もどる

    かけはし2015.年9月14日号

独立独歩の反対派―區龍宇


インタビュー(上)

「一人道を行き、深く思索する」


ここに掲載した區龍宇さんへのインタビューは、香港のウェブメディア「端傳媒」八月一四日に掲載されたもの。インタビュアーは昨年の「雨傘運動」で運動をリードした学聯執行部の一人、鍾耀華さん。九月一九日東京で行われる出版記念講演会に来日する區龍宇さんの闘いの歩みと思想を知るために、インタビューを掲載する。(編集部)


 二〇一五年六月四日夜、ビクトリア公園の追悼ステージで基本法を燃やして基本法改正を訴えた学生たちの行動をめぐり論争が繰り広げられた。多くの学者や議員はその行為を批判した。学生たちを支持する意見は少なかった。当事者の学生らも、その後に反論することもほとんどなかった。
 「基本法ははじめから制定され直さなければならない! 基本法を神聖不可侵なものと考え、ことあるごとに基本法を持ちだして民主化闘争の理論的根拠にしようとすれば、それは同じように有害なミスリードなのである。われわれの基本的な要求の方向性は、基本法の民主的再制定を要求することであり、基本法の条文に従って民主化闘争をすすめることではないし、基本法が定める手続きに沿って基本法を改正することにも反対だ」。
 これは上記の学生たちによるものではない。しかもいま言われたことでもない。これは一九九七年に独立政治論評雑誌の『先駆』に掲載された「基本法を再制定しなければならない幾つかの理由」という文章の一部である。筆者は區龍宇。
 トロツキストである彼の主張は、長年のあいだ嘲笑と皮肉の対象であった。かつてトロツキストとみなされた者は周辺に追いやられていた。私は彼に対して、七〇年代から八〇年代初めにかけての青春時代を言い表すとしたらどのようになるかと聞いた。

 「八文字で言うと……」
声に合わせて数える。

 「??獨行、深深思索(一人道を行き、深く思索する)、かな(笑)」。

最初の政治的覚醒

 今年五八歳になる區龍宇による十数年前の批判は、今日においても鏗鏘(こうそう)としている。しかし彼の政治主張は、長年にわたって無視され続けてきた。
細身で白髪交じり、銀縁のめがねの奥からのぞく瞳、そして満面の笑顔を帯びている。この笑顔のうらには厳しい鍛錬の経歴がうかがわれる。
一九七一年、彼は一四歳の中学生だった。一九七一年七月七日、学聯が呼びかけた「釣魚台防衛の研究および行動委員会」に対して警察は公営テニスコートで集会を開くよう要請したが、学聯は当初の予定通りにビクトリア公園でのデモ行動を堅持した。数千人がビクトリア公園のデモ行動に参加したが、当時の社会にとってそれは大きな事件となった。

 「植民地政府は数千人のデモ隊を弾圧しました。ウォーリー警司(日本の警視に相当)に率いられた警棒部隊によって頭部を殴られて流血の負傷者が続出しました。これが市民大衆の怒りに火をつけました」。

 翌日の新聞の記事を読んで憤った彼は、学聯に赴いて何か力になれないかと申し出た。学聯では保釣運動(釣魚台防衛運動)の高校生チームを組織していたことから、彼はそこでパネル展示やチラシの配布などを手伝った。これが彼の最初の政治経験になった。
保釣運動への弾圧に憤った一四歳の少年が、政治雑誌にも関心をもったのは当然のことだった。『中国学生週報』は当時影響力のあった青年雑誌で、多くの人がこの雑誌から学んだ。

 「私を最初に導いたのは『中国学生週報』と言ってもいいでしょう。保釣運動に参加するまで、ずっと『中国学生週報』の読者だったんです。民主主義、中国近代史、五四運動などの記事がありました。五四運動の時代の文学者や漫画家、たとえば豊子トの漫画なども毎週掲載されていました。アメリカの「Peanuts」[スヌーピー]も掲載されていて、昔は白人の観点からだけの視点でしたが、その後はアフリカ系やラテン系の視点からの描写なども増えて、進歩的視野を広げてくれました。『中国学生週報』は私の民主的意識を育んでくれたといえます。潜在的に社会に対する関心を高めてくれていたのです」。
「植民地政府による暴力的弾圧は、反植民地主義的心理を喚起しました。これは私たちの世代の原初的な覚醒です。当時は、ハイクラスの中国系住民でなければ、植民地政府に対して何かしらの批判的心理を持っていました。たとえば私が目の当たりにしたのは、路上で鶏卵を売っていた売り子に対して、いきなり警察が無言で鶏卵の籠を踏みつけて、さっさとどこかへ行けと怒鳴っていた光景です。売り子は命令に従うしかなく、黙ってその場を立ち去っていきました。当時はそのような光景があちこちで見られたのです。植民地という状況を恨む心理は自然に芽生えてきます」。

