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    かけはし2013.年4月15日号

人権と民主主義の確立、労働者人民が管理する社会経済を


薄熙来と「一都市社会主義」の終焉

「重慶モデル」をめぐる
「左派」内部の不毛な論議

劉 宇凡
(香港・先駆社)

 ここに掲載した香港・先駆社の同志の論文は、前号に掲載した革マル派による中国共産党大会への評価を批判した早野一論文と結びつけて読んでほしい。劉宇凡同志は、中国内の「左派」による「重慶モデル」評価を批判し、何よりも民主主義的自由の権利実現ぬきに社会主義がないことを訴えている。(「かけはし」編集部)

 

はじめに

 中国共産党は二〇一二年一一月四日に薄煕来を排除した後、一八回党大会を開催し、指導部の交代を順調に終えた。党内闘争は収束したが、この事件によって明らかにされた事実およびいわゆる重慶モデルを巡る論争について論じることは、依然として意義のあることだろう。
 一〇月末、薄の支持者たちは、薄の追訴は証拠に欠けており、手続も違法であると批判した公開書簡を人民代表大会に提出した。国家統計局の前局長であり、毛派の中でもっとも影響力のある一人でもある李成瑞がこの書簡の呼びかけ人の一人である。もっとも影響力のある毛派ウェブサイトであり、薄の忠実な支持者である「烏有之郷」(ユートピア)サイトは、五月に当局によって閉鎖された際に、党中央が薄の容疑をでっち上げようとしていると非難していた。

弾圧者が弾圧される
歴史は繰り返される


 人権を信じ、中国法体制のゾッとする現状を知る者であれば誰でも、薄にかけられた容疑について、同様の疑いを共有することはそう難しいことではない。たとえ彼の事件について不十分な情報しか持っていないとしても、である。他方、薄は無実だとする「烏有之郷」の主張も真実なのかどうかを確かめることもできない。真実を知るためには、独立した司法制度、公開裁判、原告と被告の対等な関係、陪審員制度、適正な司法手続きなど、基本的な法治原則が必要である。
 だが薄の支持者の多くがそれを要求することはないだろう。なぜなら彼らは薄や共産党と同様の考え方、つまり法の支配に対する敵意を共有しているからである。薄はまだ権力の座にあるときに「マフィアに対する取り締まり」を行ったが、それは「マフィアのような取り締り」だと批判された。彼は法治にはほど遠い水準の中国の司法制度さえも無視してことを進めたからである。李荘事件(薄の取り締まりで摘発されたマフィアを弁護したことから二〇〇九年一二月に偽証罪で懲役一年六カ月の実刑判決を受けた事件:訳注)には不明な点が多く、判断が難しいというのであれば、薄を批判しただけで四〇〇日もの労働矯正処分に遭った任建宇事件は言論弾圧以外の何者でもないと断言できる。(大学を卒業して重慶市郊外に村役人として赴任した任建宇が、インターネットで当局批判をしたことが国家政権転覆の扇動にあたるとして二年の労働矯正処分を受けた事件。薄が失脚した後の二〇一二年一一月一九日に処分は撤回され出所した。労働矯正は裁判を経ずに最長四年の労働矯正施設に強制的に入所させることができる:訳注)
 重慶市党委員会学校の蘇偉教授は、薄事件の前まで一貫していわゆるマフィア取り締まりを擁護し、マフィア取り締まりの批判者が主張する「法の支配」とは法制度を「党の指導」から逸脱させるものであり「全面的な西側化」であると批判していた。昨年一二月の薄自身の演説においても市政府は三年間で五〇〇人ものマフィア集団を壊滅させたと述べ、党は調停者ではなく、マフィアとの闘いにおいて政法部門(情報、治安、司法、検察、公安などを管轄する部門:訳注)は無慈悲でなければならないと警告した。いま薄は「政法部門の無慈悲さ」を身をもって経験することとなったが、自らの行いを後悔しているのかどうかは疑わしい。
 同様の皮肉は「烏有之郷」にも当てはまる。二〇〇八年に劉暁波が憲章〇八を主張したことを理由に逮捕投獄された際、「烏有之郷」は劉の言論の自由を防衛するどころか(彼の主張が正しいかどうかは別の問題である)、逆に逮捕を称賛する多くの記事を掲載した。いまやその鋼靴は彼ら自身を踏みつけている。もし法の支配の原則が貫徹していれば、彼ら自身の言論の自由もそれほど簡単には失われずに済んだかもしれないということに気がついているだろうか。彼らが司法の独立およびそれに関連するすべての法治原則を敵視していることを彼らの文章から容易に知ることができる。この種の法治が「ブルジョア的」であり「反動的」であるからだという。だが、いまや彼らは「ブルジョア的」と言われるたぐいの法治のほうが、彼らの言う「党の指導下における法治」よりもずっとましであることを理解すべきである。
 つぎに、そして特に重要なことは、欧米を源流とする法治とは、そもそも調和的で総体的なものではなく、その内部においては一貫して二つの原則が衝突してきたということである。一つ目は支配階級が好んで宣伝する、つまりは支配者を含むすべての人間が法律に従わなければならないというものである。それは「党の指導下における法治」よりもましといえばましである。もちろん西側においても、実際には最高権力者たちは往々にして法の支配から免責されるし、富豪階級もその財力をフルに活用して免責される。もうひとつの法治概念は、人民による法治というものである。この概念は下からの社会運動に関連したものである。それゆえに、真の社会主義的法治とは、西側で実施されている法治を一概に否定するものではなく、その中の精華真髄のことなのである。今日において、人民のために奉仕すると言いながらこれらの法治原則に反対する者は、客観的には独裁主義者の共犯者に留まらざるを得ないのである。

