「青年戦線」最新号より

2000年4月1日・No.154より

|●治安諸法の発動を許さず、学園・地域・職場をむすんだ闘いのうねりを!…大仲 恵
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●共青同アピール
|● 山谷越冬闘争に参加して…………………………………………………………板橋道雄
|●寿越冬闘争に参加して……………………………………………………………海田 昇
|●1.15 日雇全協総決起集会報告

|●反失業闘争と野宿労働者…………………………………………………………遠山裕樹
|●アジアにおけるゲイ・レズビアン運動と私たち
|●私自身のノートから 男性の当事者運動と男のあり方………………………鈴木和久
|●座談会 青年論を語る―2
|●学習ノート ローザ・ルクセンブルクの組織論………………………………中野新一
|●読書案内「中国香港特別区最新事情」…………………………………………早野 一 
|●連帯を求めて(29)………………………………………………………………萩原邦彦 


私自身のノートから

男性の当事者運動と「男」のあり方

鈴木和久


 
 当事者運動とは

 私は、男性の「当事者運動」というものに関わっている。いわゆる「メンズリブ」のようなものである。しかし、「メンズリブ」と明らかに一線を画するところがある。それは、男性の加害者性というものと全面的に向き合い、男性の「特権」をどのように放棄できるのかという点である。私のような「異性愛*0)」男性であることを無自覚に生き、対女性との関係で性別役割分業から性暴力にいたる男性の「特権」を享受してきた人間が、どのように自分の生き方を捉え直すことができるのか。女性やセクシャルマイノリティを差別しない生き方選びのための「当事者運動」である。
 *0)鍵カッコで「異性愛」者としたのは、「異性愛」者というアイデンティティと向き合う際に、その中に純粋に性的な部分が防衛的な「プライベートなこと」として覆い隠されていたことを考えなくてはならないからである。実は、「異性愛」者のアイデンティティを真剣に考えるようになったのは、レズビアン・ゲイスタディーズの実践と理論的功績によることが大きく、その意味でも上記のような鍵カッコで以上を「異性愛」者とした。私は、「異性愛」に無自覚だっただけで、今後、自分自身が様々なセクシャリティの発見をかいま見ることになるのかもしれない。

 私たちのグループは、性のストーリーの語り合いとフェミニズムを考えるための学習やレイプビデオ(バクシーシ山下の撮影したシリーズ)上映などをやってきた。その中で自分たちが、特別に「立派な男」でもなく、大多数の男性と似通った環境で育ち、共通のセクシャリティを併せ持っていることを知った。
 同時に、自分の性癖に対するこだわりを語ることは難しい作業だということも改めて知った。それは他でもなく性を公にすることの気まずさなのだろう。「性=タブー」という言説をうち破る取り組みをしているはずの私が語りきることができない理由、それをもっと考えてゆきたいと思う。その理由を語ることは、「性の商品化」に反対し、私たちのセクシャリティを問い直し、ポルノや買春文化に依存しない生き方、社会、男性が女性やセクシャルマイノリティと対等平等なあり方を目指す上でさけて通れない作業だからだ。
 そして、フェミニズムに引きつけて捉えるなら、「異性愛」男性にとっての「パブリック」と「プライベート」の区別は、女性たちの問題を家庭内に留まらせ、職場と政治的領域との外側に置くための便法だったということだ。
 アイリス・ヤングは、フェミニストの政治的戦略の展開の中で「パブリック」と「プライベート」について触れている。
 「いかなる社会的制度または実行動も公の議論または表現からアプリオリに排除されるべきではない」。そして、「いかなる人間も、行動も、または人の生の側面も強制的にプライバシーへと押し込められるべきではない」。
 同時に、性=タブーという言説や「パブリック」と「プライベート」を分離させる考えはどこから来たのか。この区別が単純な既定事実としてではなく、セックスとジェンダーに関連する権力関係の特殊な組み合わせの結果としてあることに自覚的でなければならない。
 それは同時に、フェミニズムが主張してきた「政治的なことは個人的なことである」というテーゼに見られるように、男性に対して「パブリック」な領域と「プライベート」な領域がどのように区別されてきたのかに答えるために必要な作業だと思う。ある意味で、この社会は、私に引きつけてみれば「男」であることや「異性愛」者であることを無意識の前提としており、その特権がセクシャリティを問わなくてもよいことに「されていた」のだ。そもそもこの社会にあっては、女性への性暴力は声には出さず、性別役割分業は当たり前のこととされていた。あるいは、「異性愛」者であることは言うまでもない一つの属性である。
 このような中で女性やセクシャルマイノリティたちは、単に「存在する*1)」だけで日常のなかで差別・抑圧にさらされ、セクシャリティと向き合わざるを得なくなっていたのだ。日々の生活の中で、どれだけの女性たちが男性の視線や接触に恐怖し、どれだけのセクシャルマイノリティたちが「フツー」である「異性愛」のフリをせざるを得ないのだろうか。
 *1)「存在する」としたが、セクシャルマイノリティは、同性愛者であれば「異性愛者のフリ」をすることで同性愛者であることを知られないようにする。これを「クローゼットの状態」であると言う。しかしこの状態、すなわち自分のセクシャルアイデンティティを抑圧された状態で、「存在する」といえるのだろうか。

