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    かけはし2015.年8月24日号

錯綜しつつ連動を深める中東・北ア
フリカ情勢について考えるために



IS(「イスラム国」)に関する基礎作業ノート(2)

岩田 敏行

(2)トルコ・イラン・エジプトでの「立憲運動」の性格、および中東・北アフリカ地域の全面的植民地化とその特徴点

(2)―1
戦間期とその後のトルコ


 ムスタファ・ケマルの共和人民党は、一九二七年大会で「共和主義」「国民主義」「人民主義」「世俗主義」を採択し、一九三二年大会では「国家資本主義」「革命主義」をこれに加えた。これら6つの「原理」は憲法にも書き込まれた(一九三七年)。これが「ケマリズム」と呼ばれるものである(ケマリズムに関しては、イスマイル・ベシクチ『クルディスタン=多国間植民地』に詳しい)。
注目すべきは、ここには「共和主義」と「世俗主義」があるが、「民主主義」がないことであろう。つまり、オスマン帝国の枠組のもとにあった「青年トルコ人」による「立憲革命」の限界を越えるためには、スルタン・カリフ制の廃絶およびイスラムと国家との分離、すなわち「共和主義」と「世俗主義」は不可欠だったのである。
また、アラビア文字を排してラテン文字を採用したことに見られるように、ケマリズムは「西欧化」=資本主義化を強烈に指向していた(それは、EU加盟を求めているように、今日なお進行している)。それを進めるのが「国家資本主義」であり、「革命主義」はそのためには「民主主義」を犠牲にすることを国民に強要するものであった。
ケマリズムの支持基盤は、軍人、官僚、都市のムスリム商工業者、地方の地主層であり、その推進力は「青年トルコ人」と同様、陸軍士官学校出身の青年将校であった。軍はケマリズムを守護するトルコ共和国の特別の支柱となった(なお、「アタチュルク」(父なるトルコ人)というのは、ケマルなきあとのケマリズムを補完するために、一九三四年にケマリスト議会から贈られた「姓」である)。
トルコ共和国を構成したのは、主にトルコ語を話す人々とクルド語を話す人々であった。だが、ケマリズムは中東という地政学的位置の中で、新たな国民国家に対応する「トルコ国民」を強権的につくりだそうとした。一九二五年、「クルド」「クルディスタン」などの用語の使用が禁止され、クルド人はアナトリア西部への強制移住など迫害・差別されることになり、いく度となくクルド人反乱が試みられたが、軍による弾圧は苛烈をきわめた。
ケマリズムが危機を深めていくのは、第二次世界大戦後のことである。すでに一九三四年から第一次五カ年計画が始まっていたが、「国家資本主義」のもとで急速な産業化が進行し、農業では地主・富農層への優遇策がとられた。そこでは、労働者階級が成長するとともに民族資本の育成がはかられ、ムスリム商工業者が社会的地位を高めることになった。こうしたなかで、一九四七年に初等・中等教育における宗教教育が容認され、「社会主義」の匂いがする「五カ年計画」を嫌うアメリカ政府との関係に配慮して、新五カ年計画を廃棄して「トルコ開発計画」に変更される。また、IMFに参加するために通貨を一二〇%切り下げた。
一方、ケマリズム守護者である軍は、一九六〇年、一九七一年、一九八〇年というように、ほぼ一〇年ごとにクーデターを起こした。一九九一年に最初に大国民議会議員に当選したクルド人、レイザ・ザーナは投獄された。また、議員を獲得したクルド民族運動に基礎をおく政党がいく度となく生まれたが、そのたびに閉鎖された。
一九八〇年代以降、一方で民主主義の土台となる労働組合運動やクルド人運動の前進があり、他方で世俗主義に対抗して宗教=イスラムを政治的に利用する側面をもった政党の登場がみられるように、ケマリズムの根幹そのものが揺らいでいく。だが、新しい民主主義「革命」がないかぎり、あるいは反動的ムスリム運動が台頭しないかぎり、ケマリズムは色あせつつもトルコ共和国と軍の背骨であり続けている。

