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    かけはし2015.年12月7日号

12・13三里塚―東峰現地行動


成田空港「第3滑走路」計画を撤回せよ! 横堀現闘本部裁判勝利! 年間30万回飛行、飛行制限時間緩和を許さない! 反原発―再稼働やめろ! 沖縄・辺野古新基地建設反対! TPP反対!

三里塚空港に反対する連絡会


安倍政権打倒


 安倍政権は米国と共に世界中で戦争をする安保法制を、労働者・市民・学生の国会を包囲する数万人の結集と全国各地で行われた抗議行動を無視して強行成立させた。安倍首相は独占資本の利益のために原発再稼働、TPPの推進、労働法制・治安法制の改悪、沖縄・辺野古新基地建設の強行など国の形を根本から変え、労働者、農民、市民の生活と権利を奪う政策を押し進めている。反人民的な安倍自公政権を全力で打倒しなければならない。

横堀現闘本部裁
判不当判決糾弾


国土交通省―成田国際空港株式会社は一体となって「空港機能の拡張」を名目として様々な悪辣な策動を行っている。
空港会社は空港予定地内に存在する農民の土地や一坪共有地をはじめとする反対運動の拠点を訴訟によって強奪するというやり方をこの間取ってきた。空港会社は昨年二月、反対同盟を相手取って空港用地内横堀にある反対同盟現闘本部の建物を撤去し、土地を明け渡すように千葉地裁に提訴した。一坪共有地であった土地は、すでに裁判で全て空港会社の所有となり、建物は「朽廃」して空港機能拡張のジャマになるというのがその理由だった。
九月二日、千葉地裁(金子直史裁判長)は不当にも空港会社の言い分を全て認めて、建物を撤去し土地を明け渡せという判決を言い渡した。
空港会社(当時、空港公団)は一九九一―九四年の「成田シンポジウム・円卓会議」の結果、「話し合いによる解決を目指す」「用地の取得には強制的手段を用いない」という確約をした。しかし、空港会社はその約束をことごとく反故にして司法の強制力(裁判所の強制執行)を使って土地の取得、団結小屋などの撤去を行ってきた。
千葉地裁はこうした空港会社のやりかたに対し、「民事訴訟の手続きによる解決を求める」ことは「強制的手段に当るとは解し難い」と空港会社を擁護し、判決を下した。かかる不当判決は断じて認めることはできない。空港反対同盟は直ちに控訴し、最後まで裁判闘争を闘い抜くことを表明している。
国土交通省・空港会社は二〇二〇年東京オリンピックまでに発着回数を増やすために、夜間飛行制限時間(現行では午後一一時から午前六時までは飛べない)を緩和するという方針を地元に提示している。LCC(格安航空会社)の要請に応え、飛行制限時間を緩和するというのだ。資本の利潤の追求のために住民の生活を破壊する制限時間緩和を許すことはできない。
さらに国土交通省は二〇三〇年までに成田に第三滑走路を作るという計画を作成し、地元に提示した。九月一七日にはこれを話し合う四者協議会(国と県、成田市など地元九市町、空港会社)が開かれ、計画推進のために協議が行われた。
ここで国は空港会社に対して滑走路増設の効果やコスト、騒音問題を調査するチームを設置するように提示したという。われわれは住民追い出しによる廃村化、農業破壊、騒音の拡大による生活破壊をもたらす第三滑走路建設に断固反対し闘い抜く。
三里塚農民、用地内農民と連帯し、東峰住民追い出し、第三滑走路建設策動を許さず共に闘おう!一二・一三東峰現地に結集しよう!(2015・10・16)

●日時:一二月一三日(日)/午後一時結集
●場所:旧東峰共同出荷場跡(成田市東峰65―1)、開拓道路に向けてデモ
●会場への行き方:東成田駅地上12時集合/迎車待機で会場へ
(10:34発 京成上野 (特急)→11:42着 成田11:52発→11:57着 東成田)
●主催:三里塚空港に反対する連絡会
連絡先:千葉県山武郡芝山町香山新田90―5/電話:FAX0479―78―8101

