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    かけはし2015.年6月22日号

地震で廃墟となったカトマンズ


花は咲いたがネパールの春はいつ…

不安と恐怖の現場から寄せられた手紙

 ネパールで地震に遭っているチェ・グンジョン氏が手紙を送ってきた。チェ氏は昨年8月からネパール人の夫コゲンドゥラ、息子チェ・リン・グルンと共にネパール、カトマンズのプラノバネスウォで暮らしている。彼女が仕事をしている地球村共生会ネパール支部は現地で青少年センターの運営および学校支援を行っている。チェ氏は安養チェンジンサン福祉館・移住労働者の家(現・社団法人アジアの窓)で7年間、仕事をしていたが、移住労働者としてやって来たコゲンドゥラにそこで会った。彼女はノドゥル障がい者夜学の教師もやっていたが、文章はノドゥル夜学の先生たちに送るという形式で書かれた。(「ハンギョレ21」編集部)

机の下で息子の名を呼んでいた

 韓国の先生方へ
セウォル号犠牲者の言葉集「金曜日には帰ってきなさい」を送ってくれと先生に電子メールを送ったのは、わずか数日前のことでした。ここに本が到着すれば郵便局から電話が来ます。そうすれば私はテムプー(3輪のミニバス)に乗ってネパール中央郵便局に小包みを受け取りに行くつもりでした。ここには郵便局がないものですから。ところで先生、今は送らないで下さい。郵便局も壊れたかも知れません。地震が起きた先週土曜日(4月25日)、4階の建物に一人でいた私は最上階の事務室の机の下に身を隠し恐怖に震えていました。天井が壊れて死ぬかと思いました。私は一人、必死になって机の下で「リン(息子の名前)、リン、リン!」と叫んでいました。その時のことを今もずっと思い出します。

空だけを遮っているテント


私が暮らしているトンネ(町内、集落)は、地震の被害が大きかった大きな古都市バクタプルとそう離れていません。車で20分ほどの近い所、カトマンズの東にあるプラノバネスウォです。プラノはネパール語で「古い、昔の」という意味です。プラノバネスウォで生まれた義弟ソントスは30歳になった今日までここで暮らしており、わが夫コゲンドゥラもここを絶対に離れたくないという人々の一人です。それくらいに情があり、隣人同士もお互いによく分かっているトンネですから。
4月30日、地震が起きてから6日目です。その間に3日も雨が降りました。地震の震央地であるゴルカ地域のある村では300家族のうち3家族だけが生き残ったということが…。ここも遺体がどれほど多いことか、ヒンズー最大の寺院であるパスパティ寺院の火葬場だけでは足りません。そこで水の干上がったパクマティ川のある場所や、収拾された遺体にその場でそのまま火を載せています。
私たちのトンネにはテントがありません。近くのコビンダの家に大きなテントがあって不幸中の幸いでした。英国にいる家族が送ってきたこのテントは、あたかも地震の前日にちょうど到着したというのが、まるで地震が起きたら使えと送ってきたかのように緊要なものでした。
空だけを遮り雨露をしのぐだけ、四方が開いたままの寝床はムチャクチャ寒かったです。いつまた地震が起きるか分からないので、誰でもが駆けてきて座ることができるように四方が開いているのは、むしろ良いことでした。突然、地面が裂けてその中に陥没するというむごい想像をぬぐいさることができません。こうして、みすぼらしいテントに集まったトンネの人は、ざっと200人にはなるようです。
先生、今朝は鳥の声も聞こえます。鳥たちが戻ってきたみたいです。後ろの家のカラスたちも再び巣を作り始めました。花も咲いたけれども…。地震が起きて2日目のこと、テントで最初の夜を共にすごした隣人たちは私に「韓国にいつ行くのか」と聞きました。またある人は「すぐにも行け」と言いました。「ハミ ティッチョウン」、私は大丈夫だと答えました。
いいえ、実際には大丈夫ではありません。3歳になったばかりの息子リンも、大地が揺れる兆しがありさえすれば即座には跳んでくるし、私も頭がくらくらして、しょっちゅう体が右側に傾くような感じがします。恐いものなどない人のようだった夫コゲンも家の中に入るのをビビッています。それでも私たちはコゲン、リン、父母、それに義弟ラジンやソントス、娘のプロバまで…。私たちはこうやって一緒にいるじゃないですか、問題ないじゃないですか。

