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    かけはし2015.年10月26日号

戦争法廃止・安倍内閣打倒へ


新しい政治・社会運動の登場

この闘いをどう継承・発展させるか(上)


自民党改憲戦略
と戦争国家法案


 第二次安倍政権は、二〇一二年一二月の総選挙で誕生して以来、中国の急速な政治・経済・軍事的台頭に対抗する米国の東アジア重視の「リバランス」政策に呼応・合体し、日米新ガイドラインを通じて米国へのグローバルな軍事的協力・補完に踏み出すことによって、年来の悲願たる憲法改悪=「戦後レジーム」からの脱却を実現しようとしてきた。
G・ブッシュ政権のアフガニスタン・イラク戦争の大失敗やリーマンショックを通じた米国の世界政治・軍事へのヘゲモニーの急速な後退は、「東アジア」という地理的な制約を超えた日米の軍事的協力(切れ目のない一体化)の要請を強めることになった。第二次安倍政権は、そうした米国の要請・圧力を利用して、九条改憲戦略を推進することを自らに課した。
自民党はすでに「国民の自由と権利を国家が縛る」という、そもそもの近代立憲主義の原則そのものを根底から否定した「日本国憲法改正草案」を野党時代の二〇一二年四月に決定・発表していた。二〇一二年末総選挙で政権を三年ぶりに奪回した自民党の選挙公約は「日本人の手で『日本の誇り、日本人らしさ』を示す新しい憲法をつくります。民主党の進める『夫婦別姓』・『人権委員会設置法案』・『外国人地方参政権』に反対し、地域社会と家族の絆、わが国のかたちを守ります」という、戦後憲法への憎悪をむき出しにした復古主義・国権主義に貫かれていた。
第二次安倍政権は、二〇一三年には「秘密保護法」を制定するとともに、安全保障会議設置法、中期防衛計画の確定などを通じて、アメリカの意向に沿った「切れ目のない軍事協力」のための法的整備に踏み出した。そして昨年七月には「集団的自衛権」行使を憲法違反として禁じてきた歴代自民党政権の立場を否定する閣議決定を強行した。そして四月には日米新ガイドラインに最終的に合意した。
一九七八年の第一次ガイドラインが、「ソ連侵攻の脅威」に対する日米の戦争協力を目的としたものであるならば、一九九七年の第二次ガイドラインは「朝鮮半島有事」への日米共同作戦を想定したものだった。しかし今回の新ガイドラインはそうした地理的制約を取り払った文字通り、「地球の裏側」での「対テロ戦争」を射程に入れたものである。
われわれが繰り返し確認してきたように、日米新ガイドラインに基づく米国の地球規模の軍事戦略への自衛隊による補完と一体化こそが、「戦争国家法」の核心である。そのためにこそ安倍政権は、秘密保護法、国家安全保障会議設置、そして集団的自衛権行使容認という一連の「戦争国家」構築に向けた法的・軍事的整備を進めてきた。そしてその「圧力」を利用しながら自らの悲願である憲法改悪のプログラムを発動しようとねらったのである。

96条改憲先行
論の挫折から


安倍政権は、第二次政権の発足当初、改憲発議成立を衆参両院議員の三分の二以上としている憲法九六条の規定を二分の一以上に変える「九六条改憲先行論」を掲げていた。安倍は二〇一三年二月の国会審議でも「たとえば国民の七〇%が憲法を変えたいと思っていたとしても、三分の一をちょっと超える議員が反対すれば指一本触れることができないのはおかしい、というのが常識」と語っていた。
しかし、この「九六条改憲先行」論は自民党の長老や、今回の戦争法案で違憲の論陣を張った小林節や長谷部恭男といった決して護憲派ではない憲法学者からも猛反発をくらってしまった。そこで「日米新ガイドライン」が強制する「集団的自衛権」行使容認については、歴代自民党政権によって踏襲されてきた「集団的自衛権の行使は憲法違反」という政府見解を、まさにウソと詭弁で踏みにじるクーデター的方法を行使せざるをえなかった。そのことが今回の「安保関連法案」=「戦争法案」反対の世論と運動を大きく高揚させ、安倍政権を追い詰め、野党の抵抗を引き出して、国会の立法手続きから見ても違法な、採決とは言えない「強行採決」をもたらした要因だったのである。
安倍首相は、彼にとって悲願である自らの手による「九条改憲」を決して放棄してはいない。しかしその具体的メドがたっているとは言えない。「集団的自衛権行使は違憲」という政府見解を、まさに反立憲主義的方法で変更したことが巨大な反対運動を引き起こした。総裁任期である二〇一八年、あるいは東京オリンピックの二〇二〇年を機に改憲を実現しようと目論んでいる彼の戦略にとって、それは大きな圧力となっている。「憲法九条のしばり」は弱まったとはいえ依然として働いているのである。
いま安倍首相は「新・三本の矢」による「アベノミクス・第二ステージ」と「一億総活躍社会」というデマゴギーに満ちた「経済成長重視」の政策を強調し、憲法改悪についてはおくびにも出していない。だが年成長率三%でGDP六〇〇兆円をめざすという「新・三本の矢」の目標をまともに受け止める人びとはいない。そしてこの目標の必然的な破綻は、もう一度、「日本周辺における安全保障関係の深刻な変化」を口実にした改憲戦略の前面化に帰結する可能性がある。
安倍政権は、そこで改憲「三分の二勢力」を衆参両院で確保するために全力を尽くすだろう。「維新」の分裂と、「大阪維新」グループの取り込みは、その意味で安倍政権にとって戦略的重要性を持っている。民主党内「積極改憲派」への工作も水面下で進められていくだろう。
そうであればこそ、「戦争法」廃止に向けた闘いの持続、辺野古新基地建設阻止を実現する沖縄「島ぐるみ」の闘い、原発再稼働阻止の運動と次期国政選挙への取り組み(とりわけ二〇一六年参院選)は、安倍政権を打倒して改憲を阻止する闘いにとって決定的に重要である。そしてまた、TPPをふくめた「アベノミクス・新第三の矢」に正面から対決する労働者・農民・市民の運動の社会化は、そうした闘いの中でこそ有効な広がりを持つのである。

