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    かけはし2015.年8月10日号

錯綜しつつ連動を深める中東・北ア
フリカ情勢について考えるために



IS(「イスラム国」)に関する基礎作業ノート(1)

岩田 敏行



 IS(「イスラム国」)問題は、今日の世界をどのように捕えるのかという点で、ギリシャの財政危機などと並んで重要な争点である。この研究ノートはISを考える際に極めて重要な中東・アラブの歴史を入り口にし、オスマン帝国の時代から、チュニジアから始まった現在の『アラブの春」までを検討の材料としてしている。討論の素材として活用してほしい。(編集部)

 ISについて考えたり討論したりしようとすると、中東・北アフリカ地域(あるいはムスリム住民が大多数を占める地域)について、私自身あまりにも断片的な知識しか持ち合わせていないことを痛感せざるをえなかった。この地域に暮らす人々とその社会はなかなか鮮明にイメージできないし、イスラム(あるいは宗教一般)と政治や社会との現実の関連についてあまりの無知を痛感せざるをえなかった。そこで、いくらかでも集団的討論の土台を築くために、不十分さを自覚しつつも、さしあたって以下の試論を、討論の叩き(叩かれ?)台として提起することにした。
 なお、あまり知られていないと思われる(私自身が知らなかった)「基礎知識」は詳しく書き、よく知られていると思われる部分はかなり省略していて、そのあたりのバランスはとっていない。また、カタカナ表記は英語由来で日本語化しているものをそのまま使っているが、それは煩雑さを避けるという理由だけによるものである(たとえば、イスラム[イスラーム]、バグダッド[バグダード]、モスル[モースル]、ダマスカス[ダマスクス]、ムジャヒディン[モジャーヘダーン]、ササン朝[サーサーン朝]、パーレビー朝[パフラヴィー朝]、コサック[カッザーク]……)。個人的には、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語、クルド語などの音に近いカタカナ表記が早く普及することを望んでいる。

 ISについて全体的にとらえようとするとき、少なくとも次の四つの歴史の複合的絡み合いを考える必要がある。
(1)オスマン帝国の支配構造とその崩壊過程
(2)トルコ・イラン・エジプトでの「立憲運動」の性格、および中東・北アフリカ地域の全面的植民地化とそこでの特徴点
(3)四次にわたる中東戦争を通じたアラブ民族運動の敗北とイスラム原理主義の復活
(4)「アラブの春」とそれに対する複合的な反革命、そして潜行する新たな「春」

(1)オスマン帝国の支配構造とその崩壊過程

(1)―1 オスマ
ン帝国の支配構造

 カリフ(預言者ムハンマドの代理人)でもあるスルタン(君主)のもとで、専制的軍事的中央集権国家としてあったオスマン帝国は、首都イスタンブールを中心とするバルカン半島とアナトリア半島西部に強大な常備軍を配備し、全版図に官僚機構をはりめぐらせていた(アナトリア東部=北クルディスタンは、しばしばイラン系王朝との緩衝地帯の役割をはたしていた)。イスタンブール(中央政府)から各地に官僚が派遣され、その末端(スィパーヒー)は、地縁血縁からなる部族的紐帯から離れてスルタンとの直接的主従関係を結び、村落からの徴税権を与えられるとともに対外遠征での徴兵従軍義務を負っていた(スィパーヒーは、やがて在地の名望家層となる)。また、ウラマー(イスラム法学者=ムスリム知識人)、ムスリムに改宗した旧バルカン貴族の子弟などが上・中層官僚の主要な供給源となっていた。
ヨーロッパとアジアを結ぶ交易路でもある中東・北アフリカ地域では、交易と交通の結節点に都市が形成され、そこでひらかれるバザールに近郊の農民による農産物や遊牧民による牧畜産品がもたらされ、交易に従事する隊商に新しいラクダが提供された。圧倒的多数の人口を占める農民は、大土地所有制度のもとでの小作農がほとんどで、土地所有者は都市で生活する不在地主であった。ウラマー、軍人、官僚、大土地所有者は、しばしば同時に商人でもあった。
人口の圧倒的多数はムスリムだが、イスタンブールをはじめとする多くの港湾都市にはアルメニア人、ユダヤ教徒、キリスト教徒などの商人・職人がヨーロッパ諸国との交易などに従事していた。また、オスマン帝国下のギリシャ、セルビア、ブルガリアなどではキリスト教徒(オルトドクス=「正教」)が多数を占めていた。このように、オスマン帝国は宗教的権力と世俗的権力を併せ持つスルタンに統治されていたが、かならずしもムスリム国家ではなく、多宗教性・多民族性をはらんだ国家であったといえよう。
オスマン帝国は周縁部に州を設置したが、これらの州は、今日なお相対的に等質な社会的結びつきを有している。たとえば、アレッポ州、トリポリ州、ダマスカス州、ルハー州、ディアルバクル州、モスル州、シャフリズール州、バグダッド州、バスラ州、エジプト州、西トリポリ州、チュニス州、アルジェ州、イエメン州……。現在の都市名では、アレッポとダマスカスはシリア、トリポリはレバノン、ディアルバクルはトルコ、モスルとバグダッドとバスラはイラクとなる(ちなみに、ディアルバクルとモスルはクルディスタン)。シリアやイラクをひとつの有期的社会単位として形成することの困難性を、ここからもうかがい知ることができる。
こうした中央集権体制は、版図の膨大な拡大にともなって、周縁部では次第に名目的なものになっていく。たとえば、税収をイスタンブール政府と地方の旧支配層で折半する。また州知事は、州の軍司令官から州の行政・財政全般を掌握する役割へと変化していく。さらには、肥大化した官僚機構を掌握する役割を担うのは、事実上アドラザム(「大宰相」)となり、多くのスルタンはしばしば象徴的な存在となる。