(2)―2 
 イラン


ガージャール朝イランは、オスマン帝国とは異なり、強力な常備軍や整備された官僚機構を持たず、その支配権力が直接およぶのは首都テヘランとその周辺および地方の主要都市に限られていた。そのため、一八世紀後半から比較的容易にイギリス・フランス・ロシア帝国主義の餌食にされていく。
陸で国境を接するのは、現在のロシア、イラク、アフガニスタン、パキスタンであるが、これらの国境線の画定は比較的早かった。一八二八年にはロシア帝国との間の、一八四七年にはイギリスとロシアも加わる国境画定委員会でオスマン帝国および現在のイラクとの間の、イギリスとの交渉(一八七一年、一九〇五年)とトルコ共和国の裁定(一九三五年)で現在のアフガニスタン、パキスタンとの間の国境線がそれぞれ決められていった。このように、ガージャール朝イランにとっては版図の縮小ではあったが、「国民国家」の前提となる領土の明確化は、比較的早く進んだことになる。
人口の多数を占める農民層の大部分は土地なし農民であり、織物、金属加工などの手工業が伝統的に受け継がれてきていた。しかし、一九世紀半ばごろから拡大した対外貿易によって絨毯織以外の手工業は次第に後退していった。また、一九世紀半ばには小麦・大麦は主要な輸出農産物であったが、二〇世紀初めには穀物自給率は急激に低下する(小麦の輸出総量は八倍に増えたが、価格は一/七に下落)。
一九世紀後半になると、イギリス・フランス・ロシア資本が全面的にガージャール朝イランに進出する。一八六二年、イギリスの「インド・ヨーロッパ電信会社」に電信線敷設利権が供与され、一八六五年、一八七二年、一九一〇年と立て続けに同様の利権が供与され、イギリスは本国と植民地インドをつなぐ一大電信網を完成させた。また、一八八九年には、イランの地下資源の採掘・利用権を保有する「ペルシャ帝国銀行」の設立利権がイギリスに提供された。さらに、一九〇一年には、イギリスは六〇年間にわたるイラン全土の天然ガス・原油を探鉱・調査・採掘・輸送・販売する利権を獲得した。そして一九〇八年には最初の油井を掘り当て、その翌年には「アングロ・ペルシャ石油会社」を設立し、一九一二年に南部イランにアーバンダーン製油所を建設した。
他方、ロシアは、カスピ海漁業権(一八六九年)、ペテルスブルク―テヘラン間電信線敷設利権(一八七〇年)、「ペルシャ貸付銀行」設立利権(一八九〇年)、バンダレ・アンザリー―ガズヴィーン間道路敷設利権(一八九二年)、アゼルバイジャン地方での鉱山採掘利権を取得していった。
また、フランスは一八九七年にイラン全土における学術的発掘調査に関する利権を取得し、シューシュで発掘したもののすべてとそれ以外の地域で出土したものの半分を自国に持ち帰る「盗賊の権利」を手にした。
さらには、一八九〇年にイギリス人タルボットに供与されたタバコ独占利権を破棄したことに対して五〇万ポンドの賠償金を求められたシャー(王)は、「ペルシャ帝国銀行」から借金させられることになった。しかも、このタバコ独占利権破棄を迫ったのは、イランのタバコ商人のみならずウラマー、職人層、店主、都市の下層住民など広範な民衆の決起であった。この一八九一年の「タバコボイコット」運動は、一方でその後のイラン民族運動の始まりとなり、他方でガージャール朝イランが賠償金の支払いのために借款を重ねるもとにもなった。
一九〇六年になると、経済的困窮の打開を求める声の中から国民議会開設要求が登場する。シャーはこれを受け入れざるをえず、翌一九〇七年に第一議会(制憲議会)がひらかれた。そして同年、シャーの署名のもとで憲法が公布された。憲法には三権分立の原則のもと、国家の権力は国民に由来し、シャーの統治権は国民から託されたものであることが明記された。だが、ウラマー層の中から立憲制はあくまでもシャリーア(イスラム法)に則したものでなければならないとして、諸々の宗教集団の法のもとの平等やシャリーア法廷の権限縮小などに強い反対を表明してデモを行った。一九〇八年に入ると、イラン全土で立憲派と反立憲派の対立は先鋭化し、テヘラン、タブリーズ、エスファハーンなどでは武力衝突にまで発展した。
こうした事態のもとでシャーは戒厳令を発令し、シャーが差し向けた一〇〇〇人のコサック部隊が議会を砲撃し、数百名の立憲派を殺害して議会を解散に追い込んだ。こうしたシャーのクーデターによって立憲派は一時後退を余儀なくされるが、アゼルバイジャン地方の中心都市タブリーズでは、立憲派による徹底した武装闘争が組織された。ここでは、社会民主党の指導のもと、商人、職人、中下層ウラマー、都市下層住民などからなるムジャヒディン(義勇武装組織)が組織され、四万ともいわれるシャーのタブリーズ包囲軍と一一カ月にわたる防衛戦を戦い抜き、タブリーズをイランの臨時首都とすることを宣言した。
