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    かけはし2016.年1月1日号

非常事態宣言の中でわれわれの責任は


ISのテロ

まず犠牲者への連帯を!

IS・宗教的原理主義の反動性
と闘う国際主義的運動が不可欠

フランソワ・サバド/ピエール・ルッセ


 ISによるパリでのテロ攻撃は、世界で進む危機の深さをあらためて突きつけ、革命的左翼に対しても任務の再考を迫っている。以下に紹介する論考はその認識の下、われわれの闘いを帝国主義の糾弾にとどめず、ISが表現するものとその民衆に対する敵対性を明確に認識し、それらに対するわれわれのやり方による断固とした闘いを対置する必要を強調している。重要な指摘であり検討していただきたい。(「かけはし」編集部)

民衆間の分断が彼らの狙い


 一一月一三日はフランス政治情勢と国際政治情勢の転換を表現している。イスラム国が再び攻撃を行ったが、今回のは前回よりもさらに激しいものであった。一月には、攻撃対象は週刊『シャルリー・エブド』のジャーナリスト、警官、ユダヤ人だった。今回は、攻撃の標的となったのは、フランスの若者だった。襲撃者たちは、それが誰であれどこであれ殺したというわけではなかった。若者を攻撃したのだった。その出自、その宗教(もし信仰がある人であればだが)、その政治的信条がどうであれ、あらゆる人種の若者を攻撃したのである。少なくとも一三〇人が死亡し、三五〇人以上が負傷した。少なくとも一〇〇〇人の人々がこの大殺戮の直接の目撃者になった。われわれの多くはその犠牲者の中に自分たちの身内を抱えているし、そうでない場合にも、犠牲になった友人がいる。その衝撃波、そこで引き起こされた感情の動揺は、深刻である。
イスラム国の司令官たちが追求している目的はけっして不可解なものではない。その目的はテロを通じて社会を引き裂くことであり、互いが戦争し合うことを強制される情勢を作り出すことである。そこでは、恐怖のために、それぞれの出自、宗教、ライフスタイル、アイデンティティーに従って通り抜けできない境界線が市民相互間に引かれることになる。イスラム教それ自身の内部に血にまみれた溝を掘り、信者にどちらかの陣営を選ぶよう強制することである。その非人道的な行為までは自分たちは同意しないとする者は誰であろうと、自分たちに反対するものであり、「正当化できる」攻撃対象になるというわけだ。
パリでの攻撃は、イスラム国ならびに同様の破壊的論理を信じそれに身を投じている同類の他の運動によって全世界で犯されている最も残虐な行為のひとつである。われわれの連帯は国際的なものである。その連帯はとりわけ、自らの生命の危険を賭してイスラム国やそれと同類のグループに対して他の諸国で闘っている人々に対して向けられている。シリアでイラクで、レバノンやバマコ(マリの首都)で、パキスタンやトルコで闘っている人々に向けられているのだ。まず最初に、われわれは、犠牲者とその近親者に対するわれわれの同情を確認するとともに、われわれが一体であって互いに友愛のもとに結ばれていることを確認しなければならない。
このような時にあって、われわれはもちろん階級闘争を継続し、すべての被抑圧人民の闘いを支持するつもりである。しかし、それを超えてさらに、バーバリズムに対して人間性を擁護する。革命的な参加の人道主義的な側面はいぜんとしてわれわれの羅針盤であり続けている。いかなる進歩的な政治も、憤激や感情から始まる。もちろん、進歩的な政治はそうしたものに還元されてしまうものではなくて、それらは出発点なのだ。よく考えることと嘆くことを対立させて捉えないようにしよう! 紋切型の建前論を語ったり、突き放した冷たい論調で書いたりしないようにしよう! ただちに、犠牲者とその近親者を助け、追悼や黙とうや連帯のデモに参加しよう! われわれはこの運動の中にいる。そしてわれわれが自らの立場を説明をすることができるのは、、まさにそこからなのである。

