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    かけはし2016.年2月15日号

中東は、日本人にはわかりにくい?


読書案内

酒井啓子著/みすず書房刊/3400円+税

『移ろう中東、変わる日本 2012‐2015』

岩田敏行

売れない「中東本」

 日本で中東関係の本を出版すると、たいへん苦労する。売れないのだ。
 日本では、中東について、その地域に暮らす人々の喜びと悲しみ、希望と絶望、憤りと親しみなどとはまるで関係なく、石油価格の変動とのつながりでしか考えない傾向が長年にわたって続いてきたからである。
 加えて、日本での中東に関するイメージは、ほとんど西欧経由で入ってきたものである。だから、「移動社会=遊牧社会=中東、というロマンチシズムは、西欧の中東社会に対するオリエンタリズムの中核にある。有名な『月の砂漠をはるばると……』の歌詞は、そのヨーロッパの中東の砂漠、ラクダ遊牧のイメージが輸入されたものだ」(一五〇頁)。
 ここでいうオリエンタリズムとは、パレスチナの地に生まれたエドワード・サイードが展開したそれである。しかも、サイードの『オリエンタリズム』(平凡社ライブラリー)にあるように、多くの人々の中にあまりにも深く塗り込められているために、そのイメージの不当性に気づくことは容易ではない。
 しかしながら、二〇一一年のアラブの春とその反革命が生み出した「イスラエルとアメリカへの剥き出しの『敵意』が見えない」(二一三頁)まま、寛容のかけらさえない暴力を頻発し、人々を引き裂き、「人道の危機」を誘発させている「イスラーム国」について考えようとすると、この地域に関する正当なイメージの陥没状態は許されなくなっている。
 そう思って手に取ったのが、この本だった。

アラブの春から「イスラーム国」へ

 この本を手に取ったのは、まず、帯に次のように記されていたからだった。
「アラブの春から『イスラーム国』へ/アラブ社会と中東の人々が転落していくさまを、著者は見つづけてきた。そして内に目を向ければ、排外主義のはびこる日本がある。情勢はどこへ向かうのか。第一線の研究者が、世界の動揺と矛盾を鋭くえぐった時評」。
実際に読んでみて、この文章は本書の全体像をうまく伝えていると思った。さらに、「少し長いまえがき」には、こう書かれている。
「飛翔の高みからブラックホールへと、アラブ社会と中東の人々が流転していくさまを、筆者は四年間、見続けてきた。ともに高揚し、怒り、議論し、痛がり、無力さに苛まれながら。その都度、月刊『みすず』にしたためてきたエッセイを中心に収録したのが、本書である。無邪気な共振も、素朴な糾弾も、執筆した当時のままにしてある。それは、二〇一二年から二〇一五年までの間に中東で起ったさまざまな出来事に、いまだ決着がついていないからだ」(六頁)。
そう、アラブの春という「飛翔の高み」から「イスラーム国」のテロルの連発という「ブラックホール」へと流動していった中東情勢の中で、「第一線の研究者」が生々しく格闘しながら綴った一七編からなる珠玉のエッセイ集がこの本である。

  中東化する日本


書名の中に「変わる日本」とあるように、著者の眼差しは日本と中東を行き来する。
昨年一月、後藤健二さんと湯川遥菜さんが「イスラーム国」によって殺害された事件は記憶に新しい。また二〇一三年には、アルジェリアで発生した人質事件で一〇人の日本人が命を失っている。さらに二〇〇四年には、ボランティア三人とジャーナリスト二人の日本人がイラクで拉致・拘束された。これらの事件を、本書は、当時のゾッとさせられる「自己責任論」の蔓延とともに思い起こさせてくれる。
そのたびに、日本政府は「ぬけぬけと」(九八頁)「人命優先」を強調していた。だが、二〇〇四年のイラクのサマーワへの自衛隊派遣が、「人命優先」から「国策優先」への、また中東の人々の日本人への親近感から反感への大きな転換点になった、と「政府とメディアの物忘れのよさ」(二四六頁)とともに著者は糾弾する。
さらに、次のように「中東化する日本」を指摘する。
「何よりも背筋が凍る思いをしたのは、松浦篤『沖縄独立論の陰に中国あり』(『中央公論』二〇一四年二月号)が展開する、沖縄を『第五列』視する視点である。中国の『脅威』を強調しようとするあまり、日本国内にそれを誘導しようとする『内なる敵』がいると考え、それは沖縄の独立を志向する人々だと考える議論だ。そのような議論が、中東ではなく日本で登場したこと自体に、戦慄を覚える。この国もまた、中東の諸国家が陥ったような、外敵と対峙するとの『大義』のもとに、国民を分断し、裏切り者を探し、昨日までともに生活していた者を『異者』として排除する道を歩むのだろうか」(一七九頁)。
「『紛争の絶えない中東は、日本人にはわかりにくい』と、いつまで言い続けられるのだろうか。いつまでも言い続けられるほどに、日本も紛争と無縁であり続けられれば、よいのだが」(一八〇頁)。