タブリーズ防衛戦は、イラン全土で立憲派の反攻を呼び起こした。とりわけラシュトでは、立憲派の蜂起が成功し、一九〇九年に立憲派武装部隊がテヘランに入城した。そして、選挙を実施し、第二議会を再開した。しかし、一九一一年、イギリスの黙認を得たロシア軍二万が北部イランに侵攻するにおよんで、第二議会は解散を余儀なくされた。
この「立憲運動」が敗退した後、イラン北部にはロシア軍が駐屯し、事実上ロシア帝国の一部であるかのようになった。また、イラン南部ではイギリスが油田地帯確保を名目に軍を進駐させた。
こうしたなかで一九一四年に第一次世界大戦が勃発すると、イラン政府は直ちに中立を宣言した。だが、イラン全土はイギリス、ロシア、オスマンの軍事行動の舞台となり、農産物や家畜などの接収、灌漑施設の破壊、道路建設や軍役などへの農民の強制的徴用が頻繁に行われた。事実上イギリスの傀儡政権となった脆弱なテヘラン政府は中央政府としての体をなさず、イランは無政府状態におかれた。これに対抗して、一九一五年、シーア派の「聖地」のひとつとされるコム(ゴム)に臨時移転政府が樹立され、「国民防衛委員会」のもとで反英ロ闘争が開始された。だが、「立憲運動」以来の世俗派とイスラム護持派との対立が激しくなるなかで、あえなく自壊してしまった。
また、ラシュト(カスピ海沿岸のギーラーン地方)には「イスラム統一委員会」が組織され、外国の干渉と腐敗した中央政府からイランを解放することを旗じるしとしてパルチザン闘争が開始された。「シャンギャリー」(森林の人)と呼ばれるこのパルチザン勢力は、汎イスラム主義に関心を示し、オスマン軍とも軍事協力をしたが、あくまでもイラン独立を最優先課題としていた。
一九一七年の十月革命にともないロシア軍の撤退が始まった。シャンギャリーはバクーに向かうイギリス軍に敗退し(一九一八年)、さらにテヘラン政府の鎮圧部隊によってほとんど壊滅状態に追い込まれた(一九一九年)。ところが、議会の承認が得られないまま結ばれたイラン・イギリス協定(イランをイギリスの「保護領」とする内容)によって全土で反英闘争が盛り上がり(一九一九年)、耕作農民層を支持基盤とするシャンギャリーに、対ロ貿易に依存するギーラーン地方の地主・商人、さらに港湾労働者三〇〇人からなる社会民主党左派の武装部隊と臨時移転政府の武装遊牧民部隊が合流した。そして、赤軍カスピ海艦隊がデニキン軍を追走して上陸し、赤軍に対する反革命軍となったイギリス軍も後退した(一九二〇年)。そこで、シャンギャリー合流部隊はラシュトに「イラン・ソヴィエト共和国」(ギーラーン・ソヴィエト共和国」)の樹立を宣言した。そして同政府は、イランにおける君主制の廃止と共和制の樹立、個人とその財産の保護、すべての不公正な条約・協定の破棄、人類の平等とイスラムの防衛などの綱領をかかげた。だが、政府内部でイスラム護持路線、民族解放路線、階級闘争路線の対立は収拾できず、混乱状態が続いた。
一方、レザー・ハーン指揮下のコサック部隊はテヘランを制圧し、新政権がソヴィエト政府と友好条約を結んだため、赤軍は撤退した。その後テヘラン政府軍の攻勢によって「イラン・ソヴィエト共和国」は瓦解させられた(一九二一年)。そして一九二三年にはレザー・ハーン内閣が成立し、一九二五年、国民議会がガージャール朝の廃絶を決議し、レザー・ハーンが国民議会から推戴されるかたちでレザー・シャー・パーレビーとして即位した。
こうして、戦間期にパーレビー朝イランが生まれた。レザー・シャーは、近代的編成と装備を備えた国軍を創設し、公務員法にもとづく官僚機構の整備、司法の非イスラム化=西欧化をはかり、遊牧民の強制的定住化などを進めた。その背景には、ササン朝時代の賛美に見られるように、イスラム化以前に回帰しようとするイラン・ナショナリズムがあった。一九三五年、イラン外務省は、ヨーロッパによって名づけられた呼称である「ペルシャ(人)」を「イラン(人)」に変更するよう諸外国に要請する通達を出した。
第二次世界大戦が起きると、イラン政府は直ちに中立を宣言した。しかし、ドイツ軍との対抗で、北部イランにはソヴィエト赤軍、ペルシャ湾からはイギリス軍が進駐した。両軍がテヘランの目前にまで迫ると、レザー・シャーは退位し皇太子(モハンマド・レザー)に帝位を譲った(一九四一年)。そして一九四三年九月にドイツに対して、一九四五年三月に日本に対して宣戦布告した。
レザー・シャーの退位によって二〇年間続いた独裁体制に終止符が打たれ、出獄した左翼活動家五三人のうち二七人が中心になってトゥデー(大衆)党が結成された(一九四一年)。また、同党のイニシアティブのもとで労働運動が大きな発展を見せ、一九四四年のメーデーに四つの労働組合が合体してイラン労働者統一中央連合評議会(CCFTU)が結成された。(つづく)

