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    かけはし2015.年11月23日号

ネオリベ原理主義の看板として


寄稿

郵政株式上場を考える(中)

沸き立つ「小泉劇場」に翻弄されて

竹中平蔵のデマゴギー


180万人の株主


 一一月五日付日経報道によると、「四日郵政三社の株式上場初日、その売買代金は合計で六二〇〇億円と東証一部全体の二割弱を占め、株主数は三社合計で約一八〇万人に膨らんだ」という。NTTの株主数は今年三月末時点で約七五万人。東証日経平均株価も再度二万円台をうかがうパフォーマンスを示し、郵政三社の株価は若干の上下を繰り返しながらもおおむね順調。想定では国内株の九五%が個人株主なので元々ドラスチックな展開は予想されていない。貯蓄から投資へというアベノミクス格好のショーウィンドウとしての株式上場展開である。
さかのぼること一〇月二九日、一部ネットビジネスサイト報道。「日本郵政の西室泰三社長が来年六月で退任することが、確定的となったもようだ。郵政グループの株式上場を『花道』とするが、実質的には東芝の不適切会計問題の余波を恐れた首相官邸による『解任』といえる」(ビジネスジャーナル)。
ところが、一一月四日上場初日を迎えて記者会見した西室泰三氏は「上場後初めての株主総会についてはさいたまスーパーアリーナで実施することで内定を得ている」とぶち上げた。株主大会は六月、さいたまスーパーアリーナのキャパは三万七〇〇〇人。実は東京ドーム(キャパ五万五〇〇〇人)での開催も代診していたというが「リハーサル等もあって一週間前後の借り切りが必要となり、日程が合わず断念した」(FACTA11月号)。西室氏は少なくとも今後二回の株主大会を自身で主催する意向を示しているという。

郵政民営化論の流れ
  ―その空疎な根拠

 郵政事業の民営化は九〇年代以降一貫して新自由主義路線の象徴として、その政治マターとして利用され続けた。それは世界的な流れでもあったわけだが。
九六年、橋本「行革」内閣の登場をもってその民営化路線はほぼ定まったかに見えた。しかし「全特」及びそれとつながる自民党族議員、郵政官僚、各利権集団などによる三つどもえの暗闘が続き、郵政民営化に対する巻き返しの抵抗は執拗に続いていた。権力構造内の異なる利権集団間どうしの暗闘といった趣だった。
当時「全逓」は郵政官僚及び全特と「共闘」を組む。しかし、民営化に反対する広範な大衆運動の呼びかけなどはサボタージュを決め込んでいた。当時労働組合は既得権益集団として集中砲火を浴びていたこともある。八七年の国鉄民営化―国労解体、「連合」結成(一九八九年)からまもなく、労働組合運動全体の決定的退潮期でもあり、総評戦後労働運動はほぼ解体状況でもあった。社会はいっときバブル経済に踊り、その後奈落の底であえいでいた時期。
橋下行革時の民営化論の主な根拠は財政投融資によるバラマキ放漫財政弊害論。当時郵便貯金の資金運用は大蔵省資金運用部に全額預託され「財政投融資」として運用。「第二の政府予算」ともいわれた。その膨大な資金は、一部の偏った利権誘導的配分によって天下り「特殊法人」などへの野放図な投資がかさみ、結果その損失を税金として穴埋めすることで国民に損害を与えているとされた。
実際にその運用資金を利権としてしゃぶりつくしていたのは特殊法人に天下った当の大蔵、通産、郵政などの霞が関官僚、及びそれらにつながる自民党族議員利権集団と、地元の土建業者などだった。バブル崩壊後国内の金融資本はその行き場を失っていた。財政投融資の運用先もどん詰まり状況となり早晩それは整理せざるをえない状況ではあった。
九七年第二次橋本内閣時に財投への郵貯資金預託廃止が打ち出された。二〇〇一年「資金運用部資金法等の一部を改正する法律案」により資金運用部は廃止され、郵貯からの投融資は全面廃止となった。資金は全額郵貯の自主運用となった。
郵政民営化論最大の理由の一つが本来ここで消えたはずだった。しかし資金の「自主運用」という限界も逆に浮上してきた。資金運用先はほぼ国債消化に限定されていたからだ。郵貯はその後この国の巨額の財政赤字をほぼ一手に引き受けることになった。
郵政事業はその後、郵政省→郵政事業庁(二〇〇一年)→郵政公社(〇三年)と経営形態をより民営事業体に近い形態に変えていくことで、郵政民営化論はいったん下火になったかに見えた。しかしバブル崩壊以降の長期経済停滞を急進主義的新自由主義政策によって突破していくという政治潮流が表舞台に出てくる。資本収益率の長期的低下に恐怖するこの国のブルジョアジーとの結託によってそれは「構造改革路線」として登場してくる。過激な規制緩和と社会の市場化を急進的に押し進める勢力、小泉政権の登場(〇四年)である。
その急進改革の象徴として郵政民営化論が再度浮上したが、ところが当時その民営化論の根拠は二転三転し、実は具体的な民営化の根拠はまったく像を結んでいなかった。いわく「無駄な投融資」、しかしその時点でとっくに財投は廃止されていた。いわく「公務員による税金の無駄遣い」、郵政事業は三事業一体の独立採算経営で税金は一切投入されていなかった。いわく「郵便局のコンビニ化で便利に」、当時私たちは東京の檜原村に出向き民営化反対キャンペーンを繰り広げていたが、そもそも檜原村にはコンビニさえもなかった。これらの民営化キャンペーンはほとんどデマゴギーに類するものだったが、社会的にはこれを一部受け入れるムードがあった。いわゆる「抵抗勢力」に対する広範なルサンチマンが動員されていた。
いかにももっともらしい論として唯一竹中平蔵氏が主催する「経済財政諮問会議」が出してきた論が「特殊法人への補助金が回りまわって郵貯に流れている。これも見えない国民負担だ」というものがあったが、これも言いがかりに過ぎない。
仕組みはこうだ。財投廃止以前、特殊法人への財政投融資はその貸し付けに高金利を課していた。その高金利は一般財政からの補助金によってまかなわれた。その高金利が巡り巡って郵貯へ流れていた。一〇年物国債の金利に〇・二%という金利がプラスされていた。
しかし財投廃止後この循環は断ち切られている。国債へのプライム金利を失った郵貯はその時点ですでに収益性の悪化にさらされていたのである。

