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    かけはし2012.年10月22日号

開発独裁と満州国の統制計画経済

満州国、朴正熙独裁の起源

姜尚中、玄武岩共著『岸信介と朴正熙』

 1961年11月11日、岡本実中尉は軍事クーデターを主導した国家再建最高会議議長の身分で再び日本の地を踏む。かつて太平洋戦争が勃発した翌年に新京(現、長春)にあった満州国陸軍軍官学校を優秀な成績で卒業し、最後の皇帝・溥儀から金時計を下賜されたという岡本、すわなち朴正熙(パク・チョンヒ)にとって日本陸軍士官学校で経験した2年間の本科課程は、忘れようにも忘れられない体験だった。ほぼ20年の歳月が流れた後、過ぎし日の皇国の地に再び足を踏み入れたパク・チョンヒは、いかなる気持ちをもったことだろうか。

国家社会主義に魅了された岸

 その日、東京の総理官邸で行われた晩餐会でパク・チョンヒは前総理・岸信介と初めて対面する。「昭和の妖怪」と呼ばれる岸は戦前、国家改造の革新官僚としてずば抜けた手腕を発揮し、戦後は日本の高度成長の枠組みを作りつつ米日安保条約の改正を主導した人物だ。
 パク・チョンヒと岸信介。2人には満州国という共通の「成長の背景」があった。パク・チョンヒを「軍人」に変身させたのも、岸信介を「政治家」として鍛えたのも、共に満州帝国という大日本帝国の分身だった。この2人が親しい間柄となり韓日癒着の象徴となったのは偶然だったのだろうか。
 東京大学・姜尚中(カン・サンジュン)教授と北海道大学・玄武岩(ヒョン・ムアム)教授の〈岸信介と朴正熙〉(チェククワハムケ社・刊)は解放後、韓国と戦後日本で絶対的な影響力を行使した官僚政治家と軍人政治家を通して満州国の歴史、その帝国の遺産を明らかにした著作だ。特に著者たちが注目しているのは、満州帝国で施行された統制経済の「実験」が韓国の開発独裁に大きな影を落としているという点だ。重ねて言えば、パク・チョンヒが推進していた兵営国家的な国力培養と総力安保という「韓国的民主主義」に、満州帝国の遺産が脈打っているということ。著者たちは、この遺産を生み出した主人公が「満州国産業開発5カ年計画」を立案し実行した岸信介だった、と語る。
 岸信介が東京帝国大学に入学した1917年にはロシアで革命が勃発し、またパク・チョンヒは植民地のとある寒村で生まれた。大正デモクラシーの末期、共産主義の全盛期に大学に通った青年らしく、ファナチックな国粋主義や天皇絶対主義が気にいらなかった岸は、国家社会主義者・北一輝の〈国家改造案原理大綱〉を読み、国家社会主義に立脚した組織的で具体的な社会改造路線に深く魅了される。実際に「企画院を本拠地として軍部幕僚と手を握り高度国防国家への改造を担当した人々・革新官僚グループは、いずれも若い時節に一般的風潮としてのマルクス・レーニン主義的な社会科学の影響下にあった」。
 立ち遅れた農業国が社会主義的計画経済を通じて一挙に工業国へと変貌していく、その圧倒的でダイナミックな転換に強い霊感を感じた岸は、ロシア留学派の宮崎正義らと共に国家社会主義的な統制計画経済を内容とする国家建設の実験を満州で試みた。主要産業部門の国家的統制を主たる内容とする〈満州国経済建設要綱〉が、その核心だった。青年将校として統制経済を直接経験したパク・チョンヒにとって満州国モデルは最も採用可能な選択肢の中の1つだったはずだ。
 実際に満州国とパク・チョンヒの韓国は尋常ならざる類似性を示す。ソ連あるいは北韓(北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国)と対峙する防共国家、中央執権的な軍部独裁、反共的な国民統合の理念、国防産業と連係した重化学工業化、官僚主導による計画経済的な資本主義産業の構築など、両者の間には総動員体制による国家主導、対外指向、成長指向など極めて多くの類似点を見いだすことができる。

