で記者会見を行い「政府がG20首脳会議を口実に社会的弱者たちの人権や生存権を深刻に脅かしている」と批判した。
お客さまを迎えるために市民の基本権を制限する措置は前後があべこべだ、との指摘だ。オ・チャンイク人権連帯事務局長は「外国の首脳たちが来る行事を初めてやるわけでもないし、この10年間、首脳会議を行ったのにG20に限って大げさに振る舞っている理由が分からない」し、「社会・経済的弱者に厳しく接しながら、お客さまを接待するというのは国家指導者の本分ではない」と語った。(「ハンギョレ21」第823号、10年8月16日付、イ・ジョンホン記者)
戦争映画、男子と祖国をうたう
敵を悪魔化、女性は常に補助役
1973年に生まれた私や幼い時の友達は、いかなる戦争も自分の目で見たことはなかったけれども、何人かが集まりさえすれば、いつも遊びのテーマは「戦争」だった。「ファッショ軍」と「ソ連軍」の両グループに分かれ、銃の形をしたおもちゃを手にして互いに闘うふりをするのは1970年末〜80年代初めのソ連の子どもらの最も一般的な遊びだった。ドイツのファシズムが敗亡してからほぼ40年が過ぎていたにもかかわらず、子どもたちまでもこのようにソ独戦争の集団的記憶に回帰し続けた理由は何だったのだろうか? ほかでもなく、この集団的記憶は不断に再生産され続けているTVや映画だった。
戦争映画と
検閲の基準
1970〜80年代、ソ連映画界では「戦争映画」ほどに繁昌したジャンルはなかった。もちろん、このすべての戦争物を一律的に「戦争宣伝」と呼ぶのは難しい。クエンティン・タラティノ監督が「世界最高の第2次世界大戦関連映画」だと褒め称えたクリモフ監督の〈カム アンド シー〉(来て、見よ I
di I Smotri 1985)程度ならば、むしろ「戦争嫌悪映画」により近いだろう。映画の主人公は「英雄的軍人」ではなく、白ロシア(「ベラルーシ」の以前の名称)を占領したドイツ軍が良民虐殺をほしいままにしている光景を見ながら精神病者となる一少年であり、焦点は「武勇談」ではなく人間の不可抗力の内在的暴力性に合わせられている。
ところでこの映画でさえも「敵軍」であるドイツ軍はパルチザンらの裁判を受けながら、すぐにも銃殺されるだろうと思いつつも「劣等人種であるスラブ人種を無慈悲にせん滅させなければならない」と声を荒らげるファシズムの興奮した信徒や、炎に焼ける白ロシア人らを見ながら拍手をして記念撮影をしている非人間、そうかと思えばパルチザンに捕まって「どうか銃殺しないでくれ」と命乞いをする卑劣な臆病者として描かれる。「人間性」は「わが方」の占有物であり、「奴らの側」が「脱人間化」されるのは戦争映画というジャンルの一般的特徴だ。
「わが軍の胆力」でもなく、生きたまま火葬される直前の幼い子どもの表情に焦点を合わせた〈カム アンド シー〉のような映画は、厳格さにおいて悪名高かったソ連の検閲をどうやって通過できのだろうか? 答えは簡単だ。戦争映画というジャンルの目的のうちの一つが「敵の悪魔化」であるだけに、戦争への嫌悪をひき起こすようなヒューマニズム的基調の映画とは言っても、「敵」に対する描写さえ「適切」であるならば意味あるものとして評価される。
日帝末期に多くの朝鮮人が見た当時の日本の「国策映画」にしても、必ずしも「武勇談」物ばかりではなかった。例えば巨匠マキノ雅弘(1908〜93)の〈阿片戦争〉(1943)という名作は、日本の敵となった英米を、半世紀前の英国の中国侵略をあてこすって「アジアの永遠の敵対者」として描写する。戦闘シーンも多くはなく、さして華々しくもないこの映画は、その代わりに無数の中国人をアヘン中毒者に仕立てて廃人化し、アヘン密売ギャングどもが猛活躍できる状況を作り出した英国帝国主義者たちの悪行を告発する。それに加え、目の見えない姉妹のために治療用のアヘンを求めようとしてあらゆる苦衷を味わっている「善良な少女」の話というメロドラマ的要素が加味されたのだから「良質の娯楽物」だと見ることもできる。
考えてみれば、アヘンを普及しようとする英国の侵略者たちに対するこの映画の告発は、歴史の事実にそうはずれたものではなかった。先に言及したクリモフ監督がファシストの残酷性を告発したことと同じだ。問題は19世紀中盤の英国侵略者や20世紀中盤のファシストたちが残酷だからと言って、マキノ雅弘が奉仕していた日帝の中国侵略や、クリモフ監督が属したソ連の、当時のアフガン侵略(1979〜89)は一体、本質的に何が違っていたのかという点だ。監督たちであれば現実的選択の幅が狭まることもあっただろうが、彼らが望むにせよ、そうでないにせよ、「我々の敵」を悪魔化する彼らのずばぬけた戦争物は、「ウリ(我々)」の姿を美化することによって「ウリ」の戦争行為の無条件的合理化のための基盤を準備した。
戦争物において「敵」は殺してもさして後悔することのない「悪魔」や「卑怯者」「興奮した信徒」として出てくるが、「ウリ側」は大概「本物の男性性」の典範を示す。実際、戦争映画の国有機能のうちの一つは「戦士型」男性の美徳を誇示することによって、軍隊と軍隊特有の文化を正当化するのだ。
