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    かけはし2014.年4月28日号

東アジアイニシアティブの提案


投稿

「エコ社会主義」のために(上)

たじまよしお(長野県 画家)


 

 本紙読者のたじまよしおさん(画家)から、「尖閣列島」をめぐる「領土紛争」と資源問題について、エクアドルのヤスニプロジェクトが突き出した「エコ社会主義」的展望(次号掲載)と重ね合わせて探究する文章が寄せられた。読者の皆さんからもぜひご意見を寄せていただきたい。(編集部)

尖閣の日本領有への閣議決定 

 この一月一四日、東京FNMを聞いていたところ「一八九五年の一月一四日、尖閣列島が日本の領土として閣議決定された」旨のアナウンスが流れた。閣議決定がされたのは事実であるが、そのことは当時の新聞に掲載もされなかったことも報道の公正な立場から付け加えてほしかった。
 この「尖閣列島の日本領土閣議決定」の半年前の一八九四年の七月、日本海軍はイギリス帝国の支持のもと、宣戦布告なしに豊島沖で清国艦隊を不意打ちして戦局を優位においていた。そしてこの尖閣列島領有を密かに閣議決定してから三カ月後の四月一七日に日清講和条約調印となるのだが、両国との間にたって講和条約の労をとったのがイギリスである。この日清講話会議のときは日本が尖閣列島を自国の領土と閣議決定したことはおくびにもださなかったのである。そこでは台湾、琉球とそのまわりの島嶼を日本の領土として認めさせている。それらと比べたら胡麻粒ほどの尖閣列島の領有権をなぜ講和会議で押し通すことをしなかったのか。
 ここからは私の推論になるのだが、当時日清戦争は日本軍の連戦連勝で、圧倒的に有利な条件で戦争を終結出来るのは目にみえていた。台湾の領有権を獲得すればその周りの島嶼群も日本のものとなる。そして沖縄の周りの島嶼も沖縄と一緒に日本のものになる。しかし圧倒的な軍事力をもってしても、尖閣諸島の領有権は主張できない。日清の講和会議でそれを持ち出せば、清国の反発以上にイギリスから大目玉を喰らうことは目に見えている。当時の日本は「富国強兵」の上り坂にあったがイギリスとは比べものにならなかった。胡麻粒みたいな島嶼のことで国際社会から孤立するのを恐れて、講和会議の前に密かに閣議決定をした、というのが私の解釈である。
 台湾について言えばそれまでにオランダ、スペイン、清国などの植民地にされてきた歴史があり、琉球についても日本と清国の間の綱引きの歴史というものがあった。しかし、尖閣諸島は植民地争奪戦の枠外というのが日本政府の認識であった。「日本が釣魚諸島を盗み取った」と中国政府が言うと、「なんたる非常識な」と、日本のナショナリズムは沸き立つ。そのあたりの絡まった糸を解かねばと思い、いろんな資料を集めていたのだが。

台湾‥「保釣」の系譜 


ところで月刊「世界」の二〇一四年一月号から「『保釣』の系譜」という連載記事(本田善彦・台北在住ジャーナリスト)が載っていて興味深い。尖閣列島は台湾の領土であるという主張である。以下「 」内は「世界」からの引用である。
尖閣列島のことを台湾の側は「釣魚台」と呼んでいる。「台湾において、単純に釣魚台は日本のもので台湾のものではない、と考える人はまずいないだろう。少なくとも大多数の台湾人は、日本のものではないと考えている」「釣魚台は(台湾の)原住民が何万年にわたって子孫に伝えた伝統的な海域だ。多くの原住民の祖先が釣魚台とその周辺海域で漁をし、海鳥の卵を採り生活の糧を得ていた」のである。しかし、漁民にとっては自由に漁ができれば、そこがどこの領土でも良かったのである。ところが、昨年二〇一三年四月一〇日に日本政府と台湾政府で取り交わした日台漁業協定以後様子が少し変わってきた。

