もどる

    かけはし2015.年10月5日号

新世代の民主主義運動が登場


9.19

香港「雨傘運動」は何を提起したか(上) 

オキュパイの担い手とその要求

區龍宇さんの出版記念講演から


 香港「雨傘運動」一周年にあたって同運動に参加し、精力的に討論・発信を続けてきた區龍宇さんの政治評論集『香港雨傘運動』がつげ書房新社から出版された。九月一九日、東京で行われた集会での區さんの報告と質疑応答を掲載する。(編集部)

台湾・香港・マカオ


 今日未明、日本の国会で戦争法案が通過しました。今後、戦争に向かう日本になるかどうかは現時点ではわかりませんが、たくさんの方が心配していることだと思います。中国、香港の人々も大きな関心を持っています。日中関係の緊張については、日本政府だけではなく、中国政府にも責任があります。中国政府は、以前よりも増して覇権的な状況になっています。
 雨傘運動は今後の中国の方向性に大きく影響する事件でした。台湾では、二〇一四年三月にひまわり運動[中国とのサービス貿易協定締結に反対して学生たちが国会議場を占拠した]があり、半年もたたないうちに香港では雨傘運動が起こりました。マカオでも大きな大衆的な運動がありました。これまでマカオの人々は政治に大きな関心がないと思われていたにも関わらずです。台湾、香港、マカオ社会は中国との緊張関係を持つようになったのです。

官僚資本主義独裁と腐敗


まず最初に雨傘運動から話します。どのような人たちがこの運動に参加したか。それぞれの勢力(配役)がどのような目的を持ち、どのような役割を演じたのか。それぞれの勢力の綱引きが雨傘運動の勃発と発展を導いたと言えます。
最初の主演俳優は中国共産党です。共産党は、国内においてはあらゆるものの上に君臨し、すべてを圧倒する力を持っています。しかし香港では同じような対応をとることができず、硬軟織り交ぜた対応をとっています。共産党は、香港で強硬路線を押し進めようとした時に大きな抵抗に遭えば、それを引っ込めて柔軟な対応をとってきました。
例えば、香港は一九九七年にイギリスから中国に返還されましたが、返還直前に選出された香港議会は、共産党にとって不利な勢力構成だったので、返還後すぐに、共産党の影響下にある議員たちだけで構成された臨時立法会を立ち上げました。この臨時立法会は、香港のほとんどの民主派を排除して設立されました。この臨時立法会は大きな批判を受けたこともあり、一年後に解散して新しい議会を選挙で選ぶことになり、民主派からも多くの当選者を出しました。
もうひとつの事例は、中国政府が二〇〇三年に香港で国家安全法を制定しようとした事件です。この中国政府の目論見に反対して五〇万人が参加するデモが行われたことから、中国政府は法律の制定をあきらめました。
このような柔軟性のある香港政策が変わり始めたのは二〇一二年からです。香港で直接選挙の議席数を拡大せよという要求が大きくなったのは二〇一〇年ごろからです。この要求に対して中国共産党は同意する意向を示しました。しかし二〇一二年に習近平指導部が誕生して以降、香港政策が大きく転換したと言えます。習近平は二〇一二年一一月に中国共産党総書記に就任しましたが、その前の二〇一二年三月、香港特別行政区長官に梁振英が選出されましたが、それ自体が香港政策の転換を示していたと言えます。二〇一四年八月三一日、中国全人代から次期行政長官の選出方法に関する意見が出されました。それは事実上、香港の民主派を排除する決定でした。この非常な高圧的な決定が香港の雨傘運動のスタートの契機となったのです。
しかし、この決定は非民主的な内容に満ちていました。これまで行政長官の選挙には民主派の立候補も不可能ではなかったのですが、新しい案では事実上、民主派の立候補が不可能になります。こうしたことから香港の人々は、中国共産党に対して悪いイメージをもっています。しかし中国共産党が左翼だとか左翼政府だととらえるのであれば混乱するだけでしょう。つまり改革開放以降も中国共産党政府が左翼政府だとするならば、それ以前の毛沢東時代の政府は、どのような性格なのかという問題が出てきます。
私は、現在の中国共産党政権は資本主義を擁護する政権だと考えています。毛沢東時代は、少なくとも資本主義と敵対する政権でした。いうなれば、現在の政府は左翼政権ではなく、右翼政権、あるいは極右政権です。わたしがこのように言うのは、「左翼だ」、「いや右翼だ」とレッテルを張りたいからではありません。この「左翼」か「右翼」かの問題は、じつは雨傘運動をとらえることと大きな関係があるからなのです。
五〇年代〜七〇年代の香港では中国共産党を支持する人たちが非常にたくさんいました。とくに青年のなかでは共産党を支持する人たちが多かったです。台湾もそうです。左傾化した青年たちが支持していたのです。
しかし、今の香港の人たちが共産党に対して抱くイメージは、広範囲の公害、メラミン入り粉ミルクによる赤ちゃんへの被害、危険な薬品被害など、社会的腐敗が蔓延しているということです。たとえば二〇〇八年に四川省で発生した大地震では、多数の家屋が倒壊して多くの犠牲者が出ましたが、じつは多くの手抜き工事が被害拡大の原因でした。
ですが、このように中国社会に対するマイナスイメージは、中国国内の問題であり、香港人にとってはいわば別世界の問題でした。しかし二年前に香港で発覚したある事件は香港の人々を非常に驚かせました。香港の行政のナンバーツーの役人が、中国政府の香港・マカオ対策室から一四〇万米ドルもの莫大な賄賂を受け取っていたという事件でした。
七〇年代以降の香港では、役人の腐敗がそれほど深刻な事態になることはありませんでしたが、この事件の発覚によって、中国政府の高官が香港政府の高官を買収していたことが明るみに出て、香港社会は非常に大きな衝撃を受けたのです。
こうして中国政府のイメージはますます悪いものになっていたのです。

