もどる

    かけはし2015.年6月22日号

幻滅の雲は吹き飛ばされた


トルコ AKP支配に異議突きつけた総選挙

クルド運動を母体に提示された
オルタナティブが重要な力発揮

マラル・ヘフロウディ

 トルコ総選挙では、現与党であり、強大な大統領制への野望をあらわにしていた公正発展党(AKP)が過半数を切り、二〇〇二年の政権発足後初めて大きな後退を強いられた。これを引き起こした大きな要素の一つが、クルド民族運動を背景にもつHDP(人民民主主義党)の大躍進だ。以下に紹介する論考はこの選挙投票日以前に書かれたものだが、今回の結果の背景にあるものの理解を助ける情報が数多くある。(「かけはし」編集部)


トルコの総選挙が六月七日に投開票が行われる。五四〇〇万人がこの日新議会に向け投票できる。選挙の動向はHDPに焦点が絞られている。私は以下で、この情勢がどのようにして現れることになったか、どのような力学がこの勢力を今選挙における卓越した主体としたか、を説明しようと務めるつもりだ。

HDP形成にいたる苦難の歴史


HDPは、人民民主会議の直接的後継者として二〇一二年に創立された。後者は、二〇一一年総選挙後に、平和民主党(BDP)や様々な社会主義政党や市民社会の様々な部分を起源とする諸グループによって形成された一つの連合だ。そして市民社会諸グループには、フェミニスト運動、LGBTQ運動、労組諸支部、そして若者の左派アルメニア人組織、中でもノル・ツァルトンクのような他の進歩的なグループが含まれていた。
二〇一一年、そのようなものとしては最後の親クルド政党であったBDPは、無所属候補者のアンブレラグループ、「労働、民主主義、自由」の一部として自身を議会に進出させた。これは彼らに、トルコの法の下で議会に選出されるために必要とされる、悪名高い一〇%という得票率敷居を迂回することを可能にさせた。このブロックの候補者の半数以上、六五人のうちの三六人がこの時トルコ議会に選出された。HDPの創立はしたがって、この連帯とその成功を固めるための挑戦だった。
一九八〇年のクーデター以後トルコ政治は、クルド運動に由来する様々な政党の形成を見てきた。そしてそれらの政党は次々に禁止され、新しい名前の下で再形成された。したがって彼らの選挙闘争においては、社会民主主義者から革命的社会主義者に広がる、様々な左翼諸政党に発する連帯の働きかけもまた続いてきた。
クルド運動の議会挑戦は一九九〇年、人民労働党(HEP)をもって開始した。そこでは、ケマル主義派の社会民主人民党(SHP)を通して、HEPに根をもつ一八人の議員が選出された。その一人が三〇歳であったクルド女性活動家のレイラ・ツァナであり、彼女は議員宣誓の後にクルド語の章句を付け加えた。「私はトルコとクルドの姉妹関係のためにこの宣誓を行う」と。彼女は黄色と赤と緑のはちまきを着けていた。そして彼女は議会でブーイングのヤジを浴びせられた。三年後彼女の議員免責特権ははぎ取られ、三人の他のクルド議員と共に、PKK(クルディスタン労働者党)との連携という罪状で起訴され、監獄で一〇年を過ごした。
クルド諸政党は政治的空気を自覚しつつ、代役システムをもって活動した。HEPは非合法化されるということを実感した上で、自由民主党(OZDEP)が創立されたが、一九九三年にはそれも非合法化された。その後には民主党(DEP)が続いたが一九九四年に非合法化。次いで、民主変革党(DDP)が一九九六年に、民主大衆党(DKP)が一九九九年に、人民民主党(HADEP)が二〇〇三年に、民主的社会の党(DTP)が二〇〇九年に非合法化された。平和民主党(BDP)は二〇〇八年に創立され二〇一四年にHDPと合併した。それゆえトルコでは一九九〇年代以来、その指導者であるアブドラ・オジャランの路線に結びついた組織されたクルド運動の一部として、七つの政党が形成され、その後非合法化されてきた。

