「青年戦線」最新号より

2000年4月1日・No.154より

|●治安諸法の発動を許さず、学園・地域・職場をむすんだ闘いのうねりを!…大仲 恵
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●共青同アピール
|● 山谷越冬闘争に参加して…………………………………………………………板橋道雄
|●寿越冬闘争に参加して……………………………………………………………海田 昇
|●1.15 日雇全協総決起集会報告

|●反失業闘争と野宿労働者…………………………………………………………遠山裕樹
|●アジアにおけるゲイ・レズビアン運動と私たち
|●私自身のノートから 男性の当事者運動と男のあり方………………………鈴木和久
|●座談会 青年論を語る―2
|●学習ノート ローザ・ルクセンブルクの組織論………………………………中野新一
|●読書案内「中国香港特別区最新事情」…………………………………………早野 一 
|●連帯を求めて(29)………………………………………………………………萩原邦彦 


ある工場労働者の日記 第一章 疑惑      (29)

連帯を求めて

 萩原邦彦



■一、スキルアップ

臨時組合大会が頻繁に開かれるようになった。
指導部は臨時でない通常時も「臨時」という表現を使っていたから、結局すべてが「臨時」になった。しかも開催されると必ず補足がつくようになった。通常の賃上げおよび一時金の集会だけでも組合員にとっては憂欝なものであった。それに新たに「賃下げ」と「合理化提案」が示されるようになった。組合員の不平・不満が噴出した。
執行部から繰り返し聞かされてきた「業績不信」という大義名分は、須藤美術印刷の組合員を萎縮させるのに十分すぎる効果を果たしていた。マスコミが連日連夜報道する失業率及び倒産件数の増大のニュースも、労働者に重い暗示をかけていた。
「首切りはしない」と会社側が率先して明言する代わりに、小刻みで巧妙な賃金カットと既得権の剥奪、さらに就業規則や労使協定の改悪が進んでいた。
森川茂はその理屈を至極単純に理解した。自分が経営者だったらどうするか。高度成長期・業績上昇期に労働者に分け与えた就業諸法−年功序列・終身雇用、それを剥奪・改悪するときは今をおいて他にない。西暦二〇〇〇年を目の前にして、会社側は小刻みに布石を打ってきた。
執行部はさらに、会社側が提案した「実績中心考課制度」を何の抵抗もせず受け入れようとしていた。森川は緊張した。
かつて「能力主義」に反対して闘ってきた組合があったではないか。「能力主義」は何をもたらしたか。しかし組合員の反応は鈍いものだった。
森川は、家のローンと愛娘の教育費にあえぐ中田明彦や大月正和の職場にでかけていっては、大会について話した。
「要するによ、頑張ってるヤツがいっぱいもらって、そうじゃないのがもらわないって仕組みなんだろ、モリよ」
中田は「製版職人」を自負している愛妻家である。
会社は若年層をより高度化した機器に就かせ、空いた老朽機へ少しずつ職人を振り分けている。中田はその第一号であった。
OA椅子を左右に回しながら、上目遣いに森川を見ている。
ここ数年来のデジタル化の波は、古色蒼然とした職人世界を大きく塗り替えていた。須藤美術印刷では、勤続二十年以上の中堅社員を生産現場から排除し、代わりに若年層や契約社員を大幅に導入して、人件費を極限まで圧縮していた。
「おれなんか、頑張ってるつもりだよ。この歳になってさ、こんな機械に就いて覚えてよ。手作業でやったほうが速いんだけどなぁ。おれは『ベテラン』だからね」
中田の口癖が始まる。
             * * * *