 「パブリック」の特権、「プライベート」への抑圧

 「異性愛」男性は、「パブリック」な領域で発言を輝かすことが得意である。社会や政治の問題では、テレビなどに出演し、スキャンダル事件で逮捕されるような人物が大声でしゃべりまくっている。しかし、「プライベート」な問題となると、沈黙するか笑いのネタ程度にしかならない。そして、それは「プライベート」な領域に女性や同性愛者を押し込めることによって、「パブリック」な領域で自分たち男が混乱もなく過ごすことができるという特権にほかならないのだ。
 女性が、セクハラや痴漢、レイプ事件で名乗りをあげ「パブリック」な領域に姿を現すやいなや、裁判官やマスコミたちは被害女性たちの「プライベート」な領域を無神経にも持ち出し「セカンドレイプ」をしてしまう。あるいは、同性愛者がパートナーの話をしただけで、「プライベート」な隠すべきセックスを、表だった「パブリック」な領域に必要もなく持ち出してきた発言として受け取られる。
 このように、女性やセクシャルマイノリティが姿を現す(カミングアウト)やいなや「異性愛」男性たちはパニックを起こす。そして、その報復として「プライベート」な「セクシャル」な存在に貶めようとする行為に、「異性愛」男性のパニックを見ることができるのではないだろうか。
 その意味で私がイメージする「男性の当事者運動」というのは、「性=タブー」に関わる「異性愛」男性の問題をポジティブに打ち出してゆき、「女性には貞操観念と『売春婦』の烙印を押しつけ、男性は経験豊富を自慢したがる異性愛社会(平野『アンチへテロセクシズム』現代書館)」を見つめ直していくことだ。そして女性が告発し、同性愛者がカミングアウトし行動することを「関係ない」問題としてではなく、「性的自我の覚醒と自己点検を迫る(平野)」作業にしなければならないのだと思う。
 「異性愛」男性にとってみれば、女性やセクシャルマイノリティが被害や差別に名乗りをあげることは、「プライベート」な領域の人種であるはずの女性や同性愛者が、男性による「支配構造」に参入している危険な存在と映る。「異性愛」男性は、「パブリック」な領域で、経済的にも政治的にも優位な存在者としていられる。まさに、女性や同性愛者の(「パブリック」な領域への)出現によって「異性愛」男性との「プライベート」と「パブリック」の歪みが生じ、その定義自体が揺らぎ始めるのだ。
 この意味で、今やセクシャルアイデンティティを全面に打ち出そうとする女性やセクシャルマイノリティの解放運動の戦略の中で、私たち「異性愛」男性の「パブリック」と「プライべート」の区別やその特権を明らかにする作業が求められているのだ。

