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    かけはし2015.年10月19日号

狭山差別裁判再審勝利を


9.29

部落解放荒川区民共闘が集会

検察はすべての証拠開示を

石川一雄、早智子さん、中山弁護士も発言


 【東京東部】九月二九日、東京・荒川区の区立さつき会館で「狭山差別裁判の再審勝利を勝ち取る!荒川集会」が開催された。主催したのは部落解放荒川区民共闘会議。集会室満員の六〇人が集まった。
 司会を同会の三井峰雄さんが務め、森谷新議長が開会のあいさつをした。「検察が隠し持っていた証拠が、三者協議を進めるなかで次々と出てきた。これまで反戦反差別荒川区実行委で運動してきたが、第三次再審と完全勝利への局面が迫るなかで、今日の集会に向け、かつての運動の名称に戻した。石川さんも中山武敏先生も今日は元気な姿を見せてくれた。全国の仲間と勝利まで、全力を挙げて闘う決意を表明したい」。
 次に「狭山事件・ある弁護士の闘い」というドキュメンタリーが上映された。これは狭山弁護団主任弁護士中山武敏さんの活動を記録した作品。TBSが「報道の魂」という番組で、昨年一二月二二日に放送した。
 
被差別部落の
家に育って
 作品は、石川一雄さんの自白がねつ造されたものであり、それを裏付けるための、支援者らのさまざまな取り組みを撮影している。石川さんに対しては事件当時、扇動的なメディア報道が相次ぎ、被差別部落排斥の空気が強まっていった。そしてそれが偽の目撃証言につながっていく。拘置所の中で読み書きを覚えた石川さんは、中山さんに手紙を送り、中山さんはこの手紙を「弁護士人生の原点」だと位置づける。
 中山さん自身も福岡の被差別部落で育った。父親の中山重夫さんは、靴磨きの仕事をしながら部落解放運動を続けた。母親のコイトさんは廃品回収をしながら子どもたちを育てた。家の壁には、法の下の平等を謳った憲法一四条が父親の手で書かれていて、それが弁護士志望のきっかけとなったという。
 中山さんは東京拘置所の近くに事務所を構え、弁護士活動をスタートさせた。重夫さんも単身上京。足立区から紹介されたトイレ掃除の仕事をしながら事件に取り組んだ。
 一九七四年一〇月。東京高裁・寺尾判決で、「無期懲役」が言い渡されると、重夫さんはハンストを行い、それは全国に広がった。
 作品には、獄中で会った友として、布川事件の杉山卓男さんと桜井昌司さんも登場。二〇一一年に再審無罪を勝ち取ったこの二人について、石川さんは「私を兄貴分と思って話をしてくれた」と語り、桜井さんは石川さんについて「二〇年以上同じ釜の飯を食った仲」と涙を流した。見ている者は目頭を熱くする。上映後、中山弁護士が登壇。メモを読みながら発言した。
 
中山武敏弁護
士の発言から
 私は今年一月三日に脳梗塞で倒れ、意識不明になり、救急車で運ばれ、三月一六日に退院しました。手当が早く長嶋茂雄さんや前サッカー日本代表監督のオシムさんと同じ病状でしたが、幸い手足にマヒは残りませんでした。現在は自宅で療養しながら少しずつ復帰に向けてがんばっています。
 足立区で私が五〇数年間やってきた話ですが、来る一〇月四日に足立区で「戦後七〇年 平和と人権への取り組みを語る」という集会があり、私が講演をします。少しずつ復帰に向けてがんばっています、
 TBSで昨年末に放映された「狭山事件 ある弁護士の闘い」では、被差別部落に対する事件当時の差別的報道の実態が取り上げられていました。被差別部落が犯罪の温床であるとか、学校から放置されていた子どもたちが多く、罪を犯す危険性があるとか。犯人はあそこの人だと思っていたとか。五〇年前、差別的な報道がされました。こういった報道が誤った証言を引き出した大きな原因になっています。
 石川さんからの手紙のなかで、私が一番心を動かされた文章を読みます。
 「中山先生は働きながら学校へ行かれたそうですが、私の家は貧乏であったためにそんなことはできず、ますます首を絞めてしまうような結果になりました。かつ部落民であったために、国家権力の保身のための道具に使われてしまった立場を、今振り返ると何としても悔しくてなりません。
 貧乏であったために、最低限の教育すら受けられなかったことを、恨むわけでは決してありませんが、教育を受けられなかった者に対する国家の仕打ちが、あまりにも憎く、そのことが許せない思いで、私の胸に強く残っているのです」。
 現在狭山事件においては第三次再審での証拠開示が進んでおり、新裁判長の植村稔さんは、証拠物や客観的な証拠は開示してほしいと、これまでの裁判所の基本的な姿勢を引き継ぐことを表明しています。
 これまで開示された証拠は一八一点。新証拠は一七六点になりました。第三次再審では徹底した証拠開示と事実調べを行うべきとの世論を、さらに大きくしていただきたいと思っています。ともにがんばりましょう。
 
