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    かけはし2015.年9月21日号

独立独歩の反対派―區龍宇


區龍宇さんとのインタビュー(下)

「孤立」が育んだ思想の核



汎民主派の反対派

 大学を卒業した區龍宇は、中学校で中国語と中国史を教えた。いくつかの学校を転々としたが、最後まで教員を務めた。教職のかたわら、時事問題を扱う雑誌も二〇〇五年まで出版し続けた。市井の独立した、そして思想的にラディカルな雑誌を二〇年にわたって発行を維持してきたが、その大部分の費用はメンバーの会費によって維持された。區龍宇は長期にわたって執筆面と金銭面で貢献してきた。

 「大学卒業後に『新苗』隔月刊を創刊しました。後に『先駆』隔月刊と改称しました。思想問題を深く考え、左翼の立場から香港返還を批判し、香港人の自決を主張しました。もちろんその当時は誰も相手にしませんでしたが」。

 區龍宇は次のような批判をペンネームで執筆し、一九八六年の『新苗』隔月刊に掲載した。

 「実際のところ、中国共産党が当初から公言していたいわゆる『高度な自治』には大いに問題がある。中英共同声明では、行政の首長と高官は香港で選出された後、中央政府による任命を受けなければならないと定めているからだ。中国国内の各省市に高度の自治権はないが、行政の首長は人民代表大会で選出されたら中央政府の任命を改めて受ける必要はない。一方、高度の自治を謳う香港では、首長だけでなく政府高官でさえも中央政府の任命が必要とされる。いわゆる高度の自治の本質は、これで明らかということではないか」。

 それから三〇年近くを経た今日、中国国務院香港マカオ弁公室の王光亜主任は、ごく少数の民主派が中央政府に抵抗しているが、仮にこれらの「頑迷派」が行政長官に選出されたとしても、中央政府は任命することなく「断固たる闘争を行うことに迷いはない」と発言している。
區龍宇の主張の正しさが裏付けられたが、当時それに耳を傾ける人はいなかった。八〇年代の香港は、移民する人、現実を受け入れる人、返還を祝う人などはいたが、抵抗する人はいなかった。
一九八九年になって、香港ではやっと初めて本当の巨大な大衆運動が生まれた。それは北京の民主化運動とその弾圧[六・四天安門事件]にかかわるものだった。
その運動に対して區龍宇が批判する最大の問題点は、司徒華[香港民主化運動の指導者]が六月七日に予定されていた香港ゼネストを中止したことである。北京の六・四天安門事件に対する香港の人々の怒りは尋常ではなく、香港市民支援愛國民主運動聯合會(支聯会)は六月七日に全香港でゼネストとデモ行進を呼びかけていた。

 「八九年の問題点は、六月七日に司徒華が予定されていた商店、労働者、学生の三つのゼネストとデモ行進を中止したことで、巨大な民主化運動の形成を困難にしてしまったことにありました。それがなければ、戦後の香港で最初の大規模な政治ゼネストが出現し、真に大衆的で下から上へ向かう政治的な民主共同体が誕生していたでしょう」。
「香港では強力な野党が存在してきませんでした。存在していた反対派は、植民地政府が与えた立法局の議席をすんなり受け入れました。こうして司徒華たちも八〇年代に入ると議員になっていきました。政府の用意した船に乗り込んだことで徐々に政府による舵取りに身を任せるようになっていきました。ケ蓮如[政府任命議員]が八九年六月七日に司徒華に電話して少数の暴徒が[天安門事件に抗議して]中国系企業に攻撃を仕掛けようとしていると伝え、司徒華は『少し考えて、彼女が自分を騙すことはないだろうと信じて、彼女の助言を受け入れた。そして放送局で六月七日のデモを取り消すというメッセージを録音した』というのです」。