香港政府の強権的弾圧

 二番目の主演俳優は香港政府です。雨傘運動の勃発を促したのは、香港政府の高圧的な弾圧でした。返還以降、香港政府が今回ほどの高圧的な態度で運動を弾圧したことはありませんでした。行政長官選出に関する中国政府の決定に対して、香港では学生が率先して反対の声を上げ、公民広場という政府庁舎前広場をオキュパイ(占拠)して抗議しました。それを警察が取り囲み、学生リーダーを拘束するなど高圧的な態度に対して、香港市民が怒ったことで雨傘運動が始まりました。
二〇一二年三月に梁振英長官が選出されたことが、中国政府の香港政策の転換を示していました。香港政府はなぜ強硬路線に転じたのでしょうか。その答えは、雨傘運動の期間中に在外メディアが行った行政長官のインタビューのなかにヒントがあります。なぜ香港で普通選挙を実施することができないのかという質問に対して、行政長官はこう答えています。「一人一票を実施してしまうと、貧しい人たちの意向が選挙結果に大きく影響を及ぼしてしまうからです」と。
一言で言ってしまえば、これまでも香港を支配してきた大企業の支配をさらに強めるということを行政長官は語ったわけです。このような思想は、中国共産党が突き進む官僚資本主義と同じ考え方です。中国共産党は、香港社会に対するコントロール強化だけではなく、中国資本による香港経済の支配を強めていくことの現れです。現在では香港の株式市場の取引額の六割が中国資本です。中国資本の影響力は非常に大きくなっています。
中国共産党にとっての香港はテーブルに並んだ御馳走だと言えます。香港市場でのさらなる取り分を狙っているのです。つまり、中国政府が香港に対して威圧的な態度で臨んでいることと、市場における影響力を強めようとする理由は同じ線で繋がっているのです。

