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    かけはし2015.年7月13日号

生命の尊厳を取り戻そう


6.27

福島原発告訴団第4回総会

事故責任をあいまいにするな

あきらめるわけにはいかない




【いわき】六月二七日福島原発告訴団の第四回総会が福島県いわき市の労働福祉会館において七五人の会員が全国から結集して行われた。武藤類子団長が告訴団結成の日を思い出しながら、「今日の会場は告訴団結成会場だ。刑事裁判が開かれると思って立ち上がった。これまでの経過を述べれば、第一次告訴については、二回目の審査会を期待して待っている」と語った。そして検察審査会への激励行動、上申書の提出をしてきたことを報告、そして「今年四月に保安院・東電津波対策関係職員への新たな告訴をしたが二カ月半で不起訴とされた。東京第一検査審査会には上申書と共に間に合わなかった三二〇〇人強のリストを提出した」と報告した。
 そして福島の現状について、「帰還と復興政策が勢いを増している、事故は終わったかのような空気が漂い被害者の苛酷な切り捨ての一方で福島はビジネスワールドになっている。事故を招いた責任を問う刑事裁判がなぜ開かれないのか。望みはごく当たり前のこと、事故の責任を問われる証拠が明らかになり、損害賠償裁判の中でも事故の責任追及がなされている。この会場に被団連旗が立っている。事故の被害者がつながる小さな核ができた。諦めるわけにはいかない。事故の責任を明らかにして奪われたあらゆる命の尊厳を取り戻すために力合わせてゆきましょう」と結んだ。

神田香織さん
涙ながらの講演
次に総会の前に講談師神田香織さんの講演が行われた。
神田さんは歯を抜く予定だったがこの日の講演のため予定を変更しこの日の講演に臨んだとのこと。講演は講談の歴史について、一説によると源平の頃からとひもとくことから始まった。そして「落語は笑い、講談は怒り、浪花節は涙、講釈師見てきたような嘘を吐きとの故事があるが最近は安倍首相にお株をうばわれている。原発事故は収束した、汚染水はコントロールされているとウソを吐きオリンピックを開催しようとしている、『あべこべ政権だ』」と批判した。
また社会派講談を始めるようになったいきさつとして、サイパンへの旅行でのバンザイクリフ、広島での漫画「はだしのゲン」との出合い等について話し、チェルノブイリの祈りの一節を演じた後に、「チェルノブイリの経験は、放射線に対する影響が強い大人より子供、子供より胎児を守らなければならないことを教えている。その教訓を活かしていない」と国の被曝者対策を批判。そして「国の内外で『福島の祈り』を福島の現状として話している。聞いた人の多くが事故は収束したと思っていた、釜山でも、沈没事件の後だったこともあるだろうが涙を流して聞いていた。そして釜山近郊の老朽原発は廃炉になろうとしているが新たに建設しようとしている」と国境の内外での活動を報告した。
次に自身が理事を務めるNPO法人「福島人と文化ネットワーク」の紹介をしつつ、「このままでは福島の事故は忘れられてしまう。自民党は必ず事故はなかったことにする。それは、各地の原発再稼働とつながっている。これは止めなければならない」と涙を流しながら話した。

