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    かけはし2014.年1月20日号

追悼 木村保博同志


同盟創生期からの苦闘を担って

JRCL関西地方委員会

 二〇一三年一一月二三日、わが同盟創生期からの労働者同志の木村保博さんが亡くなった。われわれにとってだけでなく、大阪の労働運動や、堺の市民運動にとっても大きな痛手である。享年七八才。心からの哀悼を捧げる。命つきるまで労働運動、民衆運動そして第四インターの運動に取り組んできた木村同志の意思を引き継ぎ、実現のために頑張ろう。
 木村保博同志は、一九三五年九月大阪市港区に生まれた。
 一九五一年三月中学卒業と同時に逓信講習所に入所、同年一二月卒業し五二年一月大阪中央電報局(大阪中電)に配属。当時レッドパージで共産党が職場から追放され、敗北の影響が色濃く残る中で、伊藤修身さんや前田裕晤さん等と共に中電労働運動(電通運動)と組織の再構築のために闘った。
 六〇年安保闘争の後「わたしの命を預けた」と固い決意を述べ、わが組織(第四インター)に加盟。前田裕晤さんらのブントと共に電通労研を組織し民同・構造改革派とせめぎ合い、中電労働運動を再構築していった。マッセンストの敗北後、地域労働運動との結合をめざし、田中機械闘争への支援を組織すると共に「労働情報」の組織化にも取り組む。三里塚闘争、ベトナム反戦、沖縄連帯にも全力で取り組む中で、労働運動の右翼再編・連合の結成と対決し「電通合同労組」結成を果たした。
 退職後もOBとして電通合同の運動に参加すると共に、堺市での地域運動にも取り組んできた。
 今回の石田俊幸さんの追悼文では堺市での活動が紹介されている。中電労働運動や電通合同結成をめぐる木村さんの活動については、時を改めて、職場で共に闘ってきた職場・運動の後輩に書いて頂く予定である。(二〇一四年一月一一日)

木村保博さんを偲んで

地域市民運動でも大きな貢献

石田俊幸(大阪全労協顧問)

 一九七〇年のゼネ石闘争と敗北、闘いの再起をめざした七五春闘ストで、二組組合員の就労を阻止するために地域の仲間に支援を要請してピケを張った。その時の小競り合いで木村保博さんが肋骨にひびが入ったと前田裕晤さんから聞いたのは、木村さんが亡くなったお通夜の時でした。
 当時から電通の仲間との交流が始まったと思います。その後、電通合同が結成され、お互い闘いの支援に駆けつけたり、交流して今日まできました。今では電通合同は身内以上の仲間になっています。
 また、九三年の暮れに、上坂喜美さんや片山明さんなど堺地域の仲間が集まって『市民ネットワークさかい』を立ち上げました。会議はいつも木村さん宅でやり、酒も入ってみんな益々多弁となっていく中で、木村さんは聞き役に回っていることが多かったように思います。代表であり機関誌を担当した木村さん、みんなを引っ張っていくと同時に縁の下の力持ちの役も担っていました。
 五八歳で退職されてから闘った長谷川俊英氏の衆議院選挙。批判もありましたが、ここでも選対の中心となりみんなを引っ張っていかれました。その後の選挙も同様でした。市民ネットから候補者を立てた堺市議選挙で取り組みの相違から引き下がられましたが、その後の活動には陰から応援し、にこにこといつもの笑顔で見守っておられました。
 また、九度山にある木村さんの別荘、奥深い山の中にあり、夜は周りの灯りがまったく見えず満天の星空、山歩きが好きな木村さんに相応しい場所にある「もみのき小屋」で何度かおこなった一泊合宿は楽しい思い出となりました。
 最近では、体調が悪く療養されていました。大黒柱を失った感じがしていますが、木村さんの意志を少しでも受け継いでいきたいと思います。
合掌
 2013年12月8日