イスラム国には明確な責任あり

 革命派は、原理主義のバーバリズムを明確にきっぱりと退けなければならない。わが国の政府の方法や路線ではなくて、われわれの方法やわれわれの路線によってそれと闘わなければならない。それを徹底的に打ち破らなければならない。
事態の衝撃を受けて、左翼の諸組織、団体、労働組合は挙国一致の呼びかけに屈服している。もう一方では、この動きに対する反動として、西側帝国主義の実際の政治的、歴史的な責任をひどく強調するあまり、イスラム国への弾劾が聞こえないほど弱くなってしまっている組織もある。その後、日にちが経つにつれて、各組織の立場は、多くの場合、明確なものになってきた。とてもよいことだ。だが、今なおわれわれは次のようにみなしている多くの論文を読む。すなわち、今回の攻撃は「弁解の余地のないもの」であるけれども、とりわけ、「諸関係」を考慮する必要があるのであって、「諸関係」の分析が本質的には帝国主義の悪行の数々に原因があることを示している以上、原理主義の運動が大国の行動に対する単なる反撃にすぎないのであるとわれわれは結論づけることができるし、原理主義の運動に対しては情状酌量にすべき情況が存在したという点を認めるべきである、というわけである。この問題に関してはいっさいの曖昧さを取り除く必要がある。
奇妙なことに、左翼の側の多くの論者は、原理主義派の攻撃を強く非難するのだが、それを行った運動を名指しで公然と非難することは拒否する。さらに奇妙なことに、そうすることを(罪を犯したものを名指ししたり、その反動的性格を公然と指摘すること)をためらっている多くの組織は、そこからいかなる実践的結論をも導き出さないのだ。議論が任務の点になると、テロに反対する闘い、これらの原理主義に反対する闘いはもはや触れられなくなってしまう。
ところで、こうした態度は、政府にテロに対する反撃を独占させたままにすることになるのである。帝国主義とその戦争、資本主義の破壊的グローバリゼーション、その不平等と差別、文明の衝突というイデオロギー、イスラム憎悪をはじめとする人種差別主義、植民地支配の過去の遺産、治安政策、緊急時特別体制、挙国一致と社会平和の訴え……、を非難するという点においてわれわれは、全体として一致している。したがって、われわれが今日経験している悲劇的な出来事のいくつかの原因と結果を非難するという点では合意がある。
しかし、われわれは同時に、われわれ自身の社会においてとりわけイスラム国の影響と闘い、一方的な宗教的な偏狭さによって引き裂かれている途上国における民衆の抵抗に対するわれわれの連帯を具体的に表明しなければならない。もし一つの責務があるとすれば、それはこの国際主義的責務である。そこに、急進主義左翼の「自身でも気づいていない弱点」がある。急進派の左翼でさえ、有害な「陣営論」に陥っている。本論の中でわれわれがこの問題を重視しているのはそのためである。
イスラム国とそれと同類のその他の運動は単に帝国主義に対する反撃で満足しているわけではない。これらの運動は自身の実践すべき任務に従って行動している。それは決められた目的を追求する政治的主体である。パリでの攻撃の責任がイスラム国に実際にあるという点にほとんど疑う余地はない。この組織はイギリスに匹敵する広さの地域に原型的国家を建設した。それは行政統治を行っている。それは膨大な富(推定でほぼ一八億ドル)を蓄積している。それは石油と木綿の密輸を組織し、多くの前線で軍事作戦を遂行している。それは高度なIT技術専門家を募集している……。それは傀儡組織ではない。それは自身の行動に責任を有している―多くの場所で行われた攻撃に全面的な責任を負っている。
帝国主義にその責任があるということ、同時にその責任が二〇世紀初頭のサイクス・ピコ協定に始まり現代の列強の介入にいたるまで長期にわたる圧倒的なものであることは事実だが、この事実があるからと言って、そのために自身の責任が消えるわけではない。  二〇〇三年のアメリカのイラクへの介入(これはこの地域の安定を破壊し、諸国家を混乱に陥らせた)がなければ、イスラム国は存在しなかっただろうということがしばしば言われる。このことは、周知のようにイスラム国の創設をもたらした出来事の特殊な因果関係の連鎖に関してのみ真実であるにすぎない。別の観点からすると、それは本当ではない。ジハード派は唯一帝国主義の支配から機械的に生まれてきたわけではない。それは、アラブ(とヨーロッパ)の左翼勢力の破産から、自らの地域に対する新たな野望を支えるために、そしてまたアラブ世界における革命的高揚と闘うために新たな反革命勢力を確保しようとする地域のブルジョアジーの意向に至るまで、の複合的諸要因の産物なのである。
このことはまた、二〇〇三年に匹敵するような出来事を経験していない、インド(ヒンズー教極右派)、ビルマ(仏教徒極右派)、アメリカ(キリスト教極右派―二〇〇一年以前には強力で、ブッシュときわめて近かった)のような諸国を含む、世界の他の地域の宗教的原理主義の台頭についても当てはまる。