 中国に返還された現在の香港社会に見られる、かつてのイギリス植民地時代を美化して懐かしむような雰囲気とは、全く違っていた。

トロツキストの主張

 一九七六年、區龍宇は高校を卒業し、社会に身を投じるとともに、「社会青年社」に正式に加入した。一九七八年には『十月評論』の雑誌組織と合併し、革命馬克思主義聯盟(革馬盟)を結成した。この組織はソ連の革命家トロツキーの思想を受け継ぎ著名なトロツキー派(トロツキズム)組織となった。梁國雄[社民連の立法議員]も当時はメンバーの一人だった。トロツキー派は七〇年代以降は厳しい状況に置かれた。

 「当時のトロツキー派の中国と香港に対する方針は、次の四つのスローガンに集約されていました。『反資本主義、反植民地主義、反官僚主義、社会主義的民主主義の実現』です。反官僚主義は中国共産党に照準をあわせたものです。トロツキー派は一九四九年の中国革命について間違っていたとは考えていません。革命を通じて地主階級を打倒し、農民に土地を分配することは必要だと考えていました。地主とは世襲の財産をむさぼっているだけであり、もしこのような地主経済の前資本主義的な搾取方法を一掃しなければ、国内市場のまともな発展はありえませんでした」。
「しかし、中国共産党の官僚支配と一党独裁は誤りです。民主主義革命の起点は、憲法制定議会を招集することです。イギリスでは一気に憲法が成立したわけではありません。一三世紀のマグナカルタから後の国会の権力にいたるまで、王権は制限を受けてきました。これは一種の立憲革命と言えます。フランスにしても、ドイツにしてもそうです。一八四八年にヨーロッパ全土で吹き荒れた革命もそうです。一九〇五年と一九一七年のロシア革命においても憲法制定議会の招集が要求として掲げられてきましたが、ロシアの皇帝はそれを拒んできたのです。しかし一九四九年の中国革命では憲法制定議会は招集されず、招集されたのは政治協商会議のみです。それは共産党と他の民主党派が一堂に会する党派間の会議であり、普通選挙によって選出された全権の会議ではなかったのです。結局、一九五四年に召集された第一回全国人民代表大会でやっと人民代表[議員]が誕生しましたが、その時にはすでに中国共産党がすべてをコントロールする状況になっていたのです」。
「トロツキー派の当時のスローガンは、社会主義革命の要求ではなく、『国民会議を招集せよ』というもので、民主革命の道へ戻り、普通選挙で選ばれた全権の国民会議を招集することでした。トロツキー派は一九二〇年代の誕生以来、一貫してこのような民主主義革命の原則を堅持してきました。ですから中国共産党による一切を代行しようとする革命のやり方には同意できませんでした。国民議会を通じて民主共同体の形成は実現可能だと考えたのです」。

 このような訴えが、中国のトロツキー派が中国共産党によって粛清される理由となった。一九五〇年代、中国共産党は「反共産党、反革命」を理由にトロツキー派を逮捕し、中国トロツキー派は徹底した弾圧を受けた。逮捕されたトロツキー派は公開裁判にかけられることなく、ほとんどが口頭で判決を読み上げられただけで、ごく一部が刑務所に収監された他は、ほとんどが労働改造所に送られた。一部は香港への逃亡に成功して、そこで地下出版物を発行して主張を宣伝し続けた。これが香港のトロツキー派の起源となる。一九七〇年代にこれらの亡命トロツキー派は五〇代を超していたが、香港では活発に執筆活動に従事していた。區龍宇はこのトロツキー派に属する「社会青年社」に参加した。
中国共産党に対するトロツキー派の立場は、やや苦しくないだろうか、と聞いてみた。つまり、中国革命の必要性には賛成するが、具体的な形式や中国共産党の支配の正当性に対しては反対するという、中国共産党に対する承認と不承認の間を揺れ動いているのではないか、と。

