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    かけはし2015.年6月15日号

闘いは未知の領域に踏み込んだ


5・26 沖縄 比嘉宏さん(「一坪反戦地主会」事務局長)を囲んで

法的手段封殺を超えて


他人ごとと思え
ない偶然次々と
 五月二六日東京神田公園区民館。「一坪反戦地主会」事務局長の比嘉さんが所用で上京するのを機会に現地沖縄の状況を報告してもらうべく集会を開いた。主催は郵政の労働運動・情報誌「伝送便」編集委員会(発行主体:Usay-net)。
 比嘉さんは元郵便屋さんで、二〇一三年に那覇東郵便局を定年退職。それまで沖縄で郵政ユニオンの孤塁を守り続けてこられた方で、一坪反戦地主会の運動も長く、ほぼ退職と同時にその事務局長を引き継がれた。
 お話しは今年二月二二日のキャンプ・シュワブゲート前での三〇〇〇人集会の報告から切り出される。この日、抗議行動のリーダーである山城博治さん含め二人が拘束され名護警察署で拘置、翌日那覇検察庁に送検された。二二日の名護署前には多くの支援者が駆けつけ抗議を続けていたが、その様子はネット上でもライブで中継され、東京で私もたまたま見ていた。
 翌日、夜のニュース報道で二人が解放された映像が流れると、郵政ユニオンの仲間内でちょっとした騒ぎになった。拘束されたもう一人の方というのが現在宮古島在住の元広島の郵便屋さんで郵政ユニオンのOBでもある方だったからだ。さらに、名護署に拘置中接見に入った弁護士さんが広島出身の方で、この元郵政ユニオンOBとは同級生、旧知の仲だったというから、幾重にも偶然が重なり、なんだか彼の地の闘いは本当に他人ごととは思えなくなってくる。
 
徹底した抵抗が
もっとも現実的
 もちろん現場の闘いはそんな牧歌的なものではない。権力は民間セキュリティ会社ALSOKの若者たちをその最前線に並べ、その後に数台のかまぼこ車が駐車し、中には多くの県警が隠れるように待機しているのだという。「私たちが工事関係車両の進入を阻止しようとすると一斉にその県警たちがわらわらと外に出てくるんですよ」。そしてその県警の若者たちの多くが「ウチナンチュウ」であり、彼らが「米軍提供施設内に居て、抗議行動をする市民と対峙しているというのは私たちにとって非常に屈辱的な光景です」と比嘉さんはいう。この県警が抗議をする市民に対して暴力をふるい、海では海上保安庁が警備の名を超えた過剰で文字通り危険な暴力を老若男女の区別なく振り下ろしている。
 一部の右派ジャーナリズムなどは、このような暴力的場面を切り取って逆に市民の側が無法行為を繰り返しているかのごときキャンペーンを張っている。当然実態はその逆なのだが、敢えて言えば、そのような闘いの現場は、沖縄では今もっとも現実的な闘いなのだと比嘉さんはいう。
 「私たちの抗議行動が違法で非常識なものであると弾劾する発言が沖縄県外のマスコミから聞こえてきます。敗戦後、サンフランシスコ講和条約によって沖縄を米国に差し出して自分たちは主権を回復した。(沖縄を切り捨てた)ヤマトの目線で違法だの非常識だのと言われたくない。かつて米軍の統治下で私たちの先輩たちは闘うことによって人権を回復してきたのです。統治する側が県民の民意を無視し、辺野古新基地建設を強行するのであれば闘うのは当然です。かつては米国軍政府と闘い(琉球政府は彼らの代行機関でした)、今、ヤマトの安倍政権と闘っています」。