木村さんとの討論の思い出

心から大衆運動が好きだった人

岩堀 敏


「やっと超えた
マッセンスト」
 木村保博さんが逝ってしまった。なんともいえない寂しさがつのり、木村さんとともにあったさまざまな場面が今なお私の中をかけめぐっています。
 木村さんと討論できるようになったのは、一九七〇年からでした。一〇歳年下の私は、そのころ二〇代半ばの生意気盛りの若造、木村さんはすでに経験を積んだ中心的な組合活動家でした。木村さんは、そんな私の話にも真剣に耳をかたむけて、「イワボリなぁ」、「オマエなぁ」と率直に語りかけてくれました。
 「イワボリなぁ、電通合同、しぶとく、がんばっとるぞ」。開口一番そう言ってくれたのは、二〇一一年四月、ともに闘い続けてきた故伊藤修身さんの通夜の席のことでしたね。
 「イワボリなぁ、オレ、マッセンスト、やっと超えられたで」と涙で顔をくしゃくしゃにしながら話してくれたのは、一九七八年、三里塚二月要塞戦の直後のことでしたね。零下七度という凍てつく夜、横堀要塞の上に建てた鉄塔に登った四人の戦士が、機動隊の放水に耐えながら一晩中鉄パイプで鉄塔を打ち鳴らして貫いたこの闘いは、「開港阻止」の熱い息吹と現実感を一挙に全国各地の人びとの心の中に深々とひろめました。木村さんは、この闘いを感極まる涙をもって受けとめているようでした。
 一方、「マッセンスト」は、一九六八年一〇・二一国際反戦デーに、大阪中電(中央電報電話局)で数人の労働者が職場放棄し、局舎の屋上から一本の火炎瓶を投げた闘争でした。
 そのころ私はまだ学生でしたが、「中電マッセンスト」に反対していました。ローザ・ルクセンブルクが提起した「マッセンスト」(大衆ストライキ)は、ドイツ社会民主党と労働組合の官僚機構という大衆のイニシアティブを窒息させている障壁を下から打ち砕く自然発生的運動の中に活路を見いだし、それをゼネラルストライキと大衆蜂起につなげようとするものでした。それとは似ても似つかない「中電マッセンスト」は、ローザのマッセンストを弄び、原型をとどめないまでに粉々にしてしまったのです。
 私は、「中電マッセンスト」は、その大仰な言葉とは裏腹に、中電労働運動が「職場主義」の限界の中にあることを示していると批判し、街頭政治闘争に大衆的に合流するよう呼びかけました。
 でも、これは「外」からの「気楽な批判」にすぎなかったのですね。「オマエなぁ、わかるかぁ。オレら、職制や民同といっしょになってマッセンを止めることになったんやでぇ。マッセンを批判するのは簡単や。それを超える方針が必要やったんや。それが出せんかったんや」。一〇年前の「中電マッセンスト」のときに味わった悔しさを、昨日のことのように激しく吐き出す木村さん。私も、当時の木村さんたちの悔しさの一端を(ほんの一部にすぎないとしても)共有させてもらったように感じました。

教えられたこと
を大切にして
 木村さんと討論するようになって以来、私は意識的に「中電職場主義」を批判する立場から発言していました。今にして思えば、恥ずかしいほど乱暴な言い方をしたことも多々ありました。それでも、木村さんは私の言葉に耳をかたむけてくれました。それは、木村さんの真摯な人柄に加えて、「マッセンを超える」という強い思いがあったからなのですね。
 「言うは易く行うは難し」です。「職場主義」を「内側」から超えるためには、大衆討論にかけられるだけの実践的方針が必要でした。私たちは、さまざまな摸索の中から、職場で闘うのは当然のこととして、地域に入ってほかの産業の労働者とともに闘い、さらには多くの未組織労働者とともに闘う方法を見つけ出していこう、政治闘争・三里塚闘争に職場の労働者を丁寧に大衆的に組織していこうということになりました。
 そうした活動が軌道に乗り始めたころ、私は関西の地を離れることになりました。そのおよそ半年後、「オレ、マッセン、やっと超えられたで」と語っていた木村さんの中では、「大阪電通合同労組」はもうすでに動き出していたのですね。
 木村さん、こんなふうにも言ってくれましたね。「オマエなぁ、火中の栗を拾いすぎやで。オレ、ヒヤヒヤしながら見とったで」。私が火中の栗を拾いすぎたかどうかは別にして、大阪と東京で遠く離れていても、私のことを気にかけてくれていたかと思うと、嬉しくて涙がこぼれそうでした。
 木村さんは心から大衆運動が好きな人でした。しかも、木村さんにとって「大衆」は、単なる「マス」ではなく、それぞれが異なるものを背負った一人ひとりのことでした。だから、大衆運動は、木村さんにとっては「党派運動」や「活動家運動」とははっきり区別されるものでした。そうした「大衆(運動)観」を貫いた木村さんは、職場で当局や民同と真っ向から対峙するとともに、仲間のことは親身になって世話していました。また、セクト主義や、党と労働組合の役割の混同を、心の底から嫌っていました。
 今日はこの辺にしておきます。私は、これからも木村さんのことを忘れず、木村さんから身をもって教えられたことを大切にしていきます。