12・14東京高裁 横堀現闘本部撤去第一回口頭弁論へ

司法・空港会社一体の攻撃を許すな

勝利判決を勝ち取ろう

 一二月一四日、東京高裁で成田国際空港会社が三里塚芝山連合空港反対同盟(柳川秀夫代表世話人)に対して横堀現闘本部撤去と土地の明け渡しを求めた訴訟(朽廃建物収去土地明渡請求事件)の第一回口頭弁論(一二月一四日〈月〉/東京高裁八二四号法廷/午後三時)が開かれる。
 一審の千葉地裁は、成田国際空港会社の歴史の偽造を追認し、「権利濫用」「信義違反」を無視する不当判決を言い渡した(九月二日)。控訴審の闘いに向けて控訴理由書(別掲)は、一審判決の不当性を批判し、判決取り消しを主張している。裁判闘争勝利に向けて支援と裁判カンパを訴える。

三里塚空港に反対する連絡会

■裁判闘争費用のカンパ(1口 2000円)
振替口座:00290―1―100426 大地共有委員会〈U〉

三里塚芝山連合空港反対同盟(代表世話人:柳川秀夫)/大地共有委員会U(代表:加瀬 勉)
〒289─1601 千葉県山武郡芝山町香山新田 90─5(案山子亭)/電話&FAX0479─78─8101

控訴理由書(要旨)
(控訴人・三里塚芝山連合空港反対同盟/訴訟代理人・清井礼司)

1 横堀現闘本部のある土地は、最高裁の不当な判決によって空港会社が、シンポジウムでの合意を一方的に無視し、それを破って所有権を強奪したが、現闘本部建物そのものについて一切触れることができないでいた。
空港会社は、羽田空港新滑走路供用開始による成田空港の国際空港として地位の著しい低下、アジア国際空港競争の劣勢挽回のための、三〇万回離発着、空港拡張、安全軽視の格安航空会社(LCC)の誘致、離着陸制限時間の緩和圧力を強めながら、東京五輪による航空需要拡大などと称して拡大需要をでっち上げ、「第三滑走路建設計画」キャンペーンを展開するなど、焦燥感が漂っている。
その現れの一つが、横堀現地闘争本部撤去請求であるが、その実質は、過密運行、安全軽視、環境・人権破壊、空港公害の拡大と、時代に逆行する危険に満ちたものである。一審判決は、本訴請求が確実に招来するこのような危険な結果を見ようともしていない。
2 裁判所は、歴史的に、成田空港問題の当初以来、空港公団の時代から空港会社の主張を全面的に追認してきた。だからこそ、シンポジウムでの合意の中では、裁判も強制的手段として含意されることになったのであるが、原判決も歴史的に無自覚のままに、この延長線上において本件訴訟の争点を「本件請求が権利の濫用に当るか」と切り縮め、控訴人の反論を排除して、「被控訴人会社の請求を権利濫用という被告の主張を採用することはできない」から「横堀闘争本部撤去と明渡し」を行えと命じた。
3 原判決は、(現闘本部を)「承認したとすべき事実を認めるに足りる証拠はない」と決めつけているが、そうであるならば、空港会社の「(一九九八年)一月に開催された旗開き以降は一切使用していない」という主張と整合性がないのではないか。
4 控訴人は、現闘本部の建物を一九九八年一月以降も、諸々の行事や種々の会合で使用していた。空港会社は二〇〇六年七月〜八月に至って、横堀十字路から現闘本部に至る通路をバリケードを設置しての封鎖を一方的に強行し、控訴人が有する現闘本部の使用・管理権を、全くの自力救済として、一方的に剥奪した。建物は使用しなければ傷む。
原判決は、被控訴人の一方的な道路封鎖強行という「権利濫用」によって現闘本部建物を「朽廃状態」に追い込んだ事実を完全に無視し、「請求権の成否を直接に左右するものではなく」などと強引に控訴人の主張を排除してしまった。これは控訴人の現闘本部の現状確認のための検証請求を不要としたことにも連動している。
5 原判決は、成田空港シンポジウム(一九九一年)、円卓会議(一九九三年)を通して、政府・公団が(元)熱田派反対同盟=控訴人の農民に対し、今後『あらゆる強制的手段』によらないと約束しているにもかかわらず、現闘本部が存在する「横風用滑走路の計画用地及び地上通路の用地の取得については、少なくとも、強制的手段を用いない旨が明確に合意されているわけではない」と根拠も提示せずにこの「約束」と切り離し、反古にしてしまった。
控訴人は、空港会社の信義則違反と権利濫用を示す証拠として、@黒野社長の「暫定滑走路に関わる謝罪」(「回答」/二〇〇二・五・九/「東峰区の皆さまへ」)A公団の浅子直樹用地業務推進室長(当時)が北原派反対同盟に属する共有地の共有分割請求訴訟での記者会見(二〇〇二・一二・二四)で「他の共有地については引き続き任意交渉し、訴訟で取得を求めるのは今回が最後である」と述べていた(毎日新聞/〇二・一二・二五)ことな゛とを明らかにした。
原判決は、「これらの情報に接した被告の構成員が、本件各土地や本件建物に関し、原告から訴訟を提起されることはないと期待を抱いたとしても、そのことのみよっては、本件請求が権利の濫用であることを基礎付けるに十分ではないといわざるを得ない」と、歴史的経緯を捨象した上で、手前勝手に判断し、黒野発言と浅子発言という明白な証拠を、当時の彼等の具体的関係を無視し軽視してしまったのである。
6 以上のとおりであるから、原判決は取り消されるべきである。