ISは単なる西側の影ではない

 西側帝国主義に責任はある。それは、ドイツにおけるナチの台頭に一九一四年―一九一八年の第一次大戦直後のヴェルサイユ条約に責任があるのと同じである。当時の反ファシスト派はその点を必ず想起していた。しかしながら、ひとたびそれがナチが離陸して台頭する段階になると、ナチ党は非難され、そのような存在として打倒の対象となった。イスラム国はすでに離陸しているのだ……。
われわれは事態を取り巻く「諸関係」を説明しなければならないが、イスラム国を、単なる西側の影としてではなく、それ自体が何であるのかについて懸念しなければならない。現代の帝国主義、新自由主義の諸政策、資本主義的グローバリゼーション、再植民地化の試み、互いに入り組んで存在している多くの諸国の社会構造を引き裂くとともに、ありとあらゆる類のバーバリズムを解き放ちつつある終わりなき戦争。だが、宗教的原理主義もまた、社会全体への恐るべき解体動因である。
実際には、今日われわれが闘うべき「主要なバーバリズム」(西側)と不確定の将来にわれわれが案ずるべき「副次的バーバリズム」との二つのバーバリズムが存在するわけではない。その逆もまた真実なのである。原理主義のバーバリズムと闘うという口実のもとに帝国主義のバーバリズムならびに帝国主義と同盟している各国の独裁体制のバーバリズムを赦すべきではない。脅威には序列はない。われわれは、自らの政治的、人道主義的責務を怠ることなく、相互に寄生し合っているこの双生児のバーバリズムの犠牲者を積極的にしかもただちに防衛しなければならない。
宗教的原理主義は、自らの自立を主張し、後援者に刃向うようになるまでは、ソ連邦に反対する闘争の名の下に当初はワシントンによって支援されていた(アフガニスタン、パキスタン)。こうした反動的運動には何ら進歩的なものはない。「反動的な反帝国主義」などというものも存在しない。この運動は、言葉の明確な意味でも、資本主義的であると同時に復古主義的で全体主義的な社会のモデルを強制したいと望んでいる。もちろん、フランスは、その中東政策のゆえに、そしてまた植民地支配の、そしてポストコロニアルの歴史のゆえに攻撃を受けている。だが、イスラム国がヤズィーディの人々を、これらの人々がただヤズィーディであるという理由だけで大量に虐殺し、住民を奴隷にし、女性を売り、レバノンの安定を破壊し、その宗派相互間の暴力を極端にまで推し進める時(とりわけシーア派に対して)、それは反帝国主義と目されていることとどのように関係するというのだろうか?
すべての宗教的原理主義が同じ基盤、同じ戦略をもっているわけではない。イスラム国のようなその一部はファシストなのだろうか? 一九三〇年代のヨーロッパにおいてファシストは帝国主義ブルジョアジーの諸勢力と関係を結んでいた。今日、これらの勢力は、それと同じような(複雑な)関係を帝国主義の諸勢力との間で保持しているわけではないが、中東におけるイラン、サウジアラビア、カタール、トルコなどの「地域大国」のブルジョアジーの諸勢力との間でそうした関係を再生産している。……これらの勢力は腐敗した社会の中の「人間のクズのような連中」だけでなく、「中産階級」や「プチブルジョアジー」や教育を受けた労働者をも引き付けている。下からの「テロ」を利用して自らの秩序を押し付けているのである。それは、かつてナチがユダヤ人やロマ人やホモセクシュアルの人々に対してしたように、異なる人々から人間性を奪い、そうした人々をスケープゴートにする。それは民主主義とありとあらゆる形の進歩的人民の組織を根絶やしにする。宗教的高揚感が戦時中の国威高揚と同じ役割を果たしているが、さらには、そうした宗教的高揚感は、その支持者の国際的な配置をも可能にしているのだ。
これらの勢力が前世紀のファシストにその特徴が寸分違わないほど類似しているとすれば、それは驚くべきことなのだが、それとまったく同じように、資本主義的グローバリゼーションによって引き起こされる激動が新しいファシズムを誕生させないとするのもまた、おかしな話であろう。これらの勢力とヨーロッパのファシズムとの間には違いがある。それは、この全体主義的な原理主義派の反応と、国家の崩壊やこの地域の帝国主義の網の目のような経済的・軍事的な支配関係の危機とが重なり合っているところに存在しているのである。
テロに反対する闘いは地域の人民によってなされなければならないのであって、西側列強の連合によってではない。湾岸諸国やシリア独裁体制による側面からの支援を受ける形でなされる帝国主義列強やロシアの新たな軍事介入は、イスラム国を軍事面で弱体化させることができるだろうが、この地域のすべてのスンニ派の人民からの激しい反発しか引き起こさない可能性がある。