 

12.5 「国旗国歌」尊重義務化に反対


「国への忠誠」強要する教育NO!

秘密保護法反対運動と連携し


「強制しない」
という確約は?
 一二月五日、おりしも秘密保護法の参院特別委員会で強行採決が行われようとしている午後三時から、参院議員会館で「国旗国歌」尊重義務化に反対する院内集会が開催された。主催は同集会実行委員会。
 この日の集会は、自民党改憲草案にうたわれた「天皇元首化」「国旗・国歌尊重義務」が現実のものとなる危険性が高まる中で、強制はしないとの確言を伴った一九九九年の「国旗・国歌法」制定以来、その約束の有名無実化を許さない意思をもって院内集会を積み重ねてきた実行委員会によって企画された。この日の集会は、秘密保護法案強行採決に反対する院内・院外の闘いと連動したものになった。集会には九三人が集まった。

人権破壊の国家
主義を撃ち返せ
 最初に社民党衆院議員の照屋寛徳さんが発言。「秘密保護法の対象となる案件が一番多いのは沖縄だ」と語り、「国旗国歌」の強制と秘密保護法案が一体のものである、と訴えた。
 続いて憲法を生かす会の筑紫建彦さんが「アベの野望は“強権国家”“戦争できる国”づくり」と題して報告。この間の立法改憲・実体改憲・解釈改憲による明文改憲への外堀を埋める攻撃の性格を明らかにした。筑紫さんは自民党改憲草案に見られる「公の秩序」という言葉をキーワードと捉え、「公=国家」に反対してはならないという改悪案を貫く考え方を厳しく批判した。
 弁護士の澤藤統一郎さんは「国家に秘密があるのは当然」という考え方を認めてはならないと強調し、「国家の分際で主権者たる国民に敬意を払えなどということができるはずがない」と語った。
 佐野通夫さん(大学教員)は「愛国主義と差別排外主義がすすむ教育」をテーマに、教育学者が現在の「秘密保護法」をめぐる動きに発言しないことを批判。「敵」を作った上で、バラバラになった個人を「国家」がまとめるというあり方を糾弾した。
 鵜飼哲さん(一橋大教員)は、「国家が教育と調教を区別できなくなるとき」と題して報告。「国旗国歌法」以後の経過を追いながら、特定の政治集団・官僚集団・利権集団がみずからの支配を恒久化するため手段を選ばなくなっており、「日の丸・君が代」はそうした集団による国家の私物化の象徴だ、と怒りをこめて訴えた。
 国際人権活動日本委員会事務局長の松田順一さんは、ジュネーブの国連人権高等弁務官事務所を「日の丸・君が代」被処分者の渡辺厚子さんらとともに訪問し、「日の丸・君が代」処分の問題点を提起したこと、国連人権高等弁務官事務所が日本政府に対してこの処分についての見解表明を求め、日本政府の対応が不十分なものであった場合、懸念表明の対象になることを報告した。
 最後に、司会をつとめた渡辺厚子さんが報告し、安倍政権の「国旗国歌」尊重義務強制と持続的に闘うことを呼びかけた。  (K)


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