学習と行動を
組み合わせて
次に議事に移り司会に織田義孝さんを選任し論議にはいった。
総会は冒頭福島原発告訴団副団長の石丸小四郎さんが、「福島原発はデブリの位置さえ分からない状況にある。私たちには東京電力はこの問題から撤退するのではないか、という恐れがある。恐れの基本に労働者の高齢化問題がある。福島原発で働く労働者の年齢は、五〇〜七〇歳が四三パーセントを占めている。一〇年後退職者が大部分、この問題を重視し、東京電力との交渉でも追及している。この様な中で告訴団の存在は重要さを増している」と開会の宣言を行った。
続いて事務局より提出された議案(二〇一四年度活動報告及び二〇一五年度活動方針)について論議を行った。活動報告は告訴告発の現状及び広報、他団体との連携を築くための行動を報告。
二〇一二年告訴(勝俣恒久東電元会長等)「汚染水告発」、二〇一五年告訴(東電及び保安院の津波対策担当者等)の現状について。二〇一二年告訴は、これまで検察審査会への激励行動及び新たな証拠による上申書の提出をしてきた。今回の検察審査会で一一人中八人が起訴相当の判断をすれば強制起訴となり、汚染水告発は県警で捜査中、二〇一五年告訴はたった二カ月半で検察は不起訴の判断を下した、しかし検察審査会への申し立てを行った、と報告した。
ブックレット『これでも罪を問えないのですか』の発行により原発事故の被害と責任を問う広報活動を行ってきたことを報告。他団体との連携については二〇一四年六月二日に「脱原発原告団全国連絡会」が結成され福島原発告訴団もこれに加わり一一月一六日には福島原発事故の被害者三〇団体が福島市に集い「もう我慢はしない!立ち上がる!原発事故被害者集会」を開催しこれをもとに二〇一五年五月二四日の「原発事故被害者団体連絡会(ひだんれん)」設立へ発展させたことが報告された。二〇一五年度活動方針については、検察審査会に向けての活動、福島県警(福島地検)への強制捜査と起訴を求める活動、他団体との連携に、学習活動について活動計画が提出され、検察審査会への激励行動、上申書の提出、「ひだんれん」の充実、罰則法体系の学習が提出され、熱の入った討議の後若干の字句の修正を加え議案が承認された。

検察審査への
「激励行動」を
総会は決議文(別掲)を採決し終了し最後に佐藤和良副団長が、「告訴団はつないだ手を離さないで意見を出し合ってこれからも頑張っていこう。『ひだんれん』という大きな輪ができたその中心には告訴団がいる。七月には強制起訴の結論が出るかもしれないことを念頭に入れて長い闘いになると思うのでこれからもつながっていきたいと思う」と閉会のあいさつを行い総会は終了した。
福島原発事故は続いている。福島原発事故の責任をあいまいにしてはならない。告訴団は七月末に検察審査会の判断が出るとの予想がある中で、七月一七日に一二時三〇分から東京検察審査会への激励行動を予定している。検察審査会激励行動に支援を。七・一七東京地裁前に結集しよう。(浜西)

決議文

ひるまず、くじけず、あき
らめずに歩み続けよう

 二〇一二年に私たちが切なる思いで行った告訴は、検察により不起訴とされたものの、二〇一四年七月、東京第五検察審査会により東電三人が起訴相当とされました、しかし今年一月、検察は再び全員を不起訴としたため、現在東京第五検察審査会が二回目の審議を行っており、「強制起訴」となる議決が出されるか、日々大きな期待をもって注目されています。今年一月に東電や保安院の津波対策担当者らに対して行った告訴は、たった二カ月半の捜査で不起訴とされ、現在東京第一検察審査会が捜査を行っています。二〇一三年に行った汚染水告発は、福島県警が捜査を継続しており、未だ結論は出ていません。
 この間、吉田調書を始めとする政府事故調査委員会の調書や、国土庁の津波浸水予測図など、明らかになった事実を次々に証拠として提出しています。東京電力が、津波対策が必要と分かっていながら、それを隠したり時間稼ぎをしたりしていたことも明らかになってきました、また、保安院もそれに加担していました。
 津波対策は不可避であると認識し、対策を取らなければ不作為に問われるとまで認識しながらそれをせず事故を招き、多くの人々に厖大な損害を与えた者が、どうして罪に問われないのでしょうか。どうしてこんなに長い間、刑事裁判すら開かれないのでしょうか。私達の望みはごく当たり前の事ではないのでしょうか。
 原発事故から五年目の今、被害はまだ続いています。熔け落ちた核燃料はどこにあるのかさえ分かりません。汚染水は大量に海へ流されています。未だ放射線量の高い場所への帰還政策が強引に進められ、子供たちの健康を心配する声はかき消され、被害者の非情な切り捨てが行われています。そのような中、原発の再稼働、原発の輸出が進められようとしています。
 しかし、私たちは、あきらめるわけにはゆきません。罪を問われるべき者たちを刑事法廷の場に立たせるまで、あらゆる働きかけを行っていきます。
 私たちの告訴は、この厳しい状況の中で、小さくとも毅然とした抗いです。奪われた生きる尊厳を取り戻す誇り高い闘いです。子供たち未来の世代、他の生き物たち、そして自分自身に対する責任の取り方の一つであり、新しい価値観の世界を創る道の一つです。
 告訴団が築いてきた、「決してバラバラにならない、生きる尊厳を取り戻す、繋いだ手を離さない」という想いは、原発事故被害者団体連絡会(ひだんれん)の設立に繋がり、被害者たちが立場を超えて結集し、力を合わせて共に歩み始めました。
 様々なつながりを力とし、多くの困難の中にあってもひるまず、くじけずあきらめず、この原発事故の責任がきちんと問われるまで、確かに歩み続けましょう。
 二〇一五年六月二七日
福島原発告訴団 総会参加者一同。