社会で進む危機への対応が必要

 一一月一三日の攻撃は、フランス人またはフランス系ベルギー人によって主として行われた―フランスはベルギーと並んでシリアに向かう人々の大部分が出発点とする国である。イスラム国と提携していた人々の間に単一の人物像があるわけではない。これらの人々の家庭は、イスラム教の信者の家もあるし、世俗的なイスラム教信者の家もあり、また宗教を信じていない家庭の出身者もいるかもしれない。最近になってイスラム教に改宗した非アラブ人もかなり多い。同様に、生活が不安定な家庭の出身者もいるし、そうではなく安定した家庭の出もいる。さらに、過去に犯罪歴がある者も、そうでない者もいるだろう。いくつかのケースでは、個人の「急進化」は長い過程を経た上でその頂点に達したことを表しているのだが、突然の急激な変化でそうなる者もいる。予想できたことだが、フランスで攻撃を行った者たちの大部分はとりわけ恵まれない背景をもっていて、投獄されたり、ギャングの一員だったことがあるのだが、全員がそうだというわけではない。
人間像のこの多様性に対して、われわれは、社会学的観点(非正規雇用の拡大、社会関係の人種化)からだけの、あるいは歴史的な観点(ポストコロニアルの傷痕)からの単純な説明だけで満足することはできない。
かつての時代の青年の急進化とは異なり、これは人数的には非常に少数であり、かつての同じような人道主義的願望に鼓舞されているわけではない。イスラム国家は考えられ得る最もどぎつい形で登場している。「さあ、われわれのもとにやって来て、ともに首をはねよう」というのだ。フランス軍は、大規模な拷問を行った。とりわけ、アルジェの闘いの間はそうだった。だが。フランス政府とその参謀本部は自分たちの犯罪を強く否定した。「諸君の偉大な軍隊に入って、いっしょに拷問しよう」と宣言するような訴えはまったくなされなかった。イスラム国は、(極右派の中でも最も極端な分子にならって)自分たちと異なる者を憎悪し、排斥すると公然と語っている。今日シリアに向かっている者たちとスペイン内戦中に国際旅団を結成した人々との間には何の類似性もない。あるいは、一九六〇年代の急進化を担った青年たちとの間にも何らの類似性も存在しない。