重慶モデルとは何か

 重慶モデルについては、毛沢東主義者たちの間では三つの評価がある。一つ目は、薄がいまだ権力にあるときの重慶の党政府官僚によるもので、重慶モデルは中国の他の地域と同じく「社会主義」的であるが、もし違いがあるとすれば平等な富の分配を促進する点でより徹底していることだと考えていた。重慶の政策には何一つ独自のものがないという自由主義派の批判に対して、重慶党学校の蘇偉がこのように反論した。この論議はあまりに政府のプロパガンダ的であるが、二番目と三番目の評価はより関心を寄せる価値がある。
 二つ目の評価の典型は「烏有之郷」ウェブサイトである。かれらは中国が「社会主義である」ことは否定していないが、指導部の右傾化を一貫して批判していた。かれらは薄が左派だと考えていたので、この「党内の健全な勢力」を支持し、党中央が「社会主義」路線に回帰するよう圧力をかけ続けるべきだと主張していた。多くの著名な学者も多かれ少なかれこの見解をもっていた。大陸出身の香港中文大学教授の王紹光は、重慶モデルを「社会主義バージョン三・〇」と名付けて持ち上げた文章を発表している。彼の主張するところでは、重慶モデルは現在の社会主義バージョン二・〇よりは公正である。有名な新左派研究者である汪暉も、薄が逮捕された後でも重慶モデルを公然と擁護していた。彼によると、重慶モデルは新自由主義に対するオルタナティブを提供していたが、重慶モデルの没落が権力者に新自由主義的プログラムを建て直す機会を与えたと嘆いている。
 最新の薄擁護の例は、「マンスリー・レビュー」一〇月号に掲載された趙月枝(Yuezhi Zhao)の論文である。彼女は重慶モデルを「社会主義の理想を復活させようとする」ものとして、「多国籍資本、国内の沿海輸出産業、親資本主義的国家官僚の強力な支配的ブロック」に対置させている。
 三番目の評価は、薄が失脚するかなり以前に政府によって閉鎖された「中国工人研究」サイトを引き継ぐ「赤色中国」サイトのメンバーによるものである。その中心的な理論家は李民騏で、彼の英文著書『中国の興隆と資本主義世界経済の終焉』において、中国は完全に資本主義経済へと変化したと論じている。この見解は「赤色中国」に共有されており、中国には革命が必要であると結論づけている。薄の評価については、ウェブに掲載された文章の筆者“李民騏”は(私が彼の名前をコーテーションで括っているのは、この人物が前述の著者の李と同一人物かどうか確認できていないからである)、薄の政策は「社会主義」ではないが、少なくとも左翼改良主義的プログラムであり、党内の「裏切り者と買弁」勢力と闘争する愛国勢力であると考えていた。それゆえ彼らは「重慶モデルをさらに多くの地域に拡大することができれば、党内の愛国勢力の拡大に影響力を持つことができるし、マルクス・レーニン・毛沢東左派にとっても極めて有利である」と考えた。