コラム

最初で最後の一ノ倉沢

 前回に引き続き山の話をひとつ。
 かつて上越線には、上野発長岡行の夜行普通列車が走っていた。週末ともなれば、谷川岳を目指す登山者でいつも満員御礼。それこそ座席からあふれた乗客は、床に新聞紙を敷いて寝転がり仮眠をとるのが当たり前だった。ボクも何度この列車のお世話になったかわからない。玄関口の土合駅地下ホームから地上へ続く長い階段は、まさに「天国への階段」だった。
 ボクはもっぱら「蟻のとまどい尾根」と呼ばれた急峻な一本道、西黒尾根を登るのを常としていた。駅から四時間で頂上に到達できるからだ。早ければ朝の八時には双耳峰のひとつトマの耳、ゆっくり休んでも昼には下山できた。時には茂倉岳を経て土樽へ、あるいは仙ノ倉山から平標山に抜ける雲上散歩を楽しんだ。
 しかし、そうこうしているうちにボクの欲望は果てしなく広がり、もはや尾根歩きでは満足できなくなった。さすが八〇〇人を超える犠牲者を飲み込んだ「魔の山」である。そして無謀にも一ノ倉沢第四ルンゼを目標に定めたが、技量がついていかない。まずは手始めにと雪が詰まったマチガ沢本谷を登ったのが高校三年、その翌年の五月初めて一ノ倉沢に入った。大学に入学した年である。
 このときボクは親に山道具の店を教え、こう脅迫した。「ピッケルとアイゼンを買って連休までに送ってくれ。それがないと遭難してしまう」(まったくのわがまま息子)。
 親は律儀にも高価な山道具を買い求め送ってくれたのだが、今と違って翌日に配達されるはずもなく、装備不十分のまま下宿を出発することに相成った。高崎駅で高校時代のヤマ友と落ち合い、一ノ倉沢の出会いに立ったのだが第四ルンゼに向かう覚悟もなく、比較的簡単(?)な一の沢からマチガ沢と一ノ倉沢を分ける東尾根を登ることにした。それも相棒のアイゼンを分け合い、それぞれ片足だけ付けてという珍道中である。簡単といっても、それはボクの判断であって誰が保証するものではない。何とか一の沢の急峻な雪渓を登り切り、シンセンのコルに立ったが、ここからが本番だった。雪の着いた岩稜が延々と続く東尾根。ザイルを結びそれこそアリの歩みで進む。左右はスッパリ切れ落ち、それこそどちらに落ちても命はない。残雪と青空に映えて展望は最高なのだが、ゆっくり眺める余裕もなく、ひたすらオキの耳に向かうのみだった。
 頂上直下、もう少しだと思った瞬間、何と上からブロック状の雪が落ちて来るではないか。雪崩だとしたら「はい、それまでよ」。岩にしがみつきながら「これで終わりだな」とボク。幸にも手袋が飛ばされただけで済んだが、気温の上昇により危険極まりない状況下にあるのは間違いなかった。
 ピッチを上げ何とか窮地を脱し、頂上に着いたが、そこから先のことはまったく憶えていない。どう下山したのかも記憶にないのだ。たぶん緊張感から解放され、脳が弛緩してしまったからなのだろうか。これっきり一ノ倉沢に入ることは二度となかった。
 無事、下宿に帰り着いたボクを待っていたのは、ボール紙で何重にも包装された門田のピッケルとアイゼンだった。 (雨)



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