 「そうではありません。これは実事求是です。この世のものは白か黒かの二つだけに分けられるものではありません。常に矛盾があります。ヨーロッパの政治文化ではcritical support(批判的支持)という態度はよく見られることです。香港や台湾の政治文化はいまだに中華圏文化の悪いところを引きずっています。自分に賛成するか反対するかのどちらかだ、というものです。中国国内ではこのような考えはさらに深刻です。このような考え方は、汎民主派がバラバラであることの理由の一つでもあります。つまりcritical supportという視点がないからです」。

 このようなcritical supportの考えは、今日においてもまた七〇年代においても受け入れられてこなかった。

 「国粋派[中国派]はいうまでもなく私たちを攻撃しましたが、リベラル右派も私たちを攻撃してきました。後者は一九四九年の革命それ自体が問題であり、革命の必要はなかったと考えていたのです。もし革命に賛同するのであれば、地主に対するひどい弾圧にも賛成することと同じだという考えです。しかしわれわれは革命に賛同することと、『黒五類』(地主、富農、反革命分子、悪党、右派を指す)に対する不必要な弾圧や、その子どもたちの教育を受ける権利をはじめとする人権をはく奪するという差別とは、イコールだとは考えていません。必要なのは土地所有権の変更であり、人間を消滅させることではないのです。中国共産党の最大の問題は、スターリンによる一党独裁と中国の伝統的な皇帝の不寛容さを結合させたことにあります。国粋派による私たちへの批判もそうでした。私たちによるcritical supportを受け入れることができなかったのです。逆に私たちを、ソ連修正主義、スパイ、反革命、反中国、反共、反人民とののしりました。当時の『新晩報』、『大公報』、『文匯報』もすべてこのように私たちを攻撃しました」。

 一九七四年に工聯会[親中派の労働組合ナショナルセンター]が出版した『香港工人』のなかで、トロツキストは「反革命分子」「帝国主義の走狗」だと批判された。一九七五年、香港大学学生会は国粋派が掌握しており、「香港大学学生会通信」および「退官通信」に「トロツキストはいかに運動に介入しようとするのか」という文章を掲載し、トロツキストが学生自治会に浸透して学生を利用して政治目標を達成することで帝国主義に奉仕することを批判していた。また共産党系の団体による『盤古』と李怡が編集長を務めた『七十年代』誌ではトロツキスト批判が常に掲載されていた。右派の『華僑日報』の社説でもトロツキストが批判された。『明報』ではトロツキストがかかわったニュースは小さくしか報道されなかった。植民地政府は反対派をトロツキストだと非難して、かれらは社会を混乱に導こうとしていると批判した。

 「幸いにも香港はそれほど政治化した都市ではなかったので、学園内でどのような主張をしても自由でした。もちろんそれに対する攻撃はありましたが、学校の外に出れば関係ありませんでしたし、日常的な嫌がらせにあうこともありませんでした」。

 彼は軽やかにそう語った。

 大学時代

 理路整然と発言する區龍宇は、高校での成績が良くなかったことから、高校卒業の数年後にやっと大学に入学した。

 「予科[高校二年を修了したのちの大学進学コース]には行きませんでした。その数年(一九七六年前後)は社会の思想的危機の時代でした。社会運動は一九七一年の保釣運動のあとに停滞しました。一九七三年の汚職警吏ゴッパー追及運動ですこし盛り上がりましたが、やはり停滞していましたね。社会運動に参加していたので勉強する時間がなく成績もよくなかった。将来をどうしたものか考えたうえ、仕事を探すことにして、実家からも出て一人暮らしをはじめたのです」。
「仕事をする傍ら、革馬盟にも参加しました。しかし七〇年代末から八〇年代初めにかけて、メンバーとの意見の相違がではじめました。一部のメンバーは香港の革命情勢は高揚していると考えていましたが、私はそれほど楽観的ではありませんでした。かれらは香港の大衆運動が大きく後退していることを信じようとしませんでした。不幸なことですが私の方が正しく、彼らの方が間違っていました。私が勉学の道を進んだのもこれが理由です。真剣に闘争の方向性を思索したかったからです」。