袴田事件にも
言及し差別糾弾
 安田聡さん(部落解放同盟狭山闘争本部)は、狭山事件の初期の段階から現在に至るまでの捜査と、でっち上げ証拠の数々を、わかりやすく解説。「袴田事件」にも言及した。
 袴田巌さんの死刑判決を書いた三人の裁判官のうち、熊本典道(のりみち)さんだけが無罪だと主張した。なぜ他の二人の裁判官は死刑と判断したのか。彼らは事件当時のマスコミ報道に影響された。熊本さんは転勤で静岡地裁に来ため、それまでの扇動的な報道を知らず、あくまで客観的な事実を照らして無罪だと確信した。両者にはこの差がある。
 当時の報道では「袴田のようなボクサー崩れがこういう犯罪をやる」などと、狭山と同じように悪質な偏見を煽る報道がなされた。「狭山の闘いが日本の司法を変える。差別・排除の論理をなくすべきだ」と安田さんは締めくくり、大きな拍手を浴びた。
 
無罪をかちとり
百歳まで生きる
 石川一雄さんがマイクを握った。石川さんは、「本来なら河合裁判長の下で結論が出るんじゃないかと多くの期待を持っていたが、六月二九日付で代わってしまった」と切り出した。「一昨日は長野の集会で『石川さんは今も若いね』と言われた。こうしてみなさんの前で発言できるのも、元気でいられるからだ」。
 「私は糖尿病で肉と魚は食べない。しかし、連れ合いはいろいろうるさく言います。肉や魚を食べろという。でも私は食べません。それでケンカをする。そういう誘惑には負けません」。平凡な夫婦の日常の光景に触れ、会場は和む。
 「新証拠 無視する司法の 闇を斬る 再審開始の実現のため――こういう歌を何千首詠んだかわからない。これも一つにはあの刑務官が首をかけて教えてくれたおかげです。みなさんにお叱りをうけるかも知れませんが、死刑囚であればこそ、看守さんにめぐり合えた。おそらく死刑囚でなかったら、今でも読み書きができなかったんじゃないか。そういう意味では、死刑囚になってよかったなあと思う」。
 厳しい部落差別とそれゆえの貧困。そしていわれなき偏見が、純朴な農村の青年を極悪非道の犯罪者に仕立て上げ、かけがえのない青春を奪い去った。死刑囚をしてその境遇を満足させるほどに、歴史が強いた理不尽かつ過酷な現実を、私たちは憎む。
 「なんとかこの三次再審で終結して、みなさんに恩返しがしたい。無罪を勝ち取り、最低でも刑務所にいた三二年間を生きたい。そうなると一〇〇歳を超えますけれど」。「冤罪が晴れても食生活はきちっと管理する。そして無罪を勝ち取りたい。先生方にも私たちにも応援をお願いします」。石川さんは声を張りあげて訴えた。

石川早智子さ
んの発言から
石川早智子さんの反論が始まった。
「一つの目的は絶対に冤罪を晴らす。そして長生きをすること。そのために糖尿と仲良く付き合うことです」と、まずはやんわりと牽制する。「石川本人は、勝手に自分が正しいと思っている。お医者さんはもっと食べろというが、頑なに自分の考えを押し通す」。
これまで筆者は、何度となく狭山の集会に参加してきた。しかしこの日の集会で早智子さんは、地域の仲間たちの個人名を挙げて、感謝の意を伝えた。
「今日は本当に多くの人に来ていただいた。Aさんは『元気でいてくれてありがとう』と声をかけてくれた。不自由な体で来てくれたKさん。みなさんの温かい思いが石川を支え、狭山を支え、中山先生を支えている。冤罪で苦しむ多くの人を支える力になっている。心から感謝している」。
本集会の開催にあたって、こんな事情があった。「当初は九月一八日に予定されていたが、石川さんの白内障の手術で急きょ変更になった。本当に申し訳なく、変更に感謝している。石川が来なくても、安田さんらが話をしてくれたでしょうが、石川の顔が見たいとみなさんが延期してくれた」。手術は左右の目で計三回行なわれたが、今はだいぶ良くなっているという。

戦争法案反対し
国会包囲に参加
「安保法案の国会へも毎日行った。ゼッケンをつけてステージの後ろで、テレビに映ったらしい。狭山も安保法案も辺野古の闘いも原発も、底に流れるのはみんな同じ。安保法案は通ったがそれがスタート。私たちができることを、これからもしていきたい」。
「高裁前でのアピールを、雨の日も雪の日も炎天下も続けてきた。都連のみなさんが自主的に駆けつけてくれた。とてもにぎやかになっている。とても明るい。とても楽しくて元気です」。
高裁前には鴨居の模型まであるという。通りかかった人は再び訪れる。柔らかい発想で運動が進んでいると早智子さんは評価する。「あと一歩。一番大きな山場だ。最後の力をふりしぼって私たちも頑張る。みなさんもお力を貸していただきたい。そう願っています」。

