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    かけはし2015.年9月7日号

錯綜しつつ連動を深める中東・北ア
フリカ情勢について考えるために



IS(「イスラム国」)に関する基礎作業ノート(4)

岩田 敏行


 

(3) 4次にわたる中東戦争を通じたアラブ民族運動の敗北とイスラム原理主義の復活

(3)―1
第1次中東戦争

 第二次世界大戦の終了とともに、シオニストはパレスチナの地におけるユダヤ人国家の独立の承認をイギリスに求めた(イギリスはそのように「約束」していた)。だが、これが拒否されると武装闘争の道を選んだ。シオニストの軍は、大戦中に連合軍に従軍し実戦経験を積んだ三万人のハガナを中心にして、一九四八年には六万人規模に拡大していた。そして一九四八年、イギリス軍撤収の機に乗じて一挙に主要都市を占領し、五月一四日にイスラエル建国を宣言した。
これに対してエジプト・シリア・ヨルダン・イラク王国軍(「アラブ連合軍」)が戦いに挑んだが、イスラエル軍の前に敗退した。そして、イスラエル軍の占領を免れたヨルダン川西岸地区(西エルサレムを含む)をヨルダン王国軍、ガザ地区をエジプト王国軍が占領した。これにより、大量のパレスチナ人が難民になることが強制された。
これが第一次中東戦争(パレスチナ戦争)の結末であった。アラブの王国それぞれにとって、パレスチナの地に対する領土的野心はあっても、パレスチナ解放という政治目標は皆無に等しかったといわざるをえない。

(3)―2
第2次中東戦争


エジプトでは、一九五二年、ナセルを中心とする「自由将校団」が国王を追放し(ムハンマド・アリー朝の消滅)、翌一九五三年に共和政に移行した。そして、一九五六年にスエズ運河の国有化を宣言した。これに対してイギリス、フランス、イスラエルが対エジプト戦争を開始した。戦争はイスラエルによるシナイ半島占領という結果をもって終わった。
第二次中東戦争(スエズ動乱)の結末はこのようなものであったが、これを機にナセルはアラブ民族運動の指導部へと押し上げられた。

(3)―3 第3次・第4次中東戦争


一九六七年の第三次中東戦争は、イスラエルの奇襲空爆によって六日間で終わり、イスラエルはシナイ半島、東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区、ゴラン高原を占領した。
さらに一九七三年、エジプトはシナイ半島奪回めざしてスエズ運河渡河作戦を敢行し、シリアはゴラン高原奪回のために攻撃をしかけた。一時優勢に立ったアラブ軍ではあったが、アメリカ帝国主義の全面的な後押しを得たイスラエル軍に敗北した(第四次中東戦争)。
第二次世界大戦を経て国際帝国主義の中心はイギリスからアメリカに移行しており、このころすでにイスラエルはアメリカ帝国主義によってこの地域に打ち込まれた帝国主義の楔となっていた。アラブ民族運動の敗北は決定的になり、その戦いはパレスチナ解放運動一身にかかることになった。また、アラブ民族運動の敗北を契機にして、さまざまなイスラム原理主義運動が復活していくことになる。

(3)―4 
アラブ民族運動

 一九五〇年代後半から一九六〇年代前半にかけて、アラブ民族運動は高揚した。一九五四年、アルジェリア民族解放戦線(FLN)が武装蜂起し、一九六二年にフランスからの独立を達成。一九五七年、チュニジア制憲議会が王政の廃止と共和国樹立を宣言。一九五八年、エジプトとシリアが合邦し、アラブ連合共和国が成立(一九六一年まで)。同年、イラクで「自由将校団」が蜂起し、王政を廃止して共和政を樹立。一九六四年にはナセルの主導のもとでパレスチナ解放機構(PLO)結成……。
このアラブ民族運動は、大衆運動に徹底して依拠してソ連邦労働者国家との結びつきを深めていくならば、反帝国主義闘争へと発展していく可能性をはらんでいた。だが、これらの指導部は「反王政」ではあっても民族資本の利害関係に縛りつけられており、政治的自由と複数的政治を保障する民主主義に背を向けるものであった。それは国際的には、「非同盟中立」(一九五五年の「バンドン会議」)の立場として貫かれた。
これらの指導部の政治的性格は(シリアとイラクで形成されたバアス党も含めて)、すでに見たケマリズムとほぼ同一のものであったということができよう。つまり、民主主義を根底から拒否する一種のボナパルチズムである。

