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    かけはし2011.8.15号

世間では無名の政党でも江南バラック街では第一野党

「ありがとう、社会党のみなさん」

 「わあ、また来てくださったんだ」
 出会う人々が、みんな手を握った。「これを食べてみて」と手を引っ張る人もいた。国会議員どころか、地方議員の1人とていない「無名政党」社会党ではあったが、「江南のバラック村」ソウル・浦二洞でだけは第1野党も顔負けのようだった。「社会党を知ってるのか」との問いに、266番地の火災現場前で出会ったソン・ヒスさん(63)が真顔で語った。「我々にとって社会党ほどありがたい党はない。すがりついて訴えることしか知らなかった我々に、家を奪われない方法、官庁に行って堂々と問いつめるやり方などを教えてくれたのが、その党の人たちなんです」。

選挙の成績はささやかでも


 社会党にとって浦二洞は7年前から青少年の学習塾活動などを通じて住民たちとあつい結びつきを培ってきた「戦略地域」だ。アン・ヒョサン代表ら党指導部が7月4日に続き7日にも再びここを訪れたのも、このような事情と無関係ではない。チョ・チョルスン浦二洞死守対策委員長(53)は社会党員たちについて「とてもありがたい人々」だと語った。「学校が終われば行く所もない子どもたちのために勉強の機会を作って面倒をみてくれた。社会党のみなさん方を考えるたびに胸がしめつけられる」。チョ委員長の人一倍大きい目に、いつのまにか涙がにじんでいた。
 社会党に対する世間の評価は浦二洞でのそれとは違って、ひたすら渋い。そもそも党の存在それ自体を知っている人々は極少数だ。そして、それなりに知っている人々の間では、「運動圏のサークル」「サークル政党」だとからかう。党勢や政治的影響力が同じような進歩政党である民主労働党や進歩新党に比べて、途方もなくささやかなせいだ。昨年、何回かの選挙で社会党が得たみすぼらしい成績表も、このような評価を固めさせた背景だ。
 社会党は2007年の17代大統領選挙の際、クムミン氏を候補に立てて1万8223票(0・1%)を得た。ホ・ギョンヨン共和党候補が得た票の4分の1レベルだった。翌年の総選挙には地域区の候補は立てず、比例代表候補だけ出馬させて3万5496票を得た。15の政党の中で12番目だった。昨年の7・28ソウル・恩平乙補欠選挙では「分裂主義政党」という非難をあえて受けてまで独自候補を押し立てたけれども0・5%を得票するにとどまった。動揺し揺すぶられもしたけれども指導部や党員らは毅然としていた。当時を振り返ってアン・ヒョサン代表は「我々の価値や方向が正しいという事実を確認することによって、むしろ党結束の契機となった」と語った。
 紆余曲折のすえに進歩政党統合の論議がにわかに高まるとともに、社会党は今年初めに進歩大統合のための連席会議に招待された。政治的持ち分に比べれば、このうえなく過分な扱いだとの指摘があったけれども、社会党は臆することなく自らの主張を述べた。北韓(北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国)の3代世襲に対する態度をめぐって苦しい妥協によって縫合された5・31連席会議の最終合意文に対して社会党は結局、署名しなかった。合意文は社会党中央委員会が4月に決定した「新たな進歩政党の建設に関する中央委員会決定書」の精神に符号しない、との理由だった。
 「存在感のない少数政党が政治的孤立を自ら招いている」という外部からのからかいは長くはなかった。民主労働党と進歩新党の統合論議が陣痛を味わい、進歩新党の分党の可能性が広がるとともに、社会党は進歩新党独自派の有力な提携パートナーとして挙論され始めたのだ。災い転じて福となる、だった。進歩陣営内部ではメディアや社会の無関心の中でも13年という長い歳月をぐっと耐えてきた少数政党の生存法に関心を持ち始めた。

