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    かけはし2015.年11月23日号

「一次的人間」として教育


維新よりも教科書が先だった

国史国定教科書を巡る4つの場面


 韓国教育部(省)は10月12日、これまで検定制を採っていた中学・高校の歴史教科書を2017年から国定教科書にすることを発表した。野党の新民主連合や教育界、歴史研究学者などから激しい反発の声があがっている。(「かけはし」編集部)


子どもらが大きな声で本を読んでいる/私はその声をじっと聞いている/1人の子が声を出して本を読むと/他の子どももそれにならって本を読む/清らかな声で、飾り気のない声で/「違う、違う!」と読むと/「違う、違う!」と付き従って読む/「そうだ、そうだ!」と付き従って読む/そらんじるにも良い下級生の教科書/活字もとても大きくて読むにも良い/その声も1つも乱れることなく/1人の子が読んでいる通りに付き従って読んでいる/この春の日のわびしいわれらの本読みよ/わが国の子どもらの、その声音

軍事独裁政権時代に
繰り広げられ国定化


1984年、季刊「世界の文学」春号に発表されたキム・ミョンス詩人の詩『下級生たちの教科書』だ。2017年から中学校や高等学校で国史(韓国史)を学ぶ学生たちも詩の中の風景に追い立てられることになった。
パク・チョンヒ維新政権が国史教科書を国定体制に変えたのは1974年のことだ。その年、1冊の本が米国で出版された。「一次元的人間」。ドイツ出身の米国批判社会学者ハーバート・マルクーゼが書いた本だ。高度産業社会がもたらした人間疎外現象を分析した。特に抑圧された現実を批判することのできる理性の力をその根っこから断ち切ってしまう社会の属性を鋭く暴きだした。パク・クネ政府は10月12日、「歴史教科書の発行体制改善方案」を発表した。明らかに学生たちを「一次元的人間」として教育していくと乗り出したのだ。『下級生の教科書』の教室で「一次元的人間」に訓育していくという宣言だ。
1972年10月17日に宣布された維新体制、2015年10月12日に強行した国史教科書の国定化。両者の共通点は依然「10月維新」だ。ただひたすら1冊の国史教科書が強要されていた軍事独裁時代に繰り広げられた幾つかの場面を探ってみる。

1、 国定国史教科書はいつも「拙稿」だった

 維新よりも教科書が先だった。1972年5月、青瓦台(大統領府)と文教部(省)は国史教育強化委員会を作った。「教育の国籍を取り戻そう」というパク・チョンヒ大統領の一言が出発だった。国史教科を社会科から分離して新設し、国史教科書を国定化するというのが骨子だった。5カ月後の10月に維新体制が宣布され、翌年の1973年6月に政府は小・中・高の国史教科書を検認定から国定に変えると発表した。日帝独占期(日帝植民治下)にほしいままになされた甚だしい検閲・統制教科書の「華麗なる復活」だった。そして1年もたたない1974年春から新たな国定教科書で授業が行われようになった。2年5カ月かかった京釜高速鉄道の建設よりも、もっと速い速度戦だった。国定教科書が「聖典」であり「唯一本」となるとともに、既存の検定教科書22種は紙クズとなってしまった。
1982年、チョン・ドゥファン政権でも国史教科書は受難を味わった。同年6月、日本の文部省は高等学校・社会教科書の検定結果を発表した。教科書の内容の中で、日帝の中国・朝鮮侵略の叙述が歪曲されているなどの事実が明らかになった。国内の世論が沸き立った。いわゆる「日本の歴史教科書波動」だ。文教部は直ちに日本の教科書(16種)の分析に取りかかった。同年8月、国史編さん委員会は16種の教科書のうち24項目167カ所が間違って叙述されていたとの報告を国会に行ったりもした。
政府は急いで国史教科書の改定作業に乗り出した。民族史の再定立、韓日関係についての叙述の再検討などの改正指針が国史編さん委に下達された。日本の歴史教科書波動が起きてから6カ月たった同年12月、国史編さん委の委員たちに改正教科書の中間本が伝達された。そして同月末に教科書改正作業は終了した。委員たちが1カ月もしない期間に中学校用2冊、高校用2冊についての検討を終えるようにしたのだ。翌年3月、新しい国史教科書は結局、学校現場に普及された。日本の教科書波動があらわになった後、8〜9カ月の間に国史教科書を、実に手際よく改めたのだ。このような拙速改正のせいでその後、数百カ所で事実と異なったり重複して叙述するなどの誤りが発見された。
現政府は2017年3月に学校現場に新たな教科書を供給すると高言した。制作期間は1年4カ月にすぎない。教育部は「国家の力量を集中し、高品質の教科書を開発する。国史編さん委員会の力量と経験を考慮した時、充分な期間」だと強弁している。