これらすべても、大規模なテロの行使も、およそまったく尋常なものではない。「力が釣り合っていない」戦争においてはテロリズムは被抑圧人民の「当然の」武器であると主張することは、前世紀の偉大な解放闘争や革命戦争の教訓を無視することである。独立を目指し、帝国主義に反対するインドシナやラテン・アメリカの闘いにおいては、当時、テロ攻撃はまれであって、これらの運動は全体としてすぐさま、そのような作戦の政治的代償があまりにも高くつきすぎるし、多くの倫理的問題を提起するということを自覚した。アルジェリアでは、FLN(民族解放戦線)は、あえてこの地平に踏み込んだが、自らの隊列のいくつかの部分から、あるいはアルジェリア独立と連帯する運動から圧力を受けて、すぐさまそこから身を引いた。
今日、「政治の危機」が生まれ、われわれの新自由主義の社会に特有の非社会化が進み、不公平が増大し、われわれ世代(一九六〇年代と七〇年代の急進派)が敗北を喫し、わが国の左翼勢力はいかなる根本的な展望をも打ち出すことも不安定な生活を送っている民衆の中で活動することもできない。われわれは、以上のような危機の最終的帰結の影響を受けているのである。実際、われわれは、われわれの大部分が取り組んだことのない領域に直面しているのだ。すなわち、それは、社会心理学の領域であり、個人のアイデンティティの脆弱さと社会構造の腐朽との関係、青年期についての探求、を扱う領域である。イスラム国家は、アイデンティティと力を備えたよろいかぶとを提供する。この力とは、表現の力、武器の力、女性の上に立つ力、生と死の力、である。これらは、反帝国主義と目されているものよりもずっと多くのものなのであり、それが人々を引き付ける魅力となっている。
こうしたものは、われわれがこれまでしてきた以上にさらにわれわれが取り組まなければならない問題なのである。そして、われわれはすでにそれが意味するもののいくつかを導き出すことができる。人種差別に反対する闘いはそれ自身としては重要なのだが、それだけでは十分ではない。新自由主義の個人主義とその匿名性(隣人のことを誰も知らない)に対して、われわれは人々が社会化し、混ざり合うことができる場、人々が「共生する」ことができる場、を促進し、再建する必要があるし、現実への参加と闘いの倫理に関する根本的な考察を再び導入する必要がある。
そうした情勢のもとでは、あらゆる形の人種差別主義(国家の人種差別主義を含むがそれだけにとどまるものではない)は致命的な危険となる。それが、反アラブの人種差別主義であろうと、黒人憎悪であろうと、反ユダヤ主義やイスラム憎悪であろうと、あるいはロマ人に対する差別であろうと、コミュニティ相互間の緊張に火を注いだり、ある被抑圧人民と別の被抑圧人民とを対立させる可能性のあるいかなるものに対しても闘おうではないか。そして、そうするために、ともに生き、すべての人の権利を尊重するという文化を作り出そうではないか。