活動家党員200〜300人


 社会党は1998年11月「労働者・民衆の政党」を建設するという名分の下、「青年進歩党」という名前で創党された。創党時期で言えば民主労働党(2000年)よりも早かった。民衆民主(PD)路線の強硬派が主導した政党だった。彼らの政治カラーは2001年8月の第3回党大会で党名を社会党へと改名するとともに、「資本主義反対、朝鮮労働党反対」をスローガンとして掲げたことからも確認できる。社会党は2002年の地方選挙と16代大統領選に出馬させたが惨敗した。
 2003年からは「最も差別されている人と何よりもまっ先に連帯する」という原則の下、平和、生態主義(エコロジー)路線を強化するとともに、障がい者など社会的少数者との連帯を党の主力活動としてきた。韓国イラク平和支援チームを運営し、障がい者の移動権運動に積極的に結合して社会的耳目を引きもしたけれども、党に対する大衆的支持が広がりはしなかった。「希望社会党」(2006年4月)を経て「韓国社会党」(2006年10月)へ、そして再び「社会党」(2008年)へと党名を改正した後には「社会的共和主義」という政治理念と「基本所得」(所得の多少や労働の有無に関係なく、すべての社会構成員に一定して支給する所得)綱領を前面に掲げて、新自由主義を乗りこえる新たな進歩の道を模索している。
 この間、1600人余で始まった党員規模(1998年・青年進歩党)は昨年6月末現在5759人へと増加した。けれども党員名簿上の数値であるにすぎず、実際に党費を納入し党活動に積極的に参加している基幹党員の規模は持続的に減ってきたというのが、もっぱらの評価だ。実際のところ社会党は2000年の総選挙の前後と2008年の進歩新党の創党を前後して路線の葛藤に振り回されるとともに、2度にわたって大規模な脱党の事態を経験した。脱党者の大部分が党活動に積極的な尽誠党員だという点で打撃が大きかった。
 社会党員たちの中で党員大会に参加して議決権を行使し、党が主催する集会や行事に積極的に参加している「活動家党員」の規模は200〜300人ほどだ。数は少ないけれども党に対する献身性や活動力は、どの政党員たちにもひけを取らないというのが内外の評価だ。
 昨年の6・2地方選挙以降、民主労働党との統合圧力に直面した進歩新党の一部から社会党との先・統合論が出てきたのも、民主労働党主流の覇権主義に対抗しようすれば社会党の活動家たちの「輸血」が必要だという政治的腹づもりが作用した、というのが定説だ。

「社会党は、そもそも党なのか」


 党員たちは20〜40代にわたっているけれども、主力をなしているのは30代だ。1990年代中盤の全盛期を享受した学生の政治組織活動を通じて党と関係を結んだ人々だ。サラリーマン、社会運動団体の活動家などに変身した人々は毎月1万〜10万ウォンずつの党費を出して、国庫支援なしに運営されている貧しい党の台所事情を支えている。
 非正規職病院労働者の支援団体で仕事をしているイ・ウニョンさん(38)は、「子どもを産み職場生活をしながら政党活動を併行するのは簡単なことではないけれども、党が守ってきた価値や路線が正しいという確信、正しく献身的な活動家たちに対する愛情がゆえに、党の要請があればひとはだ脱ぐ方」だと語った。40代の党員であるイ・ヨンギさん(41)は中央党の党職者として働いていて、生計問題のために仁川のある社会団体に活動の場を移したケースだ。彼は「10年余り党を維持しながら韓国の進歩政党運動に意味ある一線を画したと自負している」「北韓の硬直した社会主義体制を正面から批判したことや、新自由主義に反対しつつ基本所得や普遍的福祉を全社会的課題として刻みこんだことも、社会党が提起した大切な結実」だと語った。
 もちろん彼らの自負心は少数政党員としての悲哀と苦痛を甘受した対価として得られたものでもあった。ある党員は「どんな集まりに行っても、社会党だと言うときにはカミングアウトする人を見るように気乗りのしない視線を感じる」と吐露した。チョ・ヨンクォン代弁人は「知り合いに党員加入でも勧めようものなら『クォン・ヨンギルやノ・フェチャンがいる党でもないのに、何でまたその党なのか』と剣突をくらわなければならなかった」し「ある程度、分かっている人には綱領などを話しながら説得するけれども、親戚らの前では実に難しい」と語った。
 このような党員たちにとって「社会党は、そもそも党なのか」という言葉ほどに傷つく指摘はない。社会党の独自路線を批判している側では「選挙に出て綱領・政策に対して有意味な評価を受けられない組織であるならば、政党というよりは政治運動団体に近い」とこき下ろす。「労働組合など大衆組織の支援や支持を受けられない事実上の運動圏サークル」との批判も、お決まりのように付いて回る。けれども社会党の人々にも言い分はある。「得票と当選の可能性を高めるために進歩の原則や価値を損なうことを現実主義路線だと正当化することができるのか」(イ・ヨンギ)ということだ。

