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    かけはし2015.年11月9日号

英国 労働党代表に左派活動家


最も赤いバラが描き出したドラマ


議会反対派制御など課題残るも当選2日で党員3万人増

 英国労働党の新たな代表に選ばれたジェレミー・コービンが注目されている。米国民主党の大統領競選に乗り出して熱風を巻き起こしている社会主義者バーニー・サンダースと共に、「左派政治家」の復活と呼ばれもする。韓国で左派政治家(前・社会党代表)として活動した後、政治学を学ぶために英国に滞在しているチェ・グワンウン氏が英国現地で見守ったジェレミー・コービンと労働党の話を送ってきた。(「ハンギョレ21」編集部)
 英国労働党が帰ってきた。最も赤い色のバラとして。
 英国の政治において、かつて例を見ない一編のドラマが誕生した。9月12日に発表された英国労働党の代表選挙の結果、それまで誰も注目していなかった辺地の左派議員ジェレミー・コービン(66)が総数42万2664票のうち25万1417票を得て、59・5%の圧倒的な支持によって勝利を収めた。これはトニー・ブレアが1994年の党代表選挙で得た57%を上回る数値だ。当初のコービンの選挙参加の目標は、当選とは程遠いものだった。コービン自身はもちろん、党内外の誰もがそのような期待をしてはいなかった。党内の政策討論や論争に寄与していくという素朴な目標があっただけだった。

候補になることさえ大きな挑戦

 コービンにとっては、代表ではなく候補になることでさえ大きな挑戦だった。労働党議員全体の232人のうちコービンが確保した支持者は、せいぜい10人余にすぎなかった。候補になるには少なくとも35人の議員の署名が必要だった。候補登録のためにはコービンを支持していない20人以上の他の議員たちを説得しなければならなかった。一番最後に出馬を決心したために、時間も切迫した。この消息を伝え聞いた支持者たちが説得に乗り出した。候補登録締め切りの2分前、自身を含めた36人の議員の署名によって、辛うじて登録を終えた。最も見すぼらしい出発だった。ところが選挙運動が始まった後、雰囲気はとんでもないほどに転がり出した。党内討論の活性化という趣旨に共感して名前を出してくれた議員たちのうちの何人かは地団駄踏んで後悔したという後日談だ。
ジェレミー・コービンの当選要因は何よりも彼自身だ。断固とした政治的態度、一貫性、真剣さ、率直さ、謙虚さなどは彼の反対者たちも称賛してやまない。それだけではなく、彼の質素さと節制は議員たちの中で伝説として通じる。ともかくも議員の中で歳費の使い方が最も少ない。自家用車もなく自転車で駆け回る。初当選議員の時代には彼の母が心を込めて編んでくれたセーターを着て行動した。保守党議員らは彼のおんぼろの服が議員の品格をおとしめるとして攻撃した。そのおかげで彼のセーターは有名税をさずかった。
1966年、16歳の学生コービンは核兵器反対運動に参加することによって自らの最初の社会運動を始めた。以降、労働組合活動家として一時期を活動し、1974年にロンドン北部地域の区議員として当選するとともに本格的な政治活動を始めた。そして1983年、ロンドン最北端の北イズリントン地域区で下院議員として初当選した。今年の総選挙まで含めれば、相次いで実に8回の総選挙で勝利した。初めの40%を除けば、ずっと50〜70%の圧倒的な支持を受けた。
これまで32年間、議員職を維持してきた彼は自身の活動を議会の枠内にとどめおかなかった。権威を押し出さず、いつも自身の能力を、より大きな運動の資源として提供した。草の根民主主義運動と連帯し、街頭で常に共に闘った。2000年代の反戦平和運動、最近の緊縮政策反対運動の先頭にも、常に彼がいた。党代表の選挙期間に、時あたかも保守党政府が押しつけた福祉削減を骨子とする法案に対する投票があった。労働党指導部は棄権の方針を選択し、他の3人の候補はこれに従った。コービンは1人反対票を投じた。政府の緊縮政策に明確に反対した候補は彼が唯一だった。
彼は既存の労働党指導部の方針に500回以上、反対したことで有名だ。労働党で最も反抗的な議員だとのレッテルもはられた。反戦運動の先頭に立ち、ブレア政府のイラク侵攻にも激しく反対した。彼は、党代表になればイラク侵攻に対して党レベルの公式の謝罪をすると約束した。世論調査の結果、コービン当選の可能性が高まると、メディアはブレアの発言に注目した。彼はコービン率いる労働党は「絶滅」するだろうとの直撃弾を飛ばした。1983年、同じ年に議会に入城した2人は2015年に再び一本橋で出くわした。(注1)