「総がかり行動」
発足の意義とは


戦争法案反対を掲げた六〜九月の大衆的闘いは、一九六〇年安保闘争、そして六〇年代後半から七〇年にかけた独自の広がりとダイナミズムをもって展開されたベトナム反戦・全共闘運動以来のエネルギーと集中力を持っていた。
その背景、助走期となった運動は二〇一三年秋の秘密保護法反対運動、二〇一四年六、七月の集団的自衛権容認の閣議決定に反対する運動だった。さらに言えば、その主体と運動は二〇一一年の東日本大震災・福島第一原発事故を契機にした反原発運動からつながっている。
反原発・再稼働阻止を訴える官邸前の運動は、旧来の枠組みを超えた共同行動(共産党系の方針転換・運転原発の即時ゼロへ)の発展を導き出すとともに、新しい世代の反原発運動への結集をもたらした。また秘密保護法に反対する運動も、共産党系、連合・平和フォーラム系(政党で言えば社民党、民主党)の長年にわたる対立を超えた共同行動を実現する上での足場を固めることになった。
他方、SEALDsの出発点は、二〇一二年夏に官邸前の反原発行動に参加した明治学院大生を中心としたTAZ[一時的自主管理区域]というグループにある――(高橋源一郎×SEALDs『民主主義ってなんだ?』河出書房新社)。かれらは二〇一三年一二月にSASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)を結成した。このグループはさらに二〇一四年六月三〇日、七月一日に「集団的自衛権行使容認」閣議決定に抗議する官邸前行動を呼びかけて、大きな結集を勝ち取った。SEALDsとしての結成は今年五月である。
こうしたつながりの上に、二〇一四年末に東京では長年、二つに分かれていた「5・3憲法集会」の共催が確認され、五月三日、横浜の臨港パークでかちとられた憲法集会には従来の一〇倍近い三万人を超える人びとが集まったのである。共同へ向かう流れの中で、二月には、憲法共同センター(共産党・全労連系)、戦争をさせない一〇〇〇人委員会(平和フォーラム系)、解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会(市民運動系)の三団体の呼びかけで「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」が結成されていた。
これまでの枠組みを超えたこうした運動の発展を促進した大きな要因としては、辺野古新基地建設に反対する沖縄での「島ぐるみ」運動があった。沖縄の「島ぐるみ」の新基地反対闘争と「自己決定権」の主張は、二〇一四年には名護市長選(一月)、名護市議選(九月)、沖縄県知事選(一一月)の勝利、そして一二月総選挙での沖縄全選挙区での勝利につながった。また女性たちの「レッドアクション」による国会包囲行動(二〇一五年一月、六月)の果たした役割も大きい。

日を追うごとに
多くの人々が!