狭山の闘争歌を
手話で演じる
盛りだくさんの集会は、まだまだ続く。部落解放同盟荒川支部女性部が、「差別裁判うちくだこう」という闘争歌を手話で演じた。おそろいのユニフォームを身にまとい、小野崎佳代さんの音頭で、一糸乱れぬパフォーマンスが披露された。
集会の最後に、部落解放同盟荒川支部長の小野崎篤さんが発言した。「安保法制、辺野古、狭山、朝鮮高校無償化裁判。霞が関や国会議事堂近辺を歩きながら、自分自身が一九七四年に感じたことを思い出した。特にシールズの『民主主義とはなんだ』『中谷出てこい』のコールはよかった」。
「新しいアピールの仕方が必要だ。自分は遅れている。かつてTさんは支部で狭山闘争をけん引してきた。認知症で施設に入る。家族の介護で運動に出てこられない。そういう人たちの思いも含めて、私たちはここにいる」。小野崎さんは自戒とともに、他者への想像力を持つことの大切さを語り、「最後に団結ガンバローで締めたい」と呼びかけた。
悪名高き「寺尾判決」の年、筆者は一三歳だった。だから「闘い」では生きてはいないが、権力犯罪を許さないという人々の怒りは、時代を超えて連綿と続いている。荒川単独での開催だったが、地域で倒産争議を闘う仲間や、他地区の部落解放同盟員も駆けつけ、近年にない熱気に満ちた集会となった。  (隆)

コラム

だれのための戦争か

 自衛隊兵士が殺し殺される関係に入る可能性が現実味をおびるようになった。自衛隊兵士の人権や市民権は、絶対にないがしろにできなくなった。漠然とした戦争反対ではすまされなくなり、常に揺れ動く「戦争情勢」をとらえ続けなければならなくなった。憲法違反の戦争法廃止のための闘いとともに、こうした課題が浮上している。
 アメリカ帝国主義の政治・軍事力は、歴史的と言えるほど衰退している。米軍は、アフガニスタンやイラクなどから撤収したがっている。そのうえで、アジア太平洋地域を米中の共同コントロール下におこうとしている。ここに割り込もうとしているのが日本帝国主義である。日本政府は、この地域に米軍との共同作戦部隊というかたちで「軍事プレゼンス」を強めようとしている。
 たとえば、「尖閣」や沖縄を含む東シナ海に対して、「日本版海兵隊」による日米共同の離島奪還訓練がすでに一〇年ほど前から続けられている。また、南シナ海では、P1やP3Cによる哨戒作戦が練られている。さらに、日本海と太平洋にはイージス艦が配備される(こうした自衛隊の動きは、今後「特定秘密保護法」のベールに包まれていくかもしれない)。
 このような「軍事プレゼンス」は、「抑止力」と言われたりするが、「対抗抑止力」を想定しなければ勝手な思い込みにすぎなくなる。日本が中国と戦争するなど無謀極まりないことは、ほとんどの人が理解している。だが、戦争はしばしば「小競り合い」から始まる。
 安倍政権は、かつて行ったアジア侵略戦争を、あたかもなかったかのようにしたがる「歴史修正主義」によって主導されている。そのため、中国や韓国との国家間関係をいたずらに悪化させ続けている。米国政府は、そのようにして起きるかもしれない日中間の「小競り合い」に巻き込まれることを警戒している。自衛隊が米軍の戦争に巻き込まれるだけでなく、その逆もありうるからだ。
 自衛隊が「後方支援」の名のもとで米軍などへの兵站を担おうとするのは、こうした日米両政府の綱引き関係を自分たちに有利に運ぶためである。そこに自衛隊兵士の血が捧げられようとしている。というのも、兵站は戦争全体の重要な構成部分であるとともに最も標的にされやすいからだ。また、PKOの「駆けつけ警護」では、自衛隊兵士がわけもなく殺し殺される関係に入る危険性が高い。
 では、なぜ安倍政権はこのように軍事力を誇示したがるのか。日本をめぐる安全保障環境が変わったからか。いや、むしろ注視すべきは、日本国家のありようが変質しつつあることである。
 今日、自由に国境を超えられるようになった資本が国家に依存する程度は低下している。社会保障や公共サービスなどに示される「社会国家」の側面は大幅に低下し、「強制された共同体としての国家」が前面に出てくる。安倍は、プーチンや習近平にならって、対外的な「国家の威信」をもって国民統治の力にしようとしているのだ。
 そのようにして、多国籍化した資本の秩序の動揺は「日本国家の威信」にすりかえられ、殺し殺される状態がつくられていく。「準備されているのは、だれのための戦争か」。その議論が真剣に広範に開始されるべき時ではないか。       (岩)
 

 


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