(3)―5 
イスラム原理主義


ワルシャウスキーは『国境にて』の中で、シオニズムはユダヤ教ともユダヤ性ともまったく無関係であるにもかかわらず、ユダヤ教やユダヤ性を徹底的に政治的に利用した帝国主義イデオロギーであることを、自身の苦闘の経験を通じて明確に描き出している。
同じことは「イスラム原理主義」と言われている運動についてもいえる。イスラム原理主義運動は、その言葉だけをとりあげれば、徹底してイスラムに忠実であろうとするかのような感を与える。だが、これは、宗教運動ではなく、イスラムを徹底的に利用した政治運動である(アメリカの極右である「キリスト教原理主義」をもじって「イスラム原理主義」という言葉が使われるようになった経緯がある)。
ムスリムが住民の大多数を占める国では、ウラマー(イスラム法学者=ムスリム知識人)やシャリーア(イスラム法)法廷が伝統的社会の内部に深く埋め込まれている。そのため、イランにおける「立憲運動」で見たように、イスラム護持派が登場することはある。だが、そのような傾向は強力な保守勢力ではあっても、イスラム原理主義とはいえない。
イスラム原理主義運動は、総じて七世紀にイスラムが成立した時代(日本で言えば奈良時代で、政治的自由、民主主義、人権・女性の権利などが世界のどこにも存在しなかった時代である)と同じ規範にもとづく生活に回帰することを主張する(とはいえ、ISはワッハーブ派とは違い、ためらうことなく近代兵器を使用する)。また、すでに見てきたように、ほとんどのムスリムは植民地化され抑圧されさまざまな権利を剥奪されるという経験を共有している(植民地支配を支える勢力は常に存在していたとはいえ)。こうした経験をもとに、イスラム原理主義は「反米」「反イスラエル」といった「反外国人勢力」という立場に立つことはあっても、反帝国主義の立場に立つことはない(「反外国人勢力」と「反帝国主義」はかならずしも鮮明に区別できない場合がある。労働者階級の運動が弱い場合は、資本と労働の闘争関係が不明瞭になるがゆえに、とりわけそうである)。さらに、一三〇〇年以上も以前の暮らしに回帰することなど不可能であるため、イスラム原理主義運動が国家権力を取ったとしても(「アラブの春」でのエジプトの「ムスリム同胞団」がそうであったように)、暴力的破壊には有効であっても、国民全体(少なくともその重要な部分)を統合する路線を提示することはできない。
ただし、このことだけで、イスラム原理主義運動が必ず暴力的で反動的あるいは反革命的であることを意味するわけではない。それは、ブッシュを思い起こすまでもなく、クリスチャンがかならずしも平和的で進歩的ではないのと同じである。
イスラム原理主義運動の復活・台頭の背景には、ムスリムにとって絶望的と感じられる過酷な現実があるが、その状況に応じてイスラム原理主義運動の性格も異なってくる。たとえば、一九二九年にエジプトで結成された「ムスリム同胞団」は、民生・医療・福祉・教育などに大きな力を注ぐことによって支持基盤を拡大し、イギリス帝国主義と結びついていた国王の追放までは「自由将校団」と行動をともにしていた(一九五二年)。しかし、ナセルがアラブ民族運動の指導部の位置に押し上げられ、ソ連邦と結んで反帝国主義の道に進む可能性が見え始めると、それに強力なブレーキをかけた。
一九五四年、「ムスリム同胞団」はナセル暗殺を試みた(未遂に終わった)。また、ハマス(「ムスリム同胞団」パレスチナ支部を母体にして一九八七年に結成)もまた、民生・医療・福祉・教育活動などをつうじて支持基盤を拡大した。そのうえで、二〇〇六年の立法議会選挙で過半数の議席を獲得した。この背景には、「オスロ合意」(一九九三年)を経て一九九六年に形成されたパレスチナ自治政府が、イスラエル占領軍を補完する抑圧的役割をはたしていることがあげられる。イスラエルを含む「外国勢力」に対しても、自治政府内の屈服的で腐敗した勢力に対しても抵抗する力としてハマスは大衆的に押し上げられた。とりわけイスラエルに包囲されアパルトヘイト化されているガザ地区で大衆的基盤を拡大すればするほど、ハマスはそのイスラム原理主義をさらに強化するか、それとも薄めるかの岐路に立たされ続けることになるだろう。
さらに、ヒズボラ(イスラエルによるゴラン高原占領に抵抗する勢力として一九八二年に結成)もまた、レバノン国民議会内にシーア派枠で議席をもっている。ヒズボラの影響力はレバノン南部に限られているが、一九九六年に開始されたイスラエル軍によるレバノン南部への攻撃では、イスラエル軍は甚大な損害を受け、二〇〇六年に停戦にいたった。
なお、ハマスとヒズボラに関するこのあたりの状況は、アシュカルの『中東の永続的動乱』に詳しい。
また、当然のことながら、それぞれのイスラム原理主義運動はそれぞれの国境内部で成立しているわけでなく、パレスチナ人の「庇護者」であるかのように振る舞うシリア、ヨルダン、この地域に覇権を打ちたてようとするイラン、サウジ、さらにはアメリカ帝国主義による「敵の敵は味方」といったプラグマチックな政治対応などに関連づけられながら成立している。(つづく)

