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    かけはし2015.年12月7日号

勝たなければならない闘いだ


11.6〜9辺野古の闘いに参加して

短期間だったが豊かな体験

沖縄の闘いに全国から合流を



基地反対区長
さん宅で民泊
 一一月六〜九日に東京地区から四人で辺野古新基地建設反対行動参加のために沖縄を訪問した。私は昨年の七月にも辺野古の行動に参加していたが、その時は梅雨明けした沖縄の太陽にあぶられて死ぬ思いであった。しかし今回も沖縄は暑かった。連日、最高気温二九度の快晴。顔も腕も真赤に日焼けしてしまった。
 一一月六日、午前一一時すぎに那覇空港に到着すると「めんそーれ」沖縄の仲間二人が出口で迎えてくれた。さっそく向かったのは本島最南端近くにある轟の壕(ガマ)だ。ヘルメットと懐中電灯が配られた。階段を下り狭い壕にはロープを伝わって入らなければならない。左右にそれぞれ五〇mほどの長さで広がるこの壕には、沖縄戦時に八〇〇人ほどの住民が避難していた。入り口は日本軍が押さえていて米軍との戦闘で一〇〇人ほどが犠牲になったようだ。
 壕の中はもちろん真っ暗。足元を照らしていると上から延びる鍾乳洞に頭をゴツゴツとぶつける。ヘルメットがなければ頭部出血で顔面血だらけ間違いなしだ。壕の下には小川が流れていて、小魚やカニも発見。この真っ暗な壕の中で一カ月近く避難生活を強いられて飢餓に耐えた住民たちのことを思う。
 壕の近くにあるさんご礁が広がる大度海岸で昼食タイム。その後、平和祈念資料館とそこに隣接する平和の礎を見学してから、名護・辺野古に向かった。
 我々の二日間の宿泊は名護の大浦湾にある集落で基地反対運動をする区長さん宅での民泊だ。そこで区長さんといろいろと話しをすることができた。「辺野古の闘いは日本の将来がかかっており、必ず勝たなければならない」と強調していたことが印象的であった。また気さくな奥さんも早朝と晩に沖縄の郷土料理などを提供してくれた。ただただ感謝である。

シュワブ前での
早朝座り込み
一一月七日、早朝五時に起床し朝食後、キャンプ・シュワブのゲートに向かう。六時過ぎにゲート前に到着するもまだ真っ暗だ。沖縄の日の出は遅い。ゲート前やゲート向かいの大きなテント村には反対運動の人たちが次々と集まってきているようだ。われわれもゲート前に座り込む。
この日は七〜八〇人ほどが座り込んだだろうか。発言や歌に続いて注意事項も告げられたころ、沖縄県警の機動隊と私服警官がぞろぞろと登場して座り込みの排除にとりかかった。腕をねじ伏せて、急所である脇に手を入れて三人がかりで排除して行く。手馴れたものだ。私も骨折治療中の右腕をねじられて観念し、あっさりと排除されてしまった。ゲートからは二台の作業車が中に入ったようだった。
その後ゲート前に再び座り込んで午前九時まで集会。部落解放同盟の長野県連青年部から一〇数人が参加していた。そして二〇〇人ほどでキャンプ・シュワブのメインゲートに向かいシュプレヒコールをたたきつけた。テント村で小休止後、辺野古ブルーの布に「米軍はアジアから出て行け!」と書かれたアジア連帯講座の横断幕を基地フェンスにくくり付けた。
「いまから出れば乗船に間に合う」と言うことで、大浦湾の対岸にある漁港にむかった。この日、県外から行動に参加した二〇人ほどがライフベストを着けて三隻の抗議船に分乗して長く伸びるブイと並行して沖に進む。天気はいいのだが海上は強風で波も高い。船首にいた我々は頭から波をかぶるも、幸いだったのは海水は辺野古ブルーのきれいなものだったことだ。
海上保安庁・沖縄防衛局の船とのにらみ合いが続くが、どうもこの日は海上作業は行われていないようだった。辺野古漁港でカヌー隊の昼食を積み込んで小島の浜辺で休憩中のカヌー隊に届けてから港に戻った。

