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    かけはし2016.年2月1日号

われらの民主主義

コラム「架橋」



 二〇一一年のウォール街占拠運動で掲げられた「民主主義ってなんだ」というスローガンを、戦争法案反対運動のなかでシールズが復活させ、多くの人々の共感を呼んだ。
 この言葉を単純な疑問形で考えるのか、あるいは反語法で考えるのか。前者であれば、「そもそも民主主義とは」となり、後者であれば、「民主主義でやっているというけど、そうではない」となる。
 とりあえず疑問形に対応するなら、民主主義は次の三つの要素からなっていると答えてよいだろう。「みんなで決める」「決めたことは、みんなで尊重する」「みんなで尊重できるような決め方をする」。もちろん、これはほとんど観念の世界で通用するだけである。
 というのも実際は、「みんな」という等質的な人間集団は存在しないし、民主主義は、決めたことを尊重できない人たちを排除する論理を内包しているからである。よく引き合いに出される古代ギリシア・アテナイの民主主義も、すべての住民のものではなく、市民と認められた人たちの間だけの排他的なものだった。
 そればかりか、現に搾取する者とされる者、抑圧する者とされる者という根本的な対立関係を基礎にした利害対立があり、そこから派生するさまざまな政治的対立がある。そうした対立を調停するのが民主主義であるはずなのだが、その調停機能は限られたものである(ちなみに、民主主義をプロレタリアートによる政治権力の獲得と考えていたエンゲルスは、調停状態を「純粋民主主義」と呼んでいる)。
 たしかに「民主主義とは」と考えてみることは意味のあることだが、それだけでは民主主義のつかみどころのなさに行きつかざるをえない。たとえば、トマス・ホッブスの『リヴァイアサン』やジョン・ロックの『統治二論』、あるいはジャン・ジャック・ルソーの『社会契約論』などをみると、既存の統治体制を肯定するか否定するかによって、国家と民主主義のまったく異なる様相が浮かび上がってくる。
 だから「民主主義ってなんだ」は、疑問形以上に反語法で語られていると考えたほうがよいだろう。そこで問題なのは、「反―民主主義」の実態なのである。
 多くの人々が民主主義の不在を実感するその実態は、対立関係の調停機能の喪失状態である。たとえば、議会制民主主義というシステムでは、民主主義はしばしば多数決に切り縮められる。また、システムとしての直接民主主義が間接民主主義にまさるとは限らない。それは、大阪都構想にむけた住民投票に橋下が込めた意図からもわかる。
 現在では、六人に一人の有権者にしか支持されていない自民党が政権の中枢を握り、そういう怪しげな「多数派」のもとで、さらに狭い首相府に政策決定・執行権力を集中させている。そのうえで、沖縄では「民主主義にもとづく手続きを踏んだ」として、県知事の意思さえ無視して辺野古新基地建設を強行している。
 こうして、「かれらの民主主義」と「われらの民主主義」が激しく衝突している。多くの人々の力を最大限行動的に結集する「われらの民主主義」を、街頭・地域・職場・学園で築いていこうとする永続的な闘いに入っている。こんな気持ちを込めて、ぼくは、「民主主義はこれだ!」とコールしていこうと思う。 (岩)



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