8.26

安保法案廃案へ! 

弁護士・学者が総決起

「立憲主義を守りぬくぞ」



4000人が
国会パレード
 安保法案廃案を求める声が、日本各地で社会のさまざまな層からあげられている。この中で八月二六日、各地の弁護士と学者の代表が共同の記者会見を連ね同法案の廃案をアピール、さらに市民や学生などにも呼びかけ、夕刻から、日本弁護士連合会主催の下に日比谷野外音楽堂での「安保法案廃案へ! 立憲主義を守り抜く大集会&パレード〜法曹・学者・学生・市民総結集!〜」と銘打った大集会を開催した。
 この日は、突如の極端な気温低下と時折の小雨という悪条件。しかしこの大集会には、全国からかけつけた弁護士と学者を中心に主催者発表で四〇〇〇人がつめかけ、民主党、日本共産党、社民党の国会議員も交えて、廃案をめざす各層の決意が悪条件を吹き飛ばす熱気の中で交換され共鳴を高めた。一部の参加者は、会場に入りきれないことを見越してデモに向け会場外に待機、集会終了を待たずデモに出発した。

独裁への危機
に警鐘を乱打
午後六時三〇分から始まった集会では、村越進日弁連会長の「立憲主義の対極である安保関連法案を全力で廃案に持ち込み、戦後最大の危機に立たされた立憲主義を守り抜こう」との主催者あいさつに続き、学者、弁護士に町田ひろみさん(安保関連法案に反対するママの会)や奥田愛基さん(SEALDs)を加えた一一人がリレートーク。ここでは、各人各様の観点に立ちながら、廃案への熱い思いが個性溢れる語り口で訴えられた。
その中で学者、弁護士から、特に安倍政権による立憲主義破壊への強い危機感が表明され、一人一人が主権者として行動する時だと力説されたことが印象的だった。
たとえば東京大学名誉教授の上野千鶴子さんは、自民党憲法草案には九章として緊急事態規定、つまり独裁が準備されていると紹介しつつ、「今回の安保法案とそれを推進する安倍の手法にそれが端的に表れた。大学、メディア、外国人を攻撃することを含め、ナチス成立時と同じことが今進んでいる」と警鐘を鳴らし、今こそ立つ時と全国の大学有志が立ち上がっている、何としても安倍を葬りたいと決意を語った。あるいは同じく東京大学の石川健治教授も、安倍の手法をクーデターと断じ、立憲主義が徳俵にかかっていると、危機の深さを訴えた。
そして、この危機感をバネに勇気をふるって立ち上がった、創価高校を含め関係者一五五七人の賛同を基礎に誇りをもって闘い抜く、と語った創価大学教員の佐野潤一郎さんには、会場から万雷の応援の拍手が送られた。

こんな社会で
いいのか問う
一方町田さんや奥田さんからは、自分たちの感性に発する思いの直截な訴え。町田さんは、子どもを殺し殺される場には立たせない、世界中のママと一緒にそうはさせないと力を込め、奥田さんは、強く大きな希望を持ちつなぐことで安倍に立ち向かい、こんな社会でいいのかを問い続けたいと決意を語り、会場にまた別の感動を与えた。
そして集会参加者は、これらの発言であらためて強められた絶対廃案の思いを国会に届けるべく直ちにデモへと移ったが、この日のデモは特に、各県弁護士連合会の旗や、全国の大学有志の会の旗が延々と連なった点で、戦争法案反対の声の社会的広がりをもう一つ感じさせるものとなった。(谷)

【訂正】本紙前号(8月31日付)3面投書欄の「二〇一五年八月二日」を「二〇一五年八月一日」に、5面8・10集会記事最上段右から6行目の「JR西日本書記長」を「JR西日本労組書記長」に、8面下から3段目右から30行目の「一切し対応」を「一切対応」に訂正します。


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