闘いを支える
人びとと自然
その後、辺野古漁港にあるテントで昼食と小交流。カンパを渡してからヘリパッド建設に反対する高江に向かった。
途中でマングローブのある公園やダムを展望できる丘に立ち寄る。この日から本島北部で自転車のロードレースが行われており、たくさんの自転車とすれちがう。高江のテントには午後五時前に到着。近くの丘に登って説明を受けた。カンパを渡すと「Tシャツを買ってくれ」と言うので、二着いただくことにした。ここでシールズ福岡の三人の学生に会う。
この日の行動はこれで終了。皆クタクタに疲れたようだった。
一一月八日、区長さん夫婦に感謝の言葉を残してこの日も早朝からゲート前に座り込んだ。しかし日曜日だったこともあり、工事車両も機動隊も来ない。九時までの集会に参加し、県外から福岡、大阪、東京がそれぞれ発言。東京組からは私と白ヒゲ先生が発言した。
その後、車で本島南部・那覇方面に向かう。那覇市内のホテルのチェックインまで十分な時間があったので、潮の引いた大度海岸で潮溜まりの中を泳ぐ色とりどりの熱帯魚を観察する。修学旅行の中学生もたくさん来ている。沖縄そばの昼食後まだ時間があったので、那覇市内の博物館を見学することになった。そして夕刻から国際通りに繰り出して、S大全学闘や地元の仲間たちとの大交流会となった。
一一月九日、午前九時半ごろ那覇空港に到着すると、沖縄の仲間が見送りに来ていた。軽い食事を取り、土産などを買い帰路についた。
今回の沖縄訪問は地元の仲間たちが案内してくれたということもあって、大変貴重な経験をすることができた。鍾乳洞の伸びるガマだって実際に入ってみないことには、そのリアルさはわからない。海上から眺めた青く透き通った美しい辺野古の海。民泊した区長さんから感じとれた自信と誇り……。
沖縄・辺野古の闘いは何としてでも勝たなければならない。(鶴)

沖縄報告

ゲート前にさらに多くの人々を

急ピッチで深まる対決

(15年11月30日)

翁長知事の埋め立て承認取り消しで、辺野古基地建設の根拠はなくなった!

 二〇一五年一〇月一三日、翁長知事が埋め立て承認を取り消した。二〇一四年一二月一〇日の翁長知事就任以来、辺野古基地反対を闘う人々が待っていた時がついにやってきた。日本政府・沖縄防衛局が辺野古新基地建設を正当化する唯一の根拠としてきた前知事の埋め立て承認が現知事によってきっぱりと否定された。
翁長さん、勇気ある決断ありがとう! キャンプ・シュワーブゲート前の人びとは歓呼し、カチャーシーを舞った。
ところが、戦後最悪の傲慢で反民主的な中央集権国家になってしまっている日本政府は、何が何でも辺野古新基地建設を強行しようとして、法律を手前勝手に利用するとともに、暴力と金を総動員し、次のような対抗策を矢継ぎ早に打ち出してきた。
@翁長知事の埋め立て承認取り消しに対し、沖縄防衛局が国交相に取り消しの取り消しを求める審査請求と共に、福岡高裁那覇支部に代執行裁判を提起した(一二月二日に第一回口頭弁論が予定されており、翁長知事が弁論に立つ)、A沖縄県警では手に負えなくなってきた辺野古現地の警備に、日本本土から警視庁機動隊を投入した(大浦湾のカヌチャリゾートに宿泊して毎朝キャンプ・シュワーブに「出勤」する)、B辺野古地区の三区(辺野古、久志、豊原)に政府から直接一区一三〇〇万円を上限として「迷惑料」を名目とした、基地に反対させないための金の投入を決めた。
このような政府の露骨な攻撃にたいし、辺野古現地の闘いはひるむどころか、さらに拡大しいっそう活気を帯びてきている。

早朝ゲート前に一二〇〇人 工事車両の進入を止めた!