自分からすすんで業界の流れを察知し、デジタル社会に対応していかないととり残される。二十代から三十代にさしかかる社員が、「産業革命」ともいうべき技術革新にどう取り組むかに社運がかかっている。業界団体は各種の資格試験を実施したり、インターネットで情報を配信し、PRに懸命である。
過去に殺人残業の合間を縫って勉強し、手作業での技術試験に軽々と合格した若き職人たちは、再び新たな課題を突きつけられることになった。かくして、これからの昇格・昇給の判断基準は、こうした「スキルアップ」こそ重要視すべきだという空気が、社内に広がっていった。
集会、デモ、地域での関わり、会議、学習などなど、森川には勉強している時間などなかった。仮に試験に合格し、会社の求めるスキルアップを果たしたとしても、それが評価に結びつくとは限らない。森川については、過去数年におよぶ勤務評定が何よりもそれを証明している。だが、―他の同僚と同じことをしていたのでは、いつ切られるかわからない―。危機感が煽られ、退社後、自宅で勉強する同僚がしだいに増えていった。
「スキルアップ」は、たしかに「自分のため」にはなる。しかしそれ以上に、労働者の意識を仕事に、すなわち企業に従属させることになるだろう。
自分の能力が認められ、より会社への「貢献」が求められれば、そこから逃れることはできなくなる。そのために今まで以上の時間と精神を、社業に注ぎ込むことになる。官民を問わず、労働者である以上、こうした「誘惑」は常に頭上から降り注いでいる。
会社側は、明らかに森川を特別視していた。同僚たちと勤続年数や勤務評定が同じであっても、まったく別の理由により、森川の昇格・昇給は停止していた。数年前から差別が続いていたのだ。
若いころは「差別」など何とも思わなかった。しかし、バブルがはじけ、景気が低迷し、再びあのような経済成長はあり得ない、と世論が確信したとき、事情は変わった。
物の分別を理解し、人間関係を育み、感情に流されず、若い同僚の立場を尊重しはじめた。自分が発言する前に、後輩たちをもり立てようとする余裕すら生まれた。その時森川はすでに四十歳に近づいていた。しかし、皮肉なことに会社側はかつてないほどに厳しい対応で森川に臨んでいた。評価を下げるために、ありとあらゆる口実が動員されていた。こうした実態こそ、どんなに甘言を弄されても、森川の意志が揺るがない源泉であった。
             * * * *
「気持ちはわかるけど、中田さん。『能力』とか『評価』とかほど、いいかげんなものはないですよ。ただでさえ手が空き気味になってるのに。仕事があれば、それなりに認められてもね」
「仕事がこないのは、おれのせいじゃないだろ」
「だからね。『実績重視』ってのは、会社側が人件費を下げるための口実でしかないんですよ……」
「がんばりたくても、がんばりようがないもんな。仕事がなきゃ」
「つまりこの時期、現場の全員が『最低の評価』をされることだってあるんですよ」
第三者が周辺に近づいた時は、それとなく話題を変える。緊張感を失ってはならない。
「でも、評価のいい人もいるんでしょ?」
大月正和が、横から口を挟む。中田と大月は机を並べて機械に就いている。
「それは、調べるわけにはいかないけど。だけど、いい人と悪い人が半々で賃金を分け合うなら、こんなめんどくさい仕組みにする必要はないでしょう」
大月は中田のように作業の手を止めない。だから大月との会話が長く続くことはない。
「モリ、わかったから、ほらいつものように肩もめよ。今日はすごく凝ってるんだよ」
中田は聞き疲れたようだ。ここらが潮時である。雑談も引き際が肝心なのだ。
「ああぁ気持ちいい。モリ、うまいねぇ。マッサージ師でもやったらどうだい? ああ、そこそこ」
中田はいつも、わざと卑猥な声をあげてみせる。森川は思わず苦笑する。
「あしたもたのむよ」
部屋を出ていく森川に、マウスを握りながら、中田が声をかけた。