ゲジ運動につながる道模索して


HDPの形成とBDPのそこに向けた合併のための解散には、少しばかり異なる話があり、それこそがこの新たに形成された党をめぐる関心を包む後光を説明する。まず何よりも、人民民主会議を起源とした政党としてのその公的出現は、一九八〇年のクーデター以後トルコにおける最大の大衆的抗議運動であった、二〇一三年のゲジ公園抗議運動という政治的空気の中で起きた。この運動参加者の異質性、およびバリケードにおけるその限りで必要となった連携は、反政府勢力の連合を適切なものにする環境を生み出した。
そして大衆運動の成果を投票箱で刈り取るという型どおりの議会主義的行動様式は、ゲジ公園抗議運動後の二つの連続的選挙の中に、その舞台装置を見出した。二〇一四年三月には地方選挙が行われ、同八月には大統領が選出された。
HDPは二〇一四年三月の選挙で最初の登場を果たした。BDPのよく知られた四人の議員、エルトゥギュル・クルキュ、レヴェント・ツツェル、シッリ・スレイヤ・オンデル、セガート・ツンセルがBDPを去り、HDPに加わった。オンデルはその始まりからゲジの抗議運動では有名な顔だった。そしてイスタンブールでのHPD自治体候補者となった。
しかしゲジ公園運動とのオンデルの個人的結びつきはHDPに、その主張にもかかわらず、二〇一三年六月のゲジ公園運動に対するある種人工的関係以上のものを与えることはできなかった。そこに影を落としていた不利な要素は、今総選挙でも今なお絶えずHDPにつきまとって離れないもの、つまり、クルドの組織された運動とゲジ公園運動との分かりにくい関係だった。これに対するもっとも重要な理由の一つは、後者に参加したある者たちの高いかつ一方的な期待だった。
その上トルコの革命的左翼運動は、クーデター後様々な連合をくぐり抜け、また最近では二〇〇七年以来、無所属候補者のために組織されたクルド運動が率いる様々な陣営を支援してきた。そしてその結果が、内部的対立と中でも分裂を引き起こしてきた。
キャンペーンの中で俗に言われたような、議会に向けトンネルを掘ることは、革命的闘争に新たな推進力をもたらすことはなかった。また選出された無所属候補者と草の根運動の関係も確立できなかった。議会主義は、政治的左翼のいくつかの部分によってキャンペーンに可視性をもたらすために一戦術として時に利用された、個人崇拝の形成に導いた。
結果としてHDPは、オンデルが候補者となったイスタンブールで四・八%しか得票できなかった。彼の立候補が組織されたクルド運動が形成した党の基盤を広げた、と言うことは難しい。前回選挙で前任者のDTPは四・七%得票したのだ。したがって、HDPの最初の登場は突破ではなかった。
しかしながら、そのクルドと親クルドの基盤を超えて進む一政党としてHDPを確立するという意志の鮮明な突き出しは、西部の諸都市をHDPに任せ東部のクルド多数地域の選挙を闘うというBDPの決定をもって、見えるものとなった。

急進的民主主義への呼びかけ

 HDPの二回目の登場は二〇一四年八月の大統領選挙となった。この時には最初の登場とは違っていた。最初の場合は、専らオンデルの個性を基礎としたものとなり、ゲジ公園運動がはらんだ「統一戦線」的駆動力を当然のことと思い込むこと、またAKPおよびその敵対者であるケマル主義社会民主派のCHP(共和人民党)に対決する政治が基礎となっていた。
しかし今回は、HDPの共同スポークスパーソンであるセラハッティン・デミルタシュが、「新生活宣言」を携えてHDP大統領候補者となった。この宣言のはじめには、トルコで話されている一五言語によるあいさつが置かれ、同宣言はそこから、現行システムに対するオルタナティブとして「急進的民主主義」を導入していた。
同宣言によれば、新生活は、抑圧された者たち、および彼らの民族性、宗教、階級、ジェンダーを基礎に差別された人びとと同じ側で成長する。それは、脱中央集権化と民主的で参加型の統治に向けた諸々の民衆総会形成を基礎とした、一つのシステムを想定していた。この新生活における指導的役割は女性に与えられた。起草された政治的主張の数多い型どおりではない基軸の中には、スンニ派イスラムの後押しを基礎に置いた宗教問題管理官の廃止、労働者の社会福祉諸権利の強化、同性愛嫌悪に反対する闘いが入っていた。クルド運動の現在の立場と合わせる形で、宣言は、クルド問題の解決をトルコの全体的な民主化過程の一部として明確にしていた。この新生活宣言は、今年の総選挙向けに準備されている「偉大な人間性」文書の基礎をなしていると思われる。
このHDPの二回目の登場は一つの成功となった。デミルタシュは全投票の九・七六%(三九〇万票)を獲得、五カ月前に行われた地方選におけるHDPとBDPの合計票(二九〇万票)を増大させた。

