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    かけはし2015.年8月31日号

錯綜しつつ連動を深める中東・北ア
フリカ情勢について考えるために



IS(「イスラム国」)に関する基礎作業ノート(3)


岩田 敏行


(2)トルコ・イラン・エジプトでの「立憲運動」の性格、および中東・北アフリカ地域の全面的植民地化とその特徴点

(2)―3
 エジプト


ナイル川に依存する水利社会という性格を持つエジプトは、比較的等質的な住民構成をなしていた。一八世末にマムルーク朝が倒され、オスマン帝国の属州になったが、実質的には土着化して徴税請負人になったマムルークたちが支配していた。この地はナイル川を上って紅海からメッカに向かう巡礼道であり、隊商道でもあった。一七九八年、ナポレオン軍に一時占領されたが、これが「自分たちはエジプト人」とする意識形成のきっかけになった。
一八〇五年にムハンマド・アリーがオスマン帝国エジプト州総督の地位に就き、ここからエジプトは一方でオスマン帝国からの自立、他方でイギリス帝国主義による植民地化という道を歩むことになる。たとえば一八一三年には徴税請負人制の廃止、農地の国有確認、土地税制の実施などが行われた。その一方、一八六八年にスエズ運河が開通した(スエズ運河株式会社が運営し、その大株主はエジプト政府とフランス政府)。
ナイル川がもたらす豊富な農業資源を有していたにもかかわらず、エジプト経済は綿花栽培に特化したモノカルチャー型構造を強いられた。アメリカ南北戦争(一八六一―一八六五年)によるアメリカからの綿花輸出停止は、国際綿花市場における綿花価格を高騰させ、エジプト経済は繁栄した。だがそれも長く続かず、一八六二年にエジプト政府は初めて外債を発行し、一八七五年にはスエズ運河株をイギリスに売却した。それでも足りず、翌一八七六年にはイギリス・フランスによる国際管理下におかれることになる。
これに対して、一八七九年にワタン(祖国)党が結成され、民族運動が開始された。そして、一八八一年、内閣解任、議会招集、軍隊増強などをかかげて武装蜂起した(「オラピー革命」)。だが、翌一八八二年にはイギリス軍によって鎮圧され、以降、エジプトはイギリスの単独軍事占領下におかれることになる。

(2)―4 
サウジアラビア


イスラム原理主義の源流は、一八世紀中葉のワッハーブ派運動に求めることができる。一七四四年、イブン・アブドゥールワッハーブがサウド家と協力して第一次ワッハーブ王国(サウド朝)を成立させた。そして、ナポレオン軍のエジプト占領によるこの地域全体におよぶ政治的大混乱の中で、オスマン帝国ヒジャーズ州にあるメッカ(一八〇三年)、メディナ(一八〇四年)をその支配下においた。この状態は、一八一八年にムハンマド・アリーのエジプト軍によって崩壊させられるまで続いた。
二〇世紀に入り、第二次サウド朝が復興した。その主要な武力は、出身部族への忠誠に代わってワッハーブ派の教義に殉じようとして入植した武装アラブ遊牧民(イフワーン=兄弟=「同胞団」)であった。一九二六年、イブン・サウド家はメッカ、メディナの守護者たる国王であることを宣言したうえで、一九三〇年にはイフワーン(ワッハーブ派武装部隊)を正規軍によって粉砕した。ちなみに、イフワーンは、武器を含めて近代的な発明をいっさい拒否する立場を崩さなかった。
一九三二年、「イブン・サウド家によるアラブ」を意味するサウジアラビアという国名に変更された。「サウジアラビアはワッハーブ派」とよく言われるが、その実態は、サウド家が王国の経済・国防・外交政策に対する支配権を確保し、その一方で、宗教・教育・日常生活の決まりに関する決定権をワッハーブ派宗教機構に委ねるというものである。サウド家が国家を独占する状態を、ワッハーブ派宗教機構がイデオロギー的に支えるのである。そのように国家と宗教は完全に一体ではなく、ある程度の分業のもとにある。このことは、アルカイダのウサマ・ビンラディンとサウド家の関係など、イスラム原理主義の実態について理解するうえで、重要な示唆を与える。
同時期の一九三三年、アメリカの石油会社カリフォルニア・スタンダード・オイル社が、ライバルであるイギリスを破ってこの地の石油利権を獲得した。同年、アメリカ政府はサウジ王国と外交関係を樹立した。これが、今日まで続く中東・北アフリカ地域に打ち込まれたアメリカ帝国主義の楔であるとともにこの地域における反動の拠点としてのサウジ王国の始まりとなった。