学生と青年労働者


雨傘運動の勃発を促したのは、中国共産党の強硬的な態度でしたが、しかしもう一つ大きな要素がありました。それは香港における新しい世代の登場です。この新しい世代の登場がなければ、香港の雨傘運動は誕生していなかったでしょう。
香港は八〇年代から二〇一〇年ごろまで、若い世代の政治化はみられませんでした。政治化した青年もいなかったわけではありませんが、結局は制度圏内の運動に収れんされていきました。
しかし、二〇一〇年に高速鉄道計画に反対する運動に多くの青年が参加し、そこでラジカルな運動が取り組まれました。二〇一二年には愛国教育の教科化に反発する高校生を中心とした学生たちの大きな運動がありました。
雨傘運動を牽引した大学生の団体は、大学生自治会連合会(学聯)でした。学聯は雨傘運動なかで「命運自主(自分の運命は自分で決める)」というスローガンを提起しました。中国共産党への反発が、このようなスローガンを提起させ、ラディカルな運動を社会に送り出しました。
学聯の歴史を振り返るとその意義がよく分かります。一九七一年の尖閣諸島を守れという運動が学生運動のなかで盛り上がりましたが、学聯は七〇年代から一貫して中国政府支持の立場をとってきました。八〇年代、中国とイギリスの返還交渉のときには、香港の団体では一番最初に中国への返還を支持しました。
しかしこの関係は、一九八九年の天安門事件によって変化します。しかしこの時は前面に立って中国政府を非難するまでにはいたりませんでした。おそらく学聯は中国政府による「港人治港(香港人による高度の自治)」を信じていたので、まさか香港に対して同じように高圧的な態度で出てくることはないだろうと考えていたと思います。しかし二〇一四年八月三一日の中国政府全人代決定は、学聯が中国政府に抱いていたわずかな期待を打ち砕いたのです。
香港の人々が中国と距離をとりはじめたのは、言うまでもなく中国政府の高圧的政策が理由です。二〇一一年の香港の若い人たちに対するアイデンティティ調査では「自分は香港人だ」と答える人の割合は四二%でした。雨傘運動の中心を担ったのも若い世代でした。
とはいえ雨傘運動では学生はそれほど多数を占めていたわけではありませんでした。一番多かったのは青年労働者たちです。なぜ青年労働者たちが雨傘運動に参加したのでしょうか。その一番大きな理由は、香港が徹底した資本主義社会、独占資本主義社会であり、その中で多くの労働者が貧困化しているからです。香港では選ばなければ仕事はあるのですが、しかし労働条件は非常に悪い。低賃金で、働けば働くほど貧しくなるいわゆるワーキングプアがたくさんいます。
オキュパイの現場では「家賃が高すぎて払えない」と書かれていた手作りのポスターが貼られていました。雨傘運動が行われた七九日のあいだ、オキュパイの現場では香港経済や資本主義に対する不満の声がいたるところで出されていたのです。

無力な「議会内民主派」

 つづいて、いわゆる民主派と呼ばれる人々を紹介したいと思います。民主派は立法議会の中で三分の一の議席を占めています。しかしこの議会内民主派に対する若い世代の支持は高くはありません。
その最大の理由は、議会内民主派の人たちの政治路線が、すでに破たんしているからです。民主派は、この三〇年間ずっと中国政府が徐々に普通選挙を拡大していくだろうと期待をかけていました。しかし全く現実は逆で、普通選挙はますます遠のいていくという状況になっています。
議会内民主派は、香港基本法という憲法を神聖視し、そのまま真に受けてきたという問題があります。香港の自治権は実際のところ、非常に限定された自治権にすぎません。香港基本法の解釈権は、香港政府ではなく中国政府にあります。ですから香港の自治権をめぐる諸問題は、そのケースごとに中国政府が解釈することになります。
基本法のもう一つの大きな問題は経済政策です。非常に右翼的なのです。香港では低税率を維持しすると基本法に書かれています。つまり低い法人税を基本法が保障しているのです。このような問題だらけの基本法を議会内民主派は神聖不可侵なものとして考えてきたのです。
雨傘運動に対する根拠のないデマとして、雨傘運動は議会内民主派を通してアメリカが裏で操っているという誹謗中傷がありました。しかし議会内民主派は、雨傘運動のなかでなんら積極的な影響力をもつことはできませんでした。若い世代は議会内民主派の主張に見向きもしないどころか、むしろ見下していたからです。      (つづく)


もどる

Back