 こうして一九八〇年から區龍宇は働きながら学校に通い、大学予科に進んで、浸會學院[バプテスト学院]に入学した。同校は九〇年に[大専から]大学に昇格している。彼は中文学科に進んだ。

 「当初、中文学科に進むつもりはなかったんです。植民地主義の影響があったのでしょう」。

 予科の時には歴史学科を希望していたが、担当の教員が彼に、アヘン戦争については公式の回答を書くようにアドバイスした。東西の文化的衝突が原因だった。つまりイギリスは植民地ではなく貿易を望んでいたが、中国が国際自由貿易を受け入れなかったので戦争に発展した、と。

 「教員は善意でわたしにそうアドバイスしたのです。そう答えなければ試験で不合格になるだろうと。しかし私は納得できませんでした。結局、中文学科を選びました。政治に左右されることはないですから」。

 そう説明した區龍宇だったが、それでも彼は政治生活から離れることはなかった。浸會学院の在学時に、彼は国是学会[親中の学生団体?]の幹事となり、さらには大学生学生会連合会(学聯)が一九八四年に組織した北京訪問団に参加して、中華全国学生連合会を訪問し、中国の経済、統一問題、香港の将来、そして学生運動について意見交換している。その一年前の一九八三年に学聯は初めて正式な訪中団を組織して、同じように中華全国学生連合会への訪問という名目で、実際には中国共産党の高官と接触して、学聯および香港大学と中文大学の香港の将来に関する意見書を手渡している。その基本的立場は、中国への返還を支持するが、香港人による民主的な香港統治を強調していた。そのとき魯平[中英交渉における中国側の代表]が学生代表に香港返還の一〇案を示したが、それは中国側が初めて明らかにした香港返還の具体的構想であった。
區龍宇が参加した二回目の訪問団ではすでに中国側の香港回収方針が実行に移されていたことから、前回に比べて重要な訪問団ではなかった。
一九八三年、區龍宇と新苗社の同志たちは[パンフレット]で香港人の自決権を訴え、中国による統治に問題を提起した。

 「学聯代表団は各学校の学生会長あるいは副会長から構成されていました。一五人の枠のうち二人が公募されました。学聯は中国共産党に批判的でしたが、学聯は返還を支持していたことから、中国政府の香港マカオ弁公室は統一戦線の対象として学聯をあつかっていました」。

 訪中団の費用はすべて中国持ちで、ホテルも食事も一級で、国賓級の待遇であった。公募に際しては論文と学聯会長による面接をクリアしなければならなかった。中国に対する認識をテストするためである。區龍宇は国是学会で活動した経験から、試験にクリアして訪中団に加わることができた。

 「北京では香港マカオ弁公室の高官と面会しました。彼らは私たちが返還を支持するように働きかけるとともに、イギリス植民地政府に警戒するようアドバイスしました。訪中団の接待にはかなりの贅沢がほどこされました。参加した学生全員がそう思っていました。香港マカオ弁公室による接待ではわざわざ料理長に料理の説明をさせていました。しかしその当時、中国では着るものにもこと欠く人民がまだたくさんいたのです。これは腐敗現象の一つだと言えます」。

 学聯は単に統一戦線の対象に甘んじていたわけではない。一九七六年に四人組が打倒された後、中国では多くの青年が文革や一党独裁を再検証し、北京西単の壁には政治批判の文章が張り出され、党への批判、人権の保護、民主政治の実現などを訴えるものもあった。西単の民主の壁は自発的な組織、刊行物、集会などを誘発し、のちに「北京の春」と呼ばれることになるこの民主化運動は、上海、天津、武漢、広州、西安などに拡大した。中共中央は最初は支持していたが、のちに力でこれを弾圧し、全国で数千数万の雑誌組織の活動家が逮捕された。

 「北京では学聯の会長と何人かがこっそりとまだ逮捕されていなかった民主化運動活動家やその家族を訪ねていました。あとから考えると、こっそりといっても、すでに当局は知っていたのだと思います。われわれを出迎えた北京代表団の担当者は二人いましたが、そのうちの一人は国家安全部門の人間だったに違いありません。当時は統一戦線の必要から、はじめて中国の返還を支持した香港の青年たちを統一戦線にひきいれる必要があり、利用する価値があったので、邪魔をしなかったのでしょう」。

 區龍宇の批判は、中国共産党だけでなく、汎民主派にも及んだ。
(つづく)





もどる

Back