当地で闘う民主勢力への支援を


最近の出来事(一一月一三日の事件、シナイ半島上空でのロシア航空機の爆破……)は、すでに以前から語られていた大連合による同盟関係の転換を促進した。すなわち、ロシアの取り込み、フランスのみせかけだけの独自性の放棄、イスラム国家の展開に関するサウジアラビア国内においてすら提起されるようになっている懸念……がそれである。それとは対照的に、シリアのアサド政権は、シリア危機の源であり、われわれが知っている犯罪的行為について罪を犯しているにもかかわらず、この政権は強化された。シーア派とスンニ派のいわゆる「ブロック」に属するような地域大国の一時的な協定を促すことで十分なのだろうか?
国際情勢のこの転換点の全面的な意味についての評価を下すことはまだ早すぎる。当面、次の諸点を強調しておこう。
西側とトルコあるいはアサド政権との間の妥協は、クルド人、ヤズーディの人々、アサド政権への抵抗勢力の中の進歩的、非宗教的勢力(注一)といったわれわれが最も支援する価値のある現地勢力にとっては不利な形でなされることになるだろう。われわれは、こうした勢力にわれわれの政治的、物質的な連帯を提供するとともに、こうした勢力が十分な武器を受け取れるよう要求しなければならない。FSA(自由シリア軍)のうちの進歩的勢力は(抵抗闘争を展開しているにもかかわらず)そうした武器の援助をけっして受けてこなかったし、またクルドの人々に対してもとりわけシリアの戦線で武器が取り上げられる可能性があるだろう。われわれはフランスで自らが決してこうしたことをこれまでやってこなかったことを今、認めなければならない。われわれはそうしたことを行うべきだった。
この連合による空爆の強化は、市民の甚大な代償を伴うものであり、シリアで作戦を展開している他のイスラム主義分子の間でのイスラム国の支持者を再び強めることになりそうである。この政策の純然たる結果は、したがって、アサド政権と(イスラム国をはじめとする)原理主義組織の両方を強化することになるだろう。この罠を避けるためには、われわれは大国の論理を打破しなければならない。シリアとイラクの民衆的勢力に取って代わったり、その勢力をよりいっそう脇に追いやったりするのではなくて、その勢力が闘いを継続できるよう支援しよう。
だから、われわれはわれわれの支配者たちの戦争政策に対して闘わなければならないが、それだけではなくこの衝突の特殊な性格を理解しなければならない。それは、インドシナやアルジェリアにおけるかつての戦争とは大きく異なっている。そこでは、フランス軍やアメリカ軍の撤退は、外国からの主要な干渉の終結を意味し、勝利のための条件を作り出した。このことは、今日、中東には当てはまらない。トルコ、イラン(そしてヒズボラ)、サウジアラビア、カタール、アルジェリア、エジプトはそのままそこにとどまり続けている……。このように複雑な地政学的構成のもとでは、われわれは、物質的、政治的にわれわれが支援する運動が必要としているものが何なのかを考慮に入れるために、支援する運動の声をよく聞く必要がある。決定を下すべき主体は人民であって、帝国主義の連合ではない。だが、そして、これがこの戦争の特殊な側面なのだが、クルド人民とシリアの民主主義派が医療支援と軍事支援を要請してきたし、今なお要請し続けている。シリアとクルドの民主主義勢力の意思決定と自決に取って代わることは許されないが、ためらうことなく、これらの勢力を助け、われわれの政府に圧力をかけてこれらの勢力が行っている訴えに応えさせるようにしなければならない。
国際的レベルでは、西側勢力の欺瞞を弾劾しなければならない。西側はテロリズムと戦うと主張しながらも、他方ではカタールやサウジアラビアやトルコなどの体制を支持しているのだから。
形成されつつある連合は全体主義の脅威に対する「民主主義」の連合では決してない。われわれが知っている古典的帝国主義に加えて、それはプーチンのロシア、サウジアラビアを含んでいる。サウジアラビア社会は、イスラム国やカタールやイランの神政政治やエルドアンのトルコによって唱えられている社会のモデルに非常に近い。……イスラム国の性格がどのようなものであれ、それを「反ファシストの民主主義戦線」に類似しているなどというのはまったく根拠のない主張である。われわれはこのような連合にも、イスラム国にも、アサド政権にも組しない。われわれは、ありとあらゆる形のバーバリズムに反対し、パレスチナ人民を含む人民の自決権を支持する。