ただ一つの空虚なスローガン
  ―市場至上主義


「郵政官僚の独善性が市場を歪めている」「官から民へ金を流す」などと当時の竹中平蔵氏はのたまっていたが、自らの根拠なき独善的見解に対する非難についてはその数百倍もの「口」撃をもって応えていたものの、中身はサッパリ。竹中氏の言葉の中に説得力ある民営化論というものを今でも見つけることができるだろうか。
社会は市場化しなければならない、それが停滞する資本主義を活性化させうる唯一の正しい路線。結局はその一言につきる。急進的であろうが民主党のように穏健的であろうが、新自由主義という単純な路線というのは、大衆的キャンペーンとしては煽動しやすい。規制か自由か、官僚主義か個人主義か、集団責任制か個人責任制か、労働時間制か成果主義か、年功序列か実力主義か、社会主義か資本主義か、小泉か郵政官僚か。単純な二者択一の構図としてのキャンペーンは大々的に繰り広げられた。
しかし、反対する側も実は具体的な対抗キャンペーンを張りやすかったのも事実。社会の市場化か、市場の社会化か。当時私が郵政ユニオンと共に作ったスローガンは「郵政事業を市民・社会の手に」というもの。民営でも官僚経営でもない、当時流行の「もう一つの〜」可能性を提示したかった。
また、当時貧困と格差の問題がじわじわと社会問題化していっているなかで、郵政民営化問題もそれらにからめて論陣を張ることができたろう。貧困と格差のない社会を下支えするインフラとしてのユニバーサル事業の確立を。そもそも小泉構造改革路線こそが貧困と格差の象徴であり、それを拡大しただけなのだと。
久しぶりに社会的な関心を呼び、広範な議論が繰り広げられ、様々な戦線との大衆運動の共闘が拡がっていった。わずか全国六〇〇人にも満たない少数労働組合ではあったが、その大衆運動の中心には必ず郵政ユニオンの旗が立っていた。全労連郵政産業労働組合との共闘もこのときに進展した。もっともネット上では一方的なルサンチマンの掃き溜めのような状況も現出したが、それらも含めて小泉劇場は沸き立った。
二〇〇五年夏、郵政民営化法案は参議院本会議で大差で否決。これに対して小泉は衆議院を解散、九月一一日郵政総選挙と銘打って小泉劇場は沸点に達する。
それが総選挙ではなく、郵政民営化の是非を問う二者択一の国民投票であったとするならば、結果は違ったものになっていたかも知れなかった。小選挙区の得票数を見ると五一%対四九%という数字で実は野党の得票数の方が上回っていた。にもかかわらず自民党は解散時勢力二四九議席から二九六議席へと大幅に議席を伸ばし圧勝、小泉政権は勝利宣言をした。その年の一〇月一四日、参議院本会議で郵政民営化法案可決。しかし以降、小泉政権は急速に求心力をなくしていく。
以降、民主党政権誕生後郵政民営化路線はジグザグを繰り返すが詳細は記すまでもないだろう。安倍政権の誕生によりこの一一月四日、一一%とはいえ郵政三社の株式上場となった。この後二次三次放出を控え、二〇二二年までに政府は四兆円を調達、それをもって福島復興資金に当てることが決まっている。
しかし、仮に財政投融資が未だ健在であったならば、それは二〇一一年の時点で速やかに復興資金として被災地に投入されていたかも知れない。(つづく)
(丸池忠怒)

