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    かけはし2016.年2月8日号

ナチス時代は昔話ではない


1.25

関西共同行動2016年「反戦平和連続講演会」

安倍政権は憲法・立憲主義を破壊

講演:池田浩士さん『ヴァイマール憲法とヒトラー』

 【大阪】一月二五日、エルおおさかで関西共同2016年「反戦平和連続講演会」の第一回目が行われた。中北龍太郎さん(関西共同行動代表)は開会あいさつで、「安倍政権は、憲法とそれに基づく立憲主義を破壊した。戦争法を廃止しないかぎり、日本の社会全般にわたって戦争化が進んでいく。私たちは新たな戦前という状況を迎えようとしている。参院選後、安倍政権は橋下維新と手を組んで、緊急事態条項を核に明文改憲を企んでいる。この条項は、憲法を停止するということ。法律は内閣だけで作ることができるようにする。平和と人権が根こそぎ破壊されてしまう。戦前には憲法にも、緊急権条項がたくさん埋め込まれていて、それが乱用されて昭和ファシズムの一原因となった。現憲法は市民がつくった憲法であり、国家権力に縛りをかけてきた。今日の話は、遠い国の話では決してない。戦争前夜を迎えようとしている今日、今回の講演テーマは、今の日本の政治状況を考えると、非常に重要なテーマだ。戦争に対する対抗運動をつくっていくための糧としていきたい」と述べた。
 続いて、池田浩士さん(元京都大学教授、ファシズム文化研究・現代文明論専攻)が、『ヴァイマール憲法とヒトラー』と題して講演をした。(別掲)

会場からは
多くの質問
質疑応答は、@ミュンヘン一揆で暴力革命をやろうとしたのか?:そのような考えはなかったが、先に警察が発砲してあのような事態になった。
A徴兵制はワイマールの時はあったのか?:ワイマールの時にも士官学校や職業軍人はいたが、一般民間人の兵役義務はなかった。
B一九三〇年代ですら社共の勢力は相当に強かったと思うが、手を組んでいたらどうなったのだろうか?:共産党は一九一八年〜二一年、社民党政権下の国民義勇軍に相当弾圧されたこともあって、手を組む考えはなかった(社会ファシズム論)。一方、社民党は匕首伝説から自らを切り離すのに精一杯で、トラウマに悩んでいた。など。 
最後に、当面の取り組み・予定されている行動についての訴えがあって閉会した。(T・T)

池田浩士さんの講演から

「歴史は同じ形を繰り返さない」
感性と情緒に訴えるファシズム

歴史から何を
学ぶかが重要
今の日本は、遠い昔のナチスドイツと無縁でなくなっている。同じような現実をたどろうとしているのではないかということが、多くの人の胸によぎっている。ナチスドイツの時代は、最も残虐なことが行われた時代だと思ってきた。ところが、今私たちの周りで起きつつあることはそれと無関係ではない、と多くの人が漠然と感じるようになっている。
だからといって、オオカミが来るぞ! はデマゴギーだ。安倍のやっていることはナチのやったことだと言うのは最もよくない。歴史は同じ形を繰り返さないだろう。
自己紹介すると、わたしは文学青年のなれの果て。学生時代に感動し惹かれたドイツの小説の作家がナチの作家だったことを後で知った。
ファシズム(ナチズムも大きな意味では同じ)は、論理ではなく、感性・情緒に訴える。
日本政府に批判的な歴史家たちが、ドイツではナチス時代の責任を学校でも教えてきたし、政府も責任を取ってきた。しかるに日本は……と日本を批判してきた。しかしそうではない。西ドイツでは一貫してナチス時代がよかったというのが多数だ。一方西ドイツ政府は、ヒトラーたちがやったことはドイツ国民の責任ではなく、国民は被害者だったと上から植え付けてきた。
しかし一九六五年から、実はあの第三帝国の時代に国民は嬉々として生きていたことが明らかになってきた。当時の体験者の多くが、あの時代はよかったと。日本でも空襲体験と引き揚げた体験、原爆による被災により、戦争がマイナスのイメージで語られるようになったが、ドイツでいえば、旧ドイツ領土の東の部分、現在のポーランド・ロシア・バルト三国・ルーマニアの人々はヒトラーに批判的だ。現在の東ヨーロッパをふくめ全体をひとつのドイツにしようというのがナチの戦略だったが、ナチスドイツが敗れた後この地域の人たちがドイツから追放された。この人たちから見たら、ナチスは許せない。でも、敗れるまでは、ナチスが来てくれてよかったと万歳した。戦後ドイツの価値基準に従って、あの時代は悪かった、二度と繰り返してはいけないというのは、公式見解として国民の中に植え付けられたことだった。