■二、勤務評定

「昇給昇格考課」は年一度、四月に行われる。
旧来の「年功序列」による賃金体系を切り崩し、大幅に「実績主義」を導入しようとする会社側は、現在の役職評価に加えて、管理職による半年間の評価を基にした「新考課制度原案」なるものを組合に提示していた。
組合執行部は、それをそのまま大会に示すのみであった。
組合員の実質的な中核を占める「係長」職でみると、考課の幅は五段階に分かれている。最高評価の「5」から最低の「1」までの差額が四万円に及ぶ。すなわち、1=一万円であり、5=五万円なのである。ならば、「可もなく不可もなく」という「3」の評価が、従来の「平均評価」と同額なのだろうか。森川はこの点を突いたが、委員長は、のらりくらりと「逃げ」の説明に終始した。
「とにかく、直属の管理職から説明を聞いて、よく話し合ってください」
毎年、この一言で集会を打ち切り、組合員たちを放置する。「異議」のあるものは、辞令後一週間行なわれる、会社と組合代表による「考課相談室」に顔を出せという。
仕組みと結果をまともに理解していないのに、誰がたった独りでそんなところに行くのか。「相談」に出向くことじたいが、「従順ではない」として会社と組合からにらまれるのではないか。組合員は、ただあきらめるしかなかった。
直属の上司である管理職は、とくに現場の課長職は、組合員に対する細かな査定考課の説明を避けた。かつて、だれもが同じように殺人残業に耐え、だれでも同じように昇給昇格させることで、従業員同士の波風が立たなかったのである。現場ではある種の「公平」が保たれ、各々の残業量によって、実質賃金に差がついた。
残業量が多く、上司に従順な組合員を「副課長」に昇格させた。副課長は組合員では最高の職位だが、慣例として残業を申告しない。本人への会社側の「期待度」は、副課長から「課長」へ昇格するかどうかで周囲に認知されている。
副課長へと昇格するものの心境は、複雑である。手取り賃金が目減りするだけではない。管理職である「課長」と、組合員である「副課長」の実質的な権限は大きく違う。課長は会社が護るが組合が副課長の利害を代弁するとは限らない。極めて中途半端な地位である。せいぜい将来の「課長の椅子」を夢見て賃下げに耐えていくしかない。
             * * * *
基本給部分での実績主義導入の結果は、惨憺たるものであった。
それは森川茂が警告した以上の結果で組合員、特に、係長職に打撃を与えた。わずかではあるが毎年の確実な賃上げと、増え続けた残業量によって、生活水準を押し上げていた数多の組合員。彼らは、十分の一まで切り詰められた時間外手当てと、「平均」を下回る評価に、うめいた。
組合員たちは互いに情報交換しながら、彼らのほとんどの評価が「平均以下」であることを知った。怒りが口を衝いた。
森川も、「最低」の評価を受けていた。しかし、森川は、一部の親しい者にしかそれを打ち明けてはいなかった。なぜなら、会社と組合にモノを言ってきた自分の評価が悪かったことを告げれば、彼らはさらに身をすくめるだろうからである。彼らはますます萎縮してしまう。しかし皮肉なことに、組合大会では固く口を閉ざしていた彼らにも、会社側は容赦をしなかった。
「春にわずかばかり昇給したって、意味ないよな」
「春期生活闘争」は、完全な茶番になっていった。

■三、風評

森川が、自分の考課の結果について沈黙していたことが、思わぬ噂を呼んだ。
「森川は、評価がいい」
「異動が続くのは、会社が期待している証拠だ」
こうした風評の出所は、五十歳前後の副課長職に顕著であった。
「組合員」では最高の職位にあり、おそらくは、最高額の組合費を天引きされ、昇給は頭打ちし、なおかつ「サービス残業」を強制されている彼ら。彼らの怒りがなぜ森川に向かうのか。森川には、何の心当たりもなくその理由が分からなかった。
             * * * *
「取締役」などの肩書きを持つ幹部たちは、特に日常的な作業を持たない。彼らのなかには、会議に出ることと、ウロウロと社内を定時巡回することを「仕事」としている者もいる。現場の生産工程を視察し、社員には積極的に話しかけ、交流を維持する。社員が何を考えているのか、情報を収集している。
森川は彼に好意的な幹部や管理職を選んで、雑談に応じた。
相談役の茂木荘助が作業中の森川に近づいてきた。
「どうだい森川さん。勉強してる? 会社が今の時代、どう生き残るのかは、大変な問題なんだよ。これからの時代は、会社が従業員に何々をしなさいと指示をするんじゃなくてね、従業員が会社に何をしてくれるのか、しっかりと考えてもらわないとね」
彼らは繰り返し、会社と業界の危機を語る。
「まあ、年齢が高い方々は、給料もさぞ、高いんでしょうなあ……。そういう人たちからまず、それなりに働いてもらわないと……」
森川は皮肉たっぷりに言葉を返した。忙しくて、雑談をしている暇はない。
「その辺はわからないけどさ。だけど、あなたが主張するように、そういう人たちを簡単に切るわけにもいかないんだよ。会社としては……」
思わぬ言葉が返ってきた。
「私が? そんな主張してませんよ。『誰かの首を切れ』だなんて……」
「フフフ、そう? まあとにかく、あなたもちょっと視野を広げてさ。時代に乗り遅れないように……」
そう言い残すと、くるっと背中を向け去っていった。
現場の下層で職人として、長年コツコツと勤めあげ、定年を迎える労働者。「一般」か「班長」職の彼らは、まさに年功序列によって、ゆっくりとした昇給を積み重ね、現在の基本給を築き上げた。
同じ年齢でも、主要得意先から天下り、「部長職」からスタートし、現場のことなどまるで分からず、経営に関与する幹部。彼らは少なくとも、同年代の「職人」よりははるかに高い報酬を得ているはずである。一概に「高齢者」といっても、その立場は、天と地ほども違うのである。
(俺が、首切りを勧めているだなんて……、デマもいいところだ)