例えば「1千万観客突破」という韓国映画史の新記録を樹立したカン・ウソク監督の〈シルミ島〉(2003)を見よう。「国民俳優」アン・ソンギが演出した教育隊長チェ・ジェヒョン准尉は、軍人そのものだ。必要であれば部下たちを本当に守るために手榴弾までも冷静に利用することのできる、地獄訓練の過程で死亡・負傷事故が起きても特別の感情を表には出ない彼は、同時に「軍人としての義理」を守って部下であるシルミ島部隊員に対するせん滅命令が執行される様を見守るはずなのに、むしろ部隊の反乱を誘発し自殺する道を選ぶ。敵を殺したり、殺して行く人を目前にしても感情の動揺がない、だが「闘う男性たちの共同体」に対する義理が強い男子こそ、この映画が余りにも「クールに」示してくれる典型的な軍人だ。
〈シルミ島〉、男性たちの共同体
反対に女性としてこの映画に登場するのは、脱営した数人の隊員から性暴力を受けた女性教師の反乱を起こした隊員らがバス内で人質にした女子高生ぐらいだ。力のある男性が消極的存在である女性にその力を振り回すことになっているのは家父長的思考の典型なのだが、大部分の戦争映画が、この思考を基本的設定として敷いている。
戦後の戦争映画の古典とも言える〈硫黄島の砂〉(San ds of Iwo Jima 1949)でも兵士たちに地獄の訓練をさせつつ不満を買いもする、だが部下への愛が格別あったり部下の命を救いもする兵長は、ある女給にカネを与えて性を買おうとした後、彼女が自分の子どもを食わせるために売買春をしている戦争未亡人だという事実を知るに至って、彼女に自分の有り金をすべて与えていく。男性は他人の生死を左右できる腕力と財力、権力を兼備し、それにもかかわらず優しくもある「行動の主体」、女性はそれに性を捧げることになっているが、子どもでも育てる補助役……大部分の戦争映画の性の扱いは、このような男女の役割区分に基づいている。
もちろん米国という「善なる国家」を代表するというジョージ・マーシャル司令官が、兄弟の中で唯一、生き残ったライアン1等兵を救えという人道主義的命令を下す、星条旗がはためいている米軍基地での参拝の場面で始まり、そして終わるという〈ライアン1等兵救出〉(1998)のように、すべての戦争映画が「ウリ国家」を絶対善として描いているわけではない。
特に韓国のように権威主義時代を経ながら、国家が数多くの人に「加害者」のイメージとして残っているところで、このような描写は観客の期待とも現実的にかけ離れる。そういうわけで、自国の根本的な問題などに物言いをつけようとはしないハリウッドの一般的戦争映画とは違って、訓練兵に希望を与えては結局、彼らを「非国民」として処理し「廃棄措置」しようとする〈シルミ島〉の中のパク・チョンヒの国家は、むしろ「悪」により近い。
だが現実的国家は「怪物」だとしても、戦争映画は常にこの現実の矛盾点を超越する理想的な「ウリナラ(わが国)」の存在を強調する。2つの部分に裂かれた国の悲劇が結局はシルミ島部隊隊員らの悲劇を生んだというのが映画〈シルミ島〉の基本的発想だ。「ウリナラの悲劇」という、この巨大なテーマと論議の中では、「悲劇の産物」である隊員らが同情の対象となるかと思えば、また彼らに性暴行された女性教師は観客の関心から遠ざかる。隊員らは命をかけたピョンヤン出征を通して「本当の国民」として生まれ変わろうとしていた、生まれながらにして「1等国民」となるに充分な男性であり、女性教師は生まれながらにして「2等国民」たるほかはない女性であるからだ。
進歩的戦争映画
は可能なのか
同じようにロシア産の第2次世界大戦関連映画の中でほとんど唯一とも言うべき、ドイツ軍ばかりでなくソ連指導部の問題までも暴き出そうとしたトスタル監督の〈懲戒部隊〉(Shtrafbat
2004)はスターリン体制の残酷性を批判的に示しつつも、生存の可能性がほとんどない部隊で「祖国に生命を捧げつつ罪悪をすすいだ」かつての刑事犯たちを英雄化する。彼らが過去に性暴行をやっていたにせよ、殺人を犯したにせよ、「祖国に生命を捧げた」男性が無条件に英雄となるのは戦争映画というジャンルの法則だ。
「本当の国民」として生き、そして死ぬために身も心も鍛えあげ、人とも思えぬ敵どもには無慈悲に、そして部下や戦友にはいつも厳しいながらも優しく対する「本物のサナイ(男らしい男)」、彼にとってそれが自分の意志によるものであろうがなかろうが性と心とを捧げなければならない「女性」、そして常に国民の犠牲を要求する「祖国」。この基本枠を乗り越えた戦争映画は可能なのか? 戦争の精神病理学を解剖したコッポラ監督の〈地獄の黙示録〉(1979)は戦争の真実を見せつけつつ「祖国」と「男性」の幻想をうち壊す進歩的戦争映画の可能性を見せつけた。けれどもこのような水準の映画があまりにもまれだというのが大いなる未練として残る。(「ハンギョレ21」第822号、10年8月9日付、パク・ノジャ/オスロー国立大教授・韓国学)
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