日台漁業協定の問題点

 「協定締結後わずか一カ月ほどの間に、三隻、四隻と続けざまに(台湾の)漁船が検挙され、一隻あたり一二〇万〜一五〇万台湾元(約四〇〇万〜五〇〇万円)の罰金を科せられた」そこで「台湾東北部・宜欄県・曾太山が六月一七日、宜欄地裁で日本首相・安倍晋三を相手取り、同年四月に交わされた日台民間漁業取り決め(漁業協定)が台湾漁民の権益を侵害するとして、損害賠償を求める民事訴訟を起こした」のである。この日台漁業協定は、このところとみに悪化している日本と中国との関係に鑑み、台湾と中国が緊密にならないように楔を打ち込みたいという日本側の思惑があったようであるが、それは全く逆の効果をもたらしかねない。「台湾側の『漁会(漁協に相当)』などを介した両岸の民間レベルの話し合いは頻繁にもたれており、海難救助などでの相互関係の緊密化は進んでいる」からである
「二〇一二年の(日本政府による)尖閣国有化直後に台北の大手新聞系・旺旺中時民意調査センターが集計した世論調査を挙げると、日本の尖閣国有化に賛成は四・七%、反対七一・三%、馬政権の主権防衛の態度に満足は一四・九%、不満六三・八%、主権防衛で馬政権に強硬姿勢を希望が五二・三%温和に二七・三%、尖閣問題で両岸協力支持が五四・一%反対二七・六%」となっている。台湾の人々はおおむね親日的で、日本政府が尖閣列島を国有化した際、中国国内で暴力的なデモの嵐が吹き荒れたときも冷静で批判的であったという。しかし一方では「一つは台湾の主流民意が、尖閣に対し『台湾のもの』もしくは『中華民国のもの』の別は問わず『自分たちのもの』と見なしているであろうということだ。もう一つは、尖閣問題で日本が強硬に出た場合、両岸連携を是認する声が一定レベルで存在することだ」。
「二〇一二年九月二五日、(日本政府の)尖閣国有化に反発した宜欄の漁船四〇隻が、台湾側の巡視船一二隻とともに尖閣沖の日本領海内に侵入し、放水して警告する海上保安庁の巡視船に対して台湾側も放水で応じた一件があった。大規模な衝突には至らなかったが、日本では『親日的なはずの台湾がなぜ』と困惑が広がった」「馬英九は漁船団の帰還を待って、二七日に総統府内で漁民や巡視船乗組員らと会見し、尖閣を台湾の漁場だと世界に知らせる行為だったと賞賛した」とある。ここでは巡視船乗組員を馬英九総統が賞賛したのだから、その示威行為は政府の意思でもあったのではないかとおもわれるのだが。
「台湾・聯合報グループが米国で発行する中国語紙『世界日報』(日本で刊行されている同名紙とは無関係)の一〇月二四日付ネット版は、張俊宏と元民進党主席の許信良が『還我釣魚台大連盟(釣魚台を返せ大連盟)』のメンバー一〇〇人を伴って宜欄地裁を訪れ、『釣魚台は台湾のものだ、釣魚台を返せ』とスローガンを唱えた後、台湾原住民(先住民族/一九九四年の憲法修正を経て台湾で『原住民』は公用語となった)の支持者とともに、祖先の霊を慰めるために尖閣を目指して出航した、と報じている」。

台湾政府と原住民族との関係 

 先にも「釣魚台は原住民の祖先が何万年にわたって子孫に伝えた海域だ――」と記したが、台湾における原住民の比率は二%である。
領土問題というのは実に難しい。台湾の人々は領土問題に原住民を利用しているのではないかという、うがった考え方をする人もいるかもしれない。そこで私の貧しい知識を元に台湾の原住民について少し考えてみたい。幸いなことに、手元に「先住民族一〇年News」があって二〇一〇年から一一年にかけて「台湾先住民族タイヤルをとりまく重層的脱植民化の課題」なる連載があった。執筆者は中村平(韓国漢陽大学教員)さんである。中村さんは実に膨大な参考文献を精査してこの論文を書いておられるが、失礼を覚悟でそれらを参考にして私の言葉で綴ってみることにする。なお「  」内は中村平さんの論文の引用である。
台湾の政府と原住民の関係についてであるが、二〇〇〇年から二〇〇八年まで総統を務めた陳水扁は選挙期間中の一九九九年に「先住民族と台湾政府の新パートナーシップ協定」を公約にかかげた。そして陳水扁政権となって「国家の主権と原住民族の主権、そして部落の主権が対等であるとの原則」を基に「原住民族土地協定草案」が内政部で当時検討されている。この「協定草案」は手元にはないが中村平さんの論文から「日本の占領下での官有であった土地」「つまり、日本統治初期に国有地にされた先住各民族の伝統的な土地は第二次大戦後再度国有地化されたが、これらは無条件に先住民族に変換されるべき」という内容であったろうと思われる。
「これらの点に関しては二〇〇七年一一月に『原住民族自治区法草案』と『原住民族土地及び海域法草案』が立法院での審議におくられた」「が、現時点(2010・7)では実現していない」。二〇〇八年からはそのことに消極的な馬英九政権に変わったからであろう。前記の「……海法草案」の中に尖閣列島が含まれているのだと思われる。「実際に(尖閣列島は)『中華民国台湾省宜欄県頭城鎮大渓里』として登記している(「世界」)」。
この稿は尖閣の領土問題から日台漁業協定そして先住民族にまで及んでしまったが、再度漁業協定に戻すことにする。この協定には沖縄の漁業者からも不満の声が出て、共産党の赤嶺政賢議員が衆議院の内閣委員会で二〇一三の五月にこの協定の撤回を政府にもとめている。沖縄の漁業者の要求を国会の場で追求するのは当然のことと思うが、どうしても領土問題が絡んでくるから厄介である。台湾・中国・日本政府はいずれもその時々の支配層の利益を第一に優先させる。ときには漁業者の要求を利用してナショナリズムを煽り立て相互の民衆の憎しみの感情を増幅させたりもする。
日台漁業協定は民間と民間との間で取り交わされたものとなっているが、台湾と中国が緊密な関係にならないように楔をうちこもうという日本政府の意思がはたらいていた(キャノングローバル戦略研究所)のであり、今こそ沖縄の漁業者も含めて、各国政府の思惑に囚われない、純粋な意味での民間外交が求められているのだと思う。