『あの頃はよかった』と語る体験者
多くは戦後も 七〇年代に歴史家になった若い世代は、ナチス時代について世論調査・聞き取り調査をやったら、いろいろなことが分かってきた。ナチスの時代を体験した人は、あの頃はよかったと一九七〇年代になっても言っている。ユダヤ人虐殺やその他ナチスの罪状がすべて明らかになった時点でも、体験者の過半数はそう思っていた。ユダヤ人の中のシオニストたちに対する賠償は、戦後の西ドイツはしっかりやったが、東ドイツはやっていない。東ドイツを併合するに当たり、初めて旧ソ連圏に対して賠償が行われた。
今日ここで何を考えたいか。自分の知識や記憶よって過去のイメージがある。それをもう一度見直したい。歴史の事実、ナチス時代のドイツの現実と世界の現実。ヒトラーが率いた党は、正式には「国民社会主義ドイツ労働者党」。キーワードは国民。国家社会主義でも民族社会主義でもない。社会主義は、インフラを社会の共有物にする社会化の思想。
ドイツは、ゲルマン民族の社会。労働者党は、労働者の党。労働をナチズムは重要視した。労働という概念は、ヨーロッパの近代の歴史の中では、下層社会の肉体労働、苦役労働を指す。編み物などの労働はワークつまり知的労働。肉体労働者と事務的な頭脳労働者との差別はドイツでは根源的な社会制度だった。ビアホールでの常連客の席でブルーカラーとホワイトカラーの席は別になっていた。労働者の差別をなくすというのが、ナチ党の綱領の柱だった。国民社会主義、つまりインターナショナルな社会主義ではない社会主義、ドイツだけの社会主義をめざした。当時の社会民主党や共産党とナチ党には共通の支持基盤があった。

ワイマール時
代の選挙制度
ヒトラーはクーデターで政権を取ったのではない。合法的に政権を握った(麻生の言うのはその限りでは正しい)。ワイマール憲法の下での出来事だった。ワイマール憲法は一九一八年八月に施行された憲法としては、希有な存在だった。二〇歳以上の男女に選挙権を与えた(日本の女性選挙権は一九四五年一二月)。選挙はすべて比例区のみ、政党は順位を付けた候補者名簿を公表し、人々は政党に投票する。
議席配分の基本は六万票得票ごとに一議席、だから選挙ごとに議席総数は変わってくる(一九二四年の選挙では四七二議席、一九三三年三月の選挙では六四七議席、有権者数と投票率の増減で変わる)。現在の政治学者の間では、これの選挙制度が一番民意を反映していると言われている。ナチ党はこの選挙で第一党になった。しかし、ワイマール時代を通じて過半数を獲得した政党はない。ワイマール連合(社会民主党・カトリック政党の中央党・民主党)の獲得議席も過半数になっていない。
ヒンデンブルク大統領は「大統領内閣制」を採用し、このときもやむなくヒトラーを首相に任命した。そのようにしてヒトラーは一九三三年一月三〇日首相になった。そのときの総議席は五八四議席 、ナチ党は一九六議席、社民党は一二一議席、共産党は一〇〇議席、中央党は七〇議席、民主党は二議席だった。ナチ党は三分の一の議席しかなかった。現在の日本の比例区での自民党の得票率と同じだ。第一次ヒトラー内閣は国家人民党との連立内閣だった。ナチ党からはヒトラーを含めて三人の閣僚だけだった
(ちなみに、このとき国家人民党からの入閣は二人だった)。

匕首(あいくち)
伝説の影響
ナチ党の宣伝は巧みだった。@ナチ党の選挙ポスターには、『この大失業状況をなくすのは誰か・・我々の最後の希望ヒトラー』とあった。ヒトラーがあいつから職を奪うというのは、ドイツ人の職を奪っている輩から職を奪い返すということ、つまり当時のドイツ人はあいつとはユダヤ人と思った。ドイツ国内のユダヤ人人口は〇・九%だったから矛盾した話だが、でもドイツ人は戦後になってもユダヤ人は三割ぐらいいると思っていた。
Aヒンデンブルク元帥が第一次大戦の敗因を国会で証言した匕首伝説(ドイツ陸軍は一度も敗北していない。ドイツ帝国は背後から匕首で刺されたため負けたのだ)。ベルサイユ条約で勝者により決められた天文学的な賠償により、ドイツは悲惨のどん底にあったので、この匕首伝説はものすごい衝撃を国民に与えた。
一一月の裏切り者とは誰か? 一一月に起きた革命のことである。つまりその裏切り者とは、アカ(社民党・共産党・アナーキスト)とユダヤ人だ、というものである。ユダヤ人の一部は金持ち・知的専門職・芸術家・革命家になり、ドイツ大衆の反感を買い、多くのユダヤ人は底辺で生きなければならなかった。この時期にすり込まれた感情は、ユダヤ人の大量虐殺によっても変わらなかった。ヒトラーはこの感情を利用しあらゆるデマを駆使した。世の中が苦しくなるほど底辺のものを憎悪の対象にしていくのは、今と変わらない。