目の前で死を目撃した人も

 きのうの昼、センターの事務室にちょっと行ってきました。その途中の至る所で崩れた家々・レンガ、ひびの入った建物の数々…。あゝネパール…。事務室近くのカーペット工場で4日間、夜を過ごしているわがセンターの職員らに会いに行きました。生まれて2カ月になったウルミルッサは眠っていました。ウルミルッサの母親で我がセンターの裁縫共同作業場のメハ総括者は、ひっそりと座っていました。
故郷で今回の地震によって足をケガしたハラボジ(祖父)の世話をしてきたコンピューター教師テンジにも会いました。テンジの家は田舎の有志(名家)なので、ハラボジはヘリコプターに乗ってカトマンズに治療を受けに来ることができたけれども、貧しい人々は治療もキチンと受けられずにいます。テンジんちの田舎の家も崩壊しました。
新しくやってきた教室の教師ナワンのハラボジが今回の事故で亡くなり、図書館のチェトゥン司書の親戚2人も亡くなりました。アシス教師のアホジ(父)は家から脱出する過程で足を負傷しました。掃除をしているシッタ・オンニ(姉さん)の子どもたち4人がボソンダラに遊びに行っていて連絡がつかず気が気でなかったが、幸いにも子どもらは崩れたボソンダラ塔には昇っておらず、その周りで遊んでいたそうです。4人の子どもらはボソンダラから歩きに歩いてジョルパティの家にたどり着きました。韓国奉仕団員のコジンはバクタプルの路地を回って広場に入った途端、建物が崩れて目の前で死を目撃することとなったし、キム・ナヒは崩れる建物の瓦礫に巻き込まれまいとして、土ぼこりの中を死力を尽くして脱出しました。
花は咲いたけれども…ネパールは崩れてしまいました。地震が起きて2日目、リンがウンチがしたいと言いました。隅っこでリンのズボンを下ろしてしゃがもうとしていたその時、末の義弟ソントスがテントからハゲワシのように素早く走ってきて、リンをぱっとひったくって行きました。大地がすでに揺れていたのです。私もすぐ駆けました。最初の地震ぐらいに大きな揺れでした。揺れ時間が短くて、ちょっと安心しました。テントに坐り込んで余震が収まるのを待っていた後、リンに「ウンチはもうちょっと後にしよう」と言うと「オムマ(ママ)、大丈夫」と言ったんです。そして間もなく寝入りました。
その翌日、リンは2回も「ウンチがしたい」と言ってしゃがみこんだけれどもすぐ立ちあがってしまったものだから、3回目になってやっとウンチが出たんです。その晩、テントで寝ていたリンは「オムマ、アッチ アヨ」(ママ、ウンチが出る)という寝言を2回も言いました。このように、地震は過ぎ去った恐怖ではなく余震の日々へとつながっているのです。

「みんな大丈夫です」

 先生、子どもらがいて心配が絶えないけれども、それはそれで子どもらがいるから心配に耐えられるのです。テントで1日、2日と過ごすうちに子どもらはしっかり寝ています。どの子も狭くて寝られないなどとダダをこねたりはしません。大人たちもそうです。「ッソプ ティッチョ、ッソボイ ティッチョ、エットム ティッチョ」。電話をしながらみんながしばしば言う言葉です。「みんな大丈夫です。何もかも大丈夫です。とても大丈夫です」というネパール語です。実に穏やかなネパールの人々…。誰も大声を出して不安を募ったりはしません。余震が来ると「オ、アヨ、アヨ、アヨ」と言いながらみんなは驚きを静かになだめるのです。20回以上は、そうやっていたようです。
子どもらはこんな中でも大好きなクリケット遊びをしています。そして余震が来ると、さっとテントに逃げ込みます。地震が起きた日が土曜だったのは、それでも幸いでした。ほかの日だったら勉強したりふざけあったりしていた子どもらが学校でどれほどたくさんケガをしたことでしょうか。小さな子どもらが驚いて右往左往しただろうと思えば、実にむごいことです。大好きなおやつを食べることもでき、学校に行かなくともいいからでしょうか。時に、子どもらにとってはテント生活がとても面白そうに見えます。
大人たちの愁いには深いものがあります。義父が語っていました。「俺らのトンネには救援物資がない。ちょっくら市場に行って野菜を買うのもままならないようだ」。今やお店が塩を売ろうとしないのです。
韓国から支援カンパを送りたいという方々のメールを受け取りました。ノドゥル障がい者夜学のパク・ギョンソク校長先生、支援カンパを集めて下さるとのこと、ありがとうございます。実はコゲン、ラジン、ソントスの3兄弟をはじめ青年たちが昨晩、財布をはたいて100万ウォンほどを作り、今朝人々が品物を買いそろえシェヨムブナートのトンネに行きました。わがトンネの青年たちは救護活動を継続しようとしています。昨晩も1千ルピー、2千ルピーとそれぞれの事情に応じて集めたものの救護活動には余りにも不充分な金額です。今後コメ、水、毛布、テントなどの生活必需品がずっと必要になるでしょう。何であれ役に立つだろうけれども、今は支援カンパを送って下さればここで必要な品々を買って、すぐにも供給するのが最もいいようです。

以前の暮らしに戻れるだろうか


この文章を書いている今も、実際のところはとても不安です。きょうの午後、また急にトンネがざわめきました。2時間以内に大地震が来るといううわさが、どこからか出てきたからです。結局、その話を騒ぎたてていた2人は警察につかまったけれども、このうわさがどれほどあっという間に広がったことか、国中が動揺しました。今後もこの手のうわさは、いくらでも起きるものと思います。ただ、ネパールの人々の心が荒れないことを願うばかりです。
支援をして下さる方は(韓国)「ウリ銀行1002―336―336349 チェ・グンジョン」宛に送って下さればよいです。遠くにあって祈って下さることに感謝し、先生に手紙を書いていると今さらながらに改めて実感がわき涙がでます。
あゝ、ネパール…以前の暮らしに戻ろうとするならどれほどの時間がかかることか…以前の暮らしに戻ることができるのか…。
カトマンズで両手を合わせつつ、クンジョン拝。(「ハンギョレ21」第1060号、15年5月11日付、チェ・グンジョン地区村共生会ネパール支部プロジェクト・マネージャー)

 送って下さった支援カンパは地球村共生会の救護活動とは別途にチェ・グンジョン氏が共に行動しているプラノバネスウォの青年たちを中心とする救護活動に使われることになります。支援金の規模によって活動地域は拡大することができます。彼女の電子メール(moong70@hanmail.net)に連絡すればネパールの消息に接することができます。

【訂正】本紙前号(6月15日付)1面19〜20行目の「武力行使する自衛隊が」を「武力行使する他国軍に自衛隊が」、3面民主労総の記事下から4段目左から11行目の「作年末」を「昨年末」に、5面故樋上さん偲ぶ会記事下から3段目左から11行目の「マンデルは」を「マンデルに」に訂正します。


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