3ポンドの選挙人団83・8%支持

 保守党との鮮明な差別性を示すことのできない労働党に幻滅を感じてきた党内外の党員や大衆はコービンの登場を熱烈に歓迎した。彼といつも一緒に行動してきた市民社会や労働組合の活動家たちばかりではなく、ソーシャルメディアなどを通じて彼の存在に初めて接した支持者たちが雲のように集まってきた。遊説の場は、行く先々で満員になった。会場に入りきれなかった数百人の群衆のせいで彼は毎回、会場の中と外で2回の演説をしなければならなかった。華々しい雄弁や熱情的な煽動はなかったけれども、彼の淡白で明快な演説は聴衆をとりこにした。
英国の2大労組であるユニゾンとユナイトの支持まで背にして、コービンの選挙運動は気勢が一層高まった。心よく3ポンドの登録費を出して選挙人団に参加した支持者たちの声援は党内外の世論を動かした。実際のところ、この3ポンド(注2)選挙人団を導入した選挙制度の改革はエド・ミリバンド前任代表のアイディアだった。大多数の評論家たちは、この制度は労働組合が党の意思決定に介入することの余地を減らし一般大衆の参加を導き出して、党を一層中道主義へと導くものと考えた。ブレア支持傾向の候補者たちがこの制度のおかげを被るだろうと予想された。けれども、その期待は完全にはずれた。
コービンの急浮上と共に3ポンド選挙人団が幾何級数的に膨れあがると、陰謀論さえ飛び交った。コービンの当選を助け、労働党を執権とは程遠い政党に転落させようとする陰謀が繰り広げられている、というのだ。逆の選択のために潜入した侵入者を排除するために、選挙を中断すべきだとの主張まで現れた。コービンとその支持者たちは冷静に対応した。政治に無関心だった、そしてこれまで労働党と隔たりのあった人々の熱情的な参加をおとしめてはならない、と訴えた。
選挙の結果、予想通りこれらの非党員選挙人団の大部分はコービンの支持者として姿を現した。彼は非党員選挙人団の10万5600票のうち実に83・8%を集めた。しかし既存の党員や加盟労組の組合員たちの支持もまた、それぞれ50%と58%に達した。この3ポンド選挙人団制度がなかったとしても、彼の楽勝は充分に可能だった。
コービンの反対者たちは口々に、彼の当選は労働党執権への意思の放棄だと叫んだ。根拠は単純だった。恥辱的な1983年の総選挙での大敗の原因は、まさに党の左向け左のせいだったというものだった。けれどもこれは真実とは程遠い。1983年の総選挙でマーガレット・サッチャーが大勝したのはフォークランド戦争の影響が決定的だった。戦争以前、保守党の支持率は概ね27%にとどまっていたが、1982年に戦争が起きるとこれは50%を上回り、それ以降も40%以上を維持した。
後日、サッチャーもこの戦争が当時の政治地形を根本からひっくり返したと認めた。ともあれこのような論理であれば、党の右向け右は選挙の勝利をもたらさなければならなかった。だが1987年と92年の総選挙の敗北は、それを一気に反ばくする。1997年にブレアの選挙勝利があるけれども、これはまた各種のスキャンダルや内紛などによって支離滅裂になっていた保守党のせい、というのが大きな要因だった。