■四、左遷

組合大会での森川の発言は、指導部を通じて、あるいは組合員を通じて、会社側に筒抜けであろう。だから森川は表現にはことさら神経を使っていた。それにしても噂や風評というものは、それを流す人間が、話題の主をどう思っているかで良くも悪くも語られるのである。どんな噂が流れようとも、自分の発言や行動にやましいことがなければ、気に病む必要はない。
「佐野さん、すいません。これ大至急訂正して、ネガに返してよ」
製版部に飛び込むと、仕事を部下に振り分ける佐野一男副課長に声をかけた。
勤続三十五年、「製版職人」のトップに位置する。作業が速く正確である。口数が少なく、与えられた仕事を黙々とこなすため、人望が厚い。
「困った時は佐野さんに頼め」。現場ではこの言葉を何度となく耳にしていた。かつて組合大会での森川の主張に反発していた一人である。彼は何を考えているのか。長い間、お互いに話す機会がなかった。
ささいなことから上司と口論となり、職場を追われた。五十代半ばにさしかかる佐野は、別工場へ配転になった一時期、自暴自棄になり、同僚とは一切付き合わなかった。駅周辺の酒場で、見ず知らずの常連たちと飲んでいる姿が、何度も目撃されている。
佐野のそんな「どん底」の時期、偶然森川も異動をして、一緒に仕事をする機会があった。佐野は仕事に慣れない森川のミスを何度も救った。だが、打ち解けて酒を飲むと、やはり双方の主張は空回りした。それでもお互いの距離は、かつてよりずっと縮まっていた。
管理職は、佐野をいったんは外したものの、定年退職や「デジタル要員」に人を取られ、止むなく元の職場に復帰させたのである。
「佐野さん、奇跡のカムバック、おめでとう」
「なんだい? 今度はなに持ってきたの?」
「これ、ネガに反転したら、私が外注に持っていくから。明日納品なんだって、お願いします。一杯おごるから」
佐野は聞いていないふりをして、しっかり聞いている。
「よおし、そりゃ楽しみだ」
「フフフ、何言ってんの。おれとは絶対一緒に飲もうとしないくせに……」
職人としてのプライドが高い。おそらく自分ごときと同列で扱われるのが耐えられないのであろう。佐野は、いままでの仕事を止め、さっそく森川の作業にかかる。
「ねえ、やっぱり『手作業』は必要でしょう。この方がよっぽど速いんだから。あんたもそう思うでしょう?」
ルーペを覗きながら、佐野がつぶやいた。
森川はハッとなった。
「佐野さん。なにか誤解してるよ。私は『手作業をなくせ』なんて、一言も言っていない。むしろ逆ですよ。私だって現場出身なんだから。ずっと『手作業』をやってきたんだから……」
「…………」
(やはり自分は信用されていないのか……)
精巧に動く佐野の指先を見つめながら、森川は立ちつくしていた。
             * * * *
「友納さん、いまお帰り?」
駅への帰り道、道路の向こうにゆっくりと歩く姿を見つけた。
友納守子は勤続三十年、入社から二十年近く経理を担当していた。
しかし、担当部長と反りが合わず、口論の果てに「納品事務」に飛ばされた。電話番と簡単な作業を七年間こなしたが、当の経理では後任が育たず、会社側は止むなく元の職場に戻した。
こうでないと「経理」という仕事は勤まらないのかもしれないが、とかく若い同僚からは敬遠される、「うるさ型」の人格である。森川茂とは仕事上の接点がなかったため、何の確執もない。
「そうよ」
そっけなく応える。
「寒いね。友納さんは寒さに弱いから、この季節は大変ですね」
「そうよ。会社の暖房は足元が暖まらないの。だから一日中毛布を腰にまいているのよ」
「ねえ、ちょっと暖まっていかない? 一時間くらい……」
年令よりもずっと若く見える。郊外の公営住宅に一人暮らし。夕食を自分で作るのは、休日くらいだという。
二十年目にして初めて酒を酌み交わす関係になった。女性であること、高齢であることで男よりも大きなハンディキャップを負っている。しかしそうした現実は、自分が積極的に知ろうとしないかぎり、知ることはできないのである。
「評価はどうでした? 組合が受け入れたw実績中心主義xというのは……」
ビールを軽く飲み干すと、さっそく本題に入った。長いこと、会社と、男と、組合に差別されてきた。「怒り」が累積されている。
「どうもこうもないわよ。ひどいのよ。ねえ、聞いてよ」
守江は、身を乗り出し、顔を近づけてきた。