(1)―2 オスマ
ン帝国の衰退

 一八世紀末から、オスマン帝国の版図は縮小にむかう。その主な要因は、ロシア帝国との版図をめぐる不断の戦争であった。また、ナポレオン軍によるエジプトのカイロ、アレクサンドリアなどの占領(一七九八年)はこの地域全体に大きな衝撃を与え、アラブ民族運動形成の契機ともなり、やがてエジプトが独自の道を歩むことへとつながる。
一六世紀以来、クリミア戦争(一八五三)、バルカン戦争(一九一二―一三年)を経て第一次世界大戦と十月革命まで続いたロシア帝国との不断の戦争は、オスマン帝国に巨額の戦費を強いるとともに、バルカン諸民族の絶えざる反乱と独立に結びついていった。こうして、セルビア王国(一八二二年)、ギリシャ王国(一八三〇年)、モンテネグロ王国(一九〇五年)、ブルガリア王国(一九〇九年)は次々とオスマン帝国から独立し、版図はますます縮小していく。
この時期には、ヨーロッパ諸国から資本主義経済が浸透する。版図の縮小にもかかわらず膨らみ続ける戦費を捻出するために、イスタンブール政府はイギリス、フランスから借款することになる。また、前資本主義的なオスマン経済に資本主義経済が浸透し、始まりつつあった手工業の発展は阻害されていく。たとえば一八四九年には、エジプトの輸入の四一%、輸出の四九%をイギリスが占めるまでになっている。ヨーロッパ(とりわけイギリス)資本はまず金融面での支配を先行させ、イギリスへの電信線施設利権の譲渡(一八六二年)、外国人の土地所有を可能にする土地法の改正(一八六七年)、イギリス人ロイターへの包括的な利権譲渡(一八七二年)などを進め、次第に社会全体を蚕食していった。まずは「借金づけ」にし、次々と社会の重要な権利を奪い取っていくのは、帝国主義の常套手段である(今日のギリシャとEUの関係を彷彿とさせる)。
こうしたなか、スルタンのもとでの再中央集権化と西欧的教育・西欧的軍制への再編が試みられる。この再中央集権化は、膨らみ続ける借款を返済するために農民の上に課税と賦役をいっそう重くのしかからせるとともに、諸民族の事実上の自治権を剥奪していく。そのため、バルカン諸民族とアナトリア東部のクルド人やアルメニア人などの不断の反乱を呼び起こし、さらにアラブ民族運動を勃興させた(ちなみに、オスマン帝国からの自立を求めるアラブ民族運動が発展したのは、まずレバノンのキリスト教徒たちからであった)。
またこのころには、オスマン帝国の既存の官僚機構の外側に育成された中・下層の官僚層、教育改革を通じてヨーロッパの言語と知識を身につけた軍人や官僚層がウラマーにとって代わりつつあった。なかでも、陸軍士官学校出身の青年将校を中核とする「青年トルコ人」(「青年トルコ党」)は「立憲革命」をはたすことになる(一九〇八年)。同年、鉄道・港湾・炭鉱労働者は大規模なストライキ闘争に起ちあがったが、「青年トルコ人」はこれを徹底して弾圧した。これは、すでに進行していた労働者階級の成長とともに、「青年トルコ人」の階級的性格を如実に物語っている。