憲法の「埒外」
が成立した過程
沖縄はさらに困難な状況を背負っている、と比嘉さんは一九九五年の大田昌秀革新知事時代の「事件」について注意を喚起する。「米軍用地特措法」(略称)では契約を拒否する地主に代わって市長村の首長が土地調書および物件調書への代理署名をすることができるが、当時読谷村の通信施設の一部用地について村長が代理署名を拒否。日本政府は代わって太田県知事にこの代理署名を求めたが、大田知事もこれを拒否した。日本政府はこれに対し職務執行命令に服すよう行政訴訟を起こす。ときの首相は皮肉にも村山富市首相。前年九四年の所信表明演説にて「日米安保堅持」と明言したばかりの社会党(当時)の党首でもあった。
当時大田知事がこの代理署名を拒否した背景には九五年九月に起きた米兵三人による少女暴行事件があった。その一〇月、事件に抗議する県民大会に八万五〇〇〇人が参集、日米地位協定及び米軍基地そのものに対する「島ぐるみ」の怒りは頂点に達していた。
九六年、橋本政権成立。このときに普天間基地の五〜七年後の返還と代替機能の嘉手納・岩国への移設がアメリカとの間で確約されていた。
その後もこの「米軍用地特措法」に関わる手続きについては沖縄大田知事とヤマトの政府との間で訴訟合戦となっていたが、九六年八月二八日、最高裁裁定によって沖縄側の敗訴が決定的となった。
最高裁が出した裁定には「米軍基地への土地提供を定めた駐留軍用地特措法は憲法に違反せず、沖縄県への特措法の適用も憲法違反とは言えない。よって、沖縄県知事の署名代行の拒否は、著しく公益が害されることが明らかである」。
比嘉氏によれば、最高裁として、日米安保協定が憲法の上位にあることを事実上認めたものであるに等しいという。この最高裁裁定をもって大田知事は「諦めた」。比嘉氏が言うには「屈服した」。

世代を継いで
でもの覚悟で
その後この「米軍用地特措法」は二度にわたって改正され、防衛大臣が使用認定をし、地方防衛局長が県収用委員会に裁決申請すれば、使用期限が切れても暫定使用できることになり、知事らに委ねられていた代理署名なども国の直接事務となった。つまり、すでに法的には闘う手段をすべて奪われてしまっているのだと比嘉さんはいう。
「翁長知事と日本政府の攻防を見ていると、法的争いだけでは私たちに勝ち目はないでしょう」。
三月二三日、翁長知事は「新基地建設作業(海底面を変更するすべての作業)の停止」を指示。沖縄防衛局は直ちに「行政不服審査法」に基づく「不服審査請求書」を農林水産省に提出。農林水産大臣はこれを受けて三月三〇日に「新基地建設作業停止指示」の効力を一時的に無効とした。「今も防衛局はボーリング調査(掘削調査)を続行しています。国が『行政不服審査法』を用いて県の指示を無効にするというのは防衛局と農林水産省の馴れ合いであり、茶番というしかありません」。行政不服審査法の趣旨は本来国民が行政機関に不服を申し立てるというもの。たしかに条文は「国の行政機関が不服申し立てをすることは出来ない」と明確に規定しているわけではないが。
しかしこれでほぼ法的には対抗手段を封じられたに等しい。法的にも闘いの手段を奪われ、がんじがらめの状況であるにもかかわらず、それでも、「もう我慢がならないんだとウチナンチュウたちは闘っているんだ」と比嘉さんはいう。
沖縄の闘いは今未知の領域に踏み込んでいるのだともいう。
そもそも沖縄の経済は基地に依存しなくとも自立していけると、いや基地の存在そのものが沖縄経済の発展を阻害しているのだとして共に闘いの先頭に立つ主要な沖縄の経済界、彼らと共に二度と大田知事の敗北を繰り返させない、翁長知事を守り切るというこの運動自体、これまでに経験したことのない未知の運動なのだ、と。
法という闘う手段を奪われてもなお「島ぐるみ」の闘いを選択した沖縄の未知の闘いが今始まっているのだと。
そしてこれは長い闘いでもあると。一時的な後退や前進を繰り返しつつも、この闘いは「世代を継いででも闘っていくものとしてすでに腹をくくっているのだ」と。

ヤマトでの問
題意識共有を
その後比嘉さんからは長らく停滞していた沖縄「一坪反戦地主会」運動の再構築についての具体的な提起や会場からは中国脅威論、自衛隊基地問題等々多岐にわたる質問が出され、共に討論の時間を共有した。二次会で少しアルコールが回った頃には「琉球弧平和連邦」をなどと誰かが独立論争などをしかけ、比嘉さんの苦笑を誘っていた。
今回会場参加者は二三人と少なかったが、比嘉氏による生々しい沖縄の運動の現実は、私たちヤマトで運動に携わる者のさらに多くの方々にも比嘉氏の問題提起を共有できればと強く思う。   (寄稿・丸池忠怒)