 男性運動の課題

 同時に、「プライベート」の問題を男性たちが打ち出すときに、生じる危険性も考えなくてはならない。それは、「性のストーリー」の語り合いを通じて出された問題が、男性の「特権」と全てがイコールではない。複雑に絡み合った糸を解きほぐすような作業を通じて、個人的な領域での男性の特権性を抽出すべきであるということだ。第2波フェミニズムやリブが、「自分を語り」、男性の権力性を個人的領域におよんで告発できた年月を考えると、安易な勇み足は男性の「思いこみ」となってしまうだろう。 
 また、「個人的なことは政治的なこと」という言説が、全て個人的なことに収斂してしまうというものではないということも重要だ。個人的領域における特権性をどのように打ち出していくのかということである。男性の当事者運動を自分の性を語ることのみに主眼を置き、社会的、客観的な自分たちの位置を見失ってしまった運動に陥る危険性も存在するのだ。その意味で、買春・ポルノグラフィから性別役割に反対していくためには、個人的な体験や自己完結的な運動に陥ることなく、他の社会運動ともビビッドに反応していける運動をどのように作れるのかということも課題だろう。
 なお、セクシャル・オリエンテーション(性的指向)とセクシャル・プレファランス(性的嗜好)の問題をどう整理するのか。あるいは、レズビアン・ゲイ・セクシャルマイノリティが提起している社会的・文化的に作られた性(例えば男女二元制社会という問題)を、どのように考えるべきだろうか。もっと討論すべきだと思う。その中に、「私は何者か」という性的アイデンティティの問題が見え隠れしているように思う。
 さらに「男女格差はなぜ生まれるのか」という問題をも考えていかなければならない。当然にも、その中で強調したいのは、近現代社会の女性に対する政策や思想がどうであったかだ。

 近代史の中の女性

 これを考える際に、女性は現代に至るまで人格を与えられなかったということをはっきりと認識しなければならない。東北地方の間引きなどは、女性や障害者がまず犠牲となった。また、女性は家畜と同様な調教をしてもよいという発想すらある。作家の梁石日は以下のように述べている。
 「中世ヨーロッパ(に限られたことではないが)の農村では見合いをした女が相手の男と性交渉を持ち妊娠してから男に結婚を断られた場合、(中略)歓迎されたのである。というのも妊娠することによって、女は子供が産めることを証明され、他の多くの男から結婚の申し込みを受けることになったからだ。(中略)女が子供を産むことは家畜が子を産むのと同じ価値を持っていた。
 もし子供ができない場合、女に子供を生める能力があるかないかを確認するため、隣村の男に何カ月間かあずけ、それでも駄目なときは、そのまた隣村の男の所に預けられ、最終的に「うまずめ(石女)」とわかると、娼婦として売られたのである(『男の性解放』)」。このような壮絶な女性の置かれていた状況があったことが大きな問題として横たわっている。
 公娼廃止運動に見る女性観は、一方では「貞操賢母」をモデルとした「生む性」としての良き母親としての女性を、そしてもう一方では公娼など堕落した存在としてらく印付けしていた。
 そして、「富国強兵」政策は、大量の男性を軍隊として中国大陸に送る一方で、国内の生産力の維持を目的に「女工」を低賃金でまさに「牛馬」のように働かせた。あの「女工哀史」などを見ていると、貧しい農家が女性を工場に「売る」という行為で生計をたて、工場では「買う」という行為によって生産力を上げ、さらには日本政府の「国力」が増強していったのである。
 では、このような構造の中におかれていた女性に対して、男性は一体何をしていたのだろうか? 戦前の労働運動の資料を見てみると、女性の社会進出は男の仕事を奪うものとしてあった。あるいは、男女の賃金格差を無条件に受け入れる労働組合活動家がいた。
 このように社会の労働組合なども含めた全てにわたって女性差別が存在していた。女性労働者を差別し、「富国強兵」のもと労働政策そのもので貧農出身の女性を縛りつけ、中流階級の女性には貞操観念に基づく「良妻賢母」として兵士(男性)を増やす性を作り上げていくシステムが完成した。さらには、女性の中からも差別された性労働者の存在が社会の中でまさに「潤滑剤」としてシステム化されていたといえよう。そして、「富を増殖」させていったのである。(これは、日雇い労働者や外国人労働者を安い賃金で3K労働に従事させ、景気回復をはかり、いざとなれば排外的な雰囲気を作り上げる現在の社会状況に似ていないだろうか。また、パート労働者の権利問題は、多くの女性に関わる問題である)。

