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    かけはし2014.年1月1日号

めざされるべき核心は民衆運動の強大化


寄稿 日本共産党第26回党大会決議案を読む

従来発想を超えた共同闘争追求
の意欲を活かす自由な論争必要

樋口芳広(日本共産党員)

 

はじめに

 二〇一三年七月の参院選において、自民・公明両党が圧勝し民主党が壊滅的な敗北をこうむる中で、日本共産党は五一五万票を獲得して議席を改選三議席から八議席へと増加させた。民主党、日本維新の会、みんなの党などが、安倍政権との政策的な対決軸を打ち出せない中で、日本共産党は、原発・消費税・TPP・憲法などの諸問題で安倍政権への対決姿勢を鮮明に打ち出し、政権への批判票を取り込むことに一定程度成功したと言えよう。日本共産党の指導部は、この選挙結果について、一九六〇年代終わりから七〇年代にかけての“第一の躍進”、九〇年代後半の“第二の躍進”に続く“第三の躍進”の始まりであり、「自共対決」時代の本格的な始まりに他ならぬ、と位置づけることになった。
 二〇一四年一月に開催される日本共産党第二六回大会の決議案は、こうした情勢認識の下、「二一世紀の早い時期に民主連合政府を樹立する」という目標を前面に押し出して、党員拡大・機関紙拡大を中心とした「強大な党建設」を呼びかけるものとなっている。果たして、「自共対決」時代の本格的な始まりという情勢把握は、どの程度の妥当性を有していると言えるのであろうか。また、「強大な党建設」のためとして打ち出されている方針には、いかなる問題が含まれているのだろうか。本稿では、これらの点について、検討していくことにしたい。

1、「自共対決」時代の本格的な始まり?