オリエンタリズムとヨーロッパという呪縛


著者の眼差しは、現在と過去をも行き来する。冒頭でオリエンタリズムにふれたが、「中東」という言葉も、それと深く関係している。
「『中東』とは、本来ヨーロッパの都合で設定された地理的概念でしかなかったはずだ。『東』に先立ちヨーロッパで認識されていた『オリエント』という地域概念は、エドワード・サイードによれば『ヨーロッパ人の頭のなかで作り出されたものであり、古来、ロマンスやエキゾチックな生きもの、珍しい体験談などの舞台であった』」(四五頁)。
このことは、「ヨーロッパという呪縛」へと跳ね返る。そのひとつがギリシャである。
今日のギリシャにあたる地域は、一五世紀以降四〇〇年間にわたってオスマン帝国のもとにあった。だが、今ギリシャに暮らす人たちが古代ギリシャ人の末裔であり、ヨーロッパ文明の源を形成した人たちであるかのように、まことしやかに語られる。オスマン帝国時代にヨーロッパではなかった地域を、「ヨーロッパ人の頭のなかで(ヨーロッパとして)作り出す」ためにこそ、そこからはじき出すかたちで、「中東」が作り出されていったわけである。
そして二〇〇九年にギリシャ国家財政危機が発覚すると、こんどは、ギリシャの人たちに「ヨーロッパにとどまりたければ、生きる権利を放棄しろ。そうでなければヨーロッパ=ユーロから出ていけ」と迫ったのだ。

民族概念、宗派概念は可変的なもの

 アメリカ大統領が莫大な武力をもってイラクを攻撃しても、キリスト教徒全体や白人全体に罪を着せようとはだれも思わない。だが、中東に暮らす人々に関しては違う。著者は、昨年のシャルリーエブド襲撃事件の直後、アメリカで出回ったこんな象徴的なツイートを紹介している。「撃った人が黒人なら黒人という人種全体が有罪で、イスラーム教徒ならイスラームという宗教全体が有罪で、犯人が白人ならメンタルにおかしい一匹狼だとされる」(二三八頁)。
中東について語られるとき、あたかもイスラームという特別に暴力的な宗教があるかのように、あるいはシーア派・スンナ派対立が根幹にあるかのようにされる。それは、本当なのだろうか。著者は、こう書く。
「『アラブ的であるかないか』を問う、民族や宗派の『名づけ』は至極恣意的で、流動的なものである。……こうしたアイデンティティが喚起され、対立に利用されるのは、あくまでもその国内部の政治権力のバランス、そしてその国と周辺、国際社会との力関係を反映してのことに他ならない。そもそも、民族概念、宗派概念自体、きわめて可変的なものでしかない」(一七七―一七八頁)。

中東に暮らす人たちを、諸々の矛盾を含めて知るために

 この本は、中東で起きていることについて特に知りたいと思わない人はもちろん、この地域のことについて「知っている」と思っている人、あるいは出来合いの解答を求める人には不向きかもしれない。
他方、著者との対話を楽しみながら、この地域に暮らす人たちのことを、そこにはらまれる諸々の矛盾を含めて知り、それを「思考感覚」になるまでにしたいと思う人にはうってつけの一冊だ、と思う。
二〇一六年一月三一日