尖閣列島の歴史的考察



歴史的にみれば、日本・沖縄側から黒潮の急な流れをつっきって尖閣列島へ船を進められるようになったのはここ百と数十年前から、船に発動機が装備されてからであるという。
近代化が少し遅れていた台湾・中国(清国)との関係はどんなであったであろうか。以下「  」内は「井上清著・尖閣列島」より。
日清戦争より九年前の一八八五年、「大日本帝国の軍隊をつくりあげてきた最高の指導者であり、対日清戦争のもっとも熱烈な推進者の山懸有朋」が井上外務卿(外務大臣)に尖閣列島を、実地調査の上ただちに国標を建てたい旨文書でつたえた。これにたいして井上卿は         「近時、清国新聞紙等ニモ、我ガ国政府ニ於イテ台湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説ヲ掲載シ、我ガ国ニ対シテ猜疑ヲ抱キ、シキリニ清政府ノ注意ヲ促シ侯モノコレ有ル際ニ付」「港湾ノ形状併ニ土地物産開拓見込ノ有無ヲ詳細報告セシムルノミニ止メ国標ヲ建テ開拓等ニ着手スルハ他日ノ機会ニ譲リ侯方然ルベシト。且ツサキニ踏査セシ大東島ノ件併ニ今回ノ事トモ、官報併ニ新聞紙ニ掲載相成ラザル方、然ルベシト存ジ侯間、ソレゾレ御注意相成リ侯様致シタク侯(10・21/親展扱い)」と文書で返答している。
この井上外務卿の山縣有朋への返書を読んでいるうち、その当時の背景はどんなであったろうかという、疑問というよりは好奇心がそそられてきた。その頃清国には日本の「大使館」に相当するようなものがあったのだろうか。井上外務卿はその新聞をどこから入手したのだろうか。ぜひそれを入手して読んでみたいものだ。また「清国新聞紙等ニモ、我ガ政府ニ於イテ台湾近傍清国所属ノ島嶼ヲ占拠セシ等ノ風説ヲ掲載シ」とあるが、その新聞記事のニュースソースは何処か。当時清国には巡視船に相当するようなものがあったのだろうか。徳川の鎖国時代も長崎を通してオランダとの交易はあったというが、清国との交易も大きかったという。それは明治に入っても続いていたのではないか。そうだとするとその航路は?
もしかしたら、黒潮をつっきって近年やってくる琉球(沖縄)からの漁船に危機感を抱いた清国の漁民が、世論を喚起するために新聞社へ駆け込んだのかもしれない。幼稚な好奇心と一笑に付さないで欲しい。そうした時代背景を明らかにするには、中国の人々との共同作業が必要になってくると思う。これまでに取り組まれてきている「日中の政府間、あるいは民間で行なわれた歴史共同研究」などの中で、すでに明らかにされているならば、それを知りたい。また、そうした研究機関の協力を仰ぎたい。
(つづく)

映画紹介

アンジェイ・ワイダ監督(2013年)