7.29「安倍内閣の暴走止めよう」集会

「退陣」訴え2000人

長蛇のデモが栄を席巻


 【愛知】七月二九日、名古屋市栄の久屋公園ひかりの広場で、「安倍内閣の暴走止めよう―集団的自衛権・戦争法制を許さない!普天間基地撤去・辺野古新基地建設は中止!7・29あいち集会・デモ」が行われた。
 主催は「安倍内閣の暴走を止めよう共同行動実行委員会」で七月に入ってから三度目の連続集会デモであった。すべて平日の夕方に行われたが参加者は、七月一日が一〇〇〇人、七月一四日が一五〇〇人と増え三度目の本集会には二〇〇〇人を超える労働者、学生、市民が結集し、戦争法反対の声がとどまることなく拡大していることを証明する集会となった。

憲法無視の政権
は今すぐヤメロ
午後六時過ぎから仕事帰りの労働者が続々とひかりの広場に結集してくる。会場入り口ではさまざまな市民グループや労働組合がそれぞれの主張やイベント案内などのビラを配布し、参加者の手に渡されていく。労働法改悪反対を訴えるビラや、笹島越冬実の炊き出し会場の公園からの締め出し阻止、八・九脱原発名古屋デモへの参加を呼びかけるビラなど、各分野で闘う諸団体のビラが集会参加者に配布され、会場の雰囲気を大きく高めた。
午後六時半ちょうどに司会が開会を宣言し集会が始まった。主催者を代表してあいさつに立った中谷雄二さんは、強行採決の直後に安倍首相が「国民は理解していない」と発言したことに対して「国民はこの法案は何なのか十分に理解したうえで反対の声を上げているのだ」と語気を強くして語った。

元自衛官が
闘いを訴える
さらに礒崎首相補佐官が講演で法的安定性など関係ないと放言したことを厳しく弾劾し、中国の脅威、北朝鮮の脅威だけを宣伝して情報操作を計り、必要性については何も伝えず議論もしないことを指摘し「これでどうやって国民に理解しろというのか?憲法も法律も関係ないと主張するような安倍内閣は即時退陣せよと、今こそ声を上げなければなりません」と欺瞞的な国会答弁を繰り返す安倍政権を批判して主催者あいさつとした。
発言は続いて名古屋NGOセンター理事長の西井和裕さん、宗教者(キリスト教)の竹谷基さん、元自民党県会議員で弁護士の梅村忠直さん、名古屋高教組委員長の小島俊樹さん、「命どぅ宝あいち」の喜久山アコさん、元自衛官の水上学さん、若者グループの「STOP IT ABE」実行委員会の谷本麗之さんらが、それぞれの闘いの取り組みを報告し、戦争法案絶対阻止の決意を語った。
最後に赤地に白文字で「憲法守れ」「安倍やめろ」と書かれた前回配られたものよりも大きめのプラカードを参加者全員で手に掲げ「安倍政権退陣!」「戦争したがる総理はいらない」と元気よく声を上げて戦争法案絶対阻止、安倍政権打倒の決意を誓い合った。
集会終了後、参加者は隊列を整えてデモ行進に出発した。コースは同じだが二〇〇〇人ともなるとかなりの長蛇になり、沿道からの注目もひときわ多かった。またこの集会、デモには民主党もノボリ旗(戦争法反対ではなく『歯止めなき派兵反対』だったが)をもって複数参加した。

労働組合は闘い
の先頭に立て!
集会の発言やデモでもあったように、戦争法反対の闘いの現場に保守層も加わり、参加し始めている。国会をとりまく中央での闘いはもとより、全国各地方で粘り強く行われた闘いと共同行動拡大の実現が保守層を揺さぶり、動かざるをえない状況を作り出したといえる。すでに安倍政権の支持率は下落の一途をたどり、戦争法反対の声は上がり続けている。
労働者民衆の闘いがここまで追いつめたのだ。現在、闘いは市民グループによる主導で行われており労働組合が中軸を担うという形にはなっていない。安倍政権は労働法改悪もめざしており戦争法とつながるものであり、労働組合こそが戦争法反対の闘いの中心に据えられなければならない。また安倍政権や右翼勢力が吹聴する「中国脅威論」の欺瞞を暴く闘いも重要である。中国労働者との団結をめざす国際連帯の旗を掲げた階級的労働運動の構築は絶対的急務である。急速に発展、拡大する戦争法案反対、安倍政権打倒の闘いにおける成果を継承しつつ、一方で限界はどこにあるかを見据えて今後の課題に取り組もう。 (越中)



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