 まず問題にしなければならないのは、決議案全体を貫いている「自共対決」時代の本格的な始まりという情勢認識の妥当性である。この問題を論じているのが決議案の第一章であり、「この章は、決議案全体のいわば『総論』というべき章」(第九回中央委員会総会における志位委員長の報告)だと位置づけられている。
 この章の最大の難点は、政治情勢の具体的な分析(階級的な力関係、経済的・政治的諸勢力の利害の複雑なからみ合いを押さえつつ、政治的諸党派の配置を意味づけていくという作業)から「自共対決」という結論が導き出されているわけではなく、逆に、あらかじめ「自共対決」という不動の枠組みを設定した上で、そこから戦後日本政治の流れを描き出すという方法が採られていることである。端的には、“結論先にありき”なのである。
 もちろん、議会内の政党配置ということに限るならば、一九五五年以降、常に自民党の対極に共産党が位置していたと言うことはできるし、それが「異常な財界中心」の政治、「異常な対米従属」の政治を許すかどうか、という日本政治の根本的な対決軸に根ざしたものであったというのも、別に間違いだとは言えまい。その意味では、「日本の戦後政治の底流にはつねに『自共対決』が存在」という大会決議案の文言も、それなりの根拠があると言ってよい。しかし、これは、ごく抽象的なレベルにおいてはそういう捉え方も成立する余地がある、というだけのことである。政治情勢の複雑な展開を、さすがにこの単純な論理だけで割り切って説明するわけにはいかない。例えば、自民党とその補完勢力が国会議席の圧倒的多数を占め、自公政権が高い支持率を得ているという現実を説明するためには、また別のレベルの論理が必要になってくる。
 ここで大会決議案が持ち出してくるのが、「政治の表層」と「社会の土台」という、これまた単純至極な二分論である。すなわち、「政治の表層では、自民党とその補完勢力が多数を握っているが、社会の土台においては、……自民党政治が、行き詰まりを深刻にし、崩壊的危機におちいっている」「政治の表層では、自民党とその補完勢力が多数でも、社会の土台においては、国民の多数派と日本共産党が共同するという動きが力づよく発展している」という議論を展開するわけである。
 大会決議案は、「自共対決」という抽象的なレベルの命題を、「政治の表層」「社会の土台」という単純な二分論を用いて、具体的な現実に押し付けて解釈していくことにより、「自共対決」時代の本格的な始まりという情勢認識を正当化しているのである。しかし、革命政党のなす情勢分析として何よりも重要なのは、「社会の土台」において自民党政治が行き詰まりを深刻にしているにもかかわらず「政治の表層」で自民党とその補完勢力が多数を握っているのは何故なのか、「社会の土台」と「政治の表層」が如何なる過程的構造において媒介されているのか、具体的に究明することであろう。
 このような過程的構造の具体的究明の放棄からは、自民党と共産党以外の諸政党を中間的な「受け皿政党」として十把一絡げにして切って捨てる、という発想が必然的に導き出されてくる。確かに、いわゆる「二つの異常」を是とするか非とするかという基準からすれば、日本共産党以外の諸政党の自民党政治への対決姿勢に不徹底さがあることは否めない。その意味では、中間的な「受け皿政党」という規定に根拠がないわけではない。しかし、そこから直ちに、「受け皿政党」の衰退は「自共対決」という本来の対決構図を浮き彫りにするから望ましいものである、という結論を導き出すならば、それは問題であろう。
 一九五五年体制下における最大野党であった日本社会党は、曲がりなりにも革新政党として存在していたのであったし、二〇〇九年に政権交代を成し遂げた民主党ですらも、自民党政治転換への期待を集めて政権を獲得したことにより、共産党のいわゆる「二つの異常」を、ごく部分的ではあったものの、打ち破るような要素を内包していたのであった(「国民の生活が第一」というスローガンや、東アジア共同体構想など)。こうした政党の存在について、専ら「自共対決」という本来の対決構図を覆い隠す役割を果たすから好ましくないものである、と言うことはできないだろう。
 ここで厳しく指摘しなければならないのは、日本共産党の“第二の躍進”なるものは、日本社会党の崩壊過程で行き場を失った革新票の受け皿となったからという側面が強く、同じく“第三の躍進”なるものは、「国民の生活が第一」を掲げた民主党政権の変質と崩壊によって行き場を失った反自民票の受け皿となったからという側面が強い、ということである。
 重大なのは、“第二の躍進”から“第三の躍進”に至る過程を通じて、総体としての革新勢力の得票・議席は減少を続け、右傾化した自民党を含めて、右翼的勢力の得票・議席が大きく伸張してきていることである。にもかかわらず、「自共対決」という抽象的なレベルの命題を具体的な現実に押し付けて解釈するという角度からは、日本共産党の得票数・議席数のみをほとんど唯一の基準として政治情勢の成熟度合いを云々するという発想しかでてこない。ここから、「第三章 自民党政権の反動的暴走と対決し、新しい日本をめざす」における楽観的に過ぎる情勢分析、すなわち、安倍政権の暴走に対しては、その政治的基盤の脆弱さをことさらに強調して「恐れる必要はない」と結論付けるといった情勢分析が導き出されてしまうことになる。この大会決議案には、新自由主義的政策の遂行が格差を拡大させ社会を不安定化させてきたからこそ、支配層は排外的なナショナリズムを煽りつつ上から強権的に統括するしかなくなってきているのではないか、という程度の分析すら存在しないのである。