「独裁者」と「妖怪」の再臨


 こればかりではない。1961年の5・16クーデター直後の国家再建運動や、満州国協和会を彷彿させるセマウル(新しい村)運動などの国民改造運動、国民教育憲章や「国旗に対する誓い」などの国家主義的誓いの儀礼、軍事教育、忠孝教育、ラジオ体操や「国民歌謡」運動、退廃風潮の一掃や美風良俗の鼓吹、(戦前日本の隣組、5人組的)班常会など、維新時代を前後して施行された数多くの政策や機構は、日本帝国主義が植民地朝鮮や満州国で実行していた国家主義の要素をそのままに見習って復活させたものだった。このように満州を始原としたパク・チョンヒの開発独裁モデルは、彼の死後も亡びることなく、いわば息子格の新軍部出身のチョン・ドゥファン、ノ・テウによって継承されてきた。
 解放以後、韓国社会の権府を掌握した満州人脈の幅広さを考慮する時、著者たちの主張を結果論的解釈だと言うのは難しいようだ。パク・チョンヒはさておいたとしても、ペク・ソニョプ(陸軍大将)、チョン・イルクォン(陸参総長・国務総理)、シン・ヒョンジュン(初代・精神文化研究院長)など韓国現代史に暗い痕跡を残した多くの人々が、満州を自らのルーツとみなしている。
 パク・チョンヒと岸信介の間を行き来しつつ、韓国と日本の現代史を相互浸透する過程として興味深く扱ったこの本を読んでいる私の心は、何とも思いが複雑で錯雑する。その思いは、社会主義が「国家社会主義」という名によって俗流化されたものや、ファシズムとの理念的近親性を改めて確認するということから出てくると言うよりは、岸信介の統制経済の政策とパク・チョンヒの発展国家論から、日本と韓国社会はそうかけ離れてはいないということから来ているようだった。
 民主主義の欠如した統制されない統制経済は、ただ全体主義にすぎなかったという批判よりも、子どもたち(パク・チョンヒの長女パク・クネ・セヌリ党大選候補、岸信介の孫・安倍晋三・元総理)を通じた「独裁者」と「妖怪」の再臨を警戒しなければならないということが緊急な訳だからだ。(「ハンギョレ21」第930号、12年10月8日付、オ・スンフン記者)

 

もう1つの政治の芽生え

「労働者の政治勢力化」に取り組んで

 もう何年か前のことだ。2004年だったかと思う。その年に民主労働党が初の院内進出を果たした。当時も私は民主労働党員ではなかったけれども、「労働者の政治勢力化」という全体の大義のために次善の活動とでもいう思いで支援活動を少しばかり行った。当時の私の役割は文化芸術人の支持宣言を引き出すことだった。大部分の文化芸術人が保守政党支持の見解を持っていた時なので、それなりに大事なことだという考えもあった。当時、ほぼ半月ほどやっていた仕事を中断し、電話をつかんだまま暮らしていたように思う。そのようにして800人にもなる支持名簿が集まった。

ボルシェビキの友として残りたい
 その過程で覚えていることが幾つかある。第1は、意外にも進歩政党への支持者が、かなりいたということだ。その中には党員も何人かいて、党員でもないあなたが私に支持を要請するだなんて立場が逆じゃないかと冗談を言われたこともある。なかなかしっかりした人々なだけに、なぜ党が自分たちの党員をまとめないのか、なぜ1人1人を党の主体として呼びかけ、立てようとしないのかと、もどかしくもあった。申し訳ないが、その後もそういったことが実行されたという話は聞いたことがない。
 2番目に、特別に思い出す人が2人いる。あいにくながら、その2人は支持宣言からは、むしろ抜けた人々だった。1人は今も鉄道労組で現場活動家として、表には出ずに熱心に生きている方だ。世界社会主義圏の崩壊と共に多くの人々が先を争って現場を去った1990年代の初め、むしろ一生を労働者として生きることを決意し、鉄道労働者の道に分け入った。前日、支持宣言に賛同すると言っていた彼が、翌日朝早くに憔悴しきった声で電話をかけてきた。一晩中、寝ずに悩んだが支持を撤回しなければならないようだ、と語った。訳を聞くと簡潔に、「今はボルシェビキの友として残りたい」ということだった。
 またもう1人は、自分はレーニン主義者から自律主義者へと立場を転換したがゆえに中央集中的党を支持することはできない、と明確な理由を語りつつ支持宣言への合流を拒否した。不思議だったのは、あれこれの情勢に従って名前をそっと出す多くの方々よりも、その2人に対する信頼がより深まるということだった。それが何であれ、大勢に揺れることなく世界に対する確実な自己の主観を持とうとして努力している2人が、むしろ労働解放、人間解放運動の友のようだという思いだった。
 また、覚えているある部類の人々は教師であり文化芸術人の人々だった。教師・公務員の政治活動が禁止された状態であったがゆえに確かに公然と名前を出すのは容易ではなかった。結局、半分の人々だけが支持宣言に名前を挙げることができた。発表した日、教師・公務員の政治活動禁止によって、志を共にしながらも名前を出せなかった多くの方々がいます、と報告をしながら何となくモヤモヤしたものがあったのを思い出す。
 短いエピソードだけれども、分断社会、反共国家において、最小の民主主義の要件も備えられない粗野で暴力的な社会において、大統領がしゃしゃり出て「金持ちになりましょう」と露骨に宣伝・煽動する資本主義国家において、労働者民衆の政治勢力化ということがどれほど難しいことなのかが見せつけられる。