 フィリピン民衆会議に参加して

 資本のグローバル(地球)化は、女性の状況をどのようにしただろうか? 現在では、NAFTA(北米自由貿易機構)やAPEC(アジア太平洋貿易機構)などにより、日本やアメリカ、韓国の製品をより安いコストの第三世界で生産させるという新自由主義政策を世界的に取り入れている。
 その貿易機構下での話に限定すると、様々な女性たちが貧困と搾取に身を置いていることがわかる。私は、三年前にフィリピンでの「APECに反対するアジア・太平洋民衆会議」に参加したが、そこでの各国の人々の報告はすさまじいものだ。
 日本向けの玩具を作るために子供たちが十五時間も働き、工場に火災が起きても全く保障されない中国。あるいはフィリピンの自由貿易加工区では、女性たちの低賃金と工場排水による体内汚染などが横行しているという。そして、その加工工場の周辺では、やはり、男性向けの買春宿がドーナツ状にできている。フィリピンには約百二十万人のストリート・チルドレンがいるといわれている。その中の数万人が生きるために児童売春を行っているという(マニラには十五歳以下の児童売春が約二万人いると推定されている)。あげればきりがないのだが、南北格差によって、女性差別の害悪は拡大している。中でも私たち富める国・日本の第三世界への資本の進出と女性や児童に対する搾取は、工場から性産業までシステム化されており、ほぼ、資本の拡大に比例して女性や児童に対する搾取の輪も広がっている。

 「働き過ぎ」の害悪

 これらの問題を考えると、女性が雇用の機会にありつき「同一賃金同一労働」に基づく社会進出を求める闘いや、貧困にあえぐ第三世界の女性たちの闘いと、日本の私たち男性のおかれた立場はもはや無関係ではあり得ず、呼応した関係におかれているといえる。
 しかし、私たちがおかれている問題も深刻だ。日本の男性の状況はどうだろうか。失業率が四・二%(約三百万人)もいて(うち女性の失業者は二百万人)、残業で過労死と自殺が耐えないサラリーマンは、リストラ覚悟で生存をかけて働き続ける。今では、「終身雇用制度」も破壊され、多くのサラリーマンは、不安定雇用の波に立たされている。この状況で、パートナーとの日常的な会話を楽しんだり、自分の余暇を自由に使うということが果たしてできるのだろうか。
 私の兄も過労と見られる脳腫瘍で倒れたが、朝五時半には起床し、夜の十一時過ぎまで残業だ。そして、家に帰れば、一人ビデオとビールで牛丼を流し込む生活が続いていた。このような状況では、何も考えることはできない。全てが商品の為に働き、消費することを通じた二十四時間。ぼんやりとした時間や、創造するための時間などない。
 やはり男性の当事者運動の中からも過労死なき、いきいきとした生き方を目指すためにも、サラリーマンの「働き過ぎ」をもうチョット考える必要があるのではないだろうか。同時に「働き過ぎ」を「時間短縮」することによって失業者(女性、日雇い労働者、外国人労働者)の雇用を創出し、アフターファイブを会社に縛られない「生き方選び」の時間にできるはずだ。パートナーや自分自身をあるいは第三世界に思いをはせる「新しい豊かさ」の創出が求められている。
 「男の加害者性」はどこからともなくでてくるのではなく、システムによって「つくられていく」のだということを私は強く主張したい。しかし、明らかに現在の「異性愛」男性の状況は、加害者的なのだ。その点を慎重に見つめつつ、しかし、ポジティブに運動を展開していこう。そして、「男」が無自覚でいられるのも、そのテーマを考えるための仲間がいないのと、その前提条件である「時間がない」ことが大きな要因と考える。