 

大統領緊急命令
と「全権委任法」
少数内閣からヒトラー独裁がどうして生まれたのか。ヒトラー内閣は成立した二日後に三分の二以上の議席確保をめざして国会を解散し、次の国会が召集されるまでの二カ月を利用して、議会政治を葬り、マルクス主義を一掃し、州政府を服従させることを、大統領緊急命令の力を借りて達成しようとした。ヒトラーは、二人のナチス閣僚を治安を統括する国の内相とプロイセン州内相兼任の無任所大臣にしてすさまじい選挙干渉をやった。でも得票率は変わらなかった。特にワイマール末期は、政権の力が弱く、憲法第四八条の規定による大統領緊急命令(人命・社会の安寧秩序に危険が及ぶと危惧されるときには、憲法の定める人権条項を停止することができる)に依拠しながら政権運営が行われてきた。ヒトラー政権も三三年二月の大統領緊急命令つまり、二月四日「ドイツ民族民衆の保全のための緊急命令」(反政府的呼びかけ・ゼネスト呼びかけの禁止、安寧秩序を乱す文書の押収など)、国会議事堂放火事件の翌二月二八日「民族民衆及び国家の保全のため緊急命令」(共産党を禁止し、左翼を逮捕し、言論を弾圧)で弾圧した。それでも、ナチ党の議席はほとんど変わらなかった。
そこでヒトラーは「全権委任法」を国会に上程した。国会議長ゲーリングの裁量で総議席数から共産党議員や逮捕されていた社民党議員を議席数から外し、秘密会談でドイツ中央党は屈服し出席した上で賛成し、出席した社民党九二人だけが反対し、規定の三分の二以上の出席、その三分の二以上の賛成によって全権委任法が成立した。

「全権委任法」後
半年で別社会に
全権委任法では、政府によって決定された法律は、国会で決めるという憲法の規定は適用されない。政府によって決定した法律は、翌日から発効した。一応、一九三七年四月一日に効力を失うとなっていたが、ヒンデンブルクの死後、ヒトラーは首相と大統領を兼任し民族の総統になり、ヒトラーの自殺後もこの規定は生きていた。全権委任法成立後は、あっという間に社会が変わった。秘密国家警察設置法・政党新設禁止法(唯一ナチ党のみ)・帝国文化院法・編集者法・映画法などを一年もしない間に次々と成立させ、ナチスの理念に反する政治的文化的活動はすべて禁止され、それぞれの業界人たちに自主規制させた。

自発性の誘発、
そして戦争へ
労働組合を暴力的に解散させ、「ドイツ労働戦線」を設立し、すべての労働者を加入させ、余暇の組織化までやった。しかしすべてを強制するやり方には限界がある。あの時代はよかったと体験者が語る最大の根拠は、自発性を発揮させたことだ。それがワイマール政府が始めた自発的労働奉仕制度の継承だ。失業者がせめてその晩のビールとパンぐらいがもらえるように、失業者がボランティア労働に行くと政府の補助によってチップがもらえるという制度をナチスが受け継ぎ、広げていった。冬季援助事業と一つ鍋日曜日により、ボランティア活動が日常化した。
そして、一九三五年三月に徴兵制が復活し、それと並行して同年六月帝国労働奉仕法をつくり、ボランティア労働を義務化した。失業者や若者は六カ月間飯場で一緒に肉体労働をし、開拓・潅漑・アウトバーン建設・ベルリンオリンピックメインスタジアム建設に従事した。それにより失業が実質的になくなり、三三年一月には六〇〇万人を超えた失業者は三八年には五〇万人ほどに減少し、ヒトラーへの支持率は時を追って上昇した。ゼネコンがものすごくもうけて、原始蓄積をした。このようにナチスドイツは、ボランティア精神の誘発と収奪により、失業「解消」から戦争国家への道へとまい進していった。
安倍政権のいう「一億総活躍社会」というのはボランティア社会だと思う。ボランティアを否定するのではないが、人々と共に生きたいという気持ち、私の小さな力を必要としている人に提供したいという私たちの思いが搾取されるようなことを許してはいけないと思う。(発言要旨、文責編集部)



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