得票率10%突破への正面挑戦

 大統領選挙はHDPとその共同スポークスパーソン、デミルタシュに可視性を与えた。党は、次には、一〇%を迂回するために「無所属候補」を支持する左翼リベラルブロックを組織することで議会への裏口を利用するようなことはしない、その代わりにこの選挙にはHDPとして参加する、と言明したが、それは危険すぎる策と見られた。しかしこの二、三カ月が示したことは別のことだった。
そのキャンペーンの基礎に、一〇%敷居の正統性のなさのみではなく、「偉大な人間性」と標題を付けられた選挙マニフェストをも置くことで、今回のHDPは、抑圧された者たちに対するオルタナティブ、また一〇年間のAKP支配に対するオルタナティブを伝えることに取りかかり、代表選出を抑圧されたクルド選挙区に対する連帯呼びかけ、の先まで進んだ。
偉大な人間性に向けた二八ページの呼びかけは、国家と資本の絶対的な権力が社会と自然を破壊している、そしてそれはわれわれの存在、アイデンティティ、諸々の切望、また必要を認識していない、との言明から始まっている。この選挙マニフェストは、社会に力を与えることは社会の抑圧された諸層に力を与えることを意味し、労働者にとっては安定した諸条件を、われわれの母語を保存しそれを使用する権利を、男性優位に反対して闘っている女性の支援を、将来に対する不安からの若者の解放を、貧困を終わらせることを、国家によるアイデンティティ強制を終わらせることを、そして自然は資源ではなくそれ自体で命であることを認識すること、これらを意味する、と言明している。
このマニフェストは、一九八〇年のクーデター憲法を置き換える新たな民主的な憲法を支持して論じ、エルドアンがそれをめざして今闘っている大統領制が生み出すと思われるような、権力の集中にはっきりした反対を力説している。新憲法は一定数の基本的権利を保障するものとされ、そこには、平和への権利、真実への権利、組織しストライキを行い、集団協約や社会保障やベイシックインカムで保護される権利、見苦しくない住宅と交通への権利、障がい者の権利、清潔な水と十分な食料への権利、良心による異議申し立てと文化的独自性の権利、母語使用の権利、教育を受ける権利、公正で公平な裁判を受ける権利、子どもの権利、高齢者の権利、動物の権利、表現と組織化の権利、宗教的自由などが含まれている。

草の根民主主義に力与える党を

 こうした一定数のHDPの論点は、その基盤を広げ、一〇%を超えることを狙う政党にとっては実利性がない、と見なされた。その中には、アルメニア人虐殺のような歴史的タブーの問題、学校における義務的宗教(スンニ)課程や宗教問題管理官の廃止、さらにクルドの闘争の遺産とその運動の指導者であるオジャランに対する承認といった問題に関する、くっきりした立場が含まれていた。
しかしこれは、事実としてHDPの強みとなった。これらの立場がはっきりと宣言されればそれだけ、HDPに対する信用度は高まった。一握りの者への権力集中と指導者に対するいかなる批判も許さないことが傾向となっている政治的空気の中で、HDP共同スポークスパーソンのデミルタシュは、あらゆる問題に鮮明さと正直さをもって解答した一人の人物として現れた。
HDPは選挙後エルドアンのAKPと連立を組むという、あるいはそれを支持するという想定をはっきり拒絶した。そして一九一五年に起きたこと(アルメニア人虐殺のこと:訳者)はジェノサイドであった、と曖昧さを残さず言明した。また、HDPの政治路線作成におけるオジャランの役割も認めた。何年も人権派弁護士としてまた活動家としてあり続け、さらにクルド運動の遺産から登場している四一歳の政治家は、家父長的権威をまとった人物たちと提携することが成功を見る政治家になる道であったトルコ政治の中で、新しい顔を代表した。デミルタシュは、父親や長兄として、あるいはこの国における未来の全能の指導者として奉じられたわけではなかった。彼は、HDPは新たな指導者を作り出すためではなく、草の根の民主主義に力を与えるためにそこにいる、ということをはっきりさせた。
この党は、社会主義の党あるいは革命党ということではなく、より幅広い左翼の党、社会主義者と他の政治的諸傾向出身の活動家のために道を切り開くいわば除雪機であると主張した。