2、決議案は世界情勢をどのように把握しているか


 引き続いて、「第二章 世界の動きをどうとらえ、どう働きかけるか」について検討する。
 まず注目されるのは、構成上の問題である。従来の党大会決議においては、世界情勢について論じる章は、日本の政治情勢との関わりで党の掲げる民主的改革の内容を論じる章よりも後に置かれていた。今回の決議案では、この順序が逆転されているのである。このことについて、志位委員長は、第九回中央委員会総会における報告の中で、「『世界の構造変化』と二一世紀の世界像、アメリカの動向、ASEAN(東南アジア諸国連合)をはじめとする平和の地域共同体の動向など、国際政治の中心問題について広い視野で正確にとらえることは、日本の政治の前途を展望するうえで不可欠の前提となるから」と説明している。世界情勢に関する把握を日本の情勢を把握する上での前提としなければならないというのはその通りであり、この構成には一理ある。しかし、残念ながら、ここでの世界情勢の分析は、日本の情勢を深く分析していくためのヒントにはなりそうもないシロモノなのである。
 現代の世界情勢を分析する上で最重要のポイントの一つであり、とりわけ日本の情勢を分析していく上で絶対に避けて通れないのは、米中関係の動向であろう。いわゆる「パックス・アメリカーナ」が崩れつつある中で中国が新興大国として台頭してきているという過程的構造が、アメリカの同盟国としての日本の政治情勢を大きく規定しているのである。ところが、驚くべきことに、大会決議案では米中関係についてほとんどまともに分析されておらず、「中国に対してアメリカがとっている政策は、旧ソ連に対してのような『封じ込め』ではない」と現象論レベルの言及に留まっているのである。これでなぜ「国際政治の中心問題について広い視野で正確にとらえることは、日本の政治の前途を展望するうえで不可欠の前提」などと言えるのか、理解に苦しむ。
 このことに関わって検討しておかなければならないのは、大会決議案が、現在のアメリカの世界戦略には「軍事的覇権主義に固執しつつ、国際問題を外交交渉によって解決する動きが起こっているという、二つの側面」がある、と特徴付けていることの妥当性である。結論から言えば、この「二つの側面」論なるものは、極めて表面的な把握でしかない。「二つの側面」というのはあくまでも現象であって、問題にすべきなのは、この「二つの側面」が如何なる過程的構造において統一されているのかということなのである。にもかかわらず、大会決議案においては、アメリカの経済力の衰退、財政危機の進行によって、従来のように軍事的覇権主義を貫徹することが不可能になってきているのだ、という程度の分析すらなされていない。その結果として、アメリカの世界戦略の一側面としての「外交的手段」なるものが、あたかもオバマ政権の進歩性の現れであるかのような印象すら与えかねない記述になってしまっている。これは、アメリカの世界戦略についての評価として極めて甘いものであると言わざるを得ない。
 大会決議案の世界情勢論が極めて表面的なレベルに留まっていることは、「世界の平和と社会進歩を促進する力」をどのように把握するかという点に、集約的に示されていると言ってもよいだろう。端的に言えば、大会決議案は、「一握りの大国が世界政治をもっぱら動かした大国中心の時代は終わり、国の大小での序列がない世界になりつつある。世界のすべての国ぐにが、対等・平等の資格で、世界政治の主人公になる新しい時代が開かれつつある」という「世界の構造変化」こそ、「世界の平和と社会進歩を促進する力」である、と規定しているのである。これは驚くべきことである。世界情勢論において「世界の平和と社会進歩を促進する力」を論じるならば、それは何よりもまず、社会の諸矛盾を解決すべく展開される労働者・人民諸階層の闘いであるべきだろう。にもかかわらず、大会決議案からは世界の民衆の闘う姿が全くと言ってよいほど浮かび上がってこない。諸国家の外交政策の絡み合いというレベルの表面的な分析で終始一貫してしまっているのである。

3、党建設・党勢拡大をめぐる諸問題について


 大会決議案の第三章では、安倍政権の暴走との対決を掲げつつ、諸分野における党の改革提案がまとめられている。ここは、総じて新味のない内容となっているが、最後の部分で、以下のように言及されていることは注目される。

 「前大会以降の顕著な特徴は、この数年来、原発、TPP、消費税、憲法、米軍基地など、国政の根幹にかかわる問題で、一致点にもとづく共同――『一点共闘』が大きな広がりをもって発展していることにある。広大な無党派の人々、従来の保守といわれてきた人々との共同が各分野で大きく広がっている。文化人、知識人、宗教者が新たに共同に参加する動きも広がっている。これは未来ある画期的な動きである」。