■五、電話

はじめは、ありきたりな世間話をしていた。それでも、ビールを何杯か飲み干して、ようやく重い口を開きはじめた。
        * * * *
ドアを開けるのさえ億劫になるほど、疲れていた。
しかし、ドアを開けて中に入らないかぎり、この重く、身体の奥深く沈殿した疲れをとることはできない。
思い切り力を入れて、重いドアを引いた。ギイィと錆びた音が響く。かなり古いマンションである。広さの割には家賃が魅力的だった。一人暮らしには慣れている。しかし、歳を重ねるにしたがって、不安がないわけではない。
カバンを投げ出し、壁を手さぐりしてスイッチを入れると、青白い光が瞬きした。ボタンを上から乱暴に外し、そのままベッドに倒れ込んだ。
手を大の字に広げると、薄い布団の中に、背骨から疲労が排出されるのがわかった。残業で会社を九時三十分に出てから、約一時間。ようやくアパートにたどり着いた。
平日の残業、組織会議、地域の会議、休日の集会、デモ、課題別学習……。
(フウゥー、疲れるわけだ……)
どれくらい眠っただろうか。遠くで電話の鳴る音がした。
(隣の部屋か……)
しかし、ベルはなかなか鳴りやまなかった。
(なんだ、この部屋か……)
あわてて起き上がると、受話器を取った。腕時計は夜十一時を指していた帰宅から、三十分も経っていなかった。
「もしもし……」
聞き覚えのある低い声だ。
「もしもし……。早川さんですか……」
「はい……」
党本部専従の高梨啓二だった。
「昨日は、どうしましたか」
妙に丁寧な口調である。
「昨日?」
思わず聞き返した。
「昨日の水曜日、会議ですよ」
「昨日は会社の人の送別会だから出られないって、言ったじゃないか」
ムッとなった。この男は人の話を聞いていないのか。
世話になった上司と部下の合同の送別会。そして二次会、帰宅は零時近かった。その酒が残っているせいか、一日中頭痛がした。
「送別会? そうでしたか……。なら、日曜日の反安保デモは?」
「あの日は、地域で年に一度の会議があるって言っただろ。何もかも、事前に伝えてある。疲れているのに、そんなことでいちいち電話してくるなよ」
高梨は忘れているのか、それとも知っていて再確認しているのか。早川勉の語気が荒くなった。
「わかったよ、わかったよ。ところで、明日、事務所に来れないか?」
高梨は、ようやくいつもの口調に戻った。しかし、明日とは急である。
「明日? 急だなあ、何だい? ちょっと待て、手帳を見てみるよ」
カバンの中から手帳を取り出すと、パラパラとめくった。
今日と明日の二日間が、この一週間で予定のない日だった。しかし、こういう日こそ会社に残り残業をしないと、生活が苦しくなるだけでなく、同僚との人間関係も維持できない。
「金曜か……。空いてることは空いてるが、今週はずっと会議が続いたからなぁ。少し残業もしないとまずいんだよ、職場では……」
本当は残業などしたくはない。何よりも疲れはてているのだ。とにかく眠りたいのだ。
「大事な話があるんだ。とにかく事務所に来てほしい。おれはずっといるから……」
高梨は懇願するように言った。
「わかったよ。仕事が終わりしだい行くよ。だけど、早めに済ませてくれよ。土曜は反原発の講演会だろう。休む間がないよ」
「すぐ終わるよ。じゃあ、待ってるからな」
そういうと、高梨は音をたてて電話を切った。
(まったく、いつもこんな調子なんだからなぁ)
断りきれない自分にも腹が立った。高梨との会話で、いくらか眠気が弱くなったようだ。パジャマ代わりのスウェットスーツに着替えると、歯を磨くため洗面台に立った。風呂を沸かす気はしない。
鏡を見ると、眼の下に隈ができ、まぶたが厚く腫れていた。
(疲れがもろに、顔に出ているな……)
シャカシャカと簡単に歯ブラシを滑らせると、目覚ましをセットしてから、ベッドに入った。
早川は、すぐに、深い眠りに落ちていった。     (続く)

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