コラム

「元若者」の責任

 ぼくが大学に入ったのは、六〇年安保闘争から五年後のことだった。
 そのころはまだ自治会活動があって、ぼくのクラスでは、クラス討論の資料をつくったり、クラス新聞を出したり、サルトルやマルクスなどの学習会をしたりするのに、いつも二〇人前後の仲間が集まっていた。
 ある日、トロツキーの『ロシア革命史』を勉強すると銘打たれたサークルを見つけ、数人の仲間を誘って参加した。二回ほど学習会があったあと、見知らぬ「おじさん」がそこにいた。サークルのキャップは、「この人は六〇年安保闘争の闘士だ」と誇らしげに紹介した。その「闘士」を、ぼくは化石を眺めるような目で見ていた。
 六〇年安保闘争の時、ぼくは中学生だった。政治とか平和といった言葉をどこか嘘っぽく感じる「文学少年」だったぼくは、アンポゴッコさえしなかった。そのあと入った高校では、六〇年には教職員も生徒もこぞってデモに出ていたと聞いた。その先頭に立っていた校長は、戦争中に宗教者として反戦運動をしたために獄に繋がれていた。小林多喜二の世界とも重なり、校長に深い尊敬の念をいだいたおぼえがある。
 大学に入りベトナム人民支援運動に加わるようになったぼくは、六〇年安保闘争を「戦後民主主義の幻想」にもとづく運動だと考えるようになっていた。それは大なり小なりクラスの仲間の共通感覚であり、スターリニズムについてよく知らなくても、日本共産党との共通の断絶線だった。クラス新聞には「戦後民主主義の欺瞞性」といった文字がおどっていた。
 それから半世紀の時が流れた。戦争法案反対運動について、メディアは「動員型」ではなく「個人参加型」であることが新しいと伝えていた。実態は、労働組合の動員力が落ちているなか、労働組合員やそのOBなど自分は左翼だと思っている人たちが基層となり、必死になってつくりだされた大衆運動だった。デモのあと、こんな会話をよく耳にした。「もっと多くの人を集めないと、新聞には載らないね」。
 そこにシールズが登場した。ぼくが目にした場面では、シールズのまわりにはいつも多くのメディアのカメラが取り巻いていた。そして、若者の六倍とか八倍の「元若者」が参加していた。ぼくのような「元若者」たちは、五分ほどコールしては近くに腰かけて少し休み、またコールに戻るというのを繰り返していた。体力がもたないのだ。若いってすばらしい!
 ぼくが隔世の感をおぼえたのは、コールのスタイルは新しいが、その内容が決してラディカルではないことだった。かれらは、あたりを見まわしながら、おずおずと言葉を紡いでいるように思えた。それだけに、「『憲法守れ』『立憲主義守れ』って、なんでオレたちが言わなくちゃいけないんだ!」との叫びには、いたく共感した。
 戦後労働運動の歴史的敗北と「連合赤軍」のテロリズムや日本新左翼の内ゲバ主義が影を落とし、今なお若者たちを縛っているようだ。ぼくらは、若者たちからは化石にしか見えないかもしれないが、この世代とともに未来の希望を手にしたい。そのためには、今なおかれらを縛る「負の遺産」に対する責任を背負い続け、国際主義を再構築することが必要条件なのだろう。 (岩)


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