 つまり、従来のように共産党の影響力の強い運動団体(いわゆる「民主団体」)を中心にした運動ではなく、個々の課題ごとに、これまで共産党と接点のなかった諸団体・諸個人との共同闘争が発展してきたということである。
 福島原発事故以降の脱原発運動の大きな広がりなどが念頭にあってのことだろうが、こうした「一点共闘」の発展を「未来ある画期的な動き」と捉えることは納得のできるものであるし、従来の運動の枠組みを超えて共同闘争の広がりを追求しようという姿勢を鮮明にしたことは(いわゆる「民主団体」の組織的な衰退という事情もあるだろうが)評価されるべきことである。また、政党戦線における共産党との連合相手(国政選挙で共闘しうる相手)の登場を、既存の議会政党の再編というレベルに求めることなく、あくまでもこうした「一点共闘」の広がりと関わらせて展望しようという姿勢を示している点も妥当だと言える(ただし、「一点共闘」の中でも保守層との共同が大きな比重を占めることが、共産党の政策路線を一層右傾化させる圧力として働きかねないことには警戒が必要である)。
 続く第四章では、「二一世紀の早い時期に民主連合政府を樹立する」という目標を前面に押し出して、国政選挙(比例選挙)で「六五〇万、得票率一〇%以上」の実現を目指した取り組みを強めていくことが提起されている。第五章も同様に「二一世紀の早い時期に民主連合政府を樹立する」という目標を前面に押し出した上で、党員拡大・機関紙拡大を中心に「質量ともに強大な党を築くこと」を呼びかけるものとなっている。ここでは、具体的な目標として、二〇一〇年代に「五〇万の党員(有権者比〇・五%)、五〇万の日刊紙読者(同)、二〇〇万の日曜版読者(二・〇%)――全体として現在の党勢の倍加に挑戦すること」が提起されている。これから六年間で党勢を倍化させるという極めて壮大な目標である。
 しかし、忘れてはならないのは、機関紙部数は一九八〇年に日刊紙・日曜版合わせて三五五万部を記録して以降、三四年間に渡って一貫して減少し続けていることである(昨年一一月の時点で、日刊紙二二万弱、日曜版一〇一万強)。壮大な党勢拡大目標を掲げるのは結構だが、そのためには、このような長期間に渡る減少傾向についての深刻な総括が絶対に必要であろう。ところが、そのような総括はどこにもなされていない。目標達成のための取り組みとして出てくるのは、党勢拡大の「大運動」なるものを設定して、個々の党員を締め上げて党勢拡大に奔走させる、という方針だけである。
 しかし、これでは個々の党員・党組織がますます疲弊していくだけである。指導部は、党員が機関紙拡大に真剣に取り組まなくなったことが部数減少の最大の要因だとでも考えているのだろうか。機関紙部数の減少の要因については、もっと多面的に突っ込んで検討されるべきであろう。例えば「しんぶん赤旗」の記事の質に問題はないのか。この間の秘密保護法案をめぐる報道の水準について一般紙と「赤旗」を比較したとき、一般紙の方が問題点の掘り下げが深く情勢に機敏に対応していた(石破「デモ=テロ」発言と法案のテロ定義との関連の指摘など、「赤旗」は明らかに一般紙に遅れをとっていた)ことは否めない。運動の発展にとって今どういう情報が求められているのか、という感度が著しく鈍っているとしか思えない。こうした「しんぶん赤旗」の質の問題を不問に付して、個々の党員に拡大行動を強制するなどは、絶対に許されないことである。
 党勢拡大の問題をめぐってはもう一つ、「大運動」なるものによって党活動が党勢拡大のための取り組み一色に塗り潰されてしまいかねないことを指摘しておかなければならない。もちろん、大会決議案は、「国民の要求実現のたたかいに取り組みつつ、党建設・党勢拡大の独自の追求をはかる『車の両輪』の活動こそ、強く大きな党をつくる大道である」と述べており、「要求実現のたたかい」の重要性を一応は強調している。
 しかし、「要求実現のたたかい」において具体的にいかなる諸課題への取り組みが必要になってくるのかは一概に言えるものではないし、それがどの程度まで発展してきているのか客観的な基準で評価することも困難である。これに対して、党勢拡大においては具体的にいかなる取り組みを行うべきかが明確であるし(要は対象者を挙げて働きかければよい)、それがどの程度まで進展したかは客観的に数字で把握することができる。このような性質上、両者を「車の両輪」として並列させた場合、どうしても後者の取り組みの方が重視されてしまう傾向が出てくるのであるが、党勢拡大の「大運動」として、一定の期間を区切って一定の成果を出すことが強く求められると、この傾向に著しく拍車がかかることは避けられないのである。
 より根本的に言えば、「要求実現のたたかい」と「党勢拡大」を「車の両輪」として平面的に(同列に)並べてしまうことが誤っている。そもそも共産党の党活動(革命運動)の本質とは何であるのか。端的には、労働者・民衆が自らを解放できるだけの政治的力量を創出できるように、ともに闘う過程で明確な政治的展望を示しつつ働きかけていく、ということであろう。党のあらゆる活動は、この目的に収斂させなければならない。そうだとすれば、「要求実現のたたかい」こそ主であって、党勢拡大の取り組みはあくまでもこれを発展させるための手段として位置づけなければならない、という結論が出てくる。党活動本質論からのこのような立体的な把握がないために、「要求実現のたたかい」を党勢拡大のための手段であるかのように考えたり、党勢拡大の取り組みを自己目的化したりする傾向が生じてしまうのである。
 結果として、「大運動」期間になると、個々の党員は自らの思い当たる対象者に「一カ月だけ何とか」と頼み込んで「赤旗」を購読してもらい、「大運動」が終了すると大量減紙が発生する、ということの繰り返しになってしまうのである。このような情況から脱するためには、そもそも党活動とは何なのか、という原点に立ち返っての深刻な反省が求められる。機関紙拡大は運動の発展のためにこそ、という観点が明確に確立されるならば、「赤旗」紙面も自ずから改善されていくはずである。