「第2社会党」を克服できるか

 社会党は6月26日の党大会で「9月末までに進歩政治の革新と再構成に同意する政治勢力および諸個人と共に新たな進歩政党を建設する」という特別決議を採択した。内心、期待しているのは、民主労働党との結合を拒否している進歩新党独自派と共に第2の進歩政党を創党することだ。進歩新党内部の流れ(「かけはし」前号、前々号参照)から推して、彼らの期待は現実化する可能性が高いようだ。カギは、再創党に成功したとしても選挙という競争局面で、以前の18代総選挙での時のように有力進歩政党への票集中現象を克服できるのか、という点だ。まだ誕生してもいない「第2の進歩政党」に対して早々に「第2の社会党」となるだろうという心配が陣営内部から出てくるのも、このためだ。(「ハンギョレ21」第869号、11年7月18日付、イ・セヨン記者)

コラム

農地の「第三者継承」

 真っ黒に日焼けした顔は同じ六二歳とは思えない程精悍さが残る。彼は四〇歳で会社をやめ田舎に戻り両親とともに農業を始めた。大学卒業とともに商社に勤め、主に小麦など穀物の輸入畑を歩き、半分は海外暮らし。赴任先はほとんどオーストラリアとニュージーランドなどの南半球で、その時にいつかは田舎で百姓をやることを決めたという。
 今回の上京は隣家の畑を借りるための交渉とのこと。隣家にはおばあちゃんが一人で住んでいるが、数年前に腰を痛め畑は雑草が茫々。勝手に耕すわけにもいかず、東京に住むおばあちゃんの長男に会いに来たという。
 彼によると日本では職業として農業をやろうと思ってもなかなかできないという。その最大の壁が「農地」問題。Uターン組でも実家が農家でない場合は農地を手に入れることはかなりきつく、せいぜい知人を仲介し借りるのが精一杯。Iターンの場合は地元につてがないので借りるのさえ容易ではない。そのため農業を志す青年の多くは、農業法人などに就職し、耕作技術や経験・交流を通して周りの人の信頼を得て独立するのが一般的。それさえ都市部の近郊で二〇年位前から始まったばかりで、東北の米作地帯ではまだまだ一般化していないという。
 その一方、農村部は高齢化が進み後継者がいないために農地をどうしようか悩む農家が増え、耕作放棄地も年々拡大している。耕作されない期間が長くなれば、丹精をこめた農地も機械も使い物にならなくなり、周囲にも雑草が広がる。ここに今農業がTPPのターゲットにされるひとつの要因があるという。
 良きに付け悪しきに付け「先祖代々の土地」という日本社会は、耕すことをやめてもせいぜい隣り近所に貸すだけで、農地を手放すのは「恥」とする考えが今も残る。ニュージーランドでは、自分の子ども以外に農地を譲る「第三者継承」が一般的で、営農方法や営農環境を引き継いでくれる人が優先されるらしい。それは使っていた農地だけではなく機械や施設のほとんどを譲ることができるからだ。これは酪農、畜産、穀物栽培と営農形態が違う農家でも変わらないという。子どもに譲る場合でも他人に売却するのとほぼ同じ値段であり、日本と違って街には農地の売買を斡旋する不動産業者が多く、逆に賃貸農地はあまりないらしい。土地への執着が一方では日本の原風景を守ってきた側面もあるが、他方では農業離れをつくってきたのも事実。しかし、安易な「第三者継承」は企業の進出に道を開くことは明白。
 戦後農政を象徴しているのは減反政策と「宅地並み課税」。営農を抑制するために公金を使い、支配者が土地を取り上げる手段として税金を引き上げ農民を追い込む。ここには農業を再生産させていく思想も思いやりもない。東日本大震災で東北の農業が崖っぷちに立たされ離農を考える人が増えているという。農業をどうするのかもまた脱原発同様に待ったなしの状況に入っている。 (武)


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