メシアではなく、労働者民衆の候補
 そのような多くの人々の献身や犠牲、闘争によって耕されてきた労働者民衆の政治勢力化が、現在の統合進歩党の事態までを経つつ、潰えさったと多くの人々が指摘する。新しい模範を作ってみようとして、この10余年を非正規職・整理解雇闘争の現場で再び命をかけて闘ってきた現場労働者や同志たちが集まっているという。「変革的現場実践労働者階級政党建設のための現場活動家の会」だと言う。何らかのメシア(救世主)ではなく、再び労働者民衆の候補が出てこなければならないとの決意を固めているという。新たな芽がいかにわが社会すべての柱として育っていくのか、共に見守っていけたら、と思う。(「ハンギョレ21」第929号、12年9月24日付、「ノー・サンキュー」欄、ソン・ギョンドン/詩人)

この死の行列を見よ

自殺率OECD内1位

 1日に42・6人、1年に1万5566人。
 公式統計に示された2010年韓国の自殺者数だ。韓国は「自殺を勧める社会」だ。2010年を基準として経済協力開発機構(OECD)の34加盟国の中で、自殺率33・5人で1位だ。人口10万人当たり33・5人が自殺したという意味だ。自殺率1位、事新しい消息ではない。韓国は2003年以降、今日までただの1度も1位の座を明け渡したことのない「不敗の神話」を続けてきた。それだからか、メディアはこの不幸な消息に手をつけずに処理し、人々の反応も騒がしくはない。
 だが「前もそうだった」と言うには事態は深刻だ。第1に、絶対数値が余りにも高い。第2に、自殺率の変化の傾向が不吉だ。韓国の自殺率はOECD平均12・8人の2・6倍だ。しかもOECD加盟国のうち自殺率が20人を超える国は韓国以外には2カ所だけだ。ハンガリーが23・3人、日本が21・2人だ。ハンガリーと日本の自殺率は停滞または下降の流れだ。OECDの平均も低くなっている。だが韓国の自殺率は持続的に急激に駆け上がっている。1991年以降の20年間で、たった3回だけ自殺率が前年を下回った。1991年8・4人から2010年33・5人へと399%上昇した。ノ・テウ、キム・ヨンサン、キム・デジュン、ノ・ムヒョン、イ・ミョンバク政府を経る間、どの政府でもこの流れは反転しなかった。OECD加盟国のうち同期間の自殺率がこのような険しい上昇の流れを示した国は1カ所もない。
 自殺者だけではなく「潜在的自殺危険群」も広範だ。保健福祉部(省)の2011年「精神疾患実態疫学調査」の結果を見ると、韓国の成人のうち15・6%は「1回以上、深刻に自殺を考えた」という。10人に1人の割をはるかに飛び越える数値だ。大統領は「大韓民国が堂々と先進国の隊列に進入したことを確認する」(8・15光復節での祝辞)というが、OECD34加盟国のうち韓国よりも暮らしの満足度が落ちる国はスロバキア1カ所だけだ。そもそも今、韓国でどんなことが繰り広げられているのだろうか。

双龍自動車で
3年間に 人
 この3年間、双龍自動車の労働者・家族22人が、この世を捨てた。死人に口なしとは言うものの22人のうち遺書を残した方は1人もいないという現実。ソウルのある永久賃貸マンション(貧窮者対策として建てられ現在、老朽化しつつある)団地では、この100日間に居住者7人が投身したり首をくくって自ら命を断った。彼らもまた、別に言葉を残さなかった。恨みも、怒りも、嘆きも、哀願もなしだ。静かなるうめきだけだ。
 極端なケースだと言いたいのか。周りを見回して見よ。幼い少女が、あたら若者が、アジュマ(おばさん)・アジョッシ(おじさん)が、ハルモニ(おばあさん)・ハラボジ(おじいさん)が死んでいる。マンションから飛び下り、窓枠に首を括り、車の中で練炭をくべ、旅館で薬を飲む。働き口を失い、借金の山に踏みにじられた父母が子どもを車に乗せて貯水池や崖っ渕に向かって突進する。国家は経済力がなさそうな国民には関心がなく、人々はジャングルと化してしまった世の中で生き残ろうとしてじたばたし、傍らの人を見守るいとまがない。
 この声なき死の行列をどうするのか。ある老僧のように「自殺の試みは自身しか知らない横柄な輩の業」となじるつもりか。あなたも、きっとそう思うのか。双龍自動車の1人の被解雇労働者が放送に出て、こう言った。「社会が我々に死ねと言っているようでした。この社会から出て行ってくれ、と」「共に生きよう」と。ところが世の中は余りにも静かだ。恐ろしい。(「ハンギョレ21」第929号、12年9月24日付、イ・ジェフン・編集長)

 


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