おわりに

 以上、日本共産党第二六回大会決議案について、情勢認識の問題点、党勢拡大方針の問題点に絞って、検討してきた(最終章の社会主義論については、中国などをめぐる評価、不破社研所長のエンゲルス批判との関連で幾つかの検討すべき問題を含んでいるが、本稿では割愛した)。
 大会決議案は、「政治の表層」と「社会の土台」という単純な二分法を援用しつつ、政治情勢を「自共対決」という極めて単純化された構図で描き出した上で、共産党の党員・機関紙読者を拡大していくことこそが政治変革の確かな道だと云わんばかりに、党員に党勢拡大大運動を強要するものとなっていた。要するに、この大会決議案は、「あれかこれか」で機械的に割り切るような、極めて平板で静的な情勢把握を特徴としており、それに対応して、政治変革のための取り組みも、単なる得票増、党員拡大・機関紙拡大といった共産党の量的拡大のみを一面的に追求するようなものとなっているのである。
 本論部分では触れることができなかったが、党の質的強化という課題については、不破社研所長の古典講義や志位委員長の綱領講義の学習がことさらに強調されるようなレベルに留まっており、個々の党員・党組織が、様々な領域において運動を的確に発展させていけるような政治的力量をつけることこそが重要なのだ、というような本質的な解明はなされていない。党指導部の方針、党幹部の発言を絶対的に正しいものとして頭に叩き込み、それを周囲の人々に対して忠実に同じような言い回しで繰り返しながら、選挙での支持拡大、機関紙拡大、党員拡大へと奔走する――この党大会決議案から出てくる党活動の姿とは、せいぜいそのようなものでしかないのである。このように直線的で硬直した活動のあり方では、いくら「一点共闘」の重要性を力説しても、早晩壁にぶち当たってしまうことになるだろう。
 大会決議案は、総論に相当する第一章において、「綱領は、表面のあれこれの動きに左右されずに、情勢を根底からとらえる羅針盤となった」と誇っている。確かに「情勢を根底からとらえる」のは重要であるし、「表面のあれこれの動き」に左右されないというのも大切である。しかし、そのことは「表面のあれこれの動き」を無視ないし軽視して、抽象的な命題にしがみつくということであってはならない。「表面のあれこれの動き」をしっかりと把握した上で、適切な対応を行いながら、諸運動の全体的な発展を的確にリードしていくことこそが、革命政党としての共産党に求められる役割なのではないだろうか。
 そのためにも、個々の党員・党組織が、党幹部の発言、党指導部の方針を無条件に正しいものとして受け入れるのではなく、自主的に検討して批判すべきことははっきり批判すること(二〇一〇年の参院選での大敗に関連して、指導部は「政治論戦の弱点」を率直に認めたではないか!)、党中央指導部の方針待ちにならずに、情勢の見方、政策、運動方針について積極的に提起し、自由闊達に討論していく気風を創出していくことが絶対に必要であろう。

 


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