 區龍宇は、この時の司徒華の決定が今日まで影響していると考えている。

 「私たちは植民地主義反対の過程を完成させてきませんでした。そして中国共産党はそのような中途半端な立場をさらに混乱させたのです。香港人は長年のあいだ植民地主義に染まってきました。しかし経済成長を達成したあとも植民地主義を清算できず、それゆえ真の民主共同体を育てることもできず、民主化運動は弱体化したままでした。具体的には、民主派は現在のところ[立法会の六〇議席中]二七議席を確保してますが、『九流十家』に分裂したままなのです。私は反植民地闘争さえすれば勝利する、と言いたいのではありません。しかし少なくともそれによって強力な民主化運動を育むことはできたはずです。台湾では植民地主義反対と国民党反対という運動のもとで強力な反対党を発展させました」。
「植民地主義の清算は容易ではありません。しかし少なくとも私たちは強力で効果的な反対派勢力を作り出す必要があります。いまの香港の問題点は、立法会に議席がなくなってしまえば、私たちには何も残らないということです。三〇年来の民主化運動が選挙運動に収れんされてしまっています。これは致命的です。民主派の抵抗力は社会の下層においては基礎を持っていません。これは八〇年代の民主化運動の主流派、つまり中産階級のリベラル派の方針に問題があります」。

 彼の主張に賛同するかどうかは別としても、區龍宇には民主派を批判する資格があることは否定できない。彼はこれまでもずっと主流民主派の批判者だったからだ。
一九八六年の反核運動では、反核運動の実行委員会の席で、香港教育専業人員教会[司徒華が設立した教員組合]の張文光・副委員長が中央政府は断固として大亜湾原発[香港から五〇キロの対岸の広東省にある原発]を建設するという情報を入手しているのでこれ以上反対運動を続けるべきではないと発言したことに対して、區龍宇は彼と論争した。一九八九年に支聯会が開催した集会では區龍宇が所属する新苗社が会場外で訴えのチラシ配布を妨害されたこともある。八九年六月七日のストライキ中止のあとの六月九日に開かれた支聯会の会議で、支聯会の構成団体である新苗社のチラシ(スト中止への批判)を區龍宇が配布しようとしたらそれを妨害された。その際、今日の汎民主派の中心人物のほとんどがその場にいたが、だれも區龍宇を支持しなかった。一九九三年、八〇年代当初から議会の全面的普通選挙を訴えていた新苗社は、「前線」の劉慧卿[現民主党党首]が設立した「九五直接選挙実行委員会」に参加して九五年の選挙での全面的普通選挙の実施を訴え、議会定数の半分の直接選挙を訴えていた他の構成団体と論争になった。そして会議で劉慧卿が構成団体が自らの主張を書いたチラシを同実行委員会の活動で配布することを禁止し、違反すれば厳正に対処するという動議を提出し、その動議が会議で可決された。新苗社は民主主義の原則から、実行委員会は構成団体が自らの意見を発表する権利を制限すべきではないと主張し、実行委員会から脱退した。

 「知らず知らずのうちに汎民主派の反対派としてこの三〇年を過ごしてきました。今日のさまざまな問題は、この三〇年のうちに醸成されてきたものだと断言できます」。

革命の70年代

 雨傘運動が終わり、香港の将来は茫々たるさまで、かつての香港の良いところが一つ一つ失われていくような感覚に多くの人々が陥った。様々なテーマを巡って激論が交わされ、巷は喧騒とした雰囲気に包まれた。

 「実のところ、香港人のアイデンティティ問題、植民地主義に対する立場、中国の政権をどう見るか、中国と香港の関係などなど、いま議論が交わされている重要なポイントはすべて七〇年代にも提起されていたんです。しかし中英の関係修復や香港経済の発展のなかで、中英両国政府が香港人をペテンにかけたと言えるでしょう。中英共同声明はその時代のすべての香港人をだましたのです。こうして八〇年代には[少なくとも八九年天安門事件までは]、香港の将来を憂う主張は鳴りを潜め、民主的な返還に期待をするだけになりました」。
「もちろん私たちは騙されませんでした。しかし私たちは少数派でした」。

 彼は笑ってそう言った。

「七〇年代は香港、そして世界に影響を与えました。例えをあげれば、私の政治意識を啓蒙したのはもちろん『中国学生週報』なのですが、それ以上に六〇年代のフォーク・ソングがその役割をはたしました。ジョーン・バエズ、ボブ・ディラン、ビートルズなどの歌の影響は大きかったです。かれらの反戦やヒューマニズムに対する関心は、社会問題に対する若者の関心を高めたと言えます」。

 同じように『中国学生週報』を読み、フォーク・ソングから影響を受けたにもかかわらず、楊宝熙とは違った道を區龍宇は進んだ[楊宝熙は七〇年代後半の学聯会長で国粋派。彼女のインタビューは區氏の前に掲載された]。