「烏有之郷」の内紛


 薄の失脚はただちに毛派の中での激しい闘争の引き金を引いた。もちろんその闘争はこの三派にきれいに分かれて進行したわけではない。「烏有之郷」の内紛はとくに注目を集めた。中国社会科学院研究院の経済学者である楊帆は、「烏有之郷」のメンバーだが、彼の同志である張宏良(中央民族大学助教授、「烏有之郷」メンバー)に対して、文化大革命の復権を要求する極左で、それゆえに「烏有之郷」ウェブサイトの閉鎖に責任があると公然と攻撃した。彼はまた張らが薄から資金供与を受けていると非難した。他方、張は楊に対して「裏切り者」と批判している。同時に他の「烏有之郷」の責任者らは防衛のために、「赤色中国」のような他の毛沢東主義者を攻撃した。「烏有之郷」管理者の範景剛は、「極左がマルクス・レーニン・毛沢東主義の旗を掲げて右派勢力、ひいては西側帝国主義勢力と同盟を結び、中国の現体制を転覆した後に、プロレタリア独裁を打ち立てようとしている」と批判した。その後、李民騏は「赤色中国」を代表して、範は毛主義者の内部討論を暴露すべきではないと非難する公開書簡を明らかにした。
 重慶モデルの評価について言えば、毛派の中でも以前の立場を保持している者もいれば、楊帆のようにかつての全身全霊を傾けた重慶モデル支持の立場を早々と変更した者もいる。また、薄と他の中央指導部メンバーとの闘争は単なる「身内同士の争い」であって、そこから導き出される論理的な結論は、左翼はこの争いからは「距離を置く」ことであり、「薄が労働者をだましてきたこと」をさらに踏み込んで暴露することだとしている。結局のところ、薄の失脚は毛沢東主義者らの内部の分岐を一層深刻なものにしたといえる。
 薄煕来のことを「社会主義者」であるとか、あるいは少なくとも「人民の友」であると主張する者は、薄の経歴を故意に粉飾しているのであり、それはまさに重慶モデルの様々なタイプの支持者らのやり方でもある。薄煕来が一九九三年に大連市長だった時期に、彼は再開発のために多数の住宅を強制的に立ち退かせた。地元の人々は彼のことを「薄?皮」つまり「薄の皮剥人」と呼んだ。彼はまた遼寧省長時代に、省内の国有企業の大規模な民営化を指揮した。その結果、何百万という労働者がレイオフされ、労働者の抵抗は弾圧された。二〇〇二年には、遼陽市で遼陽冶金工廠の労働者が他の国有企業の労働者と共闘して民営化への抗議を行い、民営化の過程における汚職を調査するよう薄煕来に訴えたが、二〇〇三年に薄は姚福信と蕭雲良という二人の労働者リーダーにそれぞれ七年と四年の刑に処すことで回答した。
 もちろん人は変わり得る。過去の行動は現在を判断する際の参考の一つに過ぎない。しかし、薄煕来が重慶で権力にあった時期の行動は、いかなる意義においても社会主義ではないし、資本主義の枠組みにおける進歩的な改良主義ですらないだろう。重慶モデルは「社会主義思想を再生するものである」という「マンスリー・レビュー」の論文は悪いジョークでしかない。というのも、重慶モデルが「混合経済の中で、国有部門、多国籍部門、国内民間部門の相互補完的成長を認める」のであれば、それは社会主義などではなく資本主義の混合経済にすぎないからである。そして、労働者が経済や社会の運営方法を決定できる民主主義抜きには、社会主義などと言うことはできない。しかし、他の一般的な中国市民と同様に、重慶市民は基本的な市民的権利さえも享受してはいないのに、これを社会主義かどうかなどと議論することはできるはずもない。公共住宅プログラム、三〇〇万人の農村からの移住者への都市居住の承認、福祉制度の改善などは一見、福祉国家的な改良主義に見えなくもない。自由主義派は、こうした政策のほとんどは重慶で発明されたものでなく、中央政府によってすでに進められてきたか、中国のどこか他の地域ですでに実施されたことだと主張している。蘇偉はこうした批判に異議を唱えるのではなく、重慶と他の地域との違いは改革を実行する規模と真剣さであると強調した。
 問題は、中央政府にしろ重慶にしろ、経済的利益での改良主義に過ぎず、政治的権利には全く波及していないという点にある。言論の自由や結社の自由がなく、すべてのメディアが国営であるときに、改良主義的政策の実施に関する報道が正しいのかそうでないのか、どうして判断することができるだろうか。中国の多くの地域においてそうであるように、公共住宅が地方官僚の取り巻き連中にではなく、真に住宅を必要としている人々に本当に供給されているのかどうかを、どうして検証することができるだろうか。
 重慶では三〇〇万人の農村出身者を都市に移住させることができたが、それと引き換えに彼らが持っていた住居用地に対する権利を、土地使用権交易所を通じて譲渡しなければならなかった。形の上では農民たちは(交易を通じて)補償を受け取ることができるが、問題は実際にその政策がどの程度正しく実施されたかにある。
 重慶のメディアは薄支配下で自由な報道ができなかったが、中国の他の地域のメディアはある程度まで薄に好意的でない報道をすることができたし、報道してきた。それらの報道によると、交易の主体が農民ではなく役人であり、交易の過程の不透明や腐敗によって、農民たちが受け取った補償は余りに少なく、結局のところ土地使用権利書の多くが重慶の八大開発業者のポケットに入った。農民が二等市民として扱われる社会においては、農民が「高層マンションに追いやられる」という現象が見られるのである。