(2)―5中東・北アフリカ地域の全面的植民地化とそこでの特徴点


「立憲運動」を経験したトルコ、イラン、エジプト、そして「元祖イスラム原理主義」としてのサウジ王国は、戦間期において相対的に独自の道を歩んだとはいえ、第一次世界大戦前後から第二次世界大戦終結までの時期、中東・北アフリカ地域全体で植民地支配が完成されていった。
そこでのいくつかの特徴点を書き記しておく。

(a)植民地支配に対する人民反乱は続いたが、多くは散発的なものに終わった。
その理由として、この地域の住民は諸々の部族首長のもとで分断支配されており、しかも多くの部族首長と特権層は自分たちの特権を保証してくれる帝国主義の支配を受け入れていたこと、さらにそれを巧みに利用した帝国主義の分断政策などがあげられよう。ただし、二つの反乱については特筆されなければならない。
そのひとつは、「リーフ戦争」(一九二一―二六年)。これは、「スペイン領モロッコ」のリーフ地方の反乱で、一九二三年にスペイン軍を撃退し「リーフ共和国」樹立の宣言にまでいたったが、一九二六年、二〇万ものフランス・スペイン軍によって崩壊させられた。
もうひとつは、一九三六―三九年の「パレスチナ・アラブ反乱」。現在「パレスチナ」と呼ばれているのは、第一次世界大戦後の一九二〇年にシオニストの要求に従って、イギリスがトランスヨルダンから「委任統治領パレスチナ」として切り取った地域のことである(オスマン帝国時代の「パレスチナ」は、トランスヨルダン以上に広大な地域をさしていた)。この地域には、すでに一八四〇年代から主にロシアのポグロムから逃れてきたユダヤ人が入植し始めていた。それは、アラブ人を雇用するプランテーション型の農業経営から、ユダヤ人自身の労働による共同社会の形成(「労働シオニズム」)に変化していった。この地もまた大土地所有制のもとにあり、一九四五年までにシオニストに売り渡された土地の九〇%近くは、不在地主のものであった。さらに、電力会社、死海の製塩、化学工業などにユダヤ資本が投下され、産業開発が進められた。こうした利権を与えたイギリスは、「フサイン・マクマホン書簡」「サイクス・ピコ協定」「バルフォア宣言」という三つの互いに矛盾した「約束」をしていた(「三枚舌外交」)。
こうして、一九二〇年にはヒスタドールト(ヘブライ人労働総同盟)、およびイスラエル国軍の基礎となるハガナ(防衛軍)が結成された。他方、一九三二年にはアラブ主義をかかげる「独立党」が結成されるなど、パレスチナ独立民主政府の樹立とユダヤ人入植の禁止、土地売却の禁止を要求する大衆運動が高揚していった。こうしたなか、一九三五年、土地を奪われた貧農のゲリラ部隊の指導者、シャイフ・カッサームが委任統治政府警察によって殺害された。一九三六年、「カッサーム同胞団」とハガナが衝突し、そのなかで結成された「アラブ高等委員会」がゼネストを指令するなど、各地で武装闘争が始まった。これに対して、イギリスは二万の兵力を投入して鎮圧した(一九三九年)。今日の「パレスチナ問題」は、まずこのようにして始まった。

(b)植民地経営の一環として進められた開発と産業化のもとで、労働者階級が成長していった。
この時期には、それぞれの国家(王国)の領域が国境線で画され、自動車道路が整備されていった。それにともない、隊商交易は消滅していく。それとともに、定住化した遊牧民は農業労働力として吸収されてく。こうして、都市民・農民・遊牧民からなる伝統的な社会構成は激変していった。
たとえばイギリスは、植民地経営の一環として、イラクではティグリス・ユーフラテス川の灌漑開発、スーダンでは綿花栽培のためのナイル川上流域の灌漑開発を進めた。大地主でもある商人・宮廷政治家・部族長など王家を支える特権層は、こうした灌漑開発の恩恵に浴し、当然のごとく植民地支配を支える勢力になった。他方、エジプトなどではある程度の民族資本の形成が見られ、地主層の投資による「ミスル銀行」などが創設され、綿工業をはじめとする産業振興が進められた。
こうして民族資本の成長のもとで労働者階級が成長しはじめ、「パレスチナ・アラブ反乱」に見られるようなアラブ民族運動の基盤を形成していった。