 「性のストーリー」を語る

 男性の当事者運動では、自分の「性のストーリー」を語ることによって、自らの性と向き合いながら話を進めている。それは、男性の中であまりにも「プライベート」な問題を語り合う場がなかったことを考えると重要だ。そして、前にも触れたが「個人的なこと」から男性の女性に対する支配がはじまり、権力構造が存在するからで、「異性愛」男性がその点を「当事者」として自覚するためには、避けては通れない作業だと思う。以下は、私の「性のストーリー」を織り交ぜながら男性の問題性に迫ってみたい。
 私も思春期に好きだった女の子に「好きだ」とか「友達になって」と告白できなかったり、気になる子がいても言葉が出なかったりといろいろありました。そんな時に、その果たせぬ思いを小学校の頃から友人と回し読みしていたポルノで発散させます。それは、小学校高学年の時に覚えたマスターベーションと一緒にあったのです。
 うっ屈した思いを、ポルノで発散させるという行為は、私にとってとても「むなしい」けれど「やめられない」習慣となっていったのです。とっても「きもちいい」習慣だけど、好きな彼女でない女の子の裸を見て欲情する自分が「むなしい」と思わせるのです。
 そもそもセクシャリティって、本来人格を無視してはいけないはずのものだと思うのです。だけど、往々にして思春期の異性愛男性のセクシャリティというのが、ポルノグラフィという人格のない一枚の女性の裸に回収されていくのです。そして、裸の女性を見ながら、一気に自分の「快楽」を達成させていく。これは、限りなく「射精」願望をポルノグラフィによって増殖させ、脅迫的にマスターベーションする自分の行為なのだと思います。
 梁石日は、「ペニスは単なる生殖器であり排尿器官である。問題はペニスに収斂される男の欲望が、あらゆる幻想と妄想を孕んでひたすら射精したいと思うことである。射精してしまえば男の欲望はなえてしまうが、射精までのプロセスに男の欲望と情念がはてしなく続くのだ(『男の性解放』)」と自分の体験を踏まえ書いていますが、まさにその通りです。さらに「射精願望」行為には、男性の女性への潜在的な「テロル」を含んでいると思います。「俺が求めている行為であれば、好きな女性も拒否しないはず」という観念のもとにパートナーと接触することによって起こるレイプの例はDV(ドメスティック・バイオレンス)などのケースに沢山存在しています。
 この男性のファンタジーの中では、女性は「視られ」「挿入される」側として対象化され(若さ、美貌、肉体度など常に男性に「視られてる」)存在していることに気づくのです。その意味で、パートナーとのコミュニケーションの中で学習するエッチ以前に、この勃起・(挿入)・射精という快楽のシステムとポルノグラフィとが分かちがたく結びついてしまうことに「男の病」が隠されているような気がします。すなわち、「男の欲求にあった女性」が登場することがポルノ消費者にとって重要なのです。
 一方、女性が男性を「視る」という「ポルノグラフィ」が、それ故にあまり販売されないのだと思います。ちなみにレディス・コミックは、編集権を男性が握っていて、「女のエロチカ」ではなく「男性の欲望」を体現する女性が登場しています。
 その意味で、女性がポルノグラフィというメディアに毒されていないぶん、エッチも肉体度だけではない、精神的ないたわりによる関係ができるのだと思います。私の場合、相手の気分もわきまえずに「俺やりたくなっちゃった」という思いで挿入して射精するエッチをしていたこともありました。そのことに対して、遅れなばせながら「ごめん」という反省を込めて、行動しようと思っていることは言うまでもないことです。
 対等平等なエッチって何でしょうか? 例えばSMなんかは、Sという「イジメたい」ニーズと、Mという「イジメられたい」ニーズがある。SMは「合意」だし、「性的嗜好」だという主張にある意味で賛成です! むしろ、必要としている行為をお互いが求め、デキる関係は、スバラシイと思うのですが。だけど、男女の非対称性(例えば「視る」、「視られる」や「犯す」、「犯される」など)を考えると、受け身になっている女性の「快楽」とやらも、男性ポルノ文化に絡め取られているという可能性もあると思いますが。例えば、レイプ、痴漢、Sの独りよがりの虐待から死に至るまでの行為はもちろん×(ペケ)ですよね。
 いずれにせよ、私は、コミュニケーション不在のセックスのあり方に疑問を持っているのです。パートナーが考える「イヤ」というメッセージをもっとありのままに受け止められる関係でいたいのです。それが、パートナーとうまくやれるコツなのだと思うけど。なかなかその関係性が構築できないのが、往々にして多くのパートナーの共通の悩みだったりして。