市民的権利の回復が起点

 「烏有之郷」のメンバーが、河南省の南街村を共産主義の村として大いに持ち上げていたのはそんなに以前のことではない。それはせいぜいのところ、協同組合、しかも党書記で村長でかつすべてを所有する企業の経営者でもある王宏斌によるトップダウンという非民主的な協同組合でしかない。王自身もこれを否定していないし、それを誇りに思ってさえいる。南街村は村民に対して充分な福祉を提供しているとされているが、それは一万人の移住労働者に対する搾取という一面もある基礎の上に存在するものである。二〇〇八年、広東の「南方都市報」は、王宏斌と同僚たちが株式を彼ら自身に割当てていたことを報道した。王はこれを否定したが、彼の弁護は弱々しいものであった。いずれにせよこの報道で、南街村に対する熱は冷めていき、「一村社会主義」の神話は没落した。「烏有之郷」のメンバーにとって幸運だったのは、重慶モデルという「一都市社会主義」が登場したことで、党中央の左転換を展望できる約束の地に支持者らを引き続いて引率することができたことである。しかしながら蜜とミルクの流れるこの約束の地がこんなにも早く崩壊するとは夢にも思わなかっただろう。
 われわれは、もちろん市民の生活を改善するための政府のいかなる政策をも歓迎する。しかし、官僚独裁のもとでは、いわゆる「でたらめ和尚によるでたらめ読経」となり、政策は下部に行けば行くほど道を踏み外し、官僚の汚職のたねにされてしまう。今日の中国の国家機構は、社会問題を解決する手段ではなく、問題の所在そのものであることを理解しなければならない。それゆえ、改良主義が意味のあるものとなるためには、市民権および一切の政治的権利の復権から着手されなければならない。そうでなければ、いかなる経済的な改良政策であってもまともな効果を発揮することはできず、ひどい場合には上層クラスの支配者の派閥闘争に利用されてしまうだけである。
 毛派の一部が、党内のいかなる分派も支持しない、必要なのは革命である、と主張しだしたことは良い兆候かもしれない。しかし、彼らの革命理念は、公有制の再建については言及されても、民主的選挙や司法の独立など基本的な民主主義原則、そして当然にも労働者民主主義には言及されないことが問題なのである。一部の毛沢東主義者はいまでも「偉大な指導者」の個人独裁に対しては寛容なのに、一人の「悪人」が言論の自由を享受することは絶対に認めようとしないのである。かれらの言うところの「革命」とは、悪い皇帝を良い皇帝に替えるという、中国の歴史上の農民革命の理念、あるいはそれにせいぜいのところ所有権の革命を付け加えたくらいであろう。しかしこのような革命は、労働者人民の民主的権利を一貫して排除しているのである。このような革命は一時的に労働者人民の生活を部分的に改善することは可能かもしれない。しかし、その改善も「偉大で栄光ある正確な」党の指導者が与えるものなので、別な指導者が独断でこの経済的権利を廃止することもまた容易なのである。
 形式的には、今日の中国はすでに一定の福祉国家と言えなくもない。つまり、すべての労働法制がとどこおりなく機能し、すべての福祉政策や社会保障制度が全面的に実施されるのであれば、ということである。政府系のメディアですらこれらの政策がしっかりと実行されていないと認めている。官僚独裁と政官財癒着の悪質な資本主義がそれを阻害しているのである。
 それゆえ、改良主義者であろうと「革命」派であろうと、市民的権利と結社の自由を含む民主的権利の回復を実現すると同時に、社会民主主義的改革から社会経済の最高管理権を労働者人民が掌握する状況を実現しなければならないのだ。このような主張の実現がどれだけ困難であろうとも、独立した闘争精神を放棄することなく人々を啓発し続ける必要がある。
 二〇一二年一二月一日

 


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