2、 維新政権の忠誠勢力が展開した「検定教科書波動」

 維新時代の国定教科書は公務員・出版社にも時ならぬ晴天のへきれきとなった。1974年に検認定教科書を出していた出版社は110カ所を超えていた。国史の場合、中・高校それぞれ11種、合わせて22種の検認定教科書が発行されていた。
1977年2月24日午前10時、青瓦台の指揮の下、治安本部特殊捜査隊と国税庁職員らが教科書制作法人4カ所に押し寄せた。これらの法人が「教科書内容の修正や価格引き上げをめぐって文教部の担当者たちと結託、ワイロを渡した」というのが政府の発表だった。文教部の編集局長ら13人が拘束され、16人が立件された。文教部公務員19人は辞表を出さなければならなかった。国税庁は関連業者たちに脱税額127億ウォンを追徴するとして乗り出した。俗に言う「検定教科書波動事件」だ。だがこの事件は、単純に公務員と業者の間で繰り広げられた賄賂収受ではなかった。
その年の初め、大統領に就任した米国カーター大統領は3段階の駐韓米軍撤収案を発表した。国内の政界はてんやわんやになった。この時、パク・チョンヒ大統領は1976年から「庶政刷新」というふれこみで公務員の粛清作業を大々的に繰り広げていた。維新体制強化のためだった。このような状況にあって維新政権に忠誠を誓っている勢力らが検定教科書波動事件をねつ造し発表したというのが定説だ。
実際にこの事件と関連して1990年代に大法院(最高裁)は事件自体が歪曲されたという確認を行ったりもした。追徴された税金は、それ以降に進められた訴訟の結果、大部分は還給された。けれども事件の大きな後遺症として、100カ所近かった各出版社は教科書業界から消えてしまった。また一部の出版社社長はショックで病に伏し亡くなったりもした。
事件後、政権は国定教科書を1種教科書とし、検認定を2種と分類する新たな制度を提起した。しかし事件までは国定教科書は中・高校の国語と国史だけだったが、以降は中学校用と実業系高校用の他の課目までがすべて国定に変わった。結果的に国定教科書が、より拡大されたのだ。

3、「国定教科書の欲望」捨てたことのない政府


教科書を独占しようとする欲望を、政府はただの1度もあきらめたことはない。教科書の発行方式を国定または検認定にするかは初・中等教育法第29条2項の委任による「教科用図書に関する規定」(大統領令)に明示されている。この規定が最初にできた時が、まさに前述した「検定教科書波動事件」が起きた1977年だ。事件後、パク・チョンヒ政権は既存の「教科用図書の著作・検認定令」を廃止し、新規定を制定した。今日までこの規定は全部で19回改定されたものの、主務長官がいつでも特定科目を国定教科書に指定することのできる権限を制限したことはない。
「国定図書は教育部長官が定めて告示する教科目の教科用図書とする」という現行条項が存続している限り国史ばかりではなく、どの教科目も長官の告示だけで国定化が可能だ。1992年の憲法裁判所の決定文に照らしてみる時、この規定は教育制度を必ずや法律によって制定するようにした憲法に違背する可能性がある。白紙委任を禁止した憲法条項に違反しているのではないか、という指摘だ。教科書の国定化が政権の意志によっていかようにでもなされ得ることも、当該規定が国会が統制することのできる法律ではなく、すべて大統領に委任されているせいだ。
チャンスがなかったわけではない。6月に起きた国会法を巡る波動の出発は、行政府の施行令が法律に違反しているという問題を国会が正そうとするものだった。施行令は上位法令である法律が委任した範囲を越えることはできないからだ。当時、提出された国会法改正案(第98条の23項)を見ると、「常任委員会は所管中央行政機関の長が提出した大統領令、総理令、省令など、行政立法が法律の趣旨または内容に合致しないと判断される場合、所管中央行政機関の長は修正、変更を要求された事項を処理し、その結果を所管常任委員会に報告しなければならない」となっている。
万が一、国会法の改正案が再議決されて施行されていたならば事情は変わることもあり得た。国史教科書の国定化を推進する根拠である該当規定が大統領令であるがゆえに、国会レベルでこれを阻むことのできる法律的根拠が生じるのだ。だが6月25日、パク・クネ大統領は拒否権を行使し、法案を国会に差し戻し、法案は放置状態だ。