(c)帝国主義による分断支配の道具として、宗教・宗派の違いが徹底的に利用された。
その典型的な例をレバノンに見ることができる。オスマン帝国の中央権力がおよばなかったレバノン山岳部には、マロン派キリスト教徒、ドゥルーズ派イスラム教徒、オルトドクスキリスト教徒などが住み分けていた。これらの宗教集団は、各地に割拠する宗派の支配者でもあり領主でもある名望家の領袖たちによって統括されていた。
ただし、それぞれの宗教集団は一枚岩ではなく、宗派内部での名望家間の抗争は絶えなかった。この抗争は農民の領主層への反抗と結びつくことになり、農民蜂起が領主の追放にいたることも少なくなかった。だが、領主が宗派の支配者でもあったために、農民と領主の間の対立があたかも宗教・宗派の間の対立であるかのように見えた。さらにここにフランスがマロン派に、イギリスがドゥルーズ派に、ロシアがオルトドクスに加担することによって、地域紛争は国際紛争の様相を呈することになった。
第一次世界大戦後、この地の「統治者」となったフランスは、マロン派が多数を占めるレバノン山岳部にベカー高原とベイルートなどの海岸地帯を編入し、「大シリア」から切り離して「大レバノン」をつくった。新たに編入された地域の住民はムスリムが多数を占めており、宗派対立が構造的に組み込まれることになったのである。この「大レバノン」は、「レバノン共和国」として名目上独立したが(一九二六年)、この時公布された憲法によって国会議員を宗派ごとに割り当て、宗派ごとに権力を分散する「宗派体制国家」にされた。フランス帝国主義は自ら「庇護者」として振る舞う機会を得るために、この地を絶えず不安定な政治状況におくことを望んだ(フランスがナチスに占領されてからも、この地は「自由フランス軍」の統治下におかれ続けた)。実際、レバノンは今日にいたるまで絶えず不安定な状態にある。宗教・宗派の違いがそのまま自動的に深刻な社会・政治対立になるのではなく、帝国主義あるいは支配的勢力が自らの都合に合わせて宗教・宗派の違いを利用してきたのである。
それは、全体として「イスラム共同体」という性格をもって成立している社会を分断しモザイク化しようとする帝国主義の側の意図であり、それに「イスラム共同体」をもって対抗しようとするのもごく当然のことといえよう。「進歩的民族主義」と「反動的民族主義」を区別しなければならないのと同様、抑圧された人々が自らのアイデンティティを宗教というかたちをとって表現しようとする「進歩的宗教主義」と、反帝国主義へと政治的に前進しようとするのを抑えようとする「反動的宗教主義」は、はっきりと区別されなければならない(その色あいや程度の違いも含めて)。

(d)戦間期に、この地域に豊富な石油埋蔵が予測されるようになった。
すでに見たように、イギリス資本が最初の油井を掘り当てたのが一九〇八年で、三年後の一九一一年には「油田地帯確保」を名目にイラン南部にイギリス軍を進駐させた。さらに、サイクス・ピコ秘密協定でフランスに帰属することになっていたモスルを中心とするイラク北部は、石油埋蔵が予測されたため、イギリスの「委任統治領」に組み込まれた(実際、一九二七年にイラク北部で油井が掘り当てられた)。また、一九三二年にはバーレンで石油が出るなかで、一九三三年にはアメリカ資本がサウジの石油利権を確保し(実際に石油が出たのは一九三八年)、サウジとアメリカ帝国主義の関係を深めることになった。さらに、クウェートでは一九四六年に石油が出た。だが、莫大な石油収入はほぼ現地の人々に還元されることなく、帝国主義とつながる一部の特権層に独占されることになった。この状況は、第二次世界大戦後により顕著になっていく。
ちなみに、「近東」「中東」「中近東」という言葉は、第二次世界大戦中から使われるようになったと言われている(最近では、「近東」「中近東」という言葉はあまり見られなくなっている)。「近東」「中東」「中近東」という言葉は、「石油が出る地域」と同義のものとして、「石油」に対応して必要になったといっても過言ではないだろう。日本でも、この地域の出来事は、そこに暮らす人々の惨状に無関心なまま、ほとんどの場合、当然のように「原油価格の上下」への関心だけが報じられる。

(e)この地域に社会民主義政党が根づいたことは一度もなく、十月革命の影響のもと、ボリシェヴィキの意識的働きかけをつうじて形成され始めた共産党も、第二次世界大戦中にとられた「人民戦線」路線(帝国主義とつながる民族資本との協調路線)によってほとんど壊滅してしまった(このあたりの状況は、ナタン・ワインストックの『アラブ革命運動史』に詳しい)。そのため、この地域の人々の多くにとって社会民主主義も共産主義も「信用ならないもの」になってしまった。われわれは、ここから出発するしかない。アラブ民族主義もイスラム原理主義も、こうした大きな負の根っこの上に生育したのである。(つづく)



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