5.31故樋上徹夫さんを偲ぶ会

ユーモアあふれるエピソード
まじえ故人をあらためて追悼

 五月三一日、横浜の波止場会館で「故樋上徹夫さんの偲ぶ会」が開かれ四九人が参加した。午後から雨という天気予報であったが、真夏の太陽が照りつける陽気となった会場周辺では露店などのテントが並び、イベントが行われにぎわっていた。
 神奈川・東京のみならず、大阪や群馬県からも同志・友人たちが駆けつけた。会場には五〇代と思われるマラソンに参加した時に写した精悍な姿が遺影として飾られた。そして、樋上同志の「北朝鮮はどこへ―樋上徹夫 北朝鮮関連論文選」(A5判、48P)が用意された。この会のためにリーフも作られた。「樋上さんの闘病について」、「食道がんと知らされて、最後まで」、「樋上さん、さようなら」、二〇一四年から二〇一五年闘病日誌、「光州歴史の旅に参加して」(2006年)、「逃げ出すのは諦め、この贅沢を楽しみたい」、「群れてこそ語学の勉強! を実感しています」を掲載。

仲間たちが披露
した意外な一面
「樋上は組織、活動、思想を大切にしておりました。樋上の大切にしていたフィールドで、その流儀で偲んでいただければ、樋上は喜ぶと思います」(連れ合いのさよ子さんより)という思いに沿って会は進められた。最初に黙とうと「同志は倒れぬ」の歌で始まった。
司会者が「君のことをずっと忘れない、君のことを心に刻み意志を受け継ぐ」と訴えた。闘病報告の後、JRCL、神奈川をはじめ、関西、救援関係者、越境社など同志・友人たちが次々と樋上同志の思い出を語った。彼が困難な一時期を全力で闘い抜いた姿が明らかにされた。そして彼の頑固一徹だけではない側面が紹介され、ユーモアにあふれたエピソードが会場をなごませた。その一端を紹介する。
「一九七四年米大統領フォード来日阻止集会(渋谷の宮下公園)後のデモで、わが隊列の数人が逮捕された。樋上君は誰につげることなく我々の隊列に参加していたので、逮捕された彼を誰も知らなかった」。
「エルネスト・マンデル(第四インターの指導者で、政治経済学者でもあった)が法政大学の招へいで訪日し、講演会を行った。その会場で、樋上君は質問したが、マンデルは『君の質問はまったく意味がない』と言われてしまった。原則主義者、原理主義者と言われるがそんな一面もあった」。
救対活動と越境社で写植をしていた頃、姿が見えないので仲間が捜したところ、ある部屋から起きてきて、一日時計の針が進んでいるのはおかしいと言い、周りを驚かせた。なんと樋上君は四八時間も爆睡していたのだ。機関紙制作でフィルムで版下を作り、直しをカッターを使いながら作業をしていたが近眼のせいか、最初は満足にカッターが使えなかった話。もちろん、彼は人一倍頑張り屋さんなので、その後は丁寧な仕事をしていた。
ピースサイクルを終えた後、久しぶりに仲間を訪ねた時、玄関先にいたお嬢様猫と会話しながらかわいがったエピソード。
仕事のことや病気になった仲間のことをわがことのように心配していた樋上君。樋上君は心配りができ、優しい人だった。
最後に連れ合いのさよ子さんが「病気が分かってから、『〜たら、〜れば』はやめようと約束した。六月に小松島に帰り散骨してくる。働きどうしだったが今は悠々自適を楽しんでいるだろう。樋上は命の限りについて的確に予測していたが、唯一はずれたのは偲ぶ会にこんなに大勢の人が参加してくれたことだ」とお礼の言葉を述べた。最後に全員で「インターナショナル」の大合唱で終わった。
会の終了後も二次会が行われ、「樋上同志がやり残したことを引き継ぎ、どのように組織を新しく再編していくのか、若者の獲得をどうするか、職場での闘いをどう展開するか」などこうした課題について真剣に論議する場となった。「もう一度、第四インターの旗を高く掲げたい。すぐに駆けつける」と言う仲間とさわやかに別れた。偲ぶ会はわれわれに今後の奮起を促すものとなった。  (M)


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