「ワレサ 連帯の男」


よみがえる自由と自治の闘い



ポーランド全土
に「二重権力」
一九八〇年夏のポーランド・グダンスク・レーニン造船所労働者の闘いによって生まれた独立自治労働組合「連帯(ソリダルノスチ)」はまたたく間に、ポーランド全土に広がった。一九八一年一二月、戒厳令がしかれる前まで、官僚的専制政府は連帯と交渉しなければ何も決められない「二重権力状態」になっていた。連帯労組の闘いは国際的にも多大な影響を与え、全世界に「連帯」労組がつくられたり、連帯を支援する組織がつくられた。日本でも「ポーランド月報」(ポーランド資料センター)の発行やポーランド連帯委員会がつくられた。連帯労組をひきいたレフ・ワレサ委員長が一九八一年に日本にやってきて、講演会を行った。それに参加して非常に感激したことを思い出す。アンジェイ・ワイダ監督が連帯労組・ワレサを主人公とした映画を制作し、上映されるということでぜひとも観なければならないと思った。

今問い直すべき
労働者の闘争
ワイダ監督は「大理石の男」「鉄の男」に引き続き、ポーランド労働者の闘いをワレサを通して映画化した。ワイダ監督は一九八〇年のグダンスクの闘いでワレサと会い、それ以来、連帯と共にあり続けた。しかし、一九九〇年ワレサが大統領選に立候補した時、ワレサに対抗して立候補したマゾヴィェツキを支援した。連帯が分裂した。こうした政治路線の違いはあってもワイダにとって、連帯の闘い、そしてワレサの役割は記録にとどめておくべき重大なものであった。
映画はイタリアのジャーナリスト、オリアナ・ファラネによるワレサへのインタビューによって、一九七〇年一二月の食糧暴動事件から一九八九年自由総選挙によって連帯が勝利するまでを描いている。ドキュメンタリー映画ではないのだが、当時の記録フィルムを交えながら映像が展開していくので、実にリアルで迫力のある映画に仕上がっていた。さらに、一九八〇年代のロックミュージックがその効果を高めている。
ワレサは、家族思いであるとともに、ユーモアがあり、弱くて傲慢でもある複雑な性格をもつ人物だ。そんなワレサを支えたのが妻のダヌクであり、ダヌクを通してワレサを描いている点が深みを与えている。
なぜ、労働者人民は自由を求め、官僚専制支配からの解放の闘いを行ったのか、その気持ちがよく分かる。一九七〇年一二月食糧暴動事件で、ワレサは逮捕された。子どもの出産があったので、スパイになるという誓約書にサインをして釈放される。これが後々まで尾を引く。一九八〇年の闘いの時、当局は連帯のストをやめさせようとワレサにこの誓約書を持ち出してくる。当時の専制支配者たちの汚いやり方が浮き彫りにされる。

今問い直すべき
労働者の闘争
一九八一年戒厳令によっていったん連帯の闘いは押しとどめられるが、一九八三年、ワレサにノーベル平和賞が授与される。この時、ワレサは授賞式に出席するとポーランドに二度と帰れなくなると妻を代理出席させる。妻が帰国する時、税関で屈辱の全裸検査を強要される。ここにも官僚支配のいやらしさが象徴的に描かれている。
もうひとつ印象に残ったのはソ連の影である。ワレサが一九八一年戒厳令によって逮捕され、刑務所に移送される時、ソ連軍のヘリが上空を飛んでいた。ポーランドの公安局員がワレサに対して、「ソ連はワレサを消したいと思っている」と話す場面がある。そしてブレジネフの死によって、ワレサは釈放される。
一九八九年の自由選挙によって、連帯政権が成立し、一九九〇年ワレサが大統領選に勝利した。しかし、この権力は「真の社会主義」をめざす労働者政権へと発展することはなかった。それはなぜか、ずっと問われてきた。一九五六年のハンガリー革命、一九六八年のプラハの春がソ連の軍事介入によって粉砕された歴史的重みの上にポーランド連帯の闘いはあった。ずっと、ソ連の介入を招かないように自制しながら闘いをつくりあげた。ゴルバチョフの登場後、円卓会議を通じて官僚を追いつめ普通選挙を実現した。それは東欧・ソ連邦の崩壊を生み出す力となっていった。
一九八一年に掲げた「自治共和国」の夢はポーランド一国の労働者の闘いでは実現することはできなかった。西側の消費社会・自由が「真の社会主義」の実現よりも勝っていたということか。現在のポーランド連帯労組は六〇万人だという。なお、ポーランド連帯運動の軌跡をポーランド史のなかで位置づけた「ポーランド『連帯』消えた革命」(水谷驍著、柘植書房新社)の一読をぜひ薦めたい。五月三〇日まで東京・岩波ホールで上映中。  (滝)


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