 「厳密にいえば、六〇年代から七〇年代は香港はまだまだ後進的でした。それは香港にとって幸いでした。なぜならその当時の青年だった私たちは様々な事柄について、それが当たり前だと思っていたからです。私は、現代の新しい香港人がこのようなprovincial(片田舎的)視野を克服することを願っています。香港は国際的な経済都市ですが、政治文化においては極めてprovincialなのです。今日、欧米社会に多くの問題があるとはいえ、相対的には女性の権利が認められ、民族差別は問題であるという認識があり、環境保護の法律も存在しています。六〇年代に巻き起こった世界的な青年運動の時代以前は、社会保障もまだまだ低い水準にありました。しかしその世代の青年たちが反乱に立ち上がり、世界を変革したのです。絶対的な家父長制、レイシズム、不寛容などは変化を迫られたのです。香港は政治的には後進地域だったので、このような世界的な思想は七〇年代になってやっと伝えられ、それに影響されたのも数千人の青年たちだけにとどまりました。とはいえ、そのような思想に接触したのがわずか数千人の学生たちであったとしても、香港社会を一新するには十分でした。たとえば公務員の場合、かつては男女で賃金が違っていましたが、七〇年代には、女性キャリアからは外国では男女平等なのだから香港でもそうすべきだという不満が出されます。こうしてみても香港は世界の社会運動から利益を受けてきたのです。たとえば今日の香港では、LGBTの運動がそれなりの歴史を持っていますが、その理由の一つは海外のLGBT運動を参考にしたことがあげられます。しかし私たちが参考にした外国の経験について、それまでの間にどれだけ彼ら彼女らが闘争を経験し、苦しんできたのかに思いをはせたことがあるでしょうか。かつて欧米のLGBT運動には爆弾が投げ込まれたことさえあるのです。私たちがこのような犠牲を払うことなく、簡単に外国の経験だけを参考にすることなど、果たしてできるでしょうか」。
「実際、香港人は注目されることに慣れています。常に国際的に注目されていると感じているのです。ですから国際的なイメージも大切にしています。国際スタンダード[主流汎民主派が雨傘運動の際に主張していた]を持ち出すのは自信のなさの表れともいえます。これらの国際スタンダードは天から降ってわいたわけではなく、社会的に抑圧されてきた人々が長期にわたる闘争を通じて支配者に受け入れさせてきたものでもあるのです。今日の成果の多くは、ライオンロック精神[香港人の自力更生スピリットを象徴するライオンロック(獅子山)]だけがもたらしたものではなく、外国から受け入れたものもたくさんあるのです。我々は海外の闘争の成果を享受しているのですが、それを自覚していないだけなのです」。
「七〇年代を振り返るには、視野をさらに広げる必要があるでしょう。こうして初めて私たちの歩んできた道がはっきりとするのです。そうしなければ、なぜいま自由が少しずつ失われつつあるのかが分からなくなってしまうでしょう。それは、われわれが闘争とは何かを理解していなかったからなのです」。

思想としてのトロツキズム

 區龍宇は気さくな人柄だ。私が最初に知り合ったのは、私が七〇年代の文献を研究していた時だった。多くの点で分からないところがあり、彼に教えを乞うたのである。彼からの返事はいつも丁寧で真摯なもので、決して適当にことを済ませようとはしなかった。今日でも、彼の旺盛な執筆活動は続いており、最近では英語の著作『CHINA'S RISE: STRENGTH AND FRAGILITY』(邦訳『台頭する中国 その強靱性と脆弱性』つげ書房新社刊)を発表している。それだけでなく、雨傘運動についての二つの総括文章をウェブサイトに掲載し、さらに続編を執筆している。
しかし、いったいどのようにして香港におけるトロツキストの役割を考えればいいのだろうか。

 「トロツキストという規定はすでに時代遅れの感じがあります。それはすでに歴史的な名称になってしまいました。マルクス主義のもっとも基本的な精神の一つは『一切が運動の過程にある』ということです。トロツキストという名称は自分たちでつけたものではありません。スターリンがトロツキーを批判するためにつけたものです。じつはマルクス主義というのも他人からつけられた名前です。ですからマルクス自身は自分のことを[他人が言う意味での]マルクス主義者ではないと言っています。多くの場合、〜イズムはライバルからつけられるあだ名で、嘲笑や皮肉が込められています。そういう意味で言えば、毛沢東思想(マオイズム)だけは例外で、自分で自分の名前を冠した名称をつけたといえるでしょう」。
「トロツキストという名称は一九三〇年代の歴史的状況の産物です。五〇年代には冷戦があったことから、トロツキストには一定の意義がありました。一九八九年のベルリンの壁崩壊で世界に資本主義が拡大したことで、ソ連[スターリン主義]や右派社会主義とは区別されたトロツキストという呼称は歴史的な重要性を失いました。とはいえ今でもトロツキストを自称しようとする若い友人たちがいれば、それは全く大歓迎ですがね」。