選挙は希望に火を着け道開いた


HDPの政治路線を全面的には承認しなかった革命的社会主義者たちもしかし、トルコ内外でそれら自身の親HDPキャンペーンを組織した。トルコ国内では、二つの主なキャンペーン、一〇%敷居を追及した「10ダン・サンラ(一〇を超えて)」、並びにHDPへのいわば臨時的投票であることに基づいてキャンペーンを作り上げた「プラス1」、がHDPが自身に向けて生み出したオーラの証しとなっている。
議会主義に対して批判的なこれらの主導性は、AKPの一党支配を終わらせる助けとするためのHDPに対する戦略的投票に向けキャンペーンしただけではなく、「偉大な人間性」を求めるHDPのメッセージを広めることも助けた。民主的労働者協会連合、DIDFのようなトルコ国外の進歩的グループは、選挙に向けてもHDPへの連帯を公然と宣言した。
選挙に関する算術計算は、AKPを弱体化させる上でのHDPに対する投票の重要性を示している。「10ダン・サンラ」キャンペーンビデオの一つは、AKPが四四%を得、CHPが二五%、民族主義者の党であるMHP(民族主義者行動党)が一六%となれば、AKPの議席数が三三三(この数で憲法改正を国民投票に付すことが可能:訳者)となる、ということを示している。しかしHDPが一〇%を超えれば、議席数減少として、AKPがもっとも影響を受けることになる。このシナリオの場合、HDPは六〇から七〇の議席を得、他方AKPは五〇程度の議席を失うだろう。HDPがさらに前進し、AKPがおよそ四〇〜四一%の得票だった場合、AKPは単独で政府をつくることはできず、連立へと向かわざるを得なくなるだろう(これこそ今回の結果:訳者)。
結果がどう展開しようとも、これは希望に火を点け、「統一戦線」を形成する諸々の挑戦における以前の諸対立にもかかわらず、トルコにおいて幅広い左翼のために集団的活動の実践が依然として可能であることを証明した選挙だ。その背後に四〇年にわたる武装闘争をもつ一つのゲリラ勢力(PKK)が、自己批判的で、控えめ、そして包括的でおおらかな政党形成に道を清めたこともまた印象深い。
今回の選挙でHDPを支持することは、必然的にその遺産と政治路線の全面的な是認を意味するわけではなく、その掌中に権力を集中し、そのことで、湧きだし今存在している社会的かつ政治的運動の諸条件を断とうとする、そうしたAKPの意志を阻止しようとする彼らの思いへの支援なのだ。
その上に、「偉大な人間性」マニフェストの中で提起されている諸課題は、議題に乗せられ議会内外で討論されるならば、進歩的で革命的な変革に向けた刺激を提供するだろう。この現象がクルド運動の主導性をテコに、トルコにおける何年にもわたる組織化と頑強な社会運動とゲリラ部隊を基にもたらされることになったという事実は、障害と見られてはならず、彩りを添えるものと見られるべきだ。
選挙マニフェストの標題は、「偉大な人間性」と名付けられたナツィム・ヒクメットの詩から直接取られているが、それは、AKP支配に先立つ一時代にトルコ社会にとりついて離れなかった幻滅の雲を吹き飛ばしている。この詩は次のように終わっている。

偉大な人間性は地面に影を落とさない
彼の道に明かりは一つもなく
窓にも草一本ない
しかし偉大な人間性には希望がある
人は希望なしには生きられない

▼筆者はSAP(第四インターナショナルオランダ支部)メンバー。(「インターナショナルビューポイント」二〇一五年六月号)


もどる

Back