(1)―3 オスマ
ン帝国の崩壊


第一次世界大戦では、オスマン帝国はドイツ・オーストリア側に立って参戦した。このころ、すでに見たようにバルカン諸王国はすでにオスマン帝国から独立していた。また、北アフリカ(マグリブ)では、アルジェリアがフランスに(一八三四年)、チュニジアがフランスに(一八八年)、リビアがイタリアに(一九一一年)併合されていた。また、モロッコはフランスの「保護領」と宣言され、北モロッコはスペイン領となり(一九一二年)、エジプトはイギリスの「保護領」とされていた(一九一四年)。
このようにオスマン帝国の大半は、ヨーロッパ各帝国主義の分捕り合戦によって分割されていた。残るアナトリア半島と東アラブ(マシュリク)の分割について、イギリス・フランス・ロシアの間で秘密協定が取り交わされた(一九一六年)。これが、一九一七年一一月にソヴィエト政府によって暴露されたサイクス・ピコ協定である。この協定では、広大な地域をイギリス支配地区・勢力圏、フランス支配地区・勢力圏、イタリア支配地区・勢力圏、ギリシャ支配地区、ロシア勢力圏、国際管理地帯、トルコというように勝手に地図上に「盗賊の分け前」の線を引いていた。
このサイクス・ピコ協定をベースにして、一九二〇年にセーヴル条約が結ばれた。それによってシリア、レバノンはフランス「委任統治領」とされ、イラク、トランスヨルダンはイギリス「委任統治領」とされた。ちなみに、オスマン帝国外にあったガージャール朝イランは、すでに一九一九年にイギリスの「保護領」とされていた(後述)。
しかし、ムスタファ・ケマル率いる勢力は、イスタンブール政府(オスマン帝国)によって結ばれたセーヴル条約破棄をめざして戦い、一九二〇年にアンカラ政府(トルコ大国民議会)を樹立し、アナトリア南東部でフランス・アルメニア軍、アナトリア南西部でイタリア・ギリシャ軍を撃退した(一九二一年に最初にアンカラ政府を承認したのは、ソヴィエト政府であった)。そして、スルタン廃止(一九二二年)を経て一九二三年にトルコ共和国をうちたて、イスタンブール政府(オスマン帝国)は最終的に消滅した(二〇一四年にISのバグダディーが「即位」を宣言するまで、カリフは存在しなくなった)。そのうえで、トルコ領土をほぼ現在の国境線に確定させるローザンヌ条約が結ばれた(一九二三年)。他方、セーヴル条約によるフランスとイギリスの「委任統治領」はほぼそのまま維持された。
なお、ISの登場によって大きくとりあげられるようになったサイクス・ピコ協定は、「秘密外交反対」の立場からソヴィエト政府によって暴露されたこと、またこの協定が、主にムスタファ・ケマルの「トルコ革命」を通じて、そのまま東アラブの現実を形成したわけではないことは、なぜかあまり言及されることはない。     (つづく)

投稿

映画「“記憶”と生きる」を観て

S・M

 「“記憶”と生きる」(土井敏邦監督作品/2015年/日本映画/124分+91分)を観た。「元『慰安婦』たちが肩を寄せ合って暮らす韓国の『ナヌム(分かち合い)の家』。…… 日本人ジャーナリストが6人のハルモニたちの生活と声をカメラで記録した」(パンフレット)。これは、そのドキュメンタリー映画だ。「あのハルモニ(おばあさん)たちは、もうこの世にいない。残されたのは、彼女たちの声と姿を記録した映像だった … 」(パンフレット)。
 「私は、橋下発言に象徴されるように、この問題で日本の責任を否定する人たちにはハルモニ一人ひとりの顔が見えていないのだ、だからその人たちの痛みがわからないのだと思ったのです」。「当時のあの娘たちがもし自分の娘だったらどう考えるのか … 。そう想像してほしかった」。「観た人たちに「ハルモニたちも自分たちと同じ人間だった」と気付いてもらう素材を提供することが、ジャーナリストの私の役割だと思っています。私たちは、ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキと叫ぶと同時に、他国にたいして加害者になった負の歴史にも向き合い、「ノーモア」といわなくてはいけません」(『女性のひろば』2015年8月号)。土井敏邦監督は、そう語っている。「今後、『慰安婦』問題を語る人は、誰もがまずこの映画を観てから語ってほしいという気持ちです」(パンフレット)。高橋哲哉さん(哲学者・東京大学教授)は、そう語っている。
 ハルモニが「天皇と日本政府が悪い」「責任者を処罰しなさい」といっていたのが印象に残った。また、ハルモニが描いた二つの絵が天皇(ヒロヒト)の責任を問う内容になっていたのが印象に残った。
 なお、映画の関連本として、『“記憶”と生きる ―― 元「慰安婦」姜徳景(カン・ドクキョン)の生涯』(土井敏邦著、大月書店)が出版されている。
(2015年7月)


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