社会党指導部の危険なカケ


さる一月の週刊『シャルリーエブド』のジャーナリストの大量殺害、警察官の死、イーペールカシェール・スーパーマーケットへの襲撃の後、激情がこの国を支配した(注二)。もちろん、それはまったく正常なことである。イスラム憎悪の行動が数多く発生したが、それらは実際には、人々の中のわずかな逸脱した分子によるものにすぎなかった。連帯と友好の行動も同時に数多く起こった。地下鉄の中で北アフリカのマグレブ出身の人とすれ違うとき、大きな微笑が寄せられた。脇へ寄ってスカーフをかぶった女性を通すとき、たとえ少し時代遅れ的であるかもしれないが目立つほどの慇懃な態度が示された。人々がミックスで会を催すような場所が再び埋まるようになった。テロリストと一般のイスラム教徒とを混同するような見方が拒否された……。残念ながら、これらすべての態度は世論調査の中ではカウントされないし、含まれないものである。
一月と同様に、今回もまた、治安警察は賞賛され、治安部隊は喝采を浴びた。今日、一月以上に、政府はこの機会を捉えて自由を侵害する措置を講じている。こうした措置は過去においては諜報機関に過剰な権限を付与する機密法という形をとったのだが、今やそれは、次のような点で言えるのである。すなわち、議会によってより厳しいものにされた非常事態宣言の布告、フランス政府によるEU各国へのフランスにならうようにとの訴え―すべての航空路線の乗客の名簿を保管することなど―、オランド大統領による憲法改正の宣言、がそれである。
フランスはすでに、とりわけアルジェリア戦争の時期に確立された二組の緊急措置を備えている。ひとつは、緊急事態体制であり、これは警察と軍隊を司法のコントロールから解放し、自由を制限する準戒厳令である。そしてもうひとつは、戒厳令である。これは全権限を軍隊に与える完全な戒厳令である。わが国の指導者たちにとってはなぜこれで十分ではないのだろうか? 
それというのも、たとえば、非常事態宣言は期限が限られているし、議会の議決を必要とするからである。これは実際にはほとんど満場一致的に採択された。この議決は、社会党、緑の党、共産党の議員の圧倒的多数によって支持されたのであった。憲法改正によって政府は(あるいは大統領は?)は、例外的手段をより自由に取ることができるようになるだろし、最終的に例外を規則にすることができるようになるだろう:軍による警察の活動への介入、恣意的な捜索、「予防」拘束、デモやストライキの禁止、報道の検閲など。政府はますます強権的なものになり、社会の軍事化が飛躍的に進むだろう。
多くの人々が、極右派のマリーヌ・ルペンと国民戦線が選挙で勝利するとどうなるかと不安に思っている(この筋書きは政治的フィクションの話ではなくなりつつある)が、人々はオランド大統領やヴァルス首相やサルコジなどが今後どのようなことをしようとしているのかについては問題にしようとはしない。したがって、「共和国」政府が過去にしたことを思い起こすことは非常に重要だ。
かつてこの政府は次のようなことをしたのだ。アルジェリアでの拷問、そうした犯罪を犯した者に対する告訴を禁じる恩赦法の導入(今後、拷問の活用を擁護した場合にのみ、それを赦した罪で告訴される可能性がある)、一九六一年一〇月一七日のパリでのアルジェリア人大量虐殺についてのマスメディアの報道管制、諜報機関の数多くの汚い策略、アルジェリアでのフランス軍将校たちによる反乱、グリーンピースの船である「虹の戦士号」に対する襲撃(一人が死亡、これもまた国家のテロである)、ニューカレドニアのカナク人指導者の暗殺、などがそれである。
実際、近年採択された治安法と実施されている監視措置の全一連の内容は、いかなる政府であっても自分たちが望みさえすれば、密かに徐々に内戦を行うことを可能にしている。最後に、治安的措置に支配された社会への進行に加えて、政治的な計算がある。オランドとヴァルスは、再度、ボナパルティズムの兵器庫を使ってある程度、政党や制度の上に自らを引き上げるために、特別措置体制に依拠しつつあるのだ。
その作戦は、社会党にとっての二〇一二年以降の悲惨な選挙結果を緩和し、よりよい選挙結果を約束することを目指している。オランドとヴァルスはきわめて危険な賭けに出ている。二人は第五共和国の制度に支えられて治安というカードを切ることができるが、今日の政治情勢のもとでは、風は右翼と極右翼に有利な方向に吹いているのであって、二人のこの策謀から利益を得る可能性が高いのはこうした右派と極右派の勢力である。