 私の中の「妖怪」

 最近読んだ本の中に『アンチ・ヘテロセクシズム(平野広朗著・現代書館)』という本があります。この本はお薦めですが、その中で「男根主義」の病について本人の体験を交えて書いている箇所があるので紹介します。
 「ペニスによって『男』であることを証明しなければならないという強迫観念は、異性愛者である同性愛者であるとを問わず、男たちの意識を強く支配しているが、過度のペニス信仰は、かえって男たちの性愛の楽しみを奪っているように思われる。ペニスによる『男』証明は、たとえばペニス・サイズや射精までの時間、包茎か裸茎か、何人と『やった』か、などをおもしろおかしく云々することで(男たちの間だけで)論じられるが、パートナーとの関係性や性愛の質を男たちが問題にすることは、ほとんどなかった。それは、ペニスがちゃんと勃起して思い通りに射精しさえすれば、ペニスはペニスの役割を果たしたと考えられており、それだけの役割しかペニスには期待されていないところからくるのではないだろうか。そして、幸か不幸か、ペニスの勃起・射精システムは単純なものなのである。深く考察する必要はない」。
 そして、「男が、男自身のセクシュアリティについて真正面から見つめることをしてこなかったのは、このペニス機能の単純さと、女のセクシュアリティへの無関心、より正確には女のセクシュアリティの不在言説とによる。……いったんペニスが興奮・勃起したからといって、ともかく射精に行き着かねばならないと思いこまされる強迫観念がとても嫌だ」。
 私は、このようなペニス信仰にとりつかれていた「信者」だったのだと思います。「射精」するためのセックスをマスターベーションで勉強し続けていたのです。そして、マスターベーションこそ、あるファンタジー(私はポルノグラフィだった)のもとに勃起し、射精するという目的に達する快楽だったわけです。この射精するということが目的化し、それを快楽のワンサイクル行為として、私の思春期の楽しみはあったわけです。当然、この「快楽のワンサイクル」の行為は、パートナーとの関係でとんでもないことになることを後に「発見」したのです。パートナーとのセックスの際に、ジェンダー的に優位な私が主導権を握り、コミュニケーション不在のまま一方的な快楽を楽しむに至っていたことを知るのです。
 ポルノを見て興奮している自分が、好きなパートナーに勃起する自分が「普通」だと思っていました。
 しかし、よくよく考えてみると、ポルノに写っている女性の裸とは私にとってペニスを勃起させ、射精するためにある「モノ」であり、では、好きなパートナーとのセックスはポルノとマスターベーションの投影というか、その個人的空間をそのまま投影していないかという疑問は残るのです。

 「普通」のポルノ

 では、「ポルノとは何か」を考えなければならないと思いました。よく、「ポルノ」と「レイプ」や「女性差別」とは関係ないという言説も見られます。
 肉をミンチにする機械の中に女性を逆さまに入れ、上半身が食い込まれるポルノグラフィを見たことがありました(『レイプ・クライシス』現代書館)。それを消費し、マスターベーションするという行為が、どうして女性を「差別していない」と言えるでしょうか。それらは「特殊」なポルノグラフィだと言われるかも知れません。しかし、ポルノグラフィにとっての「普通」とは何でしょうか?
 「普通」のアダルトビデオの中で、よく男優が女優に向けて「中で出すか」とか「感じるか」といった演出が出ます。しかし、その言葉そのものが、ペニスを挿入する「セックス」で、出演している女性を「生む性」に貶め、「感じている」ように思わされているか。さらに挿入するセックスは、「異性」との関係の場合、女性にとって「妊娠」という大きな「不安」であり「恐怖」です。しかし、私は、アダルトビデオで、その「不安」をマスターベーションする「快楽」に読み変えていたのです。女性が「妊娠させられる性」、「出産させられる性」として機能化してしまうことに全く無自覚でいた私の意識は、ポルノグラフィで学習していたこととは無関係ではないと思います。*3)
 *3)最近のバイアグラ、ピルの承認問題も「挿入文化」の現れだと思います。ペニスの勃起力を高めるためのバイアグラを業者が申請して約六ヶ月間で発売承認に至ったのに対して、ピルは健康上の「副作用」を理由に二十年間の間に渡って承認されなかったのです。因みにバイアグラ服用が原因と見られる死者が半年あまり(98年11月26日)で少なくとも一三〇名に達しています。政府は、女性の「避妊」する権利を剥奪し、人口政策のために女性の身体をコントロールしているのです。

 要するに、「挿入文化」や金を払えば女性を思い通りにできてしまうという所有意識を学んでしまうのだと思います。あらゆる自分の性的嗜好のジャンルに合わせて、金を払えば自分の思い通りにできてしまうポルノグラフィを所有し快楽することは、女性をセクシャルな領域に貶め、幻想を現実化させる大きな一歩なのだと思います。「普通」とされるポルノグラフィを所有しながら、「特殊」でもなく、買春でもなく、レイプでもないと区別することは、同時に己の差別性を隠蔽することにもつながるのだと思います。
 マルクス風に言ってしまえば「男たちの中に妖怪が徘徊している。ポルノグラフィという妖怪が」といった感じでしょうか。私が「セックスはコミュニケーションだ」と主張するためには、この妖怪をどのように退治するかが重要だと思っています。「セックスはコミュニケーション」だと主張しながら、イヤがっているパートナーとのセックスが快楽に感じられる自分の性意識を、問い直さなければいけないと思います。パートナーとのセックスで、ペニスを挿入して射精するだけなら、それは「セックス」の名を借りたマスターベーションにすぎないという認識を持つべきだと思うようになりました。

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