4、 驚くべし、1986年と2015年の「朝鮮日報」

 「朝鮮日報」の論調の大変身も耳目を引く。この新聞は1986年8月15日から29日まで2週間にわたって「国史教科書、新しく書くべきだ」という見出しの特別企画記事を実に11回にわたって掲載した。該当記事は国史検定教科書の誤りを1つ1つ指摘した後、その原因として国定化を挙げた。1974年版と1983年版とが共に数多くの誤りがあると分析した。「国定化以降は単純化され…論争のある部分はすべて抜け落ち。検認定の還元…民族史の生命力を取り戻すべき」などの見出しなど、今になって見れば驚くばかりだ。国定化を廃止し、検認定に変えなければならないとの主張だからだ。
記事で国定教科書の編さん総責任者であるパク・ヨンソク国史編さん委員長の発言を引用した部分は、さらに驚く。「国史教科書を国定化したのが問題だ。もともと教科書に対する国民らの期待心理が大きく、学説がまちまちなものだから、多くの学者らが(国定歴史教科書の)執筆を嫌がっている。国史編さん委で執筆者を探すのに大いにやきもきしている。委員長の顔を立てて執筆してくれる学者もいる」。
連載最後の記事の最後の文章で、丹斎(号)シン・チェホの言葉を引用しさえした。「民族の生死は歴史にかかっている」。現在、この新聞は政府方針の発表後、すぐさま「現代史の検定教科書において、ここが問題だ」という看板を掲げて毎日、「検定教科書が左偏向した」という記事をぶちあげている。
1974年、国史の国定教科書が初めて配布された後、季刊「創作と批評」は直ちに「国史教科書の問題点」特集を組んだ。総論的性格の文章を担当したカン・マンギル高麗大教授は、国史国定教科書の危険性を警告した。「政府の専担で唯一の国史教科書が叙述・使用される場合(…)この国定教科書は当時の政権が持っている歴史的性格およびその位置までをさらけだすばかりではなく、この教科書だけによる国史教育を通じて、その政権が持っている性格を強要する結果となるだろうから…」。
反面、古代史部分の執筆を担当したキム・ジョンベ教授は、ほかの筆者たちとは全く異なった文章を書いた。「執筆者たちの労苦を称賛しないわけにはいかない」「意味のある説得力と体系を持つに至ったことは極めて幸いなこと」「評者自身の無知から、むしろ過ちをおかした可能性もあるだろう」。キム教授は今年7月、国史編さん委員長に任命され、「正しい歴史教科書」のしっぴつ総責任者だ。(「ハンギョレ21」第1083号、15年10月26日付、チョン・ジンシク記者)

コラム

赤い服の女

 以前「山で吹雪にあい、突如現れた白い子犬に導かれて山小屋にたどり着いた」(雨)という体験談が書かれていた。不思議な体験ではあるが、登場したのが「子犬」であったこともあり、怪談話しにはならなかった。しかしそれが「赤い服の若い女性」だったとしたらどうだったろうか……。
 あれは八月も終わろうとしていた仕事帰りのことだった。
 東急S線始発駅の改札を通ると、ホームの人ごみの中から赤バラ色の厚手の半袖を着た若い女性が私の眼に飛び込んできた。その女性が私の元同級生のOさんにうりふたつだったからだ。しかしOさんは私と同じ歳なのだから、その女性がOさんであるわけではない。それでも「もしや」と思い時刻を確認。黒い厚手のスカートに黒いタイツ。まだ八月だというのに黒いハーフブーツ。そして年代物の紺色の大きな皮製のボストンバックを右肩に担いでいる。
 Oさんと私は小・中学校で五年間同級生だった。旅館の娘だったOさんの実家は私の実家のすぐ近くで、私が怪我や病気で学校を休んだ時はいつも給食のパンを届けてくれた。その後O旅館は廃業して引っ越してしまい、高校も別だったこともあってOさんと会う機会はまったくなかった。
 Oさんと再会したのは去年の夏に母の初盆で帰省した時だった。今年の五月にガンで亡くなった中学時代の担任だった女先生との「最後の晩餐」に同席していたのだ。
 「赤い服の女性」は車両の端でつり革を掴まえていた。私は二メートルほど離れて並んだ。気づかれないようにチラリと観察するのだが、至近距離から見てもやはりOさんの若いころにそっくりなのである。
 乗車してから一〇分、私はS神社駅で下車してスーパーマーケットへの近道である暗い路地に入った。何となく振り返ると赤い服の女性が私の後ろを歩いているのである。一瞬ドキリとしたが「確率的にはありうる」と思いあまり気にはしなかった。そしてスーパーに入ってからもう一度振り返ると、その女性も入ってくるのだ。背筋にいやなものが走り出した。
 二階の食品売り場からエスカレーターで一階に向かうと、一階の一番奥にある冷凍食品売り場の角に赤い服の女性がいて、私をジーと見つめているのである。その瞬間「確率論」はぶっ飛んだ。レジで清算してチラリとその方向に眼をやると、赤い服の女性は私をジーと見続けているのである。背筋が凍りつくような思いに襲われて足早に帰宅した。
 その後、毎日のように駅のホームでその女性を見出そうとするのだが、その女性を見かけたのはあの日のたった一度だけである。らちが明かないので田舎の親友に電話で事情を話して、Oさんの安否だけでも確かめてもらうことにした。一週間後に連絡があった。「Oさんは生きているよ!」と……。
 それにしてもあれは何だったのかという疑問だけが残った。 (星)


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