抵抗の地平を結びつけよう

 非常事態宣言の拡大に対する抵抗が議会内の左翼の中ではきわめて弱いが、それらの政党の一般党員の間や(たとえば、フランス共産党内での議員の賛成投票に反対する動き)社会運動ならびに連帯労組連合やCGT(労働総同盟)などの労働組合運動の中では、抵抗はより大きい。
今日の政治情勢はきわめて重大な危険を伴っている。政治的民主主義がその内容が空っぽにされてしまっている。選挙で選ばれた議会はもはや主要な決定をコントロールしていない。(主要な決定は、欧州議会、WTO、政府間協定などによって下されている)。今や、すでに攻撃にさらされている市民的自由は、空の貝殻になってしまっている。政府は社会を自宅監禁の下に置きたいと考えている。しかし、人々はそのことに気づいていない。
重要なことは、抵抗の地平を結びつけることであり、テロの犠牲者に対するわれわれの連帯を示すことであり、自由のために闘っている人々に対してそれらの人々が生き延びて勝利することができるようにする物質的、政治的、軍事的手段を提供することであり、一方におけるイスラム国と他方におけるイスラム国を大いに利するような役割を果たしているアサド政権、という両方の残虐でテロリスト的な蒙昧(もうまい)主義に反対して闘っている進歩的で世俗的勢力を支援することである。それは、中東でも他の地域でも、戦争と爆撃への参加を阻止することであり、絶対主義的な政権を支援して社会的・政治的不公正を深めるのを阻止することである。
フランスにおける進歩的勢力の現状はかなり悲惨なものであるが、この決定的な瞬間において、抵抗のためのテコは存在している。それは、人々の間で共有されている連帯の感情の中に、若者の反応の中に、自由を侵害する措置や永続的な特別措置体制の受入れに対する多くの社会運動団体や労働組合の拒否の中に、存在している。国内外において、自由、ともに生きること、連帯、を擁護するための統一戦線を構築するための基盤は存在している。

(注一)、ここで言う世俗主義的勢力とは非宗教的な勢力という意味であり、これに対する「宗教的」運動とは、レバノンの政治体制のように、「宗教的コミュニティ」を通じて自らを表現している運動のことであって、左翼が否定する代議制である。この「宗教的運動」とは、「宗教に言及している」運動を意味するわけではない。「解放の神学」と結びついている運動は、たとえば、社会対立と階級闘争の一翼なのである。レバノンの「宗派的」体制は、現状を維持することを目指している。
(注二)「『シャルリー・エブド』襲撃事件と当面の課題」(ピエール・ルッセ/フランソワ・サバド、本紙三月一六日付六〜七面)。

▼フランソワ・サバドは、第四インターナショナルの執行ビューローのメンバーであり、フランスのNPA(反資本主義新党)の活動家。長年、フランスのLCR(革命的共産主義者同盟)の全国指導部の一員であった。
▼ピエール・ルッセは、第四インターナショナルの指導部の一員で、とりわけアジアとの連帯の活動を行って来た。フランスNPAのメンバー。
本論文はEurope Solidaire
Sans Frontieres のサイトから翻訳したものである。最初に掲載されたのは、スペイン語のサイト、Viento Surである。


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