「労働党が戻ってきた」と歓呼

 コービンの当選が発表された日、支持者たちは遂に「労働党が戻ってきた」として歓呼した。ブレアが前面に登場してからタブー視されてきた労働党の旧党歌である赤旗の歌(The Red Flag)が再び響きわたった。「我々は守るであろう、ここになびいている赤い旗を」、リフレーンのこの最後の一節は支持者たちの胸に食いこんだ。伝統的な支持層を裏切ってきた労働党、「赤いトーリー」(Red Tory)という憎まれ口を聞いてきた労働党は、今や新しいスタート・ラインに立った。
もちろん今後、越えなければならない山は1つや2つではない。まず議会労働党多数派の高い壁が待っている。草の根運動と党員民主主義の力によって議会反対派の力をどの程度制御できるのかが当面のカギだ。究極的にはサッチャーとブレアの政治的遺産を乗り越えることができるのかがコービンの成敗を分けるだろう。コービンの地域区で進められた彼の最後の遊説で支持者たちは一様に叫んだ。彼の当選は新たな闘いの始まりになるだろう、と。結果をがっちり手にした支持者たちは動き始めた。3万人。彼が当選してからわずか2日間で増加した労働党員の数だ。(「ハンギョレ21」第1080号、15年10月5日付、コルチェスター(英国)=チェ・グワンウン英国エーシクス大学・政治学科博士課程)
(注1)韓国のことわざに「一本橋で出会う日がある」というのがある。仇敵同士は、いつかは避けがたい所で出っくわすという意味。
(注2)1ポンドは200円弱。

コラム

骨折その後と生活の現実

 一〇月一九日、三カ月ぶりに清掃のバイトに戻った。足の骨折によって、復帰に一カ月どころか三カ月もかかってしまったので「代替を雇われ、クビかな」と思っていたが何とか復帰できた。午前四時に起き、六時前に職場についた。近くのマンションの横で黒猫がいつも出迎えて甘えるのだが、残念ながら姿を見ることができなかった。
 守衛さんに「復帰、おめでとうございます」と声をかけられた。同僚からは「寂しかったよ」とか「自分も去年、ころんで左腕と右足のお皿を割ったので治るのに時間がかかるが分かる。ゆっくりやりな」。食堂の調理人からは「息子も骨折し、サポーターをつけなくてはいけなくなり大変だった。大切に」、「突然、食事に来なくなったのでどうしたのかと心配していました」とねぎらってくれた。
 このように、復帰一日目、多くの人から温かい励ましの言葉をかけてもらった。骨折から三カ月というのは骨の再生が始まるので、復帰に向けた一つの目安のようである。二週間に一度のレントゲン検査と診察、週一回のリハビリを行ってきた。
 復帰一日目の仕事も今までだったら楽々できていたが時間がかかり、おまけに左足には防護具をつけているので、つっぱりや痛みが出る。「普通」に戻るにはかなりの時間がかかりそうだ。
 さて、街を歩いているとアルバイト募集の看板が目についた。オリジン弁当のバイト時給九一〇円、郵便局のバイト時給九二〇円。東京都の最賃が時給九〇七円である。この最も低い額に合わせているのは明白だ。アベノミクスで景気がよくなり、賃金も上がったと政府は宣伝するが非正規労働者は年収二〇〇万円にも満たないワーキングプアを脱け出せない。こうした安月給でも所得税や社会保障費はしっかり天引きされる。おまけに消費税が五%から八%へ上げられ、さらに二年後には一〇%へと再引き上げが予定されている。
 政府与党では公明党が食品などを軽減税率として八%に据えおけと要求している。公明党が庶民のためにやっているかのように見える。しかし、戦争法の時もそうだったが自民党に働きかけたように見せかけただけで、結局積極的に戦争法の成立を推進したのだ。
 今回も消費税一〇%に引き上げが当然の前提とする論議だ。そもそも消費税は庶民への増税であり、金持ちへの減税だ。こんな消費税を廃止し、大企業・金持ちへの増税こそが必要だ。
 「戦争法は積極的平和主義のため」、「TPPは農業の活性化に道を開く」、「消費税引き上げは福祉のため」、「労働法規制緩和は労働者を働きやすくするために」、「辺野古基地建設は沖縄の基地負担の軽減のため」。これらの安倍政権のスローガンはすべてウソにぬり固められている。人々の意識は確実に変わりつつあり、アベのウソを見ぬきNOをつきつけ初めている。事実に基づいて安倍のウソをあばいていこう。 (滝)


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