五月の「安保関連法案=戦争法案」国会上程以来、「総がかり行動」実行委員会によって毎週木曜日の国会前行動が行われることになったが、大きな転機になったのは六月四日の憲法審査会だった。この憲法審査会では、出席した三人の憲法学者が、自民党推薦の長谷部恭男(早大教授、彼は二〇一三年には自民党の推薦で秘密保護法に賛成する発言を公聴会等で行った)や改憲派の小林節も含めて、すべて「集団的自衛権」行使容認の戦争法案が違憲であることを明言したのである。
この発言は、明らかにメディアの論調、世論の動向に大きな変化をもたらした。国会での閣僚(とりわけ中谷防衛相の混乱とチグハグ、安倍首相の見えすいたゴマカシ)は、人びとの疑問、違和感、不安感を明白な反対意見と行動への参加に導く要因となった。
総がかり行動が果たした持続的な共同行動の「場」を土台にして、さまざまなイニシアティブが創造的に生み出された。SEALDsの関西、そして全国各地への拡大と大学生、高校生の自発的結集、参加者が百数十大学一万五〇〇〇に及んだ「学者・研究者の会」、あるいは「ママの会」の運動、などなど世代を超えた運動が登場した。とりわけ大学生や高校生の「若者」世代が大量に登場したことは、際立った特徴だったといってよいだろう。それは、二〇〇三年のイラク反戦運動などとも異なる、新しいダイナミズムの始まりを感じさせるものだった。
そしてとりわけ八月三〇日の一二万人国会包囲デモ、大阪二万五〇〇〇人をはじめとした全国一三〇〇カ所での行動は、共闘のあり方としてはさまざまな不均等性を抱えながら、戦争法反対の運動が実に多様な階層と、さまざまな地域で人びとの新しい動きを作り出したことを示している。
九月一四日以後、闘いの最終局面で連日早朝から深夜まで国会正門前を埋め尽くした数万人の怒りの声は、野党議員を規制し、かれらが最後まで安倍政権の暴挙に抵抗する圧力として作用したのである。
(つづく)(平井純一)

9.28

大阪駅前街頭宣伝弾圧

一審に続いて無罪判決

しかし幾つかの点で後退も

 【大阪】控訴審判決は九月二八日に大阪高裁で出された。この事件は、大阪市が強行しようとしていた「東北大震災のがれき焼却」に反対する街頭宣伝とチラシ配布に対する弾圧事件である。情宣行動は二〇一二年一〇月一七日、JR大阪駅前ルクア東広場で行われたが、大阪駅側は大阪府警から事前連絡を受け、二〇人もの職員を配置してチラシ配布を妨害した。市民が街頭宣伝活動を終えて、駅中央コンコース内を歩いて駅の南側に移動しようとした際にも、前に立ちはだかって通行を妨害したので、市民はこれに抗議。この抗議の参加者を一カ月以上も経ってから「威力業務妨害罪」で逮捕・起訴したのみならず、七カ月も勾留した。本来なら当然の表現活動に加えられた弾圧だった。
 一審では、チラシ配布を妨害した職員や、コンコースを移動しようとした街宣活動参加者を制止した職員に対して当然の抗議の声をあげただけだが、検察はそのことを威力業務妨害にあたると主張。しかし一審では、抗議しただけでは業務妨害罪にあたるとはいえないとして、無罪判決だった。これを受け、憲法研究者をはじめ全国一〇〇人の法学研究者が控訴しないことを求める声明文を発表し、大阪地検に送付。にもかかわらず検察側は控訴し、六月二二日に控訴審が行われ、九月二八日の判決となったのである。
 控訴審では検察側が新たに七人の証人申請をしたがすべて却下。駅に設置された防犯カメラの映像のみが証拠として採用された。
控訴審判決は、控訴棄却で無罪を維持した。法廷では、Kさんに関係する二つの事件(此花区民センターでの「震災がれき焼却」説明会に関わる事件、一審有罪、JR大阪駅前街頭宣伝弾圧に関わる事件、一審無罪)についての控訴審判決が同時に出され、一時間にわたり判決文が読み上げられた。此花事件の他の二人についてはすでに有罪判決が出ている。
 裁判の後、報告会が開かれ、大田弁護士が判決文を解説した。
 大田さんは、「無罪にはなったものの、非常に危うい判決だった」と言った。一審では抗議が言葉だけなら威力業務妨害にはならないとしたが、控訴審判決では、威力業務妨害といえなくもないとし、鉄道業法三五条にもとづいて、駅職員の権限を広く認めた。その上で、具体的に抗議行為を検討し、「身体的接触がない。周りのものが付和雷同しなかった。時間が短かった」の三点から判断し威力業務妨害とまでは言えないとした。
 唯一採用された防犯ビデオに、中央コンコースを通って南側に出る直前に傘を差している姿と出てから二人がビラをまいている姿が映っていた。控訴審では、この南側の行動を根拠に、北から中央コンコースに入る時に駅職員がKさんらの通行を停止させたことは問題がないとした。駅職員の恣意的な判断で、恐れがあると思えば止めてもいいということになる。「抗議の時にKさんが駅職員の足を踏んだ、踏まないの件に関しても」、故意に踏んだという証拠がないから判断せずとした。
 問題を起こしてきた鉄道業法三五条と公共広場について、二人の学者意見書を提出したが、これについて控訴審判決は「独自の解釈だ」と一蹴した。大田弁護士は、「同三五条が広く認められる可能性があるので、声明文なりを出す必要がある」、と付け加えた。
成澤信州大教授も、「控訴審で一審判決がひっくり返える可能性が大いにあった。どうしてひっくり返えらないのだろうと思えるほどの判決内容だった」、と述べた。この後、当事者のKさんから、鉄道業法を広く解釈する判決について危惧する発言があった。 (T・T)


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