10.30

福島原発告訴団が第1検審を「激励」

旧保安院の事故責任も問う

被災者・避難者の連帯と共同を


放射能にさらさ
れる子どもたち
 一〇月三〇日、福島原発告訴団は東京第一検察審査会への「激励行動」を行った。福島原発告訴団は、事故を引き起こした東電幹部の刑事責任を追及し、勝俣元会長ら三人の強制起訴をかちとった。さらに二〇一五年告訴では東電と旧経産省保安院の津波対策担当者五人を業務上過失致死傷の容疑で起訴申立を行い、東京第一検察審査会で審議が進められている。
 九月二五日には政府事故調の調書が追加公開され、被疑者の一人である名倉安全審査官(当時)が、津波対策が必要であると感じながら東電に強く対策を求めなかったことが明らかになった。保安院側は「津波対策は不可避」と認識しながら、氏名不詳の東電幹部に「原子炉を止めることができるんですか」などと恫喝されて対策を怠り、あの取り返しのつかない事故に至らしめたのである。その責任も問われなければならないことは明らかである。
 一二時半から東京地裁前で行われた集会では、最初に武藤類子告訴団団長が「一〇月一〇日に国道六号線の清掃のボランティアとして中高生が二〇〇人も動員された。線量が高い中でどうして子どもたちを『復興』名目でかりだし、放射能にさらすのか」と批判した。武藤さんは。さらに川内原発2号機に続き、伊方、高浜の再稼働が進められようとしていることを糾弾。「二度と原発を動かすな」と厳しく批判した。
 続いて海渡雄一弁護士は、さる七月三一日に起訴相当を勝ち取った勝俣元東電会長らの起訴は来年早々にも行われるだろと報告し、検事役の弁護士も五人体制で進められることを報告した。また第一検察審査会で進められている審査では旧保安院の三人(森山、名倉、野口)と東電側二人(酒井ほか一名)が起訴相当を求める対象となっていることを説明した。おそらくこの件についても来年一月末頃には結論が出るだろうと見られている。

次々に語られる
東電への怒り
続いて、この日、バスで福島県から参加した告訴人や、全国からかけつけた避難者などが次々に発言し、東電への怒りをぶつけていった。
「株主訴訟もやっている。事故は想定外ではなく明らかに想定されていた。福島県は宮城県や岩手県と比べると『震災関連死』が多い。これは何よりも原発事故ですべてを奪われ、バラバラにされた結果だ」。
「若い人が地元に帰ることができず、限界集落化しており、再生が妨げられている。しかし東電は責任を取ろうとしていない」。「放射能で地域、生活が破壊された。私たちの部落では学校に通っている子どもがいない。秋の楽しみだった山菜採り、キノコ採りもできない」。 
こうした苦境の中で、「ひだんれん(原発事故被害者団体連絡会)」に続いて、前日に全国避難者の会が作られ、原発事故被災者たちが力を合わせて生きぬいていく闘いが進んでいることも報告された。   (K)

【訂正】本紙前号(11月16日付)2面11・2行動記事の上から3段目左から1行目〜4段目右から1行目の「基地建設反対の座り込み、海で闘われている」を「ゲート前では基地建設反対の座り込み、海ではカヌーなどで工事阻止の闘いが続けられている」に訂正します。



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