 トロツキストは呼称というよりも、一種の思想としてのトロツキストといえる。

 「トロツキストの思想的遺産はいまでも重要です。私の英語の著作のなかの一章は、なぜ中国共産党官僚が一切の階級の上に君臨することができたのかについて解説しています。ウェーバーの官僚論の定義では、官僚は資産階級の公僕とされていますが、中国共産党および旧ソ連の官僚は資産階級を含むすべての階級のうえに君臨しています。大財閥でさえも言うことを聞かなければなりません。トロツキーによるソ連官僚制の考え抜かれた分析および批判は、われわれが今日の中国共産党の官僚資本主義およびそれが香港にもたらす影響を理解する上でとても役に立つものです。中国共産党は社会主義の旗を掲げながら、実際には資本主義を行い、官僚はその地位と権力を利用して利益を得ています。中国共産党の政権下においては一切の矛盾が極めて熾烈に現れます。われわれは中国共産党の官僚資本主義の影響下に生きており、『巣がひっくり返ってしまえば、卵も壊れる』ということです[中国という巣に大きな変化があれば、香港という卵にも影響がある]。つまり中国の官僚資本主義を分析することで、現在の香港における政治行動を決める指針にもなるのです」。

 指針としての意義はあるが、影響力はまた別問題である。

 「トロツキストは今日の香港では影響力はありません。しかしこの何年間かは、資本主義の限界が明らかになり、資本主義に対する批判の声がこれまで以上に聞かれるようになりました。左翼あるいはトロツキストの基本的な社会的理論分析がこれまで以上に多くの読者を獲得し、参考にされています。今日、我々は民主主義、立憲民主主義を要求すべきでしょう。香港では、いかなる階級も強大な階級運動を組織できていません。ブルジョアジーですら例外ではありません。この三〇数年間、中国政府は香港で強力なブルジョア政党の結成を後押ししてきました。しかし今日、それは成功したとはいえません。思想的な面からいえば、香港は単一の政治文化社会、つまり自由主義の、もっと正確にいえば右派自由主義の社会でした。しかもそのような右翼自由主義でさえ、かれらの綱領を実現する能力に欠けてきたのです。それは羅永生[嶺南大學文化研究系副教授]的にいえば『バーチャル自由主義』であり、私の言葉で言えば『香港バージョンの自由主義』です。『橘化して枳となる(たちばなかしてからたちとなる:境遇が変われば変質してしまう)』というように、香港に持ち込まれた自由主義は、その核心にあった革命的伝統[自由のために国家権力に抵抗する]を失ってしまったのです」。
「香港の自由主義者は軟弱にも程があります。自由主義とは革命を避けるものであり、革命に反対するものであると考えているのです。これは全くの大間違いです。マルクス主義、民主主義、社会民主主義、広義の民主主義左翼は、自由主義の人民主権論、人民革命論、人民立憲民主論という三つの要素を吸収してきました。私たちは何もいきなり世界社会主義の即時実施を叫んだりはしません。私たちが主張するのは普通選挙による全権を持つ国民会議の招集です。これのどこか過激なのでしょうか。たとえば今日では香港基本法を再度制定し直すべきだと言う主張が提起されていますが、これが過激な主張だと言えるでしょうか? 植民地主義に対抗しなければならないときに、革命的自由主義や対抗的主張ではなく、妥協や迎合の道を歩んだがゆえに、これまでの民主化運動は効果的な力を形成することができませんでした。雨傘運動は香港で最初の真の民主化運動であり、民主共同体を形成したといえるでしょう」。
「過去三〇年の大衆運動は民主派議員を選出してきたという成果はありましたが、それだけでは民主化運動とは言えません。両者はイコールではないのです。主流の汎民主派は一〇〇%議会主義の路線を歩んでいるに過ぎません」。

 彼はそう強調した。

一以貫之(いつもってこれをつらぬく)