声明

津田寿美年さん、若林一行さんへの死刑執行に抗議する

アムネスティ・インターナショナル日本

 アムネスティ・インターナショナル日本は、本日、東京拘置所の津田寿美年さんと仙台拘置支所の若林一行さんに死刑が執行されたことに対して強く抗議する。
 本日(編集部注:2015年12月18日)の執行により、本年は6月25日に次いで2回目、安倍政権下では2006年の第1次安倍内閣時と合わせて通算24人が処刑されたことになる。
 岩城光英法務大臣は今年10月に就任したばかりであり、今回が初めての執行である。10月7日の官邸記者会見では、「死刑は,人の生命を絶つ極めて重大な刑罰です。……(中略)裁判所の判断を尊重しつつ、私自身も慎重かつ厳正に対処すべきであると考えています」と、基本的に安倍政権下での過去の法務大臣の発言を踏襲する内容にとどまった。
 死刑は、もはや国際的には非人間的で残酷な時代遅れの刑罰ととらえられており、事実上死刑を廃止している国を含めると、140カ国が死刑廃止国となっている。このような国際的動向を見極めることも、法務大臣の責務である。
 今年12月3日、モンゴルはあらゆる犯罪に対し死刑廃止を定めた新刑法を議会で可決した。この新刑法は来年9月に施行される。ツァヒャー・エルベグドルジ大統領は、「人権の完全な尊重に向けて、モンゴルは死刑廃止を進めなければならない」と繰り返し訴えてきた。死刑の廃止は人権の尊重そのものであり、モンゴルはその実現に向けて政治的リーダーシップを発揮したのである。
 アムネスティの調査によれば、2014年の死刑存置国は58カ国であるが、そのうち死刑を執行した国は22カ国であって、世界全体のわずか10%にすぎない。日本は執行を続けることで、人権を無視した少数国の中にあり続ける。2015年に入り、フィジー、マダガスカル、スリナムの3カ国が死刑を廃止した。日本もこれらの国に続き廃止を検討すべきである。
 津田さんの場合、裁判員制度のもとでの死刑確定者の初めての執行となった。人の生命を奪う極刑において慎重な判断が求められるにもかかわらず、日本では義務的上訴制度がない。津田さんは、控訴審において自ら控訴を取り下げており、裁判員裁判における地裁の死刑判決が確定した。
 2014年2月17日、裁判員経験者20人は死刑執行を停止し、死刑制度の情報公開を徹底し、国民的議論を促すよう求める要望書を当時の法務大臣である谷垣禎一大臣へ提出した。死刑判決は裁判員にとって、人の命を奪うという非常に重い決断である。決断のためには、死刑制度自体の情報公開が必須となる。死刑についてほとんどの国民が知らない現状では、情報を公開するだけでなく、執行を停止し熟慮しなければならない。
 死刑は生きる権利の侵害であり、残虐で非人道的かつ品位を傷つける刑罰である。アムネスティは、日本政府に対し、死刑廃止への第一歩として公式に死刑の執行停止措置を導入し、全社会的な議論を速やかに開始することを要請する。
 2015年12月18日
アムネスティ・インターナショナル日本

※死刑執行抗議声明における「敬称」について アムネスティ日本は、現在、ニュースリリースや公式声明などで使用する敬称を、原則として「さん」に統一しています。また、人権擁護団体として、人間はすべて平等であるという原則に基づいて活動しており、死刑確定者とその他の人々を差別しない、差別してはならない、という立場に立っています。そのため、死刑確定者や執行された人の敬称も原則として「さん」を使用しています。

コラム

 「戦後70年談話」

 昨年八月一四日。首相安倍晋三は「戦後70年談話」を閣議決定し、発表した。私はそのとき、熱海の温泉旅館の一室にいた。
 「従軍慰安婦」問題を含む侵略戦争の非を認めず、反省や謝罪もこれまでの政府談話を引用して済ませ、得意の抽象的美辞麗句を並べた冗長な作文を読みあげて、安倍は会見を終わらせた。
 そこには歴史に向き合う誠実さもなく、一国の最高権力者としての言葉の重みも、したがって説得力もなかった。過去を他人事のように捉える空疎かつ空虚な文言に私は落胆し、そして怒りを覚えた。
 岩波書店編集部はこの談話に先立ち、「私の『戦後70年談話』」を刊行。一九四〇年以前生まれの著名人四一人からメッセージを集め、一冊に収録した。
 俳優の宝田明は、ハルビンでソ連兵の狙撃を腹部に受け、麻酔なしの手術で弾丸を摘出した。漫画家のちばてつやも満州の奉天にいた。日本の敗戦で勢いづく中国人の復讐から、危険を承知で一家を保護したのも中国人だった。
 元首相・海部俊樹は、憲法の三大理想を国是として守り、教師たちはきちんと反戦教育をすべきだと訴える。俳優の奈良岡朋子は、「戦争にいいことは一つもない。もしあるとしたら、それは利益を受ける人たちのためで、我々とは関係ない」と言い切る。映画監督の高畑勲は、一度も自民党に投票したことがないという。そして「社会主義的な考え方は、これからも生き続けなければならない」と断言する。
 「過去に目を閉ざすものは、現在にも『盲目』となる」――西ドイツ元大統領・ワイツゼッカーの有名な言葉である。「歴史を学ばざる者は、歴史を繰り返す」とは、アメリカの議会図書館の礎石に刻まれている。
 「安倍談話有識者会議の中に、どれほど実際の戦争体験者がいるのか。歴史を学んでも人間は歴史を繰り返す。これが今の我々の姿だ」。被爆体験者や戦争体験者が次々と世を去り、戦争の語り部が消えゆくことに、深刻な危機感を抱くのが、前中国特命全権大使で伊藤忠商事前会長の丹羽宇一郎である。
 人間は愚かで非合理な存在で、思想や哲学で(戦争を)抑えることは難しい。戦争体験者は、その体験がインテリジェンスに勝る人が圧倒的に多いと論じる。まったく同感だ。
 大臣室で堂々と現金を受け取った甘利明を、安倍は最後まで続投させようとした。漢字を正しく読めない麻生太郎は、その分野に不得意な後任の石原伸晃をけん制した。
 知的謙虚さのかけらもない権力者集団。まるでクラスの仲良し不良グループが、なりふり構わず全校生徒の運命を弄んでいるようだ。安倍とその取り巻き連中に、七〇年間輝き続けた憲法を語る資格はない。本書は各界で活躍する戦争体験者たちの、貴重な証言集である。      (隆)


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