 一一月四日、動員された警視庁機動隊一〇〇人余がはじめて辺野古警備についた。以降、辺野古現場は以前にもまして乱暴な強制排除でけが人が続出。手の指や喉をやられたり、わき腹を押さえつけられ肋骨を折られたり、女性たちも倒されて足をひっぱられるような、荒っぽい排除が横行している。
海でも海上保安庁の抗議船とカヌー隊に対する対応がエスカレート。海に沈められたり、船の床に力ずくで押さえつけられたり、意識を失って救急車で搬送されたりするなど、海保の暴力性が強まった。
この間、県民会議は毎週水曜日の議員行動日にあわせて、最大結集を呼びかけてきた。一一月一一日の五〇〇人に続き、ゲート前座り込み五〇〇日の一八日にははじめて早朝一〇〇〇人を突破して一二〇〇人が結集、ゲート前は抗議の人波であふれた。この日、警察機動隊は米軍基地の中から出て来ることができず、工事車両は一台も入ることができなかった。 
昨年七月にゲート前の座り込みの闘いが始まったととき、Kさんが「キャンプ・シュワーブゲート前友だち一〇〇〇人できるかな」と替え歌を作り歌ってきて以来、ゲート前に一〇〇〇人を集めることはひとつの目標だった。そしてついに、夜明け前から一〇〇〇人を超える人々が集まり工事車両の進入を止めた。
我々は確信した。この闘いは勝つことができる! ゲート前へ、もっともっと多くの人々を結集し、辺野古NO!の意思を満天下に示すのだ!
(K・S)

11・8〜20
福井から大阪へリレーデモ

高浜原発を動かすな!

関電本店前で1000人集会

 【大阪】一一月八日、高浜原発前展望所で出発集会をし、一〇〇人で原発ゲート前で抗議行動を展開し、高浜町役場までデモ。後、交流会。九日、高浜町役場で高浜町に申し入れ、後JR小浜駅までデモ。後、交流会。以下、このようにして一〇日、熊川宿まで。一一日、JR近江今津駅まで。一二日、JR近江島駅まで。一三日、JR志賀駅まで。一四日JRおごと温泉駅まで。一五日JR大津駅まで。一六日関電京都支店まで。一七日、JR長岡京駅まで。一八日、JR高槻駅まで。一九日、JR吹田駅まで。大阪に入ってからのデモ参加者は一〇〇人を超え、一五〇人ほどの時もあった。最終日の二〇日には、大阪府庁、大阪市申し入れの後、関電本店まで。関電本店前では夕刻から、大集会が一〇〇〇人の市民の参加で開かれた。
小林圭二さん(京大熊取原子炉実験所元講師)、中嶌哲演さんがあいさつ。小林さんは、「リレーデモは今までにない試みで、運動の点と点をつないで線にし、また、点の周りを広げた」と、中嶌さんは大飯原発三・四号機運転差し止め訴訟の控訴審が、原審を支持してくれるよう期待を述べた。また「福井から原発を止める裁判の会」副代表として活動している高槻在住の水戸喜世子さんは、「最近骨折をしたので歩けないかなと思ったが、沿道の声援に私の方が励まされ、高槻の区間を歩くことができた。本当によかった」と語った。稲村守さん(大津実行委員会)は、「沿道で、カンパを持って励ましに来てくれる人、鯖寿司を差し入れしてくれた人、インターネットで知って、関東から夫婦でデモに参加した人もいた」と語った。川内原発再稼働反対運動からも参加があり、九電に対し三一一キロのデモを行ったとの報告があった。
 山川さん(大阪実行委員会)は、「申し入れに対し、大阪府は国の方針を待っているという対応だった。関電筆頭株主の大阪市には、株主として原発の廃炉を提案するように要請した。関電の対応はひどく、小林さんが要請文を読みあげているとき、かかってきた携帯電話に出て、まともに聞いていなかった。五分で面会を切り上げた」と報告した。また、宮下正一さん(原子力発電に反対する福井県民会議)は、もんじゅを廃炉へ!全国集会を一二月五日福井市で開催することを述べ、参加を訴えた。運動に最も初期に原発における核の暴走の危険性を指摘した物理学者の槌田敦さんも顔を見せてあいさつした。
最後に、この度のリレーデモを企画し準備した木原荘林さん(若狭の原発を考える会)がまとめのあいさつをし、「原発は人間の手に負えない装置。自然災害は止められないが、原発は人間がつくったものだから、人間が止めることができる。しかし、一度事故を起こし爆発すれば、もう止められない。だから、早く止めなければいけない。高浜、大飯、もんじゅ、そして若狭の原発も含め全ての原発を止めよう」、と訴えた。             (T・T)


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