 青年時代から白髪になった現在にいたるまで、基本法に疑問を投げかけ、中国共産党が約束する高度の自治を信じなかった彼は、嘲笑され孤立してきたが、時事評論の雑誌の発行を必死に堅持してきた。區龍宇が歩んできた困難さを想像することは難しい。いつの時代も彼のような人物はいたのかもしれない。だが問題は、われわれがそのような人物に出会うことができたのかどうかである。

 「長年にわたって困難な道を歩んでこられたと思いますが、孤立感に襲われたことは?」と聞いてみた。

 「そう思うこともありましたよ(笑)。ですが九七年から九八年が転換点でしたね」。

 そう言って彼一流の社会的分析を踏まえて語った。

 「経済的には、アジア金融危機が香港のアンダークラスにもたらした衝撃は極めて大きかったです。当時、多くの人の賃金は一気に三分の一も減りましたし、それ以上に多くの人が失業しました。同じころ政府は民営化を推進し、水道、郵政、公営住宅の民営化を画策しました。その時まだ私たちの雑誌『先駆』は発行されており、私たちはそこで批判を展開しました。それを見た住宅管理局労働組合の委員長から連絡があり、一緒に対策を検討することになりました。その頃からです、資本主義以外の可能性を模索しようとする多くの人々の存在をよく目にするようになったのは。私は一九九九年にNGOの『グローバリゼーション・モニター』を設立しました。香港職工会連盟(HKCTU:香港の独立系ナショナルセンター)と、グローバル化がもたらす問題や、なぜ民営化に反対しなければならないかについて労働者に向けて教育するプログラムを共同で開催しました。それ以前は、私たちトロツキストの主張を気に掛ける人々はほとんどいませんでした。トロツキストあるいは左翼の主張がもっとも広く受け入れられたのは二〇〇五年末に香港で開催されたWTO閣僚会合に反対したときでしょう。当時は多くの研究者や社会運動の友人たちでさえ、グローバル化がもたらす問題点と対抗策を理解していませんでしたからね。だからでしょう、私たちの分析が多くの人々の関心を集めたのは」。

 二〇〇五年、WTO第六回閣僚級会合が香港で開催された。區龍宇は二〇〇四年に「WTOに反対するピープル・アライアンス」の結成に参加し、スポークス・パーソンの一人を務め、香港カトリック正義と平和委員会、香港職工会連盟、街坊工友服務處、先駆社などが構成団体となった。區龍宇は香港と海外団体の連絡調整役を務め、一連のフォーラムや大規模なデモなどを企画してWTOに対抗した。多くのメディアの取材も受けた。

 「七〇年代から九〇年代末まで、私たちの主張は基本的に無視されてきました。チラシを配布することさえ難しかったですからね。しかし九七年以降、雰囲気は変わりました。二〇〇九年の高速鉄道反対闘争、二〇一〇年の左翼21の結成など、以前に比べて私たちの主張が受け入れられることも多くなりました。この時のために、私たちは二〇年近く準備してきたとも言えますよね(笑)。私たちの主張が何らかの参考的価値があるというのは、そういう意味においてです」。

 彼は最後に思いを語った。

 「私は現役から退くまでに、最後の力を振りしぼって、私たちの理念を宣伝しようと思っています。本当は政治ではなく、たくさんの文学作品を読むことに時間を費やしたかったんですけどね。しかし真の知識は運動と闘争に参加する過程で、全面的に発展することができると思っています。学校の中で学んだことは、知識のほんの一部に過ぎません」。
「一人道を行き、深く思索するという感じでしょうか。実際の所、トロツキストのなかでも、私は孤独だったと言えます。多くの人がこの道から離脱していったからです。とはいえ孤独は私に思索する多くの時間を与えてくれました。政治的議論は往々にして感情的な争いに陥りがちです。多くの場合、権力がないときは民主を高らかに主張しますが、権力を手に入れると集中にしか関心がなくなる。民主派であろうと左翼であろうと関係なく、多くの人がこの誘惑に負けてしまいました。スターリンが主張する民主集中制とはこのようなものです(笑)。これは何十年も前にトロツキストの大先輩であった王凡西が私に教えてくれた有益なアドバイスです」。
「後悔はしていません。少なくとも、可能と不可能を知ることで簡単に騙されずに済みましたし、歴史によって